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2017年9月

その男、急忙につき

こぶぎさんのコメントに、「急忙につき」とあった。

こぶぎさんが急に忙しくなったのは、近々総選挙がおこなわれるからである。選挙が近づくと、こぶぎさんの本業が忙しくなる。これから各地を取材してまわらなければいけないのだ。

かくいうこのブログも、選挙が近づくと、選挙に関するパロディーをつい書きたくなってしまう。

前回、前々回と、選挙を皮肉った創作落語、創作童話を書いてみたのだが、はたして、僕の言いたいことは伝わったのかどうか、よくわからない。

以前は、「原稿ため込み党」という架空の政党を作って、こぶぎさんと2人で選挙のパロディーをしたことがある

また、都知事選の前も、「前の職場」における自らの苦い体験をふまえた記事を書いた。

最近の選挙は、国政レベル、地方行政レベル、はては職場レベルに至るまで、いずれも「究極の選択」ばかりである。

本命といわれているあいつはイヤだし、かといって対抗馬のあいつに入れるのも最悪だ。

こんな状況が、ずっと続いているのだ。

アメリカの大統領選挙だってそうだったのだから、これは世界的な傾向なのか?

まあそれはともかく。

あんまり政治的な話は書きたくないのだが、最近つらつらと考えていることを書くと。

以前にも少し書いたが、学生時代の友人と久しぶりに再会した時、その友人の発言から、ネトウヨになっていたことを知り、少なからずショックを受けた。

その友人は、一流といわれる大学を出て、一流といわれる企業に就職したいわゆるエリートなのだが、僕はエリートとネトウヨというのが結びつかず、どうしてこのような思想形成がなされたのか、一方で興味深かった。

それからというもの、エリートとかインテリとか呼ばれている人のなかに、ネトウヨと呼ばれる人たちがかなりな程度存在するのではないか、それが、昨今の政治状況を支えているのではないかと、すっかり怖くなってしまった。

僕のような考えが社会のなかでは特殊で、むしろ僕の身のまわりには、「素朴なネトウヨ」「無言なネトウヨ」(無言なネトウヨ、というのは形容矛盾だが)が厚い層を占めているのではないか、と。

それ以来、うかつに政治の話をすることができなくなってしまったのである。

さて、今度の選挙では、これまで以上に不可解な現象が起きている。

なぜ、あいつとあいつが組むのか?とか。

あいつ、魂を売ったのか?とか。

いや、魂ばかりか、人を売ったのか?とか。

そんなことの連続である。

大学時代のことを思いだした。

大学時代、1日だけ、ある都議会議員候補者の選挙運動のアルバイトをしたことがある。1989年のことである。

友人に誘われて、選挙事務所に連れて行かれたのである。

その候補者は、何とか政経塾、とやらを出た人で、まだ若くて、一度都議会議員選挙に立候補するものの落選し、二度目の挑戦だということだった。

アルバイトの内容は、あちこちに貼ってあったその候補者のポスターをはがし、貼っていただいた家に挨拶をする、というものだった。

公職選挙法の関係だと思うが、選挙期間に入ると、定められた場所以外にポスターを貼ってはいけないということで、選挙期間に入る前に、いったん、あちこちに貼ってあった候補者のポスターをはがさなければならないのである。で、そのついでに、「選挙が近づいているのでポスターを剥がしに参りました」みたいなことを、貼っていただいた家に挨拶するというものだった(戸別訪問は公職選挙法で禁じられているので、たしか「今度の選挙はよろしくお願いします」みたいなことは言ってはいけなかったような気がする)。

僕は、その候補者がどんな人かも知らずにアルバイトを引き受けてしまったのだが、あまりにもバカバカしい仕事だったので、1日で辞めてしまった。

なにより、その候補者が、胡散臭い感じの人で、こんなやつのために働こうとは、とうてい思えなかったのである。

対して、僕を誘ったその友人は、見事に「選挙運動」というものにハマり、その後もずっとその候補者のもとで選挙運動の手伝いをしていた。

さて、選挙の結果、その候補者は当選し、都議会議員となった。僕は複雑な気持ちになった。

僕を誘ったその友人は、その勝利体験に酔ってしまったのか、その後もその候補者のもとに通い詰め、次第に、自分も政治家になりたいと思うようになってしまったのである(しかし、彼が政治家になったという話は、ついぞ聞かない)。

その友人は、権力志向で差別主義者で、人としてかなり問題のある人物だった。どうもそういう人ほど、政治家に目覚めやすいのではないかと、僕は例によって偏見をいだいた。

その友人が、ある時、僕に言った。

「政治家になれるんやったら、どの党から出馬してもええで。ただし○○党以外やけどな」

○○党、というのが、どの党のことだったのか、いまでは覚えていないのだが、とにかくその言葉は衝撃だった。

自分の主義主張は二の次で、当選するんだったらどの党から出てもいい、というのは、世間知らずの僕がその当時考えていた政治家のイメージとは、まったく異なる考え方だったからである。

しかしこのたびの総選挙をめぐるゴタゴタで、彼の言った意味がようやくわかった。

彼の言葉は、多くの政治家が持つ、本音なのだ。

そう思ってみると、今回の動きが、不可解でも何でもないということが、よくわかる。

むしろ、政治家の本音がいちばん剥き出しになった選挙といえるのではないだろうか。

さて、僕が1日だけ選挙運動の手伝いをした都議会議員は、その後どうなったか。

彼はその後、国政に進出し、いろいろな政党を転々として、ある政党の役付きに至るまで出世した。

ところが今度の総選挙では、その政党を離党し、別の政党から立候補するのだという。

そうか。

大学時代に、あの友人が僕に語った、「政治家になれるんだったら、どの党から出馬してもいい」という言葉は、彼が心酔した、その政治家の言葉だったんだな。

その政治家というのは…。

話を変えよう。

以前、全然右寄りとは思えない友人から、曾野綾子の本を薦められたことがある。曾野綾子の書く新書がバカ売れしていた頃の話である。

「面白いから読んでみたら」

と言われたのだが、曾野綾子という人物がどのような思想信条を持っているかを知っていた僕は、友人が薦めてきたことに、少なからずショックを受けた。

おそらくその友人は、曾野綾子がどのような思想信条を持っているか、ということについてはほとんど無頓着で、純粋に面白いと思ったから、僕に薦めてきたのだと思う。

しかし曾野綾子の思想信条を知っている僕からすれば、たとえそれが親しい友人から薦められたものであっても、読む気が起こらないのである。

僕は長らくこの体験が喉の奥に刺さった小骨のように気になっていたのだが、昨今の投票行動を見て、これが意味することがなんとなくわかるような気がした。

ひょっとして、多くの人々にとって、政治家や文化人がどのような思想信条を持っているかなんてことは、関心の外にあることなのではないだろうか。

それよりも、溜飲が下がる思いがしたり、聞き心地がよかったりすることのほうが評価されるのではないだろうか。

「政治家は、自分の主義主張は二の次で、当選するためならばどの党からでも出馬する(ただし○○党以外)」

と、

「有権者は候補者の思想信条には無頓着で、聞き心地のよいことのほうが評価される」

という、この二つの原理が、今回の総選挙の、一見不可思議とも思われる候補者と有権者の行動を、突き動かしているように思うのである。

…ささ、またパロディーを考えなくては。

(ちなみに今回のタイトルは、「その男、凶暴につき」のパロディーです)

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創作童話・東京の笛吹き党首

むかしむかし、東京という町で、大変な数のねずみが発生し、そのねずみたちに食べ物や衣類、家具や仕事の道具、はては小さな子どもや病人まで、かじりつくされるようになり、あろうことか、食事時でさえも、恐れ気もなくテーブルに上がってくるねずみたちに、みな手を焼き、腹を立て、必死になって追い回し、あれやこれやと策を講じるも、そんなものでは到底追いつかないほど、そしてもうこれ以上はできることはない、というほど、みんなが疲れはて、困りはててしまう、という事件がありました。

そんなある日のこと、奇妙な緑の服を着た1人の党首がやって来て、住民にこんなことを言いました。

「私は、みなさんがお困りのねずみ退治を、すぐにもやってのけることができます。どうですか?町長の座をくれたら、お引き受けしましょう。私に任せてみませんか?」

普通のときだったら、そんなおかしな格好をした党首の言うことなど、耳も貸さなかったでしょうけれど、ことは急を要していました。もう、できることは何にもない、こうなったら、何でも、誰でもいい、ねずみを何とかしてくれるというのならやってしまってくれ、という思いで 住民はその党首に、ねずみを退治してくれるよう頼みました。

党首は表に出ると、広場に行って、ふところから笛を取り出し、面白おかしい曲を吹きはじめました。

笛の音は、町中に広がり、疲れきっていた人々の心も、楽しくさせるようでしたので、人々は、久し振りに、うきうきした気分で表に出てきたのですが・・・。

なんと!道という道、大通りもわき道も、小さな路地にまでも、ねずみがあふれ、それが全部、広場目指して走っていくではありませんか。

人々はあっけに取られてみていましたが、ねずみの後を追ってみてみようということになり、みんなで様子を見に行きました。

すると、奇妙な緑の服を着た党首が、楽しげに笛を吹きながら、集まってきたたくさんのねずみたちを連れて、川のほうに歩いていくのが見えました。

人々は、いったいねずみをどこへ連れて行くのだろうと言い合いながら、その後に続きました。

川につくと、党首は道の端に寄り、相変わらず笛を吹き続けます。するとねずみは、あとからあとからやってきて 次々に 川に飛び込んでしまいました。

川の流れは速く、たくさんのねずみたちをあっという間に海に流し去ってしまいました。

人々は歓声を上げて大喜びしました。長いあいだ毎日悩んでいたねずみの害からやっと逃れることができたのです。町中の人々がお祭りの時のようにはしゃぎまわり、大変な騒ぎになりました。

みんな本当にほっとして、その夜は久しぶりに、ぐっすりと何の心配もせずに眠ることができました。

ところが、しばらくするとその町にまた問題が降りかかります。

今度は、町に新種のねずみが増えていきました。町長になった笛吹き党首が、面白おかしい笛を吹いて連れてきたねずみたちです。野心ばかりが強く、新種なので何をしでかすかわからないねずみたちです。再びこの町はねずみたちにふりまわされ、住民は、笛吹き党首にすっかりだまされてしまったのです。

しかし笛吹き党首はしたたかでした。矛先をかわそうと、今度はこの国の子どもたちに、面白おかしく笛を吹くことを考えたのです。

例によって面白おかしい笛を吹くと、面白いくらいに子どもたちがあつまってきます。子どもたちはみな、楽しそうに踊ったり歌ったりしています。そして家族のもとを離れ、列をなして 笛吹き党首のあとをついてあるきはじめました。

子どもたちだけではありません。家長であるおとうさんたちも、自分の家族を捨てて、なかには持参金をもって笛吹き党首についていくものまであらわれました。

「ぼうや!どこへいくの?」「娘や!なにをしているんだ!」「待ちなさい!」「待って、待って!」「お父さん、どうして家族を見捨てるの?」

みな、必死にとめようとしましたが、もう騒ぐことすら遅いほど たくさんの子どもたちと大人たちは、行ってしまいました。

さて、このお話のもとになった「ハーメルンの笛吹き男」では、笛吹き男と子どもたちが行方知れずになった、という結末で物語が終わります。

ではこの「東京の笛吹き党首」の結末は、どうなるのでしょう?

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創作落語・アウフヘーベン

(記者会見場にて)

記者「築地と豊洲はどうなるんですか!?」

党首「アウフヘーベンが必要ですね」

記者「若狭と細野の関係はどうなるんですか!?」

党首「これもアウフヘーベンが必要です」

このやりとりを聞いていた先輩記者と新人記者のふたり。

先輩「おい、新人」

新人記者「何です?」

先輩「お前、アウフヘーベンがあるか?」

新人「アウフヘーベンって、いったい何です?」

先輩「おまえ、記者をやっていてアウフヘーベンを知らんやつがあるか!いま党首が、『アウフヘーベンが必要だ』って言ってただろう。俺はお前に教えたはずだぞ」

新人「へえ、すんません。忘れました」

先輩「なぜ忘れる?いいことがある。近所に物知りのご隠居がいるから、そこへ行って聞いてみなさい」

新人「何て言って行くんです?」

先輩「アウフヘーベンがおありですか、と」

新人「あるって言いましたら?」

先輩「あると言うたら必要だからと言ってちょっと借りてきなさい」

新人「借りに行くんでも品物を知らないで行っちゃおかしいんですけど…何のことなんです?」

先輩「先方へ行ってそう言ってみれば向こうの返事であらかた様子がわかるで。行ってみなさい!」

新人「へーい。…こんにちは」

ご隠居「おや、誰かと思えば新人さんじゃないか?まあまあこっちへお上がりよ」

新人「どうもすいませんです、ごちそうになりましてね」

ご隠居「なんだい、その「ごちそうになりまして」てえのは」

新人「「まんまおあがり」といいますから、御膳をご馳走になるんでがしょ?」

ご隠居「いや、おまんまじゃないよ。まあまあこっちにお上がり、と言ったんだ」

新人「あー、そうですか。「まあまあおあがり」か。なんだ、メシじゃねえのか。なんだがっかりさせやがって」

ご隠居「なんだよ。飯を食うつもりで来てんのかい?ヘンなやつだな。お上がり」

新人「へい、どうも」

ご隠居「今日はどうした」

新人「へえ、今日は物知りのご隠居さんに、聞きたいことがございましてね」

ご隠居「何だ?」

新人「あのう…アウフヘーベンがおありですか?」

ご隠居「何だって?」

新人「ですから、アウフヘーベンがおありですか、とこう言ったんです」

ご隠居「アウフヘーベン…あるぞ!」

新人「ありますか!?」

ご隠居「到来物のアウフヘーベンだがね。

新人「弔いもんですか?」

ご隠居「「弔いもん」じゃねえ、「到来物」だよ。よそから頂いた…」

新人「そうだろうねえ。買うわきゃねえからね」

ご隠居「口が悪いねどうも。…えー、アウフヘーベンを切っておくれ、ばあさんや。薄く切るとまたぐずぐず言うからな。了見なんぞ見られるといけないから厚く切った方がいいよ。お茶入れかえておくれ、ばあさん」

新人「おう!ばあさん、そうだよ。薄く切っちゃいけねえよ。アウフヘーベンの薄いのは痛々しいからな、ばあさん。厚く切った方がいいよ、ばあさん。お茶入れかえてね、ばあさん。ね、ばあさん」

ご隠居「この野郎、ばあさんばあさん言いやがって。てめえがばあさんばあさんということがあるか!」

新人「妬くな」

ご隠居「妬いてやしねえよ、まったく。どうもしょうがねえなあ。どうだい、アウフヘーベンの味は」

新人「これがアウフヘーベンですかい?」

ご隠居「そうだ。これが正真正銘のアウフヘーベンだ」

新人「ずいぶんと美味しいんですなあ、アウフヘーベンは」

ご隠居「舶来ものだからなあ」

新人「薄情者ですか?」

ご隠居「薄情者じゃない、舶来ものだよ。外国からわたってきた」

新人「なるほど、どうりでうめえわけだ。で、ご隠居、お願いなんですが」

ご隠居「何だ」

新人「あっしの先輩が、アウフヘーベンが必要だからぜひ借りてきなさいって言ってましてね」

ご隠居「貸すなんて野暮なことは言わんよ。もう一つあるから持って行きなさい」

新人「ありがとうございます」

(帰り道)

新人「ご隠居さんもバカだねえ。どう考えたってこれはバウムクーヘンじゃないか。さてはご隠居さん、アウフヘーベンを知らないな。よし、こうなったらヤホーで調べてみよう」

ピッピッピ…

新人「なになに、アウフヘーベンとは、ドイツの哲学者であるヘーゲルが弁証法の中で提唱した概念…か。何だ、食べ物でも何でもないじゃないか!…待てよ、ということは、うちの先輩もアウフヘーベンを知らないんじゃないか?そうだ、試しにこのバウムクーヘンをアウフヘーベンだと言って渡してみようか。違うって言ったら知ってるということだし、そうだって言ったら知らないってことになるな」

先輩「戻ってきたか。アウフヘーベンはあったか?」

新人「ありました」

先輩「どれ、見せてみなさい」

新人「でも先輩、アウフヘーベンをご存じなんでしょ?」

先輩「もちろんそうだ」

新人「じゃあもったいぶらなくて教えてくれてもいいじゃありませんか」

先輩「ばかもん!お前が持ってきたものがアウフヘーベンなのかどうか、確かめねばいかんだろ!見せてみなさい」

新人「へぇ」(…と、おそるおそる差し出す)

先輩「なるほど、これがアウフヘーベンか…。いや、アウフヘーベンが洋菓子であることくらい、俺はお前に教えたはずだぞ!」

新人「フフフッ」

先輩「何が可笑しい!」

新人「いえ…」

先輩「よし、このアウフヘーベンを、党首に渡そう」

新人「どうしてまた渡すんです?」

先輩「どうしてってお前、党首は「アウフヘーベンが必要だ」と記者会見で言ってたんだぞ。俺たちがこれを渡せば、これからの取材にも便宜をはかってくれるに違いない」

新人「それはやめたほうが…」

先輩「なぜそんなことを言う?…党首、党首!アウフヘーベンを持ってきました!」

党首「ありがとう。私、アウフヘーベンが大好物だったのよ」

新人「党首も知らなかったんかい!」

…うーむ。調子が悪いので、長いだけでちっとも面白くありませんな。支離滅裂だ。

「アウフヘーベン」を題材にした創作落語、お待ちしております。

鬼瓦亭権三(ごんざ)でございました。

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TBSラジオの話

9月23日(土)

ずいぶん前の「にち天」を聞いていたら、安住アナが夏休みの回で、アシスタントの中澤有美子アナがオープニングのフリートークをしていた。

中澤アナは、安住アナのフリートークに対する「受け」はよいのだが、いざ自分がフリートークをする側になると、はっきり言ってかなりおぼつかない。

そのときのフリートークの話題は、ある1週間、いくつかのラジオ番組に投稿して、どれだけ採用されるかを試してみた、という話をしていた。

結果、全滅だったという。不採用になった自分の投稿を読み上げていたのだが、むべなるかなという内容だった。

このフリートークじたい、さほど面白いものではなかったのだが、そうだ、自分も一度、ラジオに投稿してみよう、と思い立つ。

で、とりあえず、来週の「伊集院光とらじおと」のメッセージテーマに投稿することにした。

来週のメッセージテーマは、「明るいお葬式の話!」である。

ふつうのラジオ番組は、1回に1テーマの募集なのだが、「伊集院光とらじおと」のメッセージテーマは、月~金の5日間、同じテーマで募集している。つまり、それだけ採用される件数が多いということである。

なにしろラジオに投稿する、などというのは、小学校6年生に一度したっきりである。ちなみにそのときは、見事採用された。

それ以来、ラジオに投稿したことがないので、まったくのド素人ということである。

さて、投稿は採用されるのか?

たぶんラジオを聴く時間がないと思うので、自分では、採用されたかどうかは、確認できないのが残念である。まあそれでも、「読まれるには文章をどう工夫したらいいだろう?」とあれこれ考えることは、楽しいので、それで十分である。

さて、「伊集院光とらじおと」が終わり、午前11時からは、「ジェーン・スー 生活は踊る」である。

僕はこの番組は、金曜日しか聴かない。なんといてもアシスタントの堀井美香アナウンサーが最強である。

堀井アナの声を聴いていると、なんというか、悪い体調が少し回復するような気がする。

それだけ、癒やしの声と話術を持っているのである。

いっそのこと、堀井美香アナだけで番組をやってもいいんじゃないか、とも思ってしまうが、ジェーン・スーという、稀代の女性パーソナリティーは、TBSラジオにとっては不可欠な存在である。なによりジェーン・スーと堀井アナの自然な感じの掛け合いこそが、気分を楽にさせてくれるのだ。

そう考えると、声ってのは、大事だ。

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続・求道者

9月20日(水)

ずいぶん前だったが、ラジオで伊集院光が、安室奈美恵のコンサートに行ったという話をしていた。

伊集院光は、安室奈美恵のファンだそうで、とくに、ライブステージにおけるプロ意識とクオリティーの高さに目を見張るのだという。

たとえばステージで、安室奈美恵は多くのダンサーたちをひっさげて、自分もダンスをしながら歌を歌う。

ところが、安室奈美恵のダンスの振りつけと、周りのダンサーたちの振り付けが、微妙に違う。

周りのダンサーたちのように、全力で踊っていたら、歌のクオリティーが下がってしまう。

そこで実際には、やや軽めの振り付けをすることになるのだが、それが、しっかりとダンスをしているようにみえる。

要所要所で動きをキメることで、ビタッと周りのダンサーたちと呼吸を合わせるので、それが実にかっこよくみえるのだ。

…うろ覚えな上にうまく表現できていないが、たしかそんなことを伊集院さんは言っていた。

僕はそれまで安室奈美恵にそんなに興味がなかったのだが、その話を聞いて、少しだけ関心を持つようになった。

いまから10年近く前、韓国に留学した時に、安室奈美恵の歌が聴きたくなり、iTuneストアで、アルバム「BEST FICTION」を買った。韓国にいたので、CDを買うことができなかったのである。2009年のことである。

考えてみれば、僕がiTuneストアを通じて初めて買ったアルバムが、安室奈美恵の「BEST FICTION」かも知れない。

僕はその中の「All For You」というバラードが大好きだった。

安室奈美恵は、やはり求道者である。

安室奈美恵の後に、同じ沖縄出身の少女たちが次々とデビューしたが、誰も、安室奈美恵の域に達した者はいなかった。安室奈美恵のプロ意識には、足下にも及ばなかった、というべきだろう。

今日、安室奈美恵引退発表のニュースが、夜の報道番組で伝えられたが、そこでは、「奈美恵ロス」という言葉が使われていた。

いやいや、そこは「奈美恵ロス」ではなく、「アムロス」だろう!

「安室ロス」でもない、「アムロス」。

さて、アムロスという言葉がどこまで浸透するか。

どうか、政治家に転身しませんように。

ちなみに、このブログが終わったら、何ロスというのだろう…?

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「判断を委ねられる」という魔法

9月19日(火)

以前、ある先生と、韓国を旅していた時のこと。

私たちを案内してくれていた韓国の方が、

「昼食は何がよいですか。ビビンバにしますか?それとも豆腐料理にしますか?」

と、その先生に聞いてきた。

だがその先生は、私のほうを見て、

「鬼瓦君に判断を委ねるよ」

というのだ。

それも、1回限りのことではなく、何度も私に判断を委ねてくる。

判断を委ねられたこっちは、プレッシャーである。

判断を間違えて、イマイチの料理だったら、あとで延々とそのことでからかわれる。

判断を委ねられる、というのは、それだけで私にとってはストレスなのだ。

しかし私は、どうも昔っから、判断を委ねられるタイプである。

ここ最近、体調が悪くて、いろいろな仕事を同僚たちに代わってもらったりしている。

「鬼瓦さんは、よけいな心配をせずに、どうか休んでいて下さい」

といわれるのはありがたいのだが、一方で、

「すみません。この場合は、どうしたらいいでしょうか。判断をお願いします」

「こんな感じでいいでしょうか、ご判断下さい」

と言われたりする。

なんだよ、結局俺が判断するのかよ!

と突っ込みたくなるのだが、たいていは私が言い出しっぺの仕事だったりするので、致し方ない。

会議でも、

「ではこの件につきましては、鬼瓦さんにご判断いただくということで…」

仕事だけではない。高校時代の仲間と飲み会を企画する時なんかもそうだ。

企画者は別にいるのだが、たとえば、最終的に飲み会の日程の候補日が2つになった場合、

「○日がいいか×日がいいか、鬼瓦先輩が判断して下さい」

と言われたりするのだ。

そんなもん、企画者が判断しろよ!と思うのだが、なぜか、知らない間に「判断を委ねられる」側にまわってしまうのだ。

俺は「水曜どうでしょう」の大泉洋じゃないんだから!

藤村D「大泉さん、カッパを着るか着ないか、早く判断しないと!」

大泉「ま、まだ大丈夫です」

藤村D「ものすごい雨ですよ。もう手遅れですよ。早く判断して下さい」

大泉「わ、わかりました!カッパ着ます!」

藤村D「大泉さん、判断がちょっと遅かったな」

大泉「…何も私に判断を委ねなくても」

(『原付ベトナム縦断1800㎞』より)

ベトナムのめまぐるしい天気の変化に翻弄されながら原付バイクでベトナムを縦断する大泉洋と、それを車中からディレクションする藤村Dのやりとりを見て、まさにこれは、「判断を委ねられる」という魔法だ、と思った。

知らず知らずに自分が判断を委ねられる側にまわる…。

こういうのを何て言うの?マジシャンズセレクト?ちょっと違うか。

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日記の基本原則

こぶぎさんのクイズの答えが、わからない。

以前ならば、神経を研ぎ澄ませてコメントの文章を読んだり、ネットを駆使したりして喫茶店の名前を見つけ出そうと思うのだが、いまはその気力がない。

それはともかく。

いま読んでいる山下洋輔『ドファララ門』は、とても中身が濃い。

なにより、登場人物が多い。

ジャズの知識はもちろんのこと、クラシック、伝統音楽、さらには、世界史や日本近代史の知識がなければ、とてもついていけない。

これくらい中身の濃い本を、書いてみたいものだ。

こんな一節があった。

山下洋輔の母方の祖母、直子おばあちゃんが亡くなった時の記述である。

「やがて(直子おばあちゃんは)亡くなって、葬儀か何かがあったはずなのだが、あまりよく覚えていない。覚えているのは当時付けていた日記に、そのことを一切書かなかった、ということだけだ。同じ頃に友人準一のおばあちゃんが亡くなっているが、それは日記に書いている。しかし、直子おばあちゃんが亡くなったことは書かなかった。本当に悲しいこと、本当に大変なことは、人生の記録から消し去ってしまう、という性質なのかもしれない。これについては、最近、興味深い記述に出会った。『日記の基本原則は、最も重要なことは記述されない』というおのだ。これは、日記研究家の山本一生氏のご高説だが、それをおれ自身が証明していた」

なるほど、その通りである。このブログも、最も重要なことは記述していない。

最近、SNSというものについて、よく考えることがあるのだが、あれこそまさに、重要なことはなにひとつ記さないという原則にのっとっているではないか。

たまに、かなり赤裸々な個人情報まで書いていたりするのを見かけたりするが、まあそれも、事態が深刻ではないという判断のもとに書いているのだろう。

コメント、というのも見ていると面白い。

「今回は行けなくて残念」

「今度は絶対に行こうね」

「そうだね」

みたいな上滑りした会話を、みんなが見ている前で、いわば社交辞令として書けるという才能が、僕には全然ないのだ。

ああいう才能のある人、というのが、社交的な人なのだろう。

僕にはまねのできないことである。

そして、自分にとって信頼できる友人に、そういうことをコメントで書かないタイプの人が多いということに、気づくのだ。

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まあだだよ

昨日、たまたまテレビを見ていたら、立川志らくが出ていて、師匠の立川談志についてのエピソードを語っていた。

志らくの談志に対する師匠愛は、尋常ではない。

志らくは、談志が好きな古い映画、古い歌謡曲を、片っ端から見たり聞き込んだりして、談志と対等に話ができることをめざしたという。

自分が惚れ込んだ人の好きな映画や歌謡曲を、自分の中に取り入れていくというというのは、その人と自分が同化することを意味する。これ以上の師匠愛はないだろう。

他の弟子たちは、そこまでして談志と同化しようとはしなかったと、志らくは誇っている。

談志も談志で、そんな志らくのことを弟子の中でいちばんかわいがっていた。

そりゃあ、兄弟子の志の輔や談春が、志らくを嫉むわけだ。

ことほどさように、師匠愛とは、師匠に対する秘めたる思いに彩られている。

さて先日、黒澤明監督の遺作「まあだだよ」がテレビで放送されていたので、久しぶりに見た。

法政大学でドイツ語教師をしていた内田百閒と、その教え子たちの交流を描いた物語である。

公開当時、劇場で見たのだが、どうにも私には、退屈で、面はゆい映画にしか思えなかった。

今回、久しぶりに見てみて、その感想は変わらなかった。

多くの人が指摘するように、感想は次の1点につきる。

「内田百閒先生が人間的に魅力的だというのはわかるが、なぜあそこまで教え子たちに慕われるのかがよくわからない」

もちろん、内田百閒の文章を読んだことのある人ならば、内田百閒の人間的魅力というのは、よくわかるはずである。だが、内田百閒を知らない人がこの映画を見たら、かなりどん引きするのではないか、というくらい、全体にわたって「百閒先生礼賛」の描写が続くのである。

また、内田百閒を演じた松村達雄に、映画という短い時間の中で、内田百閒の人間的魅力を表現させるというのは、あまりに酷というべきである。

映画の中で、メインとなるのは、百閒先生の誕生日を祝う「摩阿陀会」という宴会のシーンである。

摩阿陀会には、何十人という百閒先生の教え子たちが集まり、1人1人が、百閒先生に対する思いを述べていく。

そして、誰からともなく「仰げば尊し」の歌が口ずさまれ、それがやがて全員による大斉唱となる。

ちょっと異常なくらい、百閒先生に対して教え子たちが慕っているのである。

映画を見ている私は、まったく縁もゆかりもない先生と教え子の同窓会に紛れ込んでしまった感覚となり、なんともいたたまれない気持ちになっていく。

黒澤明は、なぜこのような映画を撮ったのだろう?

いまはすっかりなくなってしまったが、かつては存在した「人間的な魅力に溢れた先生と、それを慕う教え子たち」「先生を盲目的に思慕する感情」といったものを、美徳として描きたかったのだろうか?

しかし、それはあまりにも時代遅れの感覚である。

どうにも謎だったのだが、「春日太一、サンキュータツオ、宮地昌幸の偏愛映画放談」というサイトで、映画評論家の春日太一さんが次のような発言をしているのを読んで、溜飲が下がった思いがした。以下、長いが、引用する。

「春日:実は週刊文春の連載100回目でこれ(「まあだだよ」)を取りあげたんですよ。

タツオ:それ、何年くらい前ですか?

春日:去年ですね。100回記念でやろうという。仲代達矢さんや野上照代さんといった黒澤の周りにいた人たちとお話をするようになって、黒澤の当時のメンタリティや考えなど、色々な事を知るようになってから見直したことで、全く感想が変わってしまった作品で。

 週刊文春の連載でも頭の段落で、「キャリア後半の黒澤作品全般がそうなのだが、本作は退屈な映画だ」と僕は書いているんですよ。はっきり言って、最初に劇場で見た時の感想は、退屈だなと。何が退屈かというと、やはりあれだけ門下生がやって来てひたすら感謝、感謝と。

 (門下生が)2時間ひたすら感謝を言って、それに対して「うんうん」と言っている先生という話で、「もう巨匠、何やってんの!」と。そんなのが気持ち良いのかというような気分になってきて、むず痒くなってきたというか。そういう感じをずっと見させられているような気がしたんですよね。「巨匠と弟子たちの織りなす幸せな空間」みたいなものがあったんですけど。それが(取材を通じて)自分の中でどんでん返しが起こって。要は「それが出来なかった黒澤」のファンタジーを込めた作品だと思ったとたんに、切ないなって。「こうありたい自分」、というんですかね。
.
タツオ:慕われたい、という。

春日:それで気付いたのが、この映画って『影武者』の裏返しなんですよ。『影武者』は仲代さんが言うには、影武者になる盗人、皆あれがドラマのポイントだと思って、どちらかというとあの盗人に感情移入して主役だと思っているんですけど、黒澤はその解釈は「そうじゃない」と言うんだそうです。「『影武者』の主役は武田信玄であり、信玄の死後、彼のために死んでいく人間たちの話だ」と。「それだけのカリスマ性が武田信玄にはあり、そして最後にはあの盗人すらも信玄のために命を落としてしまう。その信玄の話であり、そして信玄は俺である」というのが黒澤の考え方だったわけです。つまり、基本的なのは「俺のために動け」、「俺のために働け」、そして「そのくらい俺を慕ってくれ」というのがあって。状況は変わるんですけど、長篠の戦で信玄のカリスマ性のために凄まじい突撃をかけて鉄砲の前に死んでいく武田の家臣たちと、この『まあだだよ』で必死こいて猫探しをする井川比佐志(高山役)と所ジョージ(甘木役)というのは実は同じなんだということに気付いて、「切ないな黒澤」と。(現実では弟子が)一人ひとりと人が離れていってしまって誰もいなくなって、訪れる人もいなくなってしまった一人の老人が、皆が「先生、先生」と訪ねてくる映画を作っていることを考えると・・・

タツオ:これ、『夢』の続編ってことですよね。「こんな夢を見た」って。

春日:そうです。夢だとしか思えないわけですよ。

タツオ:「恥ずかしくて言えないけど、みんな俺の事を愛してくれ」って。

春日:本当にそうなんですよ。「愛してくれ」という映画で。そう気付いた時に全然違う見え方がして、ここまで愛され抜いている先生というのが、ああ黒澤はこうなりたかったんだなと思ったんですよね。というのが僕の感想です。」

以上、引用終わり。

なるほど。この映画「まあだだよ」は、映画「夢」の続編と考えれば、納得がいく。

年老いた映画監督が、自分の理想的な「夢」を、忠実に映像化したものなのだ。

そして、あの誕生会の場面は、自分の願望でもあったのだ。

それで思い出したのだが、私の知り合いに、自分が還暦になった時に、自分で還暦祝賀会を企画して、かつての教え子たちを集めて、パーティーをした、という人がいる。

「みんな、俺のことを慕ってくれ」という気持ちが、そのような行動に駆り立てたのであろう。

黒澤明も、本心ではそう思っていたのか?

そう考えると、この映画は、なんとも切ない。

わざわざパーティーを開いて先生を慕う気持ちをスピーチであらわさなければ、師匠を慕う気持ちというのは、通じないものなのか?

志らくのように、師匠と同化したいと思うあまりに、師匠の好きな古い映画や歌謡曲を全部自分の中に取り入れることもまた、秘めたる師匠愛である。

黒澤明監督は晩年、おそらく多くの人たちが離れていったのかも知れないが、たった1人、最後まで黒澤明のもとを離れずに、師と仰いだ人がいた。

小泉堯史である。彼は、「まあだだよ」の助監督をつとめている。

黒澤監督の死後、小泉堯史は、黒澤明の精神を継いで、映画監督としてデビューした。

小泉監督の最初の映画「雨あがる」(黒澤明脚本)では、黒澤明監督の映像テクニックを駆使し、まるで黒澤明と同化したような作品に仕上がっている。

それだけで、もう十分なのではないか。

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DTMKS、KBY

そういえば最近全然本を読んでないなあ、と思い、少し前に買ってそのままにしておいた山下洋輔『ドファララ門』(晶文社、2014年)を読み始める。

山下洋輔の自伝なのだが、これが実におもしろい。文章のリズムが心地よく、話題は時空を越えて自由奔放に飛び回る。それでいて中身は濃く、読んでいて映像が浮かぶ。

まるで山下洋輔のフリージャズそのものではないか!

僕は、たった1度だけ、山下洋輔のライブに行ったことがある。高校の頃だったか、大学に入ってからだったか…。

家からさほど遠くない、小さなライブハウスだった。

1人で行ったのか、あるいは高校時代の友人のコバヤシ(いわゆる元福岡のコバヤシ)と2人で行ったのか、そのあたりの記憶も曖昧である。当時、友達といえばコバヤシしかいなかったからね。

まだ読み始めたばかりなのだが、こんな表現が出てきた。

「…ここからはMKの方も多いと思うので、その方々は適当におつきあいいただきたい。ちなみに「エムケー」とは「前に聞いた」「もう聞いた」の略です。あれ、これ前にも一度出ましたね。DTMKS、KBY「だからとっくに前に聞いて知っているんだよ、このバカ野郎!」になってしまった」

僕はこういう表現を出会うとひっくり返って笑ってしまうのだが、まさか山下洋輔は、DAIGOの芸風をパクったわけでもあるまい。ましてや女子高生の間で流行った言葉遊びをまねたというわけでもあるまい。

以前にも書いたように、ローマ字の略語を使ったギャグは、ロビン・ウィリアムス主演の映画「グッドモーニング、ベトナム」(1987年)で使われている。

ローマ字の略語を使う遊びは、決して日本の女子高生が発祥でも、DAIGOが発祥でもないのだ。

もともとアメリカでおこなわれていた言葉遊びが日本に伝わり、バンド仲間の間で業界用語的な言葉遊びとして使われていたのではないだろうか、というのが今回の仮説。

ま、僕はミュージシャンではないから、本当のところはわからない。

一ついえることは、「前に聞いた」をMKと表現することで、バカっぽく聞こえるという可笑しみが、世代や地域を越えて共通している、ということである。

ま、どうでもいい話なのだが。

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5つのゲラと格闘

9月13日(水)

ある友人から、「最近ブログを更新していないが、大丈夫か?」と案ずるメールが来た。

ブログを更新しないと心配されるので、少しは近況も書かなければならない。

今日だけで、3つのゲラがメールで送られてきた。

一つは、私の大学時代の1学年上の先輩がつとめる職場で、10月からイベントが始まるのだが、そのイベントに合わせて出される本の巻頭に、6000字ほどの文章を載せることになった。

8月のお盆前にその文章を書いたのだが、そのゲラがあがってきたのである。

しかもご丁寧に、私の書いた部分だけでなく、その本全体のゲラが送られてきたのである。

「気がついた点があったら遠慮なく直してほしい」と。

ゲラを見て驚いた。

100頁以上に及ぶ、なんとも中身の濃い本である。

これ、先輩のこれまでの仕事の集大成だな。

今回のイベントに対して並々ならぬ情熱が注がれていることがわかる。

一応私も「企画協力」という形で参加しているのだが、ここ最近は体調を崩したりしてあんまり役に立たなかった。

しかし、イベントが始まったら、先輩の期待に応えるような仕事をしよう。

二つめは、ある先生が編者の本の「あとがき」である。

10数名が文章を寄せていて、私もその1人なのだが、私は編者でもないのに、なぜかその本の「あとがき」を書く羽目になったのである。やはり8月のお盆の頃に書いた。

長い文章ではなかったのだが、いってみれば他人様が編者をしている本に「あとがき」を書くのだから、何を書いていいのかわからない。

まことに、奇妙な仕事である。

三つめは、ある業界誌が企画した座談会のゲラである。

今年の3月5日(日)におこなった座談会が、この秋にようやく日の目を見るのである。

5時間にもわたるとりとめのない話を、よくまとめたものだとも思うが、その一方で読み返してみると、思ったほど内容が面白くなく、愕然とする。

そのほか、今、二つのゲラをかかえている。

一つは、昨年末に出した、某出版社の企画原稿。ようやくゲラが出てきた。

予定では4月に刊行するはずだったのだが、締切を大幅に遅れて原稿を出した人がいたとかで、今頃になってゲラが出てきたのである。目次を見ると、執筆予定者が1人、忽然と姿を消しているので、たぶん「落ちた」のだろう。

もう一つは、6月25日(日)に某所でおこなったシンポジウムの講演録。

録音したものから文字起こししたものが送られてきたのだが、喋ったそのままを文字に起こしているので、まあヒドイ。

自分がふだん、いかにいい加減に喋っているかがよくわかり、落ち込んだ。

手直し、というか書き直しの作業は、実に根気がいる。

これで、全部で5つ。

これらを、なんとか連休前には送り返さなければならない。

あ、もう一つ忘れてた。

先日の日曜日に、都内某所で20人ほどの前で1時間ほど話した内容を、その機関が発行する雑誌に載せるので、10月10日までに原稿化して、送らなければならないのだった!

うーむ。かなりキツい。

それに加えて、このブログも頻繁に更新しないと、またよけいな心配をかけることになるし…。

まったく、書きすぎだな。

ちなみに、すべてノーギャラである。

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福岡の珈琲豆屋のお兄ちゃんの思い出(鬼瓦流)

「あのぅ…、そのケースに入っているのって、楽器ですか?」

「そうですけど」

福岡に転勤してまもなくのことである。市内でも有名な珈琲屋が近所にできたというので、珈琲好きの私は、そのお店に頻繁に顔を出していた。

そこには30そこそこの若い店長のN君がいて、人なつっこい彼は、店に来るお客さんに話しかけては、おしゃべりに興じていた。私も通ううちに彼とおしゃべりをするようになったのだが、ある日、バンド練習の帰りに立ち寄ったら、私の持っていた楽器ケースに興味を示したらしく、私にいろいろと尋ねてきたのである。

「何の楽器です?」

「サックスです」

「へ~!僕、最近サックスに興味があって、カッコイイなあと思ってたんですよ」

そう言いながら、彼は楽器ケースをじっと見つめた。

そのうち、彼はこう言いだした。

「ちょっと見せてもらってもいいですか?」

「はぁ」

ちょっと恥ずかしいなあと思いつつも、他にお客さんがいないからまあいいか、と、ケースを開いて楽器を見せてあげた。

しばらくじっと眺めてから突然、N君が言い出した。

「ちょっと吹いてもらってもいいですか?」

「え?ここでですか?」

「はい」

「いやいや、ちょっとお店の中はまずいでしょ~。結構うるさいし、他にお客さんが入って来たら迷惑ですし...」

「大丈夫、大丈夫!お店のドア閉めちゃえばわかりませんて!」

N君はかなり強引だった。ついに私も根負けして、お店の中でサックスを吹かされることになった。

いったいこのお店は何なんだ?

そしていったい俺はこんなところで何をしてるんだ?

N君のマイペースさに、すっかり呆れてしまった。

それから1~2年お店に通っていたある日、N君が突然、私に言った。

「コバヤシさん、僕、この店を辞めることにしました。僕の夢は、自分の家の近くに、けっこう山の中なんですけど、お庭が綺麗なカレーの美味しいカフェを出したいんです。そのために花屋に転職することにしました」

いつも突然、突飛なことを言い出すN君だったが、しばらくしたら本当に珈琲屋を辞めて、本当に花屋でバイトを始めてしまった。

それでもたまに自分が勤めていた珈琲屋に顔を出すので、その後も時々おしゃべりをしていたのだが、またある日突然、

「コバヤシさん、僕、花屋を辞めることになりました」

と言い出した。

「どうしたの?」

と尋ねると、

「この間、花屋の配送の仕事でトラックを路駐していたら、お巡りさんに捕まって、免許証の提示を求められたんです。そうして免許を出したら、免許の期限が切れて失効してたんです。びっくりしました」

「それで、どうなったの?」

「でも、お巡りさんが優しくて、今回だけだぞ、と見逃してくれたんです」

いやいや、意味がわからんて。免許の期限が切れていたことに気づかないN君もN君だが、それを大目に見てくれるお巡りさんもお巡りさんだ。福岡って、どんなユルい町なんだ?!

で、それがきっかけで花屋を辞めたってことか???

花屋を辞めたN君は、今度は飲食店に勤め始めたのだが、ある日、突然メールが来た。

「コバヤシさん、今度の週末お時間ありますか?実は、今の勤め先にサックスがあって、店長が貸してあげるよ、と言ってくれたんです。使える楽器かどうかをコバヤシさんに見てもらいたいんです。よろしければ、いつもの珈琲屋で、開店前の10時にお店に来てください」

おいおい、お前が辞めた珈琲屋を待ち合わせ場所にするのかよ!

それに、俺はお前とそんなに親しいわけじゃないんだぞ!そんなに気安く誘うなよ!

と腹の中で思いながら、仕方なく例の珈琲屋に顔を出すことにした。

珈琲屋に入ると、新しい店長が「わざわざ、すいません」と珈琲をサービスしてくれた。

N君とこの珈琲屋はもう何の関係もないのに、N君の友人?というだけで珈琲をサービスしてくれるってのは、どういうことなんだ?

N君はこの珈琲屋でOBとしていまだに先輩面しているらしい。N君のマイペース加減に呆れるばかりだった。

そのうち、N君は、お店を出すためにはもっとお金が必要と、中京地区にある某自動車会社の期間工の口を見つけて旅立って行った。

これでもう終わりかな?と思いきや、まだまだ話は続く。

その数年後、N君からまた突然メールが来た。

「コバヤシさん、今度、僕、大名(福岡の繁華街)にお店を出すことにしました。是非、来てください」

あいつ、福岡に戻ってきたのか…。

早速そのお店に顔を出し、事情を聞いてみた。

「実は期間工を終えてふらふらしていたら、社長(元の雇い主)から呼び出しをくらって、『お前いい加減にしろ。奥さんと二人の子供もいるのに定職に就かないとは何ごとだ!うちの暖簾分けということでいいから店を出せ!』と言われてお店出すことになったんです」

彼はいつの間にか結婚して、家族を持っていた。

そのことにも驚きだが、前の雇い主が彼の将来のことをずっと気にかけてくれていたことにも驚いた。

福岡市民の懐の深さにはただただ関心するばかりである。

そして彼は、今も福岡の街で珈琲を淹れている。

私はその後、福岡を離れてしまったが、私が福岡を愛してやまないのは、こういう人々との出会いがあったからである。

風の便りでは、N君は奥さんにパートを辞めさせて、さらに支店を出したのだという。しかも、知り合いの美容院の軒先を借りての営業形態だということで、本当にこいつはどこまで人の好意に甘えていくんだろう、と驚くばかりである。

人間とは、生きていればなんとかなるものだと、N君のことを思い出すたびに、そんなことを思う。

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福岡の珈琲豆屋のお兄ちゃんの思い出

読者のみなさんこんにちは、高校時代の友人・元福岡のコバヤシです。

私は珈琲が結構好きで、豆を買ってきて自分で挽いて珈琲を楽しんでいます。

福岡に転勤して間もなく、市内でも有名な珈琲屋の支店が近所に出来ました。徒歩1~2分だったことも有り、割と頻繁に顔を出していました。

そこの店長をしていたN君は本当に人懐っこい人で、まだ30そこそこだったのですが、店に来るお客さんといつもおしゃべりをしています。下には彼よりも年上のパートの主婦とバイトのお姉ちゃんがいたのですが、彼女達とも本当に楽しそうにしゃべっています。

私も通ううちにおしゃべりをするようになったのですが、ある日、バンド練習の後立ち寄ったら、N君が「それは楽器ですか?」と尋ねてきます。「サックスです。」と答えると、「へ~!僕、最近サックスに興味があって、カッコイイなあと思ってたんですよ。」と言いながら、私の楽器ケースをじっと見ています。そのうち「ちょっと見せて貰ってもいいですか?」と聞いてきたので、ちょっと恥ずかしいなあと思いつつも、他にお客さんがいなかったので、ケースを開いて見せてあげました。

また、じっと眺めてから突然「ちょっと吹いて貰ってもいいですか?」と聞いてきます。こいつは何を言い出すんだろうと驚いて「ちょっとお店の中はまずいでしょ~。結構うるさいし、他にお客さんが入って来たら迷惑ですし...」と私が言うと、「大丈夫、大丈夫!お店のドア閉めちゃえば判りませんて!」とかなり強引にせまってきます。ついに私も根負けしてお店の中で、恥も外聞も無くサックスを吹かされてしまいました。一体俺はこんなところで何をしてるんだろ~。

それから1~2年お店に通っていたある日、「コバヤシさん、僕、この店を辞めることにしました。僕の夢は、自分の家の近く(結構、山の中)にお庭が綺麗なカレーの美味しいカフェを出したいんです。その為に花屋に転職することにしました。」と、これまた突然言い出しました。暫くしたら本当に辞めて、花屋でバイトを始めました。

たまに自分が勤めていた珈琲屋に顔を出すので、時々おしゃべりをしていましたが、またある日突然、「コバヤシさん、僕、花屋を辞めることになりました。」と言い出します。「どうしたの?」と尋ねると、「この間、花屋の配送の仕事でトラックを路駐していたら、お巡りさんに捕まって、免許証の提示を求められたんです。そうして免許を出したら、免許の期限が切れて失効してたんです。いや~、びっくりしました。」とのたまいます。こちらからしたら、ちょっと待てよ、普通は気付くだろ~、と思い切り心の中で突っ込んでしまいます。「でも、お巡りさんが優しくて、今回だけだぞ、と見逃してくれたんです。」、これまた、お巡りさん、それもダメだろ~、と再び心の中で突っ込んでしまいました。何とも福岡のユルさをつくづく感じてしまいます。

暫くして、N君は飲食店に勤め始めたのですが、ある日、突然メールが来て、「コバヤシさん、今度の週末お時間有りますか?実は、今の勤め先にサックスがあって、店長が貸してあげるよ、と言ってくれたんです。コバヤシさんに使える楽器か見て貰いたいんです。宜しければ、珈琲屋の開店前、10時にお店に来てください。」とのこと。心の中で「俺、N君とそんなに親しかったっけ?しかも、お店って、お前その店辞めたんだろ~!」と大声で突っ込んでしまいました。

仕方なくお店に顔を出すと、お店の新しい店長が「わざわざ、すいません。」と珈琲をサービスしてくれます。ここでも「後輩かもしれんけど、もうお前、お店と関係ないじゃん、何偉そうにしてんだよ。」と、まともや突っ込まざるを得ない状況です。N君のマイペース加減には驚くばかりです。

そのうち、N君は、お店を出す為にはもっとお金が必要と、中京地区にある某自動車会社の期間工の口を見つけて旅立って行きました。

その数年後、また突然メールが来て「コバヤシさん、今度、僕、大名(福岡の繁華街)にお店を出すことにしました。是非、来てください。」と連絡がありました。早速、顔を出すと「いや~、実は期間工を終えてふらふらしていたら、社長(元の雇い主)から呼び出しをくらって、「お前いい加減にしろ。奥さんも子供(ふらふらしている間に2人も子供を儲けています)もいるのに定職に就かないとは何事だ!うちの暖簾分けということでいいから店をだせ!」と言われてお店出すことになったんです。」。いや~、本当に福岡市民の懐の深さにはただただ関心するばかり。

そうして、彼は今も福岡の街で珈琲を淹れています。しかし、本当に人間何とかなるもんですね。こんなに適当でも、ちゃんと楽しそうに暮らしてますし、ついには奥さんのミーちゃんのパートを辞めさせて、更に支店を出させてしまいました。しかも、知り合いの美容院の軒先を借りての営業形態。本当に、こいつはどこまで人の好意に甘えていくんだろう、と驚くばかり。

まだまだエピソードはありますが、今日はこの辺まで。

まあ、人間どうとでもなるということで、この文章を楽しんで頂けたら幸いです。

では、また。

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ハマらない私

人にハマるとか、ハマらないとかって言い方は、一般的だろうか。

「俺、あいつにはどうもハマらないんだよ」

といった場合、「俺はあいつとは馬が合わない」といった感じの意味である。

そういう言い方からすれば、私は、あまり「人にハマらない」タイプである。

あんまり群れを成すことが好きではないのだ。

特定の仲よしグループなんかに入ったりすると、とたんに自分の居心地が悪くなる。

高校時代の吹奏楽部、というのが、まさにそんな感じだった。

吹奏楽部にも、パートによっては仲よしグループみたいなパートがあって、そういう仲よしグループは、今でもSNSなんかでつながっているらしい。

ちなみに我がサックスパートは、ふだんはあんまりそういうつながりはない。

ある時、ある後輩に雑談で、

「来年の春あたりは、母校の近くの桜並木の通りに行って花見でもしたいものだ」

といったら、その後輩が、

「鬼瓦先輩の提案で、来年の春に母校の近くで花見をしましょう」

とSNSで大々的に呼びかけたらしく、それにみんなが呼応したらしい。

結局、その後輩の仲よしグループを中心に、トントン拍子で花見の話が進んでしまった。

そうなるともう、どうぞみなさんでおやりください、という気になってしまうのである。

というわけで、来年の春は、ひっそりと母校の近くで花見をすることにしよう。

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夢を見る

最近、よく夢を見る。

もちろん、細かい内容はすぐに忘れてしまうのだが、何度か、同じような夢を見るのだ。

僕がどうも、「前の勤務地」らしき場所に、頻繁に訪れるという夢だ。

「らしき場所」と書いたのは、夢の中に出てくる風景が、現実の「前の勤務地」とは似ても似つかない風景だからである。

しかし自分の意識の中では、前の勤務地に訪れている、というつもりなのである。

その夢の中で僕は、前の職場に頻繁に訪れ、自分の仕事部屋のあった場所を訪れるのだが、前の職場の建物も、仕事部屋も、現実のものとは似ても似つかないものである。

そこで、誰かに会うのかと思ったら、結局、誰にも会わない。

もう一つ不思議なのは、夢の中で僕は「前の勤務地」に何日か滞在しているのだが、滞在中は、高層マンションらしき建物の、上の方の階に寝泊まりしているようなのだ。

別にそこでも、誰かと会うと行ったこともない。

結局、誰とも会うこともなく帰ることになるのだが、別の日に、また同じような夢を見て、結局誰とも会わずに帰京することになる。

いったいこの夢は何なのだろう。

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オワコン発表会

9月10日(日)

午後、都内に行く。

本当に久しぶりに、人前で話す機会をもらった。体調が悪いのでお断りすることも考えたのだが、まあ受けてしまった話なので仕方がない。

会議室みたいなところで、20人ほどの同業者の前でお話をすることになったのだが、久しぶりすぎて、感覚がなかなかつかめない。

1時間ほど話す、ということになっていたが、自分の話が1時間ももつのかどうかも不安だった。

午後2時50分、自分が話す番になった。

思うように声が出ない。今の私は、声がかすれてしまっているのだ。

肉声ではとても伝えられないと思い、マイクをお借りしてお話しすることにした。

…おじいちゃんみたいだな…。

お話の冒頭で、

「1時間もつかどうかわかりません。中座するかも知れません」

とお断りしておいたのだが、ペース配分を考えながらお話をして、予定の時間を10分オーバーして1時間10分ほどお話をした。

私の役目はこれで終わりではない。

「それでは、これから1時間ほど質疑に移ります」

なんとそれから1時間以上も、フロアーからの質問に応戦しなければならなかった。

午後5時、ようやく終了。

クタクタになり、そのあとの打ち上げには出ずに、家に帰った。

私から見ればかなり後輩にあたる、若い人たちも何人か来ていたが、彼らはどのように私の話を聞いていたのだろう。

「あいつもオワコンだな」

なんて、思ったのだろうか。

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似ているシリーズ・人物編

個性派俳優・チョ・ソンハ

2_2

あの大臣の顔を見ると、いつもこの個性派俳優の顔を思い出す。




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未熟者エレジー

9月6日(水)

韓国のある機関との仕事の話。

今年度、大きく二つのイベントがあって、一つは9月末に始まる先方でのイベントでのお手伝い。

もう一つは、もう少し先になるのだが、うちの職場で、先方をお招きしておこなうイベント。

この二つが、私にとって、懸案事項であった。

先日、ずいぶんな愚痴を書いてしまったが、その後もいろいろなことがあり、体調がすこぶる悪いこともあり、どうにも自分では対応できなくなってしまった。

で、一昨日の晩と昨晩と続けて、まるで泣き言とも愚痴ともつかないようなメールを、関係する同僚に送ってしまった。

泣き言のようなメールを同僚に送るなんて、職業人としては最低である。

そのメールが、うちの職場の各所にまわってしまったらしい。メールの宛先ではなかった別の同僚から電話が来た。

「昨日の鬼瓦さんの苦しいメール、拝見しました」9月末から先方の機関で始まるイベントについてである。

「そうですか。どうもすみません。もっと早くみなさんにご相談すればよかったんですが」

「いえいえ、とんでもないです。差し出がましいようですが、今後は僕の方で対応していきたいと思いますが、いかがでしょうか」

「そうですか。そうしてもらえると助かります」

その同僚は、さっそく先方と連絡をとってくれたらしい。ほどなくしてショートメールが来た。

「先方と連絡をとりました。後はこちらで対応します。うまくいきそうな感触です」

僕はこのメールを見て泣きそうになった。

僕はこのイベントにすっかりと絶望してしまい、匙を投げかけていたのだが、僕以外の同僚はみな、粛々と大人の対応をしてくれているのだ。

未熟だったのは、ほかならぬこの僕だったのではないだろうか。

もう一つの案件である、もう少し先におこなう予定のイベントについて、別の同僚から電話が来た。

「何人かの同僚でチームを作って、イベントを準備することにしました。鬼瓦さんの負担を最小限にしたいと思います」

僕が知らない間に、もう一つのイベントの方も話を進めてくれていたのである。

同僚のそれぞれが、数多くの仕事をかかえているにもかかわらず、未熟な僕のためにフォローしてくれている。

また泣きそうになった。

どうしても愚痴が多くなってしまう今の職場だが、底力のある同僚たちに恵まれた職場だなと、つくづく思う。

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DO&BE LIFE

日野皓正、で思い出したのだが。

僕が高校生、大学生の頃は、ジャズフェスがテレビで大手を振って放送されていた、おそらく最後だったのではないだろうか。

むかし、「ALL JAPAN JAZZ AID」というイベントで、エンディングに出演者が総出演して、日野皓正が作曲した「DO&BE LIFE」という曲をみんなで演奏していた。

「ALL JAPAN JAZZ」といっても、当時僕が好きだった渡辺貞夫とかMALTAは出ておらず、アルトサックスでは、本多俊之とか、スクエアの伊東たけしが出ていた。あとは、ジョージ川口とか、笈田敏夫とか、北村英治とか、松本英彦とか、いくつかのビッグバンドとか、いってみれば日本のジャズの牧歌的な時代を担ってきた人たちが総出演したのである。

「DO&BE LIFE」という曲は、いわば日本のジャズ界の「We are the World」的な存在だった。あるいは、エンディングで必ず盛り上がるという意味でいえば、24時間テレビでいうところの「サライ」である。

久しぶりに聞いてみたいと思い、動画サイトをあさってみたところ、1987年、第1回の、「ALL JAPAN JAZZ AID」のときのものと、1988年、第2回の、「ALL JAPAN JAZZ AID」のものの、2つを見つけることができた。

第1回の演奏での、本多俊之のソロの出だしは今でも鮮明に覚えていて、一方で伊東たけしのソロはあまり印象がない。僕は本多俊之の熱心なリスナーではなかったが、妙に印象に残るメロディーに惹かれていた。

第2回の「ALL JAPAN JAZZ AID」は、動画サイトの映像を見ると、24時間テレビの枠内で放送されたようである。1回目と違い、2回目はボーカルが入っている。

その後、この曲が演奏されたという話を聞かない。吹奏楽用に編曲したら、かなり盛り上がる曲になると思うのだが、この曲が後世に引きつがれないというのは、なんとももったいない感じがする。

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