似ているシリーズ
チャン・ジェイン「幻聴」
スティング「Shape Of My Heart」
| 固定リンク
| コメント (1)
| トラックバック (0)
前回のコバヤシの小話の中で、「妾」という言葉が出てきた。
いまではほとんど死語に近い、歴史的用語である。
そういえば、立川談志が落語の枕で、
「いいかい、お妾さんってのは、マンションに住んでるんじゃなくって、『粋な黒塀、見越しの松』なんだぞ」
みたいなことを言っていたのを聞いた記憶があって、
(なるほど、つまり「お富さん」の歌詞に出てくるようなお屋敷のことだな…)
とその時思ったのだった。
それでまた思い出したのだが。
子どもの頃、盆と正月に必ず、母の実家に泊まりにいった。
母の実家は、東京の隣の県にあるのだが、在来線を乗り継いで3時間以上かかる陸の孤島のような町で、周りに何もない、実に鄙びた町だった。仮にその町を、K町と呼んでおこう。
母の実家は、平屋建ての、実に狭い家だったのだが、その隣の家は、それこそ「粋な黒塀、見越しの松」の歌詞にふさわしい、黒板塀と見越しの松に囲まれた、大きなお屋敷であった。
しかし、隣の家といいながらも、母の実家とはなんの交渉もなく、人の気配を感じることもなかった。
(あの大きなお屋敷には、誰が住んでいるんだろう?)
と、子ども心に不思議でならなかったのである。
7年ほど前、ひとり暮らししていた祖母、つまり母の母が亡くなり、母の実家は誰も住まなくなってしまった。実家を処分するという話題も出た。
数年前、法事の時だったか、お盆の時だったか、忘れてしまったが、母の実家はいまどうなっているんだろうと、懐かしさもあり、母と一緒に実家の前まで行った。
そのときに、母は実家の隣の家を見て、こんなことを言った。
「お隣さんも、もう誰も住まなくなって久しいけど、どうするんだろうねえ」
私は子どもの頃の疑問がよみがえった。
「隣のお屋敷には誰が住んでたの?」
「お妾さんよ」
「お妾さん?」
母の口からさらっと出た一言で、僕はお富さんの歌詞、「粋な黒塀。見越しの松」を思い出したのである。
そうだったのか!お妾さんのお屋敷だったのか。
だとすれば、本当にお富さんを彷彿とさせるお屋敷ではないか!
いったいどんな人の、どんなお妾さんだったのだろう?
もう少し詳しい事情を知りたい。
しかし、こんなことを母に尋ねたら、「おまえもお妾さんを囲いたいのかい」と勘ぐられて、面倒くさいことになりそうだし、どうしようと長い間逡巡していたのだが、今日、思い切ってメールで聞いてみることにした。
以下は、そのやりとりの一部始終である。
私「ふと思い出したんだが。K町の実家の隣に塀で囲まれたお屋敷があって、前に「あれはお妾さんが住んでいた家だ」って聞いたんだけど、どんな人のお妾さんだったの?そのお妾さん、いつ頃まで、何歳くらいまで住んでいたの?ちょっと民俗学的な関心から、事例を調べたいと思って」
最後の「民俗学的な関心」は、勘ぐられないためにとってつけた理由である。
すると母からすぐに、
母「チョット調べて後でメールします」
と返信が来た。
しばらくして、母からかなり細かい情報が送られてきた。以下、そのやりとり。
母「あのお屋敷のご主人はノグチさんという人で、私が物心ついた頃にはもういました。怖い顔のおじさんで、話したことはありませんでした。でもとてもよい生活をしていたように思います。
広い屋敷は、手入れをする人がいました。私は回覧板を持って行っても、入口で渡して、中に入ったことはないです。
私が結婚して実家を離れる前には、ノグチさんはなくなっていたと思いますが、K町では葬儀はしないで、東京でしたそうです。
その後、妾のおばさんは、しばらくひとりで居ましたが、ノグチさんの息子さん夫婦が、そのお屋敷に別棟を建てて住み、何年かして妾のおばさんは、自分の身内の所に引っ越していきました。75歳は過ぎていたと思います。現在は息子さん夫婦も亡くなり、誰も住んでいません」
私「ん?そうすると、そのノグチさんはお妾さんと同居していたってこと?本妻さんはどこに住んでいたの?」
母「本妻さんは誰も知らないね」
私「あのお屋敷は、ノグチさんの本宅だったの?」
母「違うよ。息子さん夫婦は定年になったか、引退してからK町に引っ越してきて、妾のおばさんと、別棟を建てていたのよ。孫は東京に居ると思います」
私「どうもわかりにくいな。するとあの家は、ノグチさんがお妾さんと住むための家で、本宅は東京にあったということかな?」
母「そうだと思います。私が小さい時は誰もノグチさんのことは詳しく知らないと思います」
私「なるほど、今までの話から推理すると、あのお屋敷はもともとお妾さんのために建てたもので、あるとき、本妻さんが亡くなったか何かで、ノグチさんが東京から移り住み、その後ノグチさんも亡くなり、息子夫婦が移り住んだと。そう考えて矛盾はないかな?」
母「そうだと思います」
私「わかりました。ありがとうございます。じっとしているばかりで退屈なので、ちょっと推理めいた話題をと思い、あのお屋敷のことを思い出したのでした」
母「今回の件で、○子(母の妹)と思い出したりしてみました。ノグチさんが怖い顔して、着物姿を思い出したりしてみました」
私「ノグチさん、、職業は何だったんだろうね」
母「それも証さなかったね」
私「なるほど、夜遅くまですみませんでした」
母「おやすみなさい」
…なんと、今回の件で、母は自分の妹(つまり私にとっての叔母)と、記憶を確かめるために電話で話をしたらしい。
また俺は、親戚中の笑いものだな。
まあそれはともかく。
私の推理をまとめてみると、こうである。
あのお屋敷は、東京に本宅があるノグチさんという人が、お妾さんのために建てたお屋敷だった。
当然、ノグチさんは、何かというとお妾さんのいるK町のお屋敷に顔を出したのであろう。
その後、本妻さんが亡くなったか、あるいは仕事を引退したか、そういった事情で、ノグチさんはお妾さんのお屋敷に住むことになった。おそらく、昭和20年代の後半頃のことであろう。
ノグチさんは、昭和30年代の後半頃には、亡くなったと思われる。
お妾さんは、その後しばらくひとりでその屋敷に住んでいた。ところが、ノグチさんの息子夫婦が、やはり引退を機にK町に引っ越してきて、このお屋敷に別棟を建てて、住むようになった。
お妾さんは、さすがに居づらくなったのだろう。しばらくして、自分の身内の所に引っ越していった。この時点で、お妾さんは75歳くらいであった。昭和50年代くらいだろうか?
やがて息子さん夫婦も亡くなり、あのお屋敷は無住の家となったのである。
いろいろなことを考えさせられる。
なぜ、K町という辺鄙な町にお妾さんのお屋敷を建てたのか?ノグチさんが東京から通うにも大変だろうに。
本妻さんとお妾さんの関係は、どうだったのか?
ノグチさんの息子さんは、お妾さんのことをどう思っていたのか?
そして最大の謎は、
「ノグチさんとは、いったい何者なのか?」
ということである。
高校時代の友人・元福岡のコバヤシです。
暇潰しに小話をひとつ。でも、つまらなかったら御免なさい。
東京の某所に十数年来通っているバーがあるのですが、まだ通い始めてそんなに経っていなかった12年程前、そのバーが開店10周年を迎えるということで、記念のウイスキーボトルを常連客に売り出すことにしました。
企画するにあたって、たまたまそこの常連客であったS氏が、「うちの死んだ爺さんが近所に囲っていた妾の家に、爺さんが呑む為にケンブリッジ時代の友達の実家で作ってるウイスキーを樽で取り寄せて置いていたんだ。その樽にウイスキーを詰めてからボトリングして売り出したら話題性があっていいぞ!」と提案しました。
S氏の祖父は戦後間もない頃、時の首相・吉田茂のもとで活躍した有名政治家(一時期、沢山関連本が出て流行ってましたね)、祖母は民芸の復興にも一役買った有名な女性(執筆した本も多数)、母方の祖父は評論家としてやはり戦後間もない頃から一時代を築いた超有名知識人(我々も教科書や受験勉強のテキストで必ず接しています)という超サラブレッドな方のようです。
さらにS氏はもう1つ企画を出してきて、それは自分がそのバーにもしょっちゅう連れて来ていた従弟(だったと思う)のM氏が、伊賀での陶芸の修行を終えて独立しようとしていたので、M氏にウイスキー用のぐい呑みを焼かせようというものでした。
我々一般人が普段かかわることのないような人達は世の中いるもので、M氏は応仁の乱の前から続く某名家のご子息で、お父上は、最近は晴耕雨読などと文化人を気取っている某元首相という、これまた超が3つぐらいつくサラブレッド。
そんなこんなで、そのバーの記念ボトルとぐい呑みが売り出された次第ですが、ちょうどその頃よくその店に行っていたので、マスターのW氏がただでぐい呑みを1個くれました。
その頃は焼き物には殆ど興味が無かったのですが、たまたま私が料理をしてカレーが得意だと話をしたら、W氏が「じゃあ私が言ってあげるから、Mさんにカレー皿を焼いて貰ったら?まだ駆け出しだけど、そのうち絶対に有名になるし、価値も出るよ!」と言ってくれたので、じゃあお願いしてみよう、という話になりました。
早速、W氏はM氏に皿を発注し、M氏は二つ返事で引き受けてくれたとのことでした。とここまでは良かったのですが、お皿はなかなか出来てきません。
そのうち数年が経ち、私は福岡に転勤になってしまうことになり、マスターのW氏は「申し訳ない。Mさんも結構悩んでいるようで、なかなかイメージがわかず焼けないみたいなんです。この間も電話で話したんですが、もう私も痺れをきらせて、じゃあもう本人から連絡して貰うから!ということになったんです。Mさんのメールアドレスを教えますから一度連絡を取って貰えませんか?」という話になってしまいました。
それで一度メールをしてみたところ、お詫びと、自分は今熊本(昔の領地ですね)にいるので宜しければ是非お立ち寄りください、という非常に丁寧な返信が返ってきました。結局訪問はしませんでしたが、そのうちM氏は売れっ子の料理研究家と結婚し、上京した際にW氏のバーを訪ねると、「Mさんの奥さんはイタリア料理の研究家だからきっとお皿を焼いてくれる筈です。」と言ってくれたのですが、やはりまだお皿は出来てきません。
そうこうするうちに、ご存じの通り私は東京に帰ってくることになってしまいました。お皿を発注してからもう10年が経ってしまいました。さすがにもう駄目だよなあ、と思っていたのですが、そんな時、バーのマスターW氏から連絡があり、「Mさんが今度、新宿のギャラリーで個展を開きます。是非、行ってみてください。」とのことでした。
あれから10年、M氏は今や若手の売れっ子陶芸家になっており、日本橋や銀座の有名デパートでも個展を開くまでになっています(陶芸の世界では40代でも若手です)。早速、個展を見に行ってみましたが、茶陶を中心とした作品はどれもセンスある素晴らしい作品です。しかもM氏は歌舞伎の海老蔵似のイケメンです(M氏曰く、「海老蔵が俺に似てるんだ!」と言っているそうです)。折角なので私も井戸のぐい呑みを買いました。
会計をする際にM氏が挨拶に来てくれたので、「XX(バーの名前)で大分前にカレー皿をお願いしたコバヤシです。」とご挨拶したところ、さっと顔色が変わり、平身低頭「その節は大変申し訳ありませんでした。必ずお皿は焼きますから、もう少し待ってください!」と謝られる始末。
翌日、W氏のバーを訪ねたところ、たまたまM氏がお客として来ていて、私の顔を見るなり「本当にすいません。必ずお皿は焼きますから!」と、また何度も謝られてしまいました。少し会話をした後、M氏は帰っていきましたが、W氏から「やあ~。弟さん(兄もそのバーにたまに行くのでそう呼ばれています)もMさんにあんなに頭を下げさせるなんて凄いですよね。世が世ならばMさんは我々一般人が話すことも出来ないようなお殿様ですからね~。お殿様にあんなに頭を下げさせるとは!」と笑って話していました。
それから1年、例の大地震が熊本でおこりました。W氏のお店に行って「Mさん大丈夫だったんですか?地震で大変だったんと思うんですけど」と尋ねると、「Mさんは無事です。地震の後すぐにうちにも連絡がありました。でも窯は完全に崩壊したそうで、熊本では暫く作品を作ることは出来ないようです。せっかくお皿が出来てきそうだったのに残念です。」とW氏が語ってくれました。やはりお皿は出来てこないのだろうか、11年経ってこんな状態だと、もう一生出来てこない気になってきます。
それから約1年、ある日、W氏のバーを訪ねると、「弟さん、朗報です!こんどこそ本当にお皿が焼かれる筈です。M氏は今度、伊賀のお師匠さんとイギリスのケンブリッジに行って窯を作ることになりました。そこでうちの記念ボトルようなウイスキーの瓶を焼いて貰うことが決まったのですが、その企画をSさんとMさんと相談していた際に、Sさんが『そう言えばM、例のカレー皿はどうなったんだ。いいかげん焼かないとマズイだろう!』と言ってくれて、Mさんが『判りました。こんどこそちゃんと焼きます。』と言ってくれました。
MさんにとってSさんは、さんざんお世話になった兄貴みたいな人ですから逆らえないんですよ。Sさんの息子さんのK君がケンブリッジに留学中でMさんの世話をすることにもなってますし。今回は現地でバーナード・リーチが使っていたという土を使って焼くみたいですから、凄い価値がありますよ。6月には出来上がる筈です。こんどこそは大丈夫ですから楽しみにしていてください。」との報告がありました。
待つこと約2か月、W氏のバーを訪ねると、W氏が暗い顔をして、「弟さんすいません。残念なお知らせです。イギリスの窯の件ですが、全部失敗したそうです。しかもMさん、怖くて私に連絡出来なかったみたいで、K君(S氏の息子)からメールで駄目だったと連絡があったんです。
本来ならMさんが自ら連絡してくるべきなのに、K君に言わせるなんて!と、ちょっと私も腹が立ってメールを無視していたら。昨日Mさん自らお詫びの電話をしてきました。でも、かわりにお父さんの窯(湯河原)で焼くと言っていたんで、何とかなるとおもうんですが...」と語ってくれました。
まあそんな会話があって7月にまたW氏のお店に行くと「弟さん、今度は大丈夫です。Mさん、熊本の窯を復興させました。その最初の窯炊きで私のボトルと弟さんのお皿を焼く、との連絡がありました。お盆明けにはお渡し出来る筈です。作品が出来たら連絡しますから、今度こそ楽しみにしていてください!」明るい声で語ってくれました。
そうして今週の火曜にW氏から連絡があり、「お皿が届きました!先に見させて頂きましたが素晴らしいお皿ですよ!いつでも結構ですから取りに来てください!」とのこと。
待つこと12年、何度もあきらめかけたお皿がついに出来上がってきました。一昨日取に行ってきましたが、カレー皿というかパスタや和食の煮物にも使えそうな、なかなかセンスが良いお皿です。写真も添付するのでご覧ください。写真は3枚ですが実際には5枚あります。
しかし、たかだかお皿で(と言ったら作って頂いた人には失礼ですね)12年もの歳月を費やそうとは!という、長い長いお皿のお話、またはお殿様にお皿を焼かせた話でした。長々と失礼しました。
ということで、元気になったらこのお皿でカレーでもご馳走しますよ!
楽しみにしていてください。」
…さあ、読者諸賢。お気づきかな。これはクイズですぞ。この文章に登場するS氏とその祖父母、そして母方の祖父、さらにはM氏とは、いったい誰か?
さらに、本記事のタイトルに使われている副題は、東欧の国民的作家の書いた童話のオマージュだが、その作家とは誰か?
さらにさらに、S氏が取り寄せたという有名なモルトウィスキーとは何か?
コバヤシは、このブログの趣旨が染みついているようで、クイズのことも意識して上の文章を書いているようです。これを、こぶぎさんならばどう答えるかな?
それにしてもコバヤシ、クイズを盛り込みすぎだぞ!
8月25日(金)
山田穣、という人をご存じだろうか。
ヤマジョーこと山田穣は、僕と同い年のアルトサックス奏者である。
僕がヤマジョーの演奏を初めて聞いたのは、たしか高校2年の時である。やはり高2だった彼は、ある大学のジャズ研のライブにゲストとして出演していた。
そのころ僕は、高校の吹奏楽部でアルトサックスをはじめてまだ2年目だった。友人のコバヤシも、同じく、高校からテナーサックスをはじめたのである。
コバヤシたちとライブを聴きに行った僕は、とても驚いた。
(すごい…すごすぎる…)
高校2年とはまったく感じさせない、まさしくプロの演奏であった。
僕はすっかり魅了されたと同時に、同い年の高校生として、激しく打ちのめされたのである。
その後、コバヤシはヤマジョーと同じ大学に進むことになり、そこのジャズ研で、ヤマジョーと知り合うことになる。そこで彼はヤマジョーと同じ時を過ごし、ことあるごとに、彼はヤマジョーのすごさを力説していた。
大学生になったヤマジョーも、相変わらず別格な演奏で、多くの人を魅了した。
ところが、ある時期からヤマジョーは、表舞台から姿を消してしまった。ジャズの世界に生きる知り合いの話だと、心の病をかかえてしまったらしいというのである。
自分に厳しいがゆえに、自分で自分を追い込んでしまったのだろうかと、僕は勝手に想像した。
そして、以前、映画評論家の町山智浩さんが、ビーチボーイズのブライアン・ウィルソンの人生を描いた映画 『ラブ&マーシー 終わらないメロディー』を解説している回で、ブライアン・ウィルソンの天才音楽家ぶりについて述べた、
「ほんとうの天才音楽家とは、自分の内側から泉のようにわき出てくるメロディを抑えることができず、苦しんでいるのだ」
という言葉を思い出したのである。
さて、そのヤマジョーが、8月23日に、都内のライブハウスで復活ライブをしたという話を聞いた。
最初にそのことを教えてくれたのは、高校のOB楽団でかつて一緒に演奏したことがある、私より6学年下のサイトウ君である。
「アルトサックス奏者の山田穣さんの復活ライブを見に行ってきました。ブランクを感じさせない吹きっぷりに、ただただ感動…。
開場前から長蛇の列だった上に客席もほぼ満席という盛況ぶり。
みんながヤマジョーさんの帰りを待っていたんですね」
ジャズドラマーのサイトウ君も、大学生の頃、ヤマジョーの演奏をよく聴いていたのだという。
もう一人、ライブに行ったことを知らせてくれた人がいる。
高校の同期の友人、コバヤシである。以下、メールを抜粋する。
「昨日、大学の同級生の山田穣(通称ヤマジョー)の復活ライブに行って来ました。
東京に帰って来て三年目、ライブに行きたかったのですが、活動を休止していたために行けなかったのです。昨日漸く復活してライブを行ったので、20数年振りに演奏を聴きに行きました。
長年彼の演奏を生で聴いたことが無かったので期待と不安でドキドキしながら最初の1音を待っていました。でも、それは杞憂に過ぎず本当に素晴らしい演奏でした。これまでの20数年間に何があったかは詳しくは判りませんが、年月を経て出す音には有無をいわせない説得力があります。演奏が良い悪いとかいう問題では無く、自分の出したい音を奇をてらうことなく真摯に演奏する姿は、学生時代の一時を共有した(と思っているのは自分だけかもれませんが…)という贔屓目もあるかもしれませんが、本当に感動的でした。年甲斐も無く目頭が熱くなってしまいました。
若手ミュージシャンも何人か来ていたようで、最近私がかなり注目しているアルトサックス奏者は、「後光が差していた。レジェンドです!」とツイッターで呟いて(ちょっと大袈裟かな)幸せを噛みしめていましたし、共演者のやはり若手のホープのピアニストも共演出来た幸せを語っていました。勿論、我々聴衆もその音を共有出来る喜びに浸っていました。」
共演者の誰もが、ヤマジョーと共演できたことの喜びを噛みしめ、ライブを聴いた誰もが、彼の演奏に魅了されたのである。それは、演奏を聴いた感動と感慨を、誰かに伝えたいと思わせるほどのものであった。
…ジャズに詳しくなくて、ヤマジョーのことを知っているわけでもない僕が、ヤマジョーについて書くことは、失礼かも知れないと逡巡したが、高2の時に聞いた彼の演奏は、僕にとってはいまも衝撃だった。
そして同い年というのも、何かの縁である。これから彼がどこかでライブをして、観客を魅了する演奏をしているという風の便りを聞くたびに、僕は自分自身を奮い立たせるだろう。
8月22日(火)
いま、いちばん頭を悩ませているのは、韓国のある機関が9月に開催する国際的イベントのお手伝いである。
その機関とは、昨年、協定を締結したのだが、そもそもは向こうから協定の話を持ちかけられた。
私は最初、悪くない話だと思ったのだが、話がどんどん進んでいくうちに、なんとなく、これは筋がよくない話かも、と思うようになった。
昨年度に就任した向こうの社長さんは、エリート官僚で、おそらく3年くらいこの会社に社長として出向して、また本庁に戻るのだろう。
その社長さんは、任期中に、なんとか派手な実績をつくって、それを手土産に本庁に戻りたい、と考えているように、僕には思えた。
それで、海外の機関と提携して、国際と名の付くイベントを派手にぶちまけたい、と思っているようだった。
当然のことながら、社長がそういう方針だと、振り回されるのは部下たちである。
できたばかりの機関で、まだほとんど実績がなかっただけに、慣れていない部下たちはかなり苦労しているようだった。
昨年、協定を締結したとき、それを記念する大がかりなイベントをおこなった。そのとき、
「次回は、2年後の平昌五輪に合わせて、国際的なイベントをおこないます。そのときにはまた、ご協力をお願いします」
と社長さんにいわれ、
「はぁ」
と答えるしかなかった。
ところが、である。
今年の4月ごろ、先方から連絡が来た。
「今年の秋に、国際的なイベントをおこなおうと思います。ご協力願えますか?」
僕は驚いた。てっきり、来年、すなわち2018年におこなうと思っていたからである。
「来年ではないんですか?」
「いいえ、今年です」
なんとも強引な話である。2018年に開催ということで合意していたものを、あっさりくつがえしたのである。いかにも韓国らしい。
まことに摩訶不思議な国である。
どうしてこんなことになったのだろう?
私の見立てはこうである。
官僚から出向してきた社長は、早く手柄を立てたいと思ったのだろう。平昌五輪まで待っていては、何もできないまま本庁に戻る可能性だってある。ここは、早めに手柄を立てておいて、できるだけ多くの実績をひっさげて本庁に戻ろうと考えたのだろう。
それに、今年の5月に政権が変わったのである。韓国では政権が変われば、官公庁の人事ががらりと変わることは、よくあることである。
いつ異動してもいいように、自分がいるうちに派手なイベントをやってしまおうと考えたのである。
国際的イベントを1年前倒しして実施するなどということは、絶対に部下の判断では不可能である。社長の気まぐれな一言で、部下たちが動かざるを得なくなったに違いない。
それにしても、いちばん迷惑を被るのはこの僕である。
本来ならば、もっとじっくり準備しなければならないところを、せき立てられるように準備しなければならないのである。
なんで俺が、俺とは何の関係もない、韓国の官僚の出世の片棒を担がにゃならんのだ!
しかし、それを当たり散らすこともできない。
仕方がないので、協力することにした。
だが、先方の機関の部下たちは、やる気がないのか、能力がないのか、非常識で強引な要求ばかりしてくる。
まったく思い入れがないまま、イベントの準備をしていることが、メールのやりとりを通じて手に取るようにわかった。
うちの職場の規則と折り合いをつけながら、話を進めていったのだが、どうも先方は、そんなことなどお構いなしで、簡単に実現できると思っているらしい。
それがまた僕をイライラさせた。
いっそ、ちゃぶ台ひっくり返して手を引こうかとも考えたが、それも大人げない。
外交の基本は、相手が無茶なことを言い出しても、その土俵に乗っかることなく、大人の対応をすること、である。
もうひとつ、すべて韓国語でやりとりしなければならないのがつらい。
なんでお願いされている側が、韓国語を使わにゃならんのだ?
しかも、韓国語がネイティブなみにできると思われているようで、まったく容赦なく喋り倒してくる。
今日なんか、職場に5回も立て続けに電話がかかってきて、そのたびに韓国語で応酬した。
電話をかけてきたのは、おそらくは20代の、いちばん下っ端の職員で、おそらくは専門的なことがひとっつもわかっておらず、おそらくは上司にいわれるがままに、非常識な無理難題を要求してくるのだ。
最後の方は、さすがに声を荒げてしまった。
そうしたら、しばらくしてまた電話がかかってきた。
(またかよ…)
しばらく無視していたら、何度もかかってくるので、仕方なく取ると、今度は私と同世代の、私もよく知る職員さんだった。
「先生のおっしゃるとおりにします」
と、一応、丸く収めてきた。
最初からあんたが出てこいよ!
「先生、お身体大丈夫ですか?」
「あんまり大丈夫じゃないんです。ですので、来月のイベントには参加できません」
「そうですか。残念です。どうかお身体大切に」
はたして、このイベント、どうなることやら。
8月21日(月)
午後、出版社での打ち合わせのため、都内に出向く。
先週の月曜日の午後も、別の出版社で3時間ほどの打ち合わせをした。それにくらべると今回はまだ楽なはずなのだが、それでも、先週にくらべて、かなりしんどい。
いつもだったら、都内に出たついでに本屋さんを見て歩いたりするのだろうが、その気力すらない。
だったら休めばいいじゃん、と言われそうだが、今回は、私が言い出しっぺの企画ということもあり、そうもいかなかった。
最近は、ブログを書くのもしんどい。だから、せっかくこぶぎさんが力のこもったコメントを書いてくれても、気の利いたコメントを返すこともできない。
メールもそうだ。簡単なメールを返すことすら、しんどい。
いま、韓国のある機関とあるプロジェクトを進めているのだが、私1人が、韓国語で先方と連絡をとっている。自分の交渉力のなさもあって、その交渉がこじれにこじれていて、はたしてそのプロジェクトがうまくいくのかどうか、考えれば考えるほど憂鬱である。
韓国語でメールを書くことじたいも、しんどいのだ。
ということで、しばらくは、気の利いたコメントやメールを返すことができないことを、お許し下さい。
ちょっと前、テレビをつけたら「徹子の部屋」をやっていて、漫才師のナイツが出ていたので、面白そうだと思ってそのまま見ていたら、黒柳徹子が、ナイツに、
「ここで漫才して下さいよ、面白いやつ」
とか、
「何か面白い話をして下さい」
とか、例によって無茶ぶりをしていて、
(なるほど、これが噂の、芸人泣かせの無茶ぶりなんだな)
と思って見ていたが、ナイツもめげずに面白い漫才をしていた。
翌日だったか、今度は将棋の加藤一二三さんがゲストに出ていて、加藤さんがあまりに自分のペースでまくし立てるように話すものだから、さすがの黒柳徹子もタジタジだった様子で、これはこれで面白かった。
…しかしまあ、漫才師に向かって「ここで何か面白い漫才をしてください」というのは、僕が漫才師だったら、はらわたが煮えくりかえる思いがするのだが、それをおくびにも出すことなく漫才をするナイツは、やはりプロである。
もちろん僕は漫才師ではないので、このようなことを言われたことはないのだが、これと似たようなことを言われることがある。
「あなた、あちこちに出張に行くから、各地の美味しいお店をよくご存じでしょう。今度○○に行くんですが、○○で美味しいお店を教えて下さい」
といった質問である。
うーむ。これが私にとっては無茶ぶりである。
僕は別に吉田類ではないのだ。各地の美味しいお店を求めて放浪しているわけではない。
たまたま入ったお店が、自分の好みに合う店だった、というていどにすぎない。
また、それをちゃんと記録しているわけでもない。
いままで何度か、美味しいお店はどこかと聞かれて、よかれと思って教えた経験があるが、いずれもうまくいったためしがない。こっちがよかれと思って教えている分、後味がすこぶる悪い。美味しい店なのに。
逆の場合もある。
韓国滞在中、韓国の友人に、
「このお店が美味しい」
といって連れて行ってもらったお店が、そうでもなかったりしたことが何度もある。
そんなものなのだ。
ということで、私にとって、
「どこか美味しい店を教えて下さい」
は、黒柳徹子が漫才師に、
「何か面白い漫才をして下さい」
というくらい、破壊力の強い無茶ぶりなのである。
確実にいえることは、海外の場合、
「『地球の歩き方』で紹介されているお店は、どのお店も美味しい」
ということである。
僕自身も韓国滞在中、『地球の歩き方』をたよりに、美味しいお店を探したのだから、間違いない。
映画「桐島、部活辞めるってよ」の中で、映画部の男子高校生二人が会話している中に、
「昨日、満島ひかりに夢の中で逢った」
「まじでー!!」
みたいなやりとりがあった。
その映画を見たとき、私は満島ひかりというのがどういう人なのかわからなかったのだが、しばらくして、何かのテレビドラマを見ていると、満島ひかりという女優が出ていて、ようやく認識したのであった。
それからというもの、別に意識して満島ひかりの出ているドラマを見ているわけではないのだが、たまたま見ているドラマに満島ひかりが出ていると、
(達者な人だなあ)
と感心した。「達者な人」というのが、いちばんしっくりくる言い方である。
それ以来、なんとなく満島ひかりが気になって仕方がない。
一時期、どんなドラマや映画を見ても、そこに出てくる女優を見ては、
(あれ、満島ひかりでないのか?)
と、何でも満島ひかりに見える病にかかってしまったのである。
聞くと、満島ひかりは沖縄出身で、Folderというグループのメンバーだったというではないか。20年くらい前に活躍した、小中学生によるグループである。
そういえば、いたなあ、Folder。
バカ売れした、というわけではないが、妙に印象に残るグループだった。
あのリードボーカルの男の子、やたら歌とダンスがうまかったが、たしか声変わりしてから、あんまり見なくなっちゃったな。
…と思ったら、いま、三浦大知として活躍していると聞いてびっくりした。
そうか、あの三浦大知が、Folderのリードボーカルだった少年だったのか…。
満島ひかりも三浦大知も、求道者、というイメージに近い。Folderという過去にとらわれず、女優の道を究めようとする求道者、歌やダンスの道を究めようとする求道者…。
Folderとして世に出たことを貯金として使い果たすことなく、その後も研鑽して、芝居の世界や音楽の世界で「本物」として活躍し続けている、という感じがする。
たしか同じ頃、やはり沖縄出身で、小中学生から構成された4人組のメンバーが大ブレイクしていた。
こちらの方は、バカ売れして、国民的なアイドルグループになった。
そういえば、あのグループの人たちは、いま何をしているんだろう…。
知っている人がいたら教えて下さい。
この二つのグループのその後を比較すると、人生をどう生きるかによって、人間の運命はいかようにも変わるものだと、しみじみと考えさせられる。
最近は、自分の身のまわりで何も起こっていないので、書くことがない。
ネットニュースばかりを徘徊しているのだが、最近では、久米宏「ラジオなんですけど」の8月12日放送分が、じつに痛快だった。
久米宏は、以前から2020年の「世界大運動会」…もうめんどくせえや、「東京五輪」開催には反対の立場を表明している。
その根拠は、次の三つである。
1.開催期間である7月24日~8月9日は、東京では猛暑日が続く時期であり、とてもスポーツをするような気候ではない。
2.今、この国の置かれた状況は、オリンピック以外に解決しなきゃいけない問題が、もっとたくさんある。年金の問題にしても、保険の問題にしても、東日本大震災の後始末の問題にしても。
3.これ以上東京に一極集中してどうするんだ? 東京は間違いなく、間もなく直下型地震が起こるので、そのときのダメージを少なくするために、これ以上、東京に集中させてはいけないのである。
このことをいろいろな媒体で発言していたら、公益財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会広報局広報部から、久米宏宛に手紙が来たのだという。
その手紙では、2と3の問題には一切答えることなく、1の開催時期についてのみ言及されていた。そこには、次のように書かれていた。
「第32回(2020年開催)オリンピック競技大会においては、招致の段階で開催時期は、2020年7月15日から8月31日の期間から選択するものと定められていました。この期間外の開催日程を提案した招致都市はIOC理事会で、正式立候補都市としてすら認められていませんでした」。
この部分を読み上げたあと、久米宏が言う。
「こういう反論を何というか知っていますか?「語るに落ちる」って言うんです。
日本のオリンピック委員会は、『IOCの理事会は、夏の開催以外は認めない』『夏以外の開催期日を申し込んだ都市は立候補すら認められなかった』『やむを得ず夏の開催を認めてオリンピックを招致した』と言っているんです。「いかに馬鹿か」というのがわかるでしょう?
つまり、日本にオリンピックを招致した人たちは、夏の開催だっていうようなことを承知して引き受けたんですよ。
東京オリンピックに世界中から集まるアスリートたちのコンディションのことを考えたんじゃないんです。 「オリンピックを招致することがいかに大切か」を考えた。
すべての責任をIOCの理事会に押しつけているんです。
ですから、「オリンピックを招致すること」が日本の人たちの目的で。スポーツを愛するんじゃないんですね。
僕が前から言っているのは、「日本にオリンピックを招致した人たちは、スポーツを愛していない」「オリンピックだけを愛しているんだ」って。「だから馬鹿なんだ」と言っているわけだ。」
…この後も、久米宏の反論は続くのだが、くわしくはラジオクラウドで。
なお付言すると、東京五輪の招致委員会がIOCに提出した開催計画書の中で、
「この時期の天候は晴れる日が多く、且つ温暖であるため、アスリートが最高の状態でパフォーマンスを発揮できる理想的な気候である。」
と書かれていたことは有名な話である。
さて、ちょうどいま、第99回全国高校野球選手権大会が甲子園球場で行われている。
8月8日の開会式での出来事である。
ある代表校の先導役としてプラカード嬢(この、プラカード嬢、というのもどうかと思うが)をつとめていた女子生徒が、熱中症のためグランドで倒れてしまった。
両肩を支えられてグラウンドの外に連れ出されると、すぐさま代わりの女子生徒がプラカードを持ち、式典は滞りなく行われた。
開会式後、大会本部は、「熱中症のような症状でしたが、救護室でしばらく休養した後、回復しました。念のため病院に行ったとのことです」と発表した。
…このニュース、なんかキモチワルくないですか?
映像を見ると、目の前で人が倒れたのに、まわりの人は誰も助けようとしない。
高野連の会長の挨拶も、中断することはない。
開会式が滞りなく終わることを第一に考えているのだ。
高野連の会長が、そのとき
「誰かが苦しいときは、他の誰かがそれをカバーしてくれる。
高校野球は仲間同士で支え合う、若人をはぐくむスポーツです」
と挨拶しているにもかかわらず、である。
東京になんとしても五輪を招致したいという人たちの心理と、たとえ猛暑日が続いても高校生たちに炎天下でスポーツをさせようとする人たちとの心理は、かなりの部分で通ずるところがあると僕は見ている。
8月12日(土)
インターネットのニュースを見ていたら、
「かつて人気を博した薄幸系ドラマが減少の一途、“薄幸ヒロイン”も不在」
というタイトルのニュース(ニュースか?)を見つけた。
なんとも偶然なことに、私もこの数日、「薄幸ヒロイン」についてあれやこれや考えていたところだったのだ。
…俺はヒマか?
その記事によれば、かつては人気があった薄幸系ドラマが、最近では人気がなくなり、それにともなって、薄幸ヒロインの需要が減ってきたというのである。
では、薄幸ヒロインとはどういう女優か?
その記事によれば、「赤いシリーズ」の山口百恵とか、「高校教師」の桜井幸子とか、さらには裕木奈江とか奥貫薫とか、果ては「家なき子」の安達祐実とか「1リットルの涙」の沢尻エリカの名前まで出ていた。
そしてぶっちぎりなのは、木村多江であり、今は木村多江の1強支配だと、、そのニュースは伝えていた。
木村多江や奥貫薫はまだわかるとしても、そのほかの女優が「薄幸ヒロイン」とは、とうてい呼べない。
私なりの「薄幸ヒロイン」の定義は、
「どんなドラマに出ていても、いつも薄幸そうである」
というものである。
この記事を書いた人は、全然わかってないなあ。
「薄幸系ドラマ」の主役を演じたからといって、その女優が「薄幸ヒロイン」とは呼べないのである!
この点を強く主張したい!
むしろ、主役ではなく、脇役としていろいろなドラマに出て、その女優が出たら、
「ああ、この女優はまた薄幸な人の役だな…)
と思わせるような女優でなければならないのである!
つまり、その女優が出れば「薄幸ヒロイン」であるという、記号化した存在でなければならないのだ!
その意味で、木村多江は、現代の「薄幸ヒロイン」と呼ぶにふさわしいかも知れない。
しかし、私が考える「史上最強の薄幸ヒロイン」は、別の女優である。
それは…
竹井みどりである!
1970年代後半から80年代前半にかけて、竹井みどりがいろいろなドラマ(たとえば刑事ドラマとか)の単発ゲストで出るのをよく見たのだが、いつも薄幸な役柄だった。見ている私も、竹井みどりが出ると、
(ああ、かわいそう…)
と反射的に思ったものである。私にとって竹井みどりは、「薄幸ヒロイン」の記号化した存在だった。
というわけでいまのところ、私の中での「史上最強の薄幸ヒロイン」は、1970年代後半~80年代前半の頃の竹井みどりである!
異論は認める。
遅ればせながら、マイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画「ボウリング・フォー・コロンバイン」を見た。
1999年、コロラド州リトルトンのコロンバイン高校で生徒2人が学友を銃殺するという凄惨な事件が起こった。なぜアメリカで銃による殺傷事件が絶えないのか?テレビゲームのせいか?あるいはロックバンドが反体制を煽っているせいか?いや、違う。銃が手もとにあるからだ。それだけではない、人種差別と恐怖と憎しみがアメリカ社会を覆っているからだ。そうしたアメリカ社会の病理を、時に滑稽に、時に切実に描いている。
この映画を見て、チャールトン・ヘストンが大嫌いになった。もう二度と「ベン・ハー」なんか見てやるものか!
そんなことよりも、この映画で最もインパクトがあったのは、コロンバイン事件の犯人に銃弾を売った大手スーパー、Kマートの本社に、コロンバイン事件で大きな傷を負った被害者の生徒を連れて押しかける場面である。ほとんど嫌がらせに近いくらいしつこくムーア監督はKマートに押しかけていき、ついには根を上げたKマート側が、全店での銃弾の販売を中止するのである!
映画が世の中を変えた瞬間である。
映画評論家の町山智浩さんがマイケル・ムーア監督を共同取材したときに、ラジオ局のレポーターと名乗るオヤジが、監督に次のような質問をしたという。
「この映画は観客を1つの考えに誘導しますね。たとえばあなたは、小学生がクラスメートを射殺する現場にいた教師が言葉に詰まった時、彼女を抱きしめてしまいますが、報道はもっと客観的であるべきでは?」
これに対してムーア監督は次のように反論した。
「じゃあ、彼女を黙って見てろってのか?僕はレポーターじゃない。ニュースを読み上げるだけのTVキャスターとは違う。僕は……何よりもまず人間だ。目の前で教え子を殺された記憶を呼び戻された女性教師が絶句して泣き崩れたのに、それを冷酷に見てるのがジャーナリストのあるべき姿だというのなら僕は失格だ。僕は彼女を思わず抱きしめずにはいられなかった。それを撮影して映画に使うべきではない、という人もいるだろう。でも、僕は映画作家なんだ。作品に自分の思いを込めるのは当然だろう。言いたいことを言うのは当たり前じゃないか」
町山さんはマイケル・ムーアを、「社会派ドキュメンタリー作家」なんかじゃない、「お笑いゲリラ」だと、表現している。たしかに「華氏911」にしても、かなり監督の強い意志というか、強引さが目立つ「ゲリラ映画」なのである。
僕はこの一連のやりとりを読んで、ごく最近、テレビ番組で見たある場面を思い出した。
それは、ジャーナリストの池上彰さんの報道バラエティー番組で、自衛隊とか、憲法9条をテーマにした番組だった。
池上さんは、憲法9条と自衛隊の関係についてどのように考えたらよいか、いろいろな立場からいま出されている意見を、公平に紹介していた。
それを聞いていた、お笑い芸人の陣内智則さんが、池上さんに質問した。
「池上さんはどう考えているんですか?」
これに対して池上さんは、
「それはみなさんに考えていただくために、これまでのいろんな材料を…」
と言いかけた。すると陣内さんは、
「でも、池上さんが一番正しいと僕は思ってるんです」
と、池上さんを持ち上げるようなことを言い、さらに「たぶん全国の人もそう思っていると思いますよ」とたたみかけた。ま、芸人らしい冗談である。
これに対して池上さんは、
「それが一番危険なんですよ。自分で考えないで『池上がなんて言うんだろう』『それに従おう』っていうのが、民主主義では一番いけないことなんです」
と強い調子で反論したのである。そして、
「一人ひとりが考えて、決めなければいけません。私はそのための材料を提供しているんです。私も考えはありますが、それを言ってしまったら『そうだそうだ』って、みんなが思考停止になるといけないということなんですよ」
と、教え諭すように陣内さんに言ったのである。
この場面は、インターネットでもニュースになり、さすが池上さん、お笑い芸人を教え諭した、みたいな感じで紹介されていた。
僕はこの番組のこの場面を、たまたまテレビでリアルタイムで見ていた。そのとき僕が思ったのは、
「筑紫哲也さんと池上彰さんの決定的な違いは、ここにあるんだな」
ということだった。
ある時期から、僕は池上彰さんのニュース解説が、どうもなじめなくなってしまったのだが、その原因はここにあったのだと、この場面を見て溜飲が下がったのである。
「私はたんに考える材料を提供しているのであって、考えるのはみなさんです」
とか、
「自分の意見はあるけど言わない」
という言い分は、僕にはジャーナリストとして逃げているとしか思えない。
この人は、最後の最後で、梯子をはずす人なんだな、とさえ思えてくる。
だいいち、考える材料を提供されて、『ほら、考えてください』と言われたところで、僕のような情報リテラシーのない人間にとっては、どのように考えたらいいのか、わからない。
それは、かえって危険なのではないか?
それに、池上さんが自分の意見を言ったところで、みんながみんな、池上さんに賛同するわけではない。それは、思い上がりというものである。
では筑紫さんはどうだったか。
「ニュース23」で、毎日のように「多事争論」というコーナーで自分の意見を一つ一つの言葉を大事にしながら話していた。
あれを見て、全員が賛同しただろうか?
反発した人も多かったはずだ。
そうやって、議論というのは、前に進むんじゃないだろうか。
おそらく、池上さんがどんなにテレビに出まくってニュース解説をしても、世の中は変わらない。
筑紫さんが命を削るように「多事争論」を続けたように、マイケル・ムーアが決してひるまずにKマートに押しかけたように、表現に自分の思いを込めなければ、ジャーナリストが世の中を変えることなんて、できないのではないだろうか。
「ボウリング・フォー・コロンバイン」を見て、そんなことを思った。
8月6日(日)
8月3日に行われた「前の職場」の社長の記者会見は、私にとって驚くべき内容であった。
K部局で起こったハラスメント被害者の自殺をめぐる、記者会見である。
社長の発言は、私の在職中にまがりなりにも少しずつ進めてきたハラスメント防止への取り組みを、水泡に帰す内容だった。
私の見立てによれば、社長による今回の隠蔽工作は、13年前、彼がK部局の部局長だったときに犯した過ちを、そっくりくり返したものである。
いや、彼の古巣であるK部局で起こった事件だったからこそ、彼は13年前と同じ隠蔽工作を行ったのだろう。なぜなら、彼は社長になったいまも、K部局に不都合な真実を隠蔽することこそが正義だと信じて疑わないからである。
13年前にK部局で起きたセクハラ事件のことを、よもや忘れてはおるまいな。
俺はしっかりと覚えているぞ!
2004年に、K部局で2つのセクハラ事件が起こった。ところがその事件の加害者は、2人とも依願退職という形で「おとがめなし」になった。しかもその2つの事件について、当時の部局長(つまり今の社長)は、部局内の会議にもさらには社長にも一切報告しなかったのである。この部局長による隠蔽工作が当時問題となり、それがきっかけで、セクハラ防止の規定が策定されたいくことになったのだ。
つまりすべての出発点が、あの2004年のK部局セクハラ事件であり、そのキーマンが当時の部局長、すなわちいまの社長なのだ。
13年前、私はまだ入社したばかりだった。
K部局でセクハラ事件とその隠蔽事件が起き、マスコミが問題視しても、社内からはまったく声が上がらない。
これではいけないということで、うちの部局の有志が声を上げた。
私も有志の1人に加えてもらい、一緒に社長(先々代)のところに直談判に行こうということになった。
そのとき、いちばん熱心にこの問題に取り組んでいたのが、Oさんという同僚だった。
見た目は、なんというか、山下清みたいな人だが、おそらくさまざまな市民運動にかかわってきた人なのだろう。反骨精神の塊みたいな人だった。
Oさんを中心に、社長(先々代)に直接交渉しようということになり、うちの部局の同僚数名が社長のもとへ乗り込んでいった。
当時私は入社したばかりのペーペーだったので、右も左もわからず、しかも社長を間近で見るなんて機会がなかったから、ちょっとびびってしまって、文字通り末席を汚していた。
しかし、せっかく来たのだから何か発言しなければと思い、社長に向かってまくし立てるように発言した。内容は忘れてしまったが。
この事件がきっかけとなり、「ハラスメントの防止等に関する規則」が策定され、その中で、重大事案は社長判断で被処分者を実名公表できることが定められた。
ところが今回は、被処分者の実名公表をしなかった。1人の犠牲者を生んでしまった重大事案であるにもかかわらず、である。
13年前の反省に立って策定された規則が、13年前の事件を隠蔽した当事者により、踏みにじられたのである。
これでおわかりだろう。
今回、なぜ社長が、記者会見であんな非常識な発言をしたのか?
その謎をとく鍵は、13年前に起こったK部局のセクハラ事件にあるのだ。
たぶんほとんどの人は、そのことを忘れてしまっている。
そして私がいちばん驚いたことは…。
これだけ、今の政権がさまざまな問題について隠蔽工作をくり返していることが連日報道されているにもかかわらず、自分が同じことをしているという自覚が、彼にはまったくない、ということである。
これを「つける薬がない」と言わずして、なんと言おうか。
8月3日(木)
ほぼ1カ月ぶりに出張である。
新幹線と高速バスを乗り継ぐこと約3時間。目的の町に着く。内陸の盆地で、古い町並みが残る風情のある城下町である。
年に1度、仕事でこの城下町に訪れる。いつもは新幹線と在来線を乗り継いでその城下町に行くのだが、今回は在来線ではなく高速バスを使うことにした。
高速バスの終点は、その城下町の駅前である。ここから、市内を循環するレトロなバスに乗り換えて、今日の用務先に向かわなければならない。タクシーで行くこともできるのだが、それでは風情がない。
高速バスを降りると、目の前にバスの券売所の窓口があり、その目の前に親切そうなおばさんが立っていた。観光案内所の人らしい。
(市内循環バスの時刻表はないかなあ…)
僕が券売所の前でウロウロしていると、
「何かお困りですか?」
と、券売所の前に立っていたそのおばさんが声をかけてきた。
「あのぅ…○○○○○○○に行きたいんですが…」
「ですと、市内を循環するレトロなバスに乗っていただくのがいいですね」
それは僕もわかっていた。
「バスの時刻表みたいなものはありますか?」
「どうぞ」
おばさんは私に、時刻表と路線図が書いてあるチラシを渡した。
「えーっと、どこの停留所で降りればいいんでしょうか」
年に一度のことなので、どこで降りたらいいのかつい忘れてしまう。
「○○○○○○○○ですよね。…あら、どこだったかしら。ちょっとお待ちください。
するとそのおばさんは、券売所に入っていき、中にいるおばさんに聞いていた。
おいおい、観光案内所のスタッフだろ!それに、僕がこれから行く用務先は市内でも有名な場所である。その最寄りのバス停がどこだか知らないのか?
しばらくして、そのおばさんが出てきた。
「○○○○という停留所で降りていただければいいです。いまからだと、12時ちょうどのバスがここから出ますよ」
時計を見ると、あと5分で12時である。
「お昼も食べたいんですが、そのバス停の近くに食堂はありますか?」
「いっぱいある…と思いますよ。観光地ですから」
ちょっと自信なさげに言った。このおばさん、本当にこの町のことをよく知っているのか?と不安になった。
「1時にその○○○○○○○で仕事があるんですが、本当に近くに食べるところがありますよね」
「大丈夫…だと思いますよ。観光地ですから」
やはり自信なさげである。
とにもかくにも、12時発のバスに乗ることにした。
市内を循環するレトロなバスは、市内をぐるぐると回り、僕が目的とする停留所に着いたのが12時23分だった。
バスが停留所にとまる少し前に、バスの窓から食堂が見えたので、停留所を降りてから少し戻って、その食堂に行くことにした。
お店の前に立つ。
(ソースカツ丼の店…か。お店の名前も、またずいぶんと大きく出たものだ)
ちょっとカツ丼はいまの体調から考えると重たい感じがしたが、どうやらこの町の名物で、その店はかなりこのソースカツ丼を推しているようである。
昔ながらの食堂、といった感じのそのお店に入り、テーブルに座る。
愛想のよさそうなおばさんが、
「いらっしゃいませ。お休みください」
と言った。
「ソースカツ丼をください」
「はーい」
私以外に客はいないのだが、しばらく待っていてもソースカツ丼がなかなか出てこない。
手持ちぶさたで店内を見渡すと、やたらと客に対する「禁止事項」の貼り紙が貼ってある。
(うーむ、苦手なタイプの店だ…)
観光地の一等地で、しかもお昼時だというのに、お客さんがいない理由が、なんとなくわかる気がした。
15分ほどたって、ようやくソースカツ丼が出てきた。
時計を見ると12時40分を過ぎたところである。
慌ててソースカツ丼をかっ込んだ。
(うーむ。思っていた味とちょっと違うなぁ…)
カツ丼にかかっているソースが甘辛いのがこのお店の特徴らしいのだが、それが、僕の口には合わなかったのである。
(どうやらこの店は僕にとってハズレだったようだ)
ソースカツ丼を味わう暇もなく、会計をすませて急いで用務先に向かい、用務先の会議室についたのが、会議の始まる時間の3分前。すでに僕以外の方々は席についておられた。ちなみにその会議では、僕がいちばん年下である。
「それでは全員お揃いですので、会議を始めます」
なんとなくばつの悪いまま、会議は始まった。
最近のコメント