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ボウリング・フォー・コロンバイン

遅ればせながら、マイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画「ボウリング・フォー・コロンバイン」を見た。

1999年、コロラド州リトルトンのコロンバイン高校で生徒2人が学友を銃殺するという凄惨な事件が起こった。なぜアメリカで銃による殺傷事件が絶えないのか?テレビゲームのせいか?あるいはロックバンドが反体制を煽っているせいか?いや、違う。銃が手もとにあるからだ。それだけではない、人種差別と恐怖と憎しみがアメリカ社会を覆っているからだ。そうしたアメリカ社会の病理を、時に滑稽に、時に切実に描いている。

この映画を見て、チャールトン・ヘストンが大嫌いになった。もう二度と「ベン・ハー」なんか見てやるものか!

そんなことよりも、この映画で最もインパクトがあったのは、コロンバイン事件の犯人に銃弾を売った大手スーパー、Kマートの本社に、コロンバイン事件で大きな傷を負った被害者の生徒を連れて押しかける場面である。ほとんど嫌がらせに近いくらいしつこくムーア監督はKマートに押しかけていき、ついには根を上げたKマート側が、全店での銃弾の販売を中止するのである!

映画が世の中を変えた瞬間である。

映画評論家の町山智浩さんがマイケル・ムーア監督を共同取材したときに、ラジオ局のレポーターと名乗るオヤジが、監督に次のような質問をしたという。

「この映画は観客を1つの考えに誘導しますね。たとえばあなたは、小学生がクラスメートを射殺する現場にいた教師が言葉に詰まった時、彼女を抱きしめてしまいますが、報道はもっと客観的であるべきでは?」

これに対してムーア監督は次のように反論した。

「じゃあ、彼女を黙って見てろってのか?僕はレポーターじゃない。ニュースを読み上げるだけのTVキャスターとは違う。僕は……何よりもまず人間だ。目の前で教え子を殺された記憶を呼び戻された女性教師が絶句して泣き崩れたのに、それを冷酷に見てるのがジャーナリストのあるべき姿だというのなら僕は失格だ。僕は彼女を思わず抱きしめずにはいられなかった。それを撮影して映画に使うべきではない、という人もいるだろう。でも、僕は映画作家なんだ。作品に自分の思いを込めるのは当然だろう。言いたいことを言うのは当たり前じゃないか」

町山さんはマイケル・ムーアを、「社会派ドキュメンタリー作家」なんかじゃない、「お笑いゲリラ」だと、表現している。たしかに「華氏911」にしても、かなり監督の強い意志というか、強引さが目立つ「ゲリラ映画」なのである。

僕はこの一連のやりとりを読んで、ごく最近、テレビ番組で見たある場面を思い出した。

それは、ジャーナリストの池上彰さんの報道バラエティー番組で、自衛隊とか、憲法9条をテーマにした番組だった。

池上さんは、憲法9条と自衛隊の関係についてどのように考えたらよいか、いろいろな立場からいま出されている意見を、公平に紹介していた。

それを聞いていた、お笑い芸人の陣内智則さんが、池上さんに質問した。

「池上さんはどう考えているんですか?」

これに対して池上さんは、

「それはみなさんに考えていただくために、これまでのいろんな材料を…」

と言いかけた。すると陣内さんは、

「でも、池上さんが一番正しいと僕は思ってるんです」

と、池上さんを持ち上げるようなことを言い、さらに「たぶん全国の人もそう思っていると思いますよ」とたたみかけた。ま、芸人らしい冗談である。

これに対して池上さんは、

「それが一番危険なんですよ。自分で考えないで『池上がなんて言うんだろう』『それに従おう』っていうのが、民主主義では一番いけないことなんです」

と強い調子で反論したのである。そして、

「一人ひとりが考えて、決めなければいけません。私はそのための材料を提供しているんです。私も考えはありますが、それを言ってしまったら『そうだそうだ』って、みんなが思考停止になるといけないということなんですよ」

と、教え諭すように陣内さんに言ったのである。

この場面は、インターネットでもニュースになり、さすが池上さん、お笑い芸人を教え諭した、みたいな感じで紹介されていた。

僕はこの番組のこの場面を、たまたまテレビでリアルタイムで見ていた。そのとき僕が思ったのは、

「筑紫哲也さんと池上彰さんの決定的な違いは、ここにあるんだな」

ということだった。

ある時期から、僕は池上彰さんのニュース解説が、どうもなじめなくなってしまったのだが、その原因はここにあったのだと、この場面を見て溜飲が下がったのである。

「私はたんに考える材料を提供しているのであって、考えるのはみなさんです」

とか、

「自分の意見はあるけど言わない」

という言い分は、僕にはジャーナリストとして逃げているとしか思えない。

この人は、最後の最後で、梯子をはずす人なんだな、とさえ思えてくる。

だいいち、考える材料を提供されて、『ほら、考えてください』と言われたところで、僕のような情報リテラシーのない人間にとっては、どのように考えたらいいのか、わからない。

それは、かえって危険なのではないか?

それに、池上さんが自分の意見を言ったところで、みんながみんな、池上さんに賛同するわけではない。それは、思い上がりというものである。

では筑紫さんはどうだったか。

「ニュース23」で、毎日のように「多事争論」というコーナーで自分の意見を一つ一つの言葉を大事にしながら話していた。

あれを見て、全員が賛同しただろうか?

反発した人も多かったはずだ。

そうやって、議論というのは、前に進むんじゃないだろうか。

おそらく、池上さんがどんなにテレビに出まくってニュース解説をしても、世の中は変わらない。

筑紫さんが命を削るように「多事争論」を続けたように、マイケル・ムーアが決してひるまずにKマートに押しかけたように、表現に自分の思いを込めなければ、ジャーナリストが世の中を変えることなんて、できないのではないだろうか。

「ボウリング・フォー・コロンバイン」を見て、そんなことを思った。

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