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2017年7月

腹心の友

最近は身のまわりにさして面白いことも起きないので、書くこともあまりない。

ニュースを見れば、不愉快なことばかりだ。

「腹心の友」という言葉を、最近よく耳にする。

なんとなく、気持ちのいい言葉ではないなあ、と思っていたら、コラムニストの小田嶋隆さんがそのモヤモヤした気持ちを140字以内で見事に言い当てていた。

「本当のことを言うと友情を裏切ることになる。かといってウソを言えば自分自身を裏切る結果になる。だから腹心の友は何も言わない。っていうか、友以外の全世界を裏切るのが友情で、そういうのを美しいと思いこむヤンキー美学が、要するに「腹心の友」という言葉にこめられている真意なのであろうな。」

「個人的には国会答弁のデタラメさや恣意的な利便供与の疑惑以上に、「腹心の友」みたいな言葉を人前で平気で振り回すことのできる精神のできあがり方に最も強い忌避感を抱いています。」

なるほど、これで溜飲が下がった。

たとえば、である。

高校時代の友人・元福岡のコバヤシが、私に対して、

「仕事上の便宜を図ってくれ」

と言ってきたら、あんまりいい気持ちがしないだろうな。少なくともそれまでと同等の友人関係ではいられなくなるだろう。

そういえば、思い出した。

お金に困っていた大学院時代、何かいいアルバイトがないかなあと、高校時代の同級生だった友人・M君に話をしたら、

「俺の勤めている塾で講師にしてもらうよう、塾長にお願いしてみるよ」

と言ってくれた。

M君は、私にとって決して「腹心の友」だったわけではなく、たんに「3年間同じクラスだった友だち」にすぎなかったのだが、それでもありがたいことに、彼は「口利き」してくれたのである。

M君は、その塾では人気講師だったようで、稼ぎ頭のM君はその塾の中でかなり発言権のある人だったらしい。そのとき、塾講師の募集はしていなかったのだが、私のために特別に、塾講師の採用試験をしてくれることになった。

すぐにその塾から連絡が来て、

「模擬授業と面接をした上で、採用するかどうかを決めます」

という。数日後、私は模擬授業にのぞんだ。

ところが私の模擬授業は、さんざんなものだった。

模擬授業が終わったあとの面接で、担当の先生が私に言った。

「あのていどの模擬授業では、あまりにお粗末すぎて、うちの塾では採用は厳しいです。でもMさんのご友人ということなので、Mさんの顔を立てて、一応採用とすることにいたします」

私はその場で、採用を辞退した。

実力がともなわないのに、M君の縁故採用ということで、その塾に勤めるのは、耐え難かったからである。

それ以降、私は恥ずかしくて、M君と顔を合わせていない。

…あのとき、「模擬授業がお粗末だ」と罵倒された私が、数年後に教員稼業に就き、14年も続いたのだから、人生とはまことに不思議なものである。

思えば、このときの体験は、いろいろなことを教えてくれた。

「縁故採用は、あまり気持ちのいいものではない」

ということや、

「『おまえはその仕事に向いていない』と一度言われたくらいで、その仕事に向いていないと思い込む必要はない」

ということなど。

「腹心の友」だといって口利きをする方もされる方も疑問に感じていない人たちの神経が私にはわからない、と感じた根底には、このときの体験があったのだと、今になって思う。

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見覚えのある顔

7月29日(土)

前回のクイズは少し難しかったかな。

さて、寝付かれなかったのでテレビを見た。

自宅はBSが映らないのだが、ここではBSを見ることができる。

企画会議をそのまま番組にしたもののようである。

どうやら、カレーライスの歌を作詞作曲してレコーディングするという企画らしい。有名な放送作家やミュージシャンが出ていた。

何人か出演者がいるなかで、ひとり、ものすごく見覚えのあるおじさんが画面の中にいた。

しかし、まったく名前が思い出せない。

そのおじさんは、作詞作曲して歌まで歌うというのだから、ミュージシャンだろうか?それにしてはあか抜けてない。

すげえ見覚えのある顔なんだけどなあ。何度も会ったことのある人だ。

しばらくして思い出した。

「前の職場」にいたころ、お昼にカレーを食べによく通っていたお店の主人だ!

カウンターとテーブル席が3つくらいしかないこぢんまりした店で、その主人は黙々とカレーを作っていた。夜は日本酒を飲ませるお店になり、たしか主人は全国の蔵元をまわるのを趣味にしていたと聞いている。

しかしその主人と話したことがないので、名前は知らなかった。

どうりで、あんなに顔に見覚えがあるのに名前が出てこないわけだ。

しかし、あの地方都市のこぢんまりしたカレー屋の主人が、どういう経緯で東京の一流ミュージシャンのサポートのもと、レコーディングなんかしているんだろう。

しかも松任谷正隆とも共演しているぞ!

あのおじさんはいったい何者なんだ?

そして何を目指しているのか?

間違いなく言えることは、このおじさんが自分の趣味に忠実に生き、人生をエンジョイしているということである。


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俺の五つ星・標高1000メートルのおそば屋さん

7月28日(金)

標高1000メートルのおそば屋さん。

店の名前が面白い。語感がなんとなくかわいらしいのだが、住所を見てみると、この地区の地名からとった店名であることがわかった。めずらしい地名だ。

標高1000メートルの地元で収穫したそば粉のみを使っている。

長方形の底の浅い木箱に入ったそばが、この店の名物である。この地区では昔からこの木箱が各家庭にあり、お客さんが来たときなど料理の準備のための器として重宝されていたという。

いつからか、この木箱に茹でた蕎麦を入れ、仲間とにぎやかに食べる習慣が生まれたのだそうだ。

「前の勤務地」でよく食べた「板そば」と同じようなものと考えてもらえばいい。

有名人がよく訪れるらしく、世界的に著名なアニメ映画Img_5_m監督のサイン色紙が置いてあった。

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カインの後裔

1968年に公開されたユ・ヒョンモク監督の映画「カインの後裔」は、1945年の解放後まもない、のちの北朝鮮の領域となるある村を舞台にした物語である。

Photo解放の喜びにわく村に、ある日、共産党員がやってきて、土地改革を進める。人々は当初は困惑するが、悪いのは地主であり、小作人は奴隷根性を捨てて地主を糾弾すべきだと洗脳されるうちに、村の人々は保身と疑心暗鬼から、次第に人間関係が崩れはじめ、地主を憎むようになる。かくして、「農民会議」という「民主的」な会議を経て、地主は糾弾の対象となった。

その村の地主であったパクは、村で塾を開いて農民に勉強を教えていたが、人望のあった彼もまた、攻撃の対象となったのである。

その人物の人間性いかんにかかわらず、地主であるという理由だけで、問答無用に財産が奪われ、農民たちはハイエナのように、その財産を奪い合う。土地解放の名のもとに、それまであった村の秩序は一気に失われ、人々は考えることをやめてしまうのである。

政治的な主張を含んだ映画なのか、といえば、そうでもない。もちろん韓国の人々の間には「反共」という意識が根強く、その根底にはこうした歴史的背景が存在していたことは間違いない。

しかしこれは、ほんの一例にすぎない。人々が保身や疑心暗鬼のために、他人を売る、という行為や、問答無用の法律ができたために人々が思考停止に陥るといったことは、イデオロギーとは関係なく存在しうる。いまの私たちも、その問題に直面してはいまいか?そのことを忘れてはならないと思う。

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メールの暴力

7月25日(火)

同僚と話していたら、同僚が「メールの暴力」という表現を口にした。

ここでいう「メール」とは、職場などの仕事関係のメールのことである。

毎日、こっちの体調とは関係なく、膨大な量のメールが来る(、というのはちょっと大げさか)。

しかも、韓国からも問い合わせのメールが来たりする。

それらに応えているだけで、多くの時間を消費する。

とくに体調が悪いときは、たった1行の返事を書くだけでもしんどい。

いや、私は昔気質の人間だから、たった1行の返事を書く、という芸当ができないのだ。

韓国語のメールの場合はなおさらである。誤解が生じないように、噛んで含めるような表現で返信しなければならない。

先方は、私の体調の善し悪しに関係なく、メールで仕事の指令をしたり、あるいは私にいちいち指示を仰いだりする。

ま、先方は、私がどれだけ体調が悪いのかわからないわけだから、致し方ないのであるが。

それに考えてみれば、私も他人の迷惑を顧みず、メールで依頼をしたり問い合わせをしたりしているのだから、同罪といえば同罪である。

以前にも書いたことがあるが、たとえば、

「○月×日のご都合はいかがでしょうか?」

とメールが来て、

「その日は大丈夫です」

と返信すると、

「では、お時間は何時にしたらいいでしょうか、ご都合のいい時間を教えてください」

と来る。

「午後ならば何時でも大丈夫です」

と返信すると、

「では、13時ということでよろしいでしょうか」

このあたりで、もう疲れる。無視していると、またメールが来て、

「以前のメールで13時ということでご連絡さしあげましたが、それでよろしいでしょうか?」

「それでいいです」

と返信すると、

「ではどこにうかがえばよろしいでしょうか」

「私がそちらにうかがいます」

「では、私どものところにおいでいただくということでよろしいでしょうか」

無視していると、

「私どものところにおいでいただくということでよろしいでしょうか」

と念押しのメールが来る。

もうここまで来ると、

「いい加減にしろ!」

と思う。

なぜ、質問を小出しにしてくるのか?

それに、なぜいちいち指示を仰いでくるのか?

一つ一つは短い返信であっても、塵も積もれば…の世界である。体調の悪いときはとくに。

なるほど、これを「メールの暴力」というのだな、と、今日、同僚の言葉を聞いて、あらためて思った。

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ゴルフ偏見

暇なのでどうでもいいことばかり思い浮かぶのだが。

僕は、ゴルフというものを、いままでやったことがない。

たぶんこれからも、一生やるつもりはない。

ルールすら知らない。

職業柄というのか、僕の同業者で、ゴルフを趣味にしている人は、ほとんどいない。

というか、身のまわりの知り合いで、休みの日にゴルフに行く、という人が、まったくいないのだ。

ところが、世間にいる僕の世代の中には、ゴルフを趣味にしている人が、けっこういるようだ。というか、世間的には、そっちの方が多いんじゃないか?

とくに、企業に勤めている人の中に、多い気がする。僕はそういう知り合いがほとんどいないので、結果的に、ゴルフを趣味にする人が周りにいないのである。

僕は、休みの日になるとゴルフに出かけるという人は、映画とかドラマの世界でしか見たことがないので、実際にそういう人が知り合いなどにいたりすると、

(へぇ、休みの日になるとゴルフに行くようなヤツが、いまだに同世代にいるんだ…)

と驚いたりする。

人はなぜゴルフをするのか、について、かつて上岡龍太郎は、こんなことを言っていた。

「ゴルフとは、貴族のスポーツである。貴族というのは、ありとあらゆることが意のままになる。欲しいものもすぐに手に入る。

ところが、ありとあらゆることが意のままになったり、欲しいものがすぐに手に入ったりするというのは、実は退屈なことである。

そこで貴族は、ゴルフというスポーツを生み出した。

ゴルフというのは、あの小さいボールを打って、最終的に小さな穴に入れるだけのことなのだが、じつはこれだけのことが、自分の意のままにならなかったりする。

あるときは風が吹いてボールが大きくそれたり、池にボールが落ちたり、バンカーからボールが抜け出せなくなったり。

つまりゴルフ場の中では、誰もが、意のままにならないことに対して悔しいという感情をいだくことができる。

ゴルフとは、その感情を味わうためのスポーツなのだ」

…なんだか、わかったようなわかんないような説明だが、僕がゴルフにまったく興味がない理由がわかった。

僕は、人生において、意のままにならないことばかりなのだ。

それをわざわざ、ゴルフという娯楽の中で、あらためて体験したいとは思わない。

逆に言えば、人生に満ち足りた人が、ゴルフに惹かれるということなのだろう。

どうりで、ゴルフをする人と話が合わないわけだ。

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キム・ジンギュ最強説

このところ、古い韓国映画ばかり見ているのだが、まったく予備知識のないままに見ていくと、たまたまここ最近私が見た作品では映画監督や主演俳優が偏っていることに、後になって気がついた。

一人は、ユ・ヒョンモク監督である。

「誤発弾」(1961年)主演:キム・ジンギュ

「カインの後裔」(1968年)主演:キム・ジンギュ

もう一人は、イ・マニ監督。

Photo「帰路」(1967年)主演:主演:キム・ジンギュ

「森浦(サンポ)への道」(1975年)主演:キム・ジンギュ

ユ・ヒョンモク監督と、イ・マニ監督は、1960年代の韓国映画を代表する名匠だったのだ、ということが、だんだんわかってきた。

Photo_2それよりも驚きなのが、これらの作品の多くに、キム・ジンギュという俳優が主演しているということである。

上にあげた作品だけではない。これも60年代の韓国映画の傑作といわれているキム・ギヨン監督の「下女」にもまた、キム・ジンギュが主演しているのである。

こうなるともう、60年代の映画はキム・ジンギュのひとり勝ちだな。

…とまあ、他人様にはどうでもいいことなのだが、せっかく何本もの古い韓国映画を見たので、気づいたことを記録としてとどめておく。

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もし文豪がシリーズ

神田桂一・菊池良『もし文豪がカップ焼きそばの作り方を書いたら』(宝島社、2017年)が巷で話題になっていたので、読んでみた。

内容はタイトルの通りで、「カップ焼きそばの作り方」を、それぞれの文豪(文豪にかぎらず、文化人やさまざまな活字媒体なども含む)がいかにも書きそうな文体でまとめる、というもの。

やられたなあ、と思った。

このブログでも、以前に何度か、文豪の文体をまねた文章を書いているのだ。

赤いブログ(江戸川乱歩風)

ハルキをめぐる冒険(村上春樹風)

いつかそういう、文豪の文体をまねて書いた文章を集めて、本にして出したら面白いだろうなあと思っていたら、先を越された。

ただ、読んでみて、まだ改善の余地はあると思った。

取りあげている100名の文体のすべてが、完成度が高いというわけではなく、出来・不出来の差がある。

あるいは、その作家に思い入れがあるかないかによって、笑えるか笑えないかが決まってくる。

たとえば私は、村上龍と坂本龍一が対談している形式の「カップ焼きそばの作り方」が、くそ笑った。

それはある時期、2人の対談本に猛烈にハマっていたことがあるからである。しかし、この2人の対談本を読んだことのない人には、なんだかよくわからないかも知れない。

逆に、松本清張版「カップ焼きそばの作り方」を読んでみると、「なんか違うなあ」と思ってしまう。松本清張の文体に対する私なりの思い入れが強すぎて、

(そうじゃないだろう…)

と思ってしまうのである。

なので、この本を読んだ後、この本で取りあげられている文豪(作家)の文章を実際に読むことをオススメする。

そして自分だったらどう書くかを考えてみるのも楽しい。

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進水式は結婚式

7月11日(火)に、高校時代の友人・元福岡のコバヤシから近況報告のメールが来た。

「明日はうちの会社の製品を運んでくれる船の進水式で高知に出張、多分その後は披露宴、二次会と続く模様。ちなみに進水式は結婚式とほぼ同じで、船の上に神主さんを迎え、玉串拝礼を行い、船上から紅白の餅搗き、それが終わったら何故か船主の親族に混じり披露宴に出席するのですが、仕事を保証するということで主賓席に座らされ(お金を貸す銀行も一緒です)た上にお祝いの挨拶をさせられ、餅搗きまでさせられます。」

近況報告はこれ以外にも長々と書かれていたのだが、私が目を引いたのは、上に引用した部分であった。

「船の進水式は結婚式と同じで、終わると披露宴がある」

という事実を初めて知り、興味を持ったのである。

私は、

「ぜひ進水式と披露宴のレポートを頼む」

と、半ば冗談で返信した。

すると翌日、式典の合間を縫って、コバヤシが進水式の写真、さらには、披露宴の写真を携帯メールに送ってくれたのである。

暇をもてあましている私に、退屈しのぎということで、義理堅いことに送ってきてくれたのである!

コバヤシが送ってきた式次第によると、進水式は、以下の手順で行われるそうだ。

「神事  ○○八幡宮宮司様による

 開会の挨拶

 修祓

 降神

 命名の儀 ○○開運有限会社 代表○○様

 祝詞奏上

 玉串奉奠

 昇神

 閉会の挨拶

 餅投げ 来賓全員

 支鋼切断 ○○海運有限会社 ○○様 

 進水」

コバヤシは、来賓として出席し、祝辞を述べ、餅投げにも参加したらしい。

コバヤシによる、次のような解説がついていた。

「進水式の会場(船上ではなく船の横でした)には祭壇が造られ(簡易セットがあるようで終了後はあっという間に箱にしまわれてました)、鏡、野菜(ナス、キュウリ)、果物、米、餅等が飾られます。式の概要は神様を降臨させ、船に名前を与え、玉串礼拝を行い船の安全を祈願し、最後に神様は天に帰っていくというような流れのようです。

Image1_2面白いのは船に名前を与える命名の儀ですが、この儀式の前までは船には名前が無いことにっており、船体には名前がペイントされていますが紅白の横断幕で隠されています。宮司が船主に名前をが書かれた紙を渡し、船主がそれを船に向かって読み上げたところで、横断幕も落とされ、正式に名前がついたことになるようです。ちなみに、別の進水式でうちの部長が命名の儀をさせて貰った際に、参列者に向かって名前を読み上げたところ、後で、違う!と怒られたそうです。部長は名前を紹介するものと考えていたらしいのですが、実際には船に対して名前を与える=船に命を吹き込む儀式のようで、船に向かって読み上げないとダメだということのようです。

Image2_2神事の後は、主賓は船上に登り、餅搗きを行います。最初に4人が10センチ四方の餅を投げ、それを合図に10人ぐらいで、段ボール数箱分の紅白の餅を投げます。船上は10メートルを超える高さなので、ちょっと怖いです。

最後に支鋼切断で、これは、船首にセットしたシャンパンを綱を切って船体にぶつけて割って、それを合図に船を海に送り出す儀式です。船が進む時にくす玉が割れるような仕掛けになっています。ちなみに、この綱を切るのは船主の娘さんと決まっているようです。」

Image4実に詳細なレポートである。これはもう、立派なフォークロアだ!

さらにこのあと、自分の体験談が綴られていた。

「慣れないことをするとなかなか上手くいかないものです。玉串を置いてからのニ礼の際も、宮司さんがあの杓文字みたいなの(無知ですいません)を持って、ニ礼するのを見ていたので、実際自分がやる段になったら手を合わせて拝んでしまうという体たらく。二番目にやらされたこともあり、かなり緊張していて最初の人のを見た筈なのにとんでしまいました。後の人達のを見る度に、違うじゃん!!と恥ずかしいったらありゃしない。同僚からは席に戻って来たらプッと笑われる始末。

Image5それから餅まきですが、最初の餅を船上から投げる際に、遠くに投げようと力をこめて投げたら、思い切り手を手すりにぶつけてしまい、餅はすぐ下にボテッと落ちて、情け無いやら痛いやら。これで手の骨にヒビでも入って労災にでもなったら恥ずかしくて会社に行けやしない(こんなのでも黙ってたら労災隠しです)。まあ何とも有りませんでしたが。

余談ですが餅まきも地方にによって違うようで、今治の進水式では小さい紅白の餅だけでした。グループ会社の役員さんが高松だったかどこかで餅まきをした際には、直径30センチぐらいのデカい餅を渡され、こんなものを10メートルを超える高さから投げたら下の人が大怪我するんじゃないか!とビックリしたとのこと。

Image2_1なお、進水式の後の披露宴では主賓の祝辞をやらされましたが、カミカミでした。7~80人の船社さんが入り乱れていました。

それにしても、普段、神道なんか関係ないやと思っていたのに、会社の仕事の中に神事が出てくるなんて奇妙なもんですね。

では、進水式の話はこの辺で。」

暇をもてあましていた私の退屈しのぎに、コバヤシが送ってくれた詳細なレポートは、実に興味深いものであったので、ここに記録しておく。

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パク・ヘイルがおじいさんに??!!

まだまだ続く、マニアックな韓国映画特集。

1.「ディープ・ブルー・ナイト」(1985年)

2名優・アンソンギ主演の、全編アメリカロケの映画である。

アン・ソンギ演じる主人公ペク・ホビンは、アメリカ永住権を獲得するために偽装結婚をするが、偽装結婚の相手となった韓国人のジェーン(チャン・ミヒ)に本気で惚れられてしまう。

この映画でアン・ソンギは、めちゃめちゃかっこよく、そして最低の男を演じている。同じ80年代の映画で、アン・ソンギ主演の映画「成功時代」を以前に見たことがあるが、やはり同じような男性を演じていた。80年代は、めちゃめちゃかっこよくて、人間として最低な男が、いい男と思われていたの079eaf1e22472b7c02f1f9b93b38b811_1
だろうか。そして80年代のアン・ソンギは、その象徴だったのだ。

いかにも80年代という時代を象徴する映画である。

2.「ウンギョ 青き蜜」(2012年)

Photo「詩聖」と呼ばれる老詩人と、女子高校生との純愛の物語。

老詩人の弟子の若き作家もまじえ、三者の想いが交錯していく。

老詩人が妙に若いなあ、どこかで見た顔だなあ、と思ったら、なんとパク・ヘイルが特殊メイクで70歳の老人役をやっていたんだね。

パク・ヘイルといったらあーた、「殺人の追憶」(2003年)「グェムル 漢江の怪物」(2006年)「極楽島殺人事件」(2007年)「黒く濁る村」(2010年)などに出演した若手中堅実力派俳優ですぞ。

私はひそかに、韓国映画で金田一耕助ものを撮るとしたら、金田一探偵はパク・ヘイル以外には考えられない、と思っておるのです。

Photo_2その彼が、この「ウンギョ」を撮影したときは、まだ30代だったにもかかわらず、わざわざ特殊メイクをして、老け役を演じさせたのだ。

年相応のおじいちゃんをそのままキャスティングすればすむのに、と思ったが、映画を見ているうちに、

(これは、リアルなおじいちゃんが主役では、リアルすぎてちょっと引くなぁ)

と思い、あえてパク・ヘイルをキャスティングしたことに、納得したのだった。

…さて、今回紹介した2作品を含めて、これまで紹介してきた韓国映画のほとんどが、ハッピーエンドではない。

後味が悪い結末もあったりする。

どうもこれが、古い韓国映画の特徴なのではないか、という気がしてきた。

たまたま私の見た映画が、すべてアンハッピーエンドだっただけかも知れないが。

さすがに、マニアックな韓国映画を見続けて疲れてきたので、ここらでいったんなかじめである。

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霧の町

だんだん読者が誰もついてこなくなってきた、マニアックな韓国映画特集。

「霧」(1967年)

Photo_2キム・スンオクの短編小説「霧津紀行」を映画化したもの。

ソウルで製薬会社の専務理事として勤めるギジュンは、仕事に疲れ、自分の故郷である霧津(ムジン)という町に帰ることにした。ムジンはその名のとおり、霧の町で、それ以外、何の取り柄もない町であった。一種、頽廃的な空気の漂う町である。

ギジュンは故郷を出てソウルに上京して成功をおさめたものの、それは自分の実力ではなく、妻の父が製薬会社の社長で、いわば虎の威を借りて出世をしたに過ぎなかった。彼にとってはそれが、ひどく息苦しいものであった。

息抜きのために故郷のムジンに帰った彼は、地元で音楽教師をしているひとりの女性と出会う。

…とまあ、ストーリーじたいはよくある話なのだが、「霧津(ムジン)」という名前に、なんとなく聞き覚えがあった。

霧の多い町。ムジン、霧津…。

思い出したぞ!

Photo2011年公開の韓国映画「トガニ 幼き瞳の告発」の舞台となった町の名前が、やはり霧津(ムジン)だった。

映画の冒頭で、深い霧に包まれた町が登場する。それが、事件の舞台となったムジンの町だ。

ところで、「霧津(ムジン)」とは、当然、架空の町の名前である。韓国に実在する地名ではない。

ここで面白いのは、「霧の多い町」にふさわしい地名として、どちらにも「霧津(ムジン)」という地名が使われていることである。

ひょっとして、「トガニ」の原作者のコン・ジヨン(韓国の山崎豊子的な作家)は、キム・スンオクの小説「霧津紀行」をリスペクトして、「霧津(ムジン)」という架空の町を舞台にしたのではないだろうか。「霧津紀行」は有名な小説なので、「霧の多い町」=「霧津(むじん)」というのは、多くの韓国人にとって実にしっくりとくる架空地名だったのだろう。

日本でたとえると何だろう?「八つ墓村」みたいな感じか?(ちょっと違うか?)

もうひとつ興味深いのは、霧津が、韓国のどこにあったと想定しているか、である。

キム・スンオクの「霧津紀行」では、「霧津(ムジン)」のモデルとなった町は、全羅南道の順天(スンチョン)であったといわれる。

一方、コン・ジヨンの小説「トガニ」では、「霧津(ムジン)」が全羅北道にあった町だと書かれている。ただ、ややこしいことに、実際に「トガニ」の事件が起こった場所は、全羅南道の光州市である。

いずれにしても、「霧津(ムジン)」は、韓国の全羅道にいかにもありそうな町、として、小説や映画の中で描かれているのである。

韓国人の、全羅道に対するある種の意識が、垣間見られるような気がする。

このあたりをもう少し深く掘り下げていけば、なんとなく1本の論文が書けそうである。

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韓国映画2本

前回に引き続き、マニアックな韓国映画特集。

1.「誤発弾」(1961年)

Photoまったく予備知識のない私は、映画のタイトルと、DVDのパッケージの写真から察して、黒澤明監督の「野良犬」みたいな、刑事モノの話なのかな?と思ってみてみたら、全然違っていた。

朝鮮戦争のためにその後の生活を狂わされた家族の物語である。

主人公の長男・チョルホは、公認会計士事務所の書記官として、わずかな給料をもらいながら家族を養っていた。

年老いて精神を病んだ母、病弱な妻、問題ばかり起こす弟、米兵相手に体を売る妹、それにふたりの子ども。

ストーリーは悲劇に向かってどんどんと転げ落ちていき、主人公は絶望的な思いにとらわれtまま、映画が終わる。

なんとも救いのない話である。

「こびとが打ち上げた小さなボール」にも通じるところがあるが、韓国の社会や経済が発展していく裏で、社会の底辺に生きる家族の悲劇的な状況を描いている点は、前回に見た映画「こびとが打ち上げた小さなボール」とも共通している。

もうひとつ共通しているのは、「長男の苦悩」である。この2つの映画の中で、長男は一家を支える存在として、次男は問題ばかりを起こす存在として描かれているのである。韓国の家族制度が背景にあることは、容易に想像できる。

60年代から70年代にかけての韓国社会のかかえていた陰の部分を、映画は描こうとしていたのだ。

2.「森浦(サンポ)への道」(1975年)

Photo_2真冬の雪深い韓国を舞台に、ワケありの3人が、ふとしたことで出会い、旅をするというロードムービーである。

工事現場を転々とする若き労働者ノ・ヨンダル、10年の服役を終えて故郷の森浦(サンポ)へ向かうチョン氏という中年男。そして、若き酌婦のペッカ。この3人が、時に反目し合い、時に意気投合しながら、厳冬の中を身を寄せ合いながら旅をしていく。

韓国の厳冬の景色が、実に美しく映像化されている。その寒々とした中を3人が歩く姿は、絵になるのだ。いや、映画全体に韓国の自然や農村といった風景が美しくおさめられている。

まるで、山田洋次の70年代の映画を見ているようである!

それで思ったのだが、3人のロードムービー、そのうちの1人が長い服役を終えて故郷に帰る、という設定。

これって、山田洋次監督の「幸福の黄色いハンカチ」ではないか!!?

しかし、ストーリーじたいは、全然違う。「幸福の黄色いハンカチ」のように、わかりやすいハッピーエンドで終わるわけでもなく、むしろ見た人は、あまり救いのない結末だなあと思うかも知れない。

にもかかわらず、この映画は、その美しい映像とともに、心に残る。

孤独をかかえながら生きている3人が、それぞれほんの少しだけ希望を見いだして、映画が終わるのだ。

70年代の山田洋次監督の映画と、比較して見てみると、面白いかも知れない。

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韓国映画3本

わが家には、韓国映画のコレクションがけっこうある。

入手しつつも、まだ見ていないものがたくさんあるので、この機会に少しずつ見ることにした。

1.「ラジオスター」(2006年)

Photo「ラジオスター」は、これまで何度となく見てきた映画だが、このタイミングで急に見たくなり、見ることにした。

80年代後半に国民的歌手として名をはせ、その後数々の問題を起こして落ちぶれていたロックシンガー(パク・チュンフン)が、長年連れ添ったマネージャー(アン・ソンギ)と二人三脚で、地方局のラジオDJとして再起をかける、というお話。

あらためてこの映画を見て、たぶん、韓国映画の中で、この映画がいちばん好きかも知れない、と思った。

失意のどん底にあったロック・シンガーの人生の歯車が、ふとした人々との出会いをきっかけに、まわりだす。

まるでおとぎ話みたいな話なのだが、見ているうちに、

「どんな人生も、捨てたもんじゃない」

と、希望がわいてくるのだ。

なにより、パク・チュンフンとアン・ソンギの名コンビ!

この二人は、役の上だけでなく、俳優としても、心底信頼しあっているのだなということが、よくわかる。

希望を取り戻したくなったときに、僕は何度もこの映画を見るだろう。

2.「クワイエット・ファミリー」(1998年)

Photo_2父がリストラを受けて生計のよりどころを失ったカン一家が、ある山でペンション経営をはじめることになるが、登山客がほとんどおらず、宿泊客もまったく来ない。

ある日、はじめて来た宿泊客が、ペンションで自殺をする。父は、息子がその客を殺したと疑い、証拠を隠滅するために、その客の死体を山中に埋める。

次に来た客は、カップルである。今度はカップルが客室で心中し、慌てたカン一家が、またもや死体を山中に埋める。

こうして、このペンションで予期せぬ死体が次々とあらわれ、そのたびに一家は死体の処理に奔走するのである。

これは、「勘違いとすれ違い」を利用した、とてもよくできたドタバタコメディーである。ただ、その重要なアイテムが「死体」だというところが、ちょっと猟奇的なのである。つまりこれは、「猟奇的なコメディー」というジャンルといえる。

むかし、フジテレビで放映されていた三谷幸喜脚本のコメディー「HR」のある回で、石膏で作った腕が、知らず知らずのうちに次々と増えていく、というドタバタなエピソードがあったが(たぶん誰もわからないだろうなあ)、そのモチーフは、この映画のほうが先である。しかもこちらは「死体」であるという点でよりインパクトが強い。

この作品、キム・ジウン監督のデビュー作なんだね。脚本もキム・ジウン監督が担当しているから、その才能、恐るべし、である。

あと、出演者がすごい。

ソン・ガンホとチェ・ミンシクが、このバカ一家の一員として、共演しているんですよ!

1999年に公開された「シュリ」でも二人は共演し、そこから二人は名優の道を歩んでいくことになるが、その1年前に、いま韓国を代表する名優ふたりが、こんなドタバタ喜劇のおバカ映画に出ていたとは!

いまだったら、相当な額の製作費がないと実現しない組み合わせである!

必見の映画である!

3.「こびとが打ち上げた小さなボール」(1981年)

Photo_3今度は一転して、じつに暗い映画である。

韓国で不朽の名作といわれたチョ・セヒの小説を映画化したもの。

経済発展の裏で切り捨てられていく家族を描いた物語。背の低い父が、こびととバカにされ、差別に苦しめながらも、家族が支え合いながら生きていこうとする。社会の底辺で虐げられ、苦しめられてきた人々の、なんともやるせない物語である。

若きアン・ソンギが一家の長男役で出演している。やはりアン・ソンギはすばらしい。コミカルな人物から、このような社会の底辺であえぐ人物まで、幅広く演じてることのできる稀有な俳優である。

2そしてビックリしたのは、「チャングムの誓い」でコミカルな夫人を演じていたクム・ボラが、一家の長女役として出演していることである。

この映画では、極貧にあえぎながらもけなげに生きていく少女を見事に演じている。

Photo_4この俳優も、実に演技の幅が広いことを実感した。

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絶対に笑ってはいけない親戚の話

7月10日(日)

絶対に笑ってはいけない、というルールを課しているため、テレビをほとんど見ていない。ラジオも荻上チキとか、ニュース番組しか聴かない。

すると面白いもので、「笑い」に対する免疫力が低下してくるのだ。

ちょっとしたことで笑いが止まらなくなってしまうのである。

動画サイトにあげられている「秘書に対する政治家の暴言をサンプリングして、笑点のテーマ曲にリミックスする」という動画をうっかり見ようものなら、自殺行為である。

あ、これは笑いの免疫力が低下してなくても爆笑するか。例えが違った。

ふだんならば面白くも可笑しくもない話が、可笑しくて仕方なくなってしまうのである。

母が私に、親戚のおじさんの話をした。

「サワラのおじさんがねぇ」

「サワラのおじさん」といっただけで、サワラのおじさんの顔が浮かぶ。

「サワラのおじさんがねぇ、毎晩、夜中に8回もおしっこに行ってたんだって。毎晩毎晩夜中に8回もおしっこに行ってたら寝る時間がないよ!ということになって、病院に行ったそうよ」

ふだんならば、面白くも可笑しくもない話である。だが笑いの免疫力が低下している私は、サワラのおじさんが床(とこ)についたも思ったらすぐにトイレに立つという行為を何度も繰り返している姿を想像したら、急に可笑しくなり、笑いが止まらなくなった。

「やめてくれ!苦しい!もうそれ以上言うな!」というと、母はますます調子に乗り、さらに話を続けようとした。

「で、病院に行ったらさぁ…」

「ひぃー!やめろ!く、苦しい!お願いだからもうそれ以上何も言うなー!」

母はかまわず話を続け、私は地獄に堕ちた。

しかも私の頭の中で「サワラのおじさんが夜中に8回もおしっこに行ったのよ」という言葉が何度もリフレインされ、そのたびに「思い出し笑い地獄」に堕ちてゆく。

「ひぃー!苦しい!もうやめろ!それ以上言うな!」と、私はのたうちまわった。

「わかったわかった、もうやめるから…。そういえばこの前、イタバシのおばさんがはじめてスマホを買ったのよ。そうしたらね、…フフフッ」

「やめろー!俺を殺す気かー!」。

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サンバのリズムでてんしきを出す

7月7日(金)

来る人来る人が、入れ替わり立ち替わり、

「てんしきはおありかな?」

と聞いてくるので、

「いえ、ただいまはございません」

と答えると、決まって心配そうな顔をして、

「そうですか…。ではもう少し様子を見ましょう」

と言って帰っていく。

あまりにみんながてんしきがあるかどうかを気にするので、

(ことによるとこれは、てんしきがないと大変なことになるらしい)と悟った。

しかしてんしきを出そうと思えば思うほど、プレッシャーがかかってますますてんしきが出なくなる。

(困ったなぁ)

困ったあげく、音楽を聴いててんしきを出すことを思い付いた。

どんなジャンルの音楽ならば、てんしきが出やすいか?

熟考の末、サンバが適しているのではないかという結論にたどり着いた。

サンバのリズムに合わせれば、てんしきが出せそうな気がする。

僕のiPodの膨大なコレクションの中から、選び抜いた1曲が、渡辺貞夫のMARAVALという曲である。

僕はこの曲の、軽快なリズムと、人を優しく包み込むようなメロディが大好きだった。

生きる希望がわいてくる1曲である。

サンバのようなパーカッションのリズムに合わせて下半身に意識を集中させると、不思議なことにてんしきが出たのである。

他の曲でも試してみたが、やはりこの曲が一番であった。

ナベサダさんは、やはりぼくの神様だ。


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苦行のような孤独のグルメ

7月6日(木)

今日はサバの味噌煮定食か…。

付け合わせがエビと白菜の炒め物、すまし汁に、デザートはフルーツのオレンジがふた切れ。

相変わらず、味が単調である。

単調な味の、パサパサした料理を延々と食わされるのは苦行でしかない。

しかもサバって…。別に俺はアレルギーがあるわけてはないが、体が弱っていたらアレルギーがなくてもあたる可能性があるんじゃないか?。

しかも今は夏だし。

あまり箸ををつけるのはやめておこう。

いちばん美味しかったのはフルーツのオレンジだ。だ。これならばいくらでも入るぞ。

やっぱりフルーツににかなうものなし、だな。

今回もだいぶ残してしまった。

(ほうじ茶を少しだけ飲み)

「ごちそうさまでした!」

ほうじ茶にもそろそろ飽きてきた。


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ちっとも美味しくない孤独のグルメ

7月5日(水)

五分粥、キュウリの酢の物、鶏肉とブロッコリーを煮たやつ、缶詰めの桃、ほうじ茶。

一見して、前よりも豪華になったようにみえるが、どれも死ぬほど不味い。

五分粥なんて、まったく味がしないのに、親の仇か!というほどの量の多さである。

これを完食するにはかなりの忍耐が必要だ。

期待していた鶏肉も、小さく切りすぎていて、しかもパサパサである。

これをチビチビ食べるのにも、やはり忍耐が必要だ。

うーん。どれもすべて後味が悪い。

いちばん美味しかったのは缶詰めの桃だ。缶詰めの桃がこんなに美味しいとは思わなかった。

やっぱり甘いものにかなうものなし、だな。

今回はだいぶ残してしまった。

(ほうじ茶を少しだけ飲み)

「ごちそうさまでした!」


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5分で終わる孤独のグルメ

7月3日(月)

重湯、コンソメスープ、ココア、ほうじ茶。

重湯って、固形感がまるでないんだなあ。それにまったく味がしない。あたりまえか。

おっ、これは何だ?

納豆によくついているタレのような大きさの小袋がついてるぞ。「ねり梅パック」と書いてある。

これを重湯に混ぜろということか。どれどれ…。

なるほど。ねり梅を入れるだけでこんなにパンチが効いた味になるのか。重湯にねり梅、覚えておこう。

さて、次はコンソメスープ。

ほどよい塩加減だ。重湯ともよく合う。

最後はココア。デザート代わりということだな。

うーん、久しぶりにココアを飲んだけど、とても美味しいぞ。今回出されたものの中でいちばん美味しい。ベルギーチョコレートでも使っているのかな?

あ~、食った食った。

(ほうじ茶を飲みほし)

「ごちそうさまでした!」

5分で食べ終わってしまった。これではドラマ1本分になりそうもないな。

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大林監督の遺言

2017年6月11日に東京で開催された「SHORTS SHORTS FILM FESTIVAL& ASIA 2017アワードセレモニー」という、映像コンペ作品の受賞作発表と表彰式がおこなわれた場で、審査員の一人である大林宣彦監督が、30分にわたるスピーチをした。

僕はそこで初めて知ったのだが、齢80になろうとする大林監督は、昨年8月、末期がんであることがわかり、余命3か月の宣告を受けたそうだ。ちょうどその日は、自分にとって最後の映画になるであろう作品「花筺」(はながたみ)をクランクインする、前日のことだったという。

その後、監督は病気と闘いながらその映画を撮りあげた。この冬に公開だそうである。

大林監督のスピーチは、SHORTS SHORTS FILM FESTIVAL& ASIA 2017の公式サイトの動画で見ることができる。

30分ほどのスピーチは、実によどみない、そして温かい「語り」だった。

聞いているうちに、ちょっと涙が出てきた。

自分が思春期のころに心酔した「神様」的な人が、数十年経ってなお、「変節」をせずにいることは、なによりも嬉しい。

俺はこの人を信じて間違いなかったのだ、という気になるのだ。

僕はこの人の「語り」にあこがれ、この人のように物事を語れたら、どんなにすばらしいだろうと思っていた時期がある。

スピーチのなかで大林監督は、「30年ほど前に黒澤明監督から受け継いだ遺言を、若い人に伝えたい」と語っているが、実はこれは、大林監督自身の遺言ではないかと思う。

30年ほど前、黒澤明監督が大林監督にどのようなことを語ったのかは、実は誰にもわからない。

スピーチのなかで紹介している黒澤明監督の言葉は、大林監督がかなり脚色を加えているのではないかと僕はみている。

しかし、である。

黒澤監督が晩年、強烈な反戦思想のもとに原発や核兵器の問題に警鐘を鳴らしていたことじたいは、紛れもない事実である。映画「夢」や「八月の狂詩曲」などをみれば、一目瞭然である。

だから、大林監督が語った「黒澤監督の遺言」は、真実だと思うのである。

スピーチのなかで大林監督自身が語っている。

「リアリズムではないけれども、事実を超えた真実、人の心の真が描けるのが映画ではないか」と。

大林監督の「語り」は、まさに映画そのものなのだ。

スピーチを聞けばわかるように、内容は現政権に対する強烈な批判に満ちあふれている。

「たとえば今私たちが正義を信じていますね。「私の正義が正しい。敵の正義は間違っている」。一体正義ってなんでしょう。私たち戦争中の子供はそれをしっかりと味わいました。私たちも大日本帝国の正義のために戦って死のうと覚悟した人間でした。しかし負けてみると、鬼畜米英と言われた側の正義が正しくて、私たちの正義は間違っていた。なんだ正義とは、勝った国の正義が正しいかと。それが戦争というものか。じゃあ自分の正義を守るためには年中戦争してなくてはいけないかと」

「戦争という犯罪に立ち向かうには、戦争という凶器に立ち向かうには、正義なんかでは追いつきません。人間の正気です。正しい気持ち。人間が本来自由に平和で健やかで、愛するものとともに自分の人生を歩みたいということがちゃんと守れることが正気の世界です」

大切なのは「正義」ではなく「正気」であることなのだ、という言葉は、僕の胸にストンと落ちる。

いまのこの国の政治家たちをみてみるがよい。正気を失った政治家、錯乱した権力者がどれほど多くいることか。そういうヤツらにかぎって、「正義」を振りかざしているではないか。

それを「映画」で立ち向かうことは、たぶんとても難しいことなのかも知れないけれど、それでも「映画」で立ち向かおうといる人がいることに、僕たちは希望を見いださなければならない。

さて、このスピーチを、会場の人たちは、どのように聞いたのだろうか。

僕のような「大林信者」は別として、そうでない人の中には、説教くさい、と思った人がいるかも知れない。

映画のイベントの場で、政治の話なんかするなよ、と思った人もいるかも知れない。

話が長いな、と思った人もいるかも知れない。

でも僕は、そんなことのすべてを超越するスピーチだったと思う。

幸い、公式サイトでスピーチの全文書き起こしをしてくれていた。

ここでも、その一部(スピーチの前半部分)を、記録として引用しておきたい。

(参考)2017年6月11日の、大林宣彦監督のスピーチ

「ハリウッドならば、アカデミー賞ならば、ここでIt’t show timeというところで、私がタップダンスをひとつをご披露できればいいんですけれども、齢80にならんとする、じじいでございます。

このじじいがなぜここにでてきましたかといいますと、私ごとながら、去年の8月に私の映画人生76年の集大成として、映画を作ろうとしたその前日に、肺がん第4ステージ余命3か月という宣告を受けまして、本当はいまここにいないのですが、まだ生きております。

そんなわけで生きてるなら皆さんに、映画ならではのエンターテイメントをひとつお伝えしたいと思いまして、私がひそかに大事にしておりました、黒澤明、世界を代表する黒澤明監督、私のちょうど親子ほどの年齢ですが、晩年大変かわいがっていただきましてね、私を含め、未来の映画人に遺言を残されております。その遺言を私はただ1人胸に温めていましたので、今日それを皆さんにお伝えしようとして、命がけでここに今立っております。

さて、黒澤明さんもね、実はアマチュアの大先輩なんですよ。黒澤さんも東宝という日本の映画界の会社の社員でございましたから、自由に映画を撮ることはできなかった。会社という制度の中で、その商品としての映画を作るために黒澤さんは自分の自由と、自由な表現と闘いながら闘いながらすぐれた映画を残していらっしゃった。しかしそれは非常に不自由な映画製作でした。晩年黒澤さんが東宝を離れて黒澤プロダクションという自由の身になられました。その時のことを黒澤さんは私にこう言いました。

「大林くんなあ、僕も東宝という会社制度から離れてようやくアマチュアになれたよ。アマチュアというのはいいねえ。どんな制度にも、俺たちは国家の戦争という制度にもしばられて、なんにも表現の自由がなかったけれども、今や僕はアマチュアとして自由に僕が表現したいことをやるんだ」と。

そして黒澤さんは核の問題、原爆の問題、戦争の問題、さらにはご自身が少年時代にあった戦争の暮らし、そういうものに正直に胸を開いてきちんと映画化されながら、亡くなっていらっしゃいました。

その大先輩の遺言を最後にお伝えするためにこれから少し時間を頂戴してお話させていただきます。

はい、私、「じじい」と言いましたけど、その意味はここでは戦争を知っている、体験した世代ということでございます。

私のね、ふたつみっつ兄貴の世代が、しっかりそこを頑張って、いろいろ伝えて表現してくれていたんですけれども、やはり物事は順序でこの2~3年でみんなあの世に逝ってしまいました。思えば私がその世代を知っている最後の弟分になりました。なのでそのことをみなさんにお伝えしたいと思います。

さて、みなさんね、戦争というとどうなんでしょう。今は平和でそんなものなくて、今とは全く違って戦争の時代っていうとなんか時代劇を見ているようなはるか昔の自分とは関係ないような時代だとお思いでしょうけど、戦争というものはね、ここにあったんですよ。ここにあったんです。この日常のなかにあったんです。

どういう形であったか。そう、私はまだ子供でしたけどね、たとえば日本が真珠湾奇襲攻撃をした時、私たち少年は「日本勝った!敵負けた!ルーズベルトとチャーチルをやっつけた!日本の正義はたいしたもんだ!」といってね、提灯担いでみんなで浮かれたもんですよ。しかしたった4年間で情勢はどんどん変わりましてね、我が家は古い港町の医者の家でね、医者の家っていうと、当時の、まあ町の権威の象徴でありまして、長とつく人がみんな集まりましてふんどし一本になりまして、天下国家を論じる場所でした。

そういう2階の大広間に集まる大人たちに向かって私たち子供は、階段を忍びあがって、大人たちの様子をそれはしっかりと伺っていたものですけどね、私のような子供が入っていくと大声で話していた大人たちが急に、悪いこと言って聞かれるんじゃないかって感じで黙り込んじゃうんですよ。

そこに制服姿の若い兵隊さんがいましてね。憲兵さんでしたけれど。憲兵さんといえども、医者の長であるうちの爺さんにはかないませんから、大人しくお話を拝聴させていただきますといってかしこまっていましたけど、その横に彼と同年配の私の叔父がいまして、これは肺病を病んでいて戦争にいくことができない、兵隊になることができない、国家のために命をささげることができないから、非国民、国民にあらざる者、人間にあらざる者というように蔑まれていたんですがね。

その叔父が、「もう日本は負けるよ、負けたほうがいいよ」なんてつぶやいていました。翌日いなくなりまして、3日後に青あざだらけでその憲兵さんに背負われて帰ってきました。その時の憲兵さんも全く違った顔してましたね。人間の顔ってこんなに権力によって違うものかっていう顔をしてました。

そしてそれから日本は敗戦に向かうわけですが、私は原爆が落ちた広島の近くの生まれですし、私の妻は同年配で東京大空襲で3月10日に死ぬ思いをしたのですが、なんと妻の父親は逃げも隠れもせず2階の窓を大きく開いて娘に、「見なさい。花火のように綺麗だろう。しかしこの花火のひとつひとつの下で今人が首をもがれ手足をもがれ、命を奪われていってるんだぞ、よく見ておけ!人間というものはこんなに愚かしい生き物だぞ。よく見て覚えておけ!」と言ったそうです。

そうしているうちに、ご近所はみな焼けて、うちの妻は死にもの狂いで逃げ延び助かったようです。義父はそのまま田舎に引きこもりました。愛する息子を海軍の予備隊で亡くしておりまして、人生の夢すべてを失いました。

戦争とは、人が人であること、人の人生、命、全てを失ってしまう。こんな理不尽な無益な恐ろしいものは決してあっちゃいけないということがたった70年前までみなさんここにあったんですよ、何の不思議もなく。しかしそのことを私たちが今忘れてしまっている。この忘れてしまっていることがね、今の時代の大変な悲劇になっていると思います。

たとえば、戦争も理屈があります。これも外交手段のひとつですからね。おまけに戦争をすれば、経済も高まるという風な説もあります。いろんな理屈があって、戦争が再び起きるということは十分にあるわけです。しかし、より強い国の核の下に入ったら守ってくれるといって守ってくれたことがありますか?今後も決してありません。自国は自国のためにだけ戦争をします。あるいは抑止力なんてありますか?抑止力なんかあった試しがございません。そういう戦争の理不尽をよく知っていた私たちがいなくなってしまったこと。この断絶が怖いです。

私たちは支配者を選びますが、当然選挙によって選びますから、支配者は私たちの代表です。代表である支配者が良き支配を行ってくだされば安心なんですが、その支配者であられる人たちが戦争の実態をもう誰も知らない。第一次・第二次大戦のあの悲劇の虚しさ恐ろしさを、理不尽さを生身で知って、「何が何でも戦争なんて嫌だ!嫌だ!金が儲かろうと、嫌だ!」そう言い切れる人がどんどんいなくなっていることがですね、支配者たちが行う政治が、本当の人間としての責任を持ちえないものになってくるのではないかという怯えが私にはあります。

黒澤さん自身もね、そういうことの中で晩年、核の問題や戦の問題を描かれていましたけれども、その黒澤さんが遺言におっしゃったことはこういうことです。

「大林くん、人間というものは本当に愚かなものだ。いまだに戦争もやめられない。こんなに愚かなものはないけれども、人間はなぜか映画というものを作ったんだなあ。映画というものは不思議なもので、現実をきちんと映し出す科学文明が発明した記録装置なはずだったんだけれども、なぜか科学文明というものは年中故障する。故障ばっかりするのが科学文明だ。でも故障したおかげで、記録が正確じゃなくて、人物がすっ飛んだり、とんでもないところに飛んでいったり、おかしな映像がたくさん生まれたぞ。そしてそれを生かしていけば、事実ではない、リアリズムではないけれども、事実を超えた真実、人の心の真が描けるのが映画ではないか」

そう、嘘から出た真。まさに映画とは、大ウソつきです。しかしその嘘をつくことで世の中の権力志向から、上から下目線というものが全部壊されて、でんぐり返って見えてくるものがある。

たとえば今私たちが正義を信じていますね。「私の正義が正しい。敵の正義は間違っている」。一体正義ってなんでしょう。私たち戦争中の子供はそれをしっかりと味わいました。私たちも大日本帝国の正義のために戦って死のうと覚悟した人間でした。しかし負けてみると、鬼畜米英と言われた側の正義が正しくて、私たちの正義は間違っていた。なんだ正義とは、勝った国の正義が正しいかと。それが戦争というものか。じゃあ自分の正義を守るためには年中戦争してなくてはいけないかと。

そうだ、だから戦争をするんだよという人もいるでしょう。しかし日本は、負けたおかげで憲法9条という、奇跡のような宝物を手に入れました。もし世界中の国全部が憲法9条をもっていたら、世界から戦争はなくなっちゃうんですよ。こんな不条理ともいえる、夢ともいえる、世の中の現実とも合わないといえる、まさに事実には合わない憲法だけれども、真には合う。それを信じることが映画の力なんですね。

そういう意味で黒澤さんはこうおっしゃいました。

「僕はもう80で死ぬけれども、映画には必ず世界を戦争から救う、世界を必ず平和に導く、そういう美しさと力があるんだよ。しかし戦争はすぐ始められるけれども、平和を確立するには少なくとも400年はかかるなあ。俺があと400年生きて映画を作り続ければ、俺の映画できっと世界を平和にしてみせるけれども、俺の人生はもう足りない。大林くん、君はいくつだ? そうか50か。俺はもう80だ。しかし俺が80年かかって学んだことを君は60年でやれるだろう。そうすると君は20年俺より先にいけるぞ。君が無理だったら君の子供、さらにそれがだめなら君の孫たちが、少しずつでも俺の先をやって、そしていつか俺の400年先の映画を作ってくれたら、その時にはきっと映画の力で世界から戦争がなくなる。それが映画の力だ。そのために俺は、さらに先輩である日本やアメリカやヨーロッパのひとたちの映画から学んできた」。

映画というものは素晴らしいものでね。太平洋戦争で日本はアメリカに負けたんですけれども、私たちがマッカーサーの指令で見せられた映画、なんとね、これはハリウッド映画というんですが、アメリカ映画じゃなかったんです。ハリウッド映画というのは、第一次大戦と第二次大戦で国を追われ、国を捨てて逃れてきた人たちが、アメリカという未開の国のハリウッド西海岸で、ここにならば私たちの理想の世界の、平和の世界の国を作ることができる。映画で作ることができるぞ、と作った映画なんです。

今でも8割がユダヤ系の人たちです。国のない人たちです。そういう人たちが作っていた敗戦国民の痛み、戦争の空しさをよく知っている国民の痛みを、私たちは観せられていたという、不思議なアイロニーに満ちた幸せもありましたが、これは何よりも映画というものが創立から持っていたということですね。

この混迷の時代ですけれども、どうか皆さんもその映画の力を信じてください。未来に向けていつか黒澤明の400年目の映画を私たちが作るんだと。

黒澤さんが最期におっしゃいました。

「お願いだから、俺たちの続きをやってね。映画というものは、記録装置ではなくて記憶装置だから。人と人との心のつながりが、物語としてつむげるんだよ。それが映画の物語のいいところだ。この物語が、嘘をつきながら真を描くことができるんだ」。

戦争という犯罪に立ち向かうには、戦争という狂気に立ち向かうには、正義なんかでは追いつきません。人間の正気です。正しい気持ち。人間が本来自由に平和で健やかで、愛するものとともに自分の人生を歩みたいということがちゃんと守れることが正気の世界です。政治や経済や宗教までもがどうしても正義をうたうときに、私たち芸術家は、表現者は、人間の正気を求めて、正しい人と人の幸せの在り方を築いていこうじゃありませんか。」

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