その男、急忙につき
こぶぎさんのコメントに、「急忙につき」とあった。
こぶぎさんが急に忙しくなったのは、近々総選挙がおこなわれるからである。選挙が近づくと、こぶぎさんの本業が忙しくなる。これから各地を取材してまわらなければいけないのだ。
かくいうこのブログも、選挙が近づくと、選挙に関するパロディーをつい書きたくなってしまう。
前回、前々回と、選挙を皮肉った創作落語、創作童話を書いてみたのだが、はたして、僕の言いたいことは伝わったのかどうか、よくわからない。
以前は、「原稿ため込み党」という架空の政党を作って、こぶぎさんと2人で選挙のパロディーをしたことがある。
また、都知事選の前も、「前の職場」における自らの苦い体験をふまえた記事を書いた。
最近の選挙は、国政レベル、地方行政レベル、はては職場レベルに至るまで、いずれも「究極の選択」ばかりである。
本命といわれているあいつはイヤだし、かといって対抗馬のあいつに入れるのも最悪だ。
こんな状況が、ずっと続いているのだ。
アメリカの大統領選挙だってそうだったのだから、これは世界的な傾向なのか?
まあそれはともかく。
あんまり政治的な話は書きたくないのだが、最近つらつらと考えていることを書くと。
以前にも少し書いたが、学生時代の友人と久しぶりに再会した時、その友人の発言から、ネトウヨになっていたことを知り、少なからずショックを受けた。
その友人は、一流といわれる大学を出て、一流といわれる企業に就職したいわゆるエリートなのだが、僕はエリートとネトウヨというのが結びつかず、どうしてこのような思想形成がなされたのか、一方で興味深かった。
それからというもの、エリートとかインテリとか呼ばれている人のなかに、ネトウヨと呼ばれる人たちがかなりな程度存在するのではないか、それが、昨今の政治状況を支えているのではないかと、すっかり怖くなってしまった。
僕のような考えが社会のなかでは特殊で、むしろ僕の身のまわりには、「素朴なネトウヨ」「無言なネトウヨ」(無言なネトウヨ、というのは形容矛盾だが)が厚い層を占めているのではないか、と。
それ以来、うかつに政治の話をすることができなくなってしまったのである。
さて、今度の選挙では、これまで以上に不可解な現象が起きている。
なぜ、あいつとあいつが組むのか?とか。
あいつ、魂を売ったのか?とか。
いや、魂ばかりか、人を売ったのか?とか。
そんなことの連続である。
大学時代のことを思いだした。
大学時代、1日だけ、ある都議会議員候補者の選挙運動のアルバイトをしたことがある。1989年のことである。
友人に誘われて、選挙事務所に連れて行かれたのである。
その候補者は、何とか政経塾、とやらを出た人で、まだ若くて、一度都議会議員選挙に立候補するものの落選し、二度目の挑戦だということだった。
アルバイトの内容は、あちこちに貼ってあったその候補者のポスターをはがし、貼っていただいた家に挨拶をする、というものだった。
公職選挙法の関係だと思うが、選挙期間に入ると、定められた場所以外にポスターを貼ってはいけないということで、選挙期間に入る前に、いったん、あちこちに貼ってあった候補者のポスターをはがさなければならないのである。で、そのついでに、「選挙が近づいているのでポスターを剥がしに参りました」みたいなことを、貼っていただいた家に挨拶するというものだった(戸別訪問は公職選挙法で禁じられているので、たしか「今度の選挙はよろしくお願いします」みたいなことは言ってはいけなかったような気がする)。
僕は、その候補者がどんな人かも知らずにアルバイトを引き受けてしまったのだが、あまりにもバカバカしい仕事だったので、1日で辞めてしまった。
なにより、その候補者が、胡散臭い感じの人で、こんなやつのために働こうとは、とうてい思えなかったのである。
対して、僕を誘ったその友人は、見事に「選挙運動」というものにハマり、その後もずっとその候補者のもとで選挙運動の手伝いをしていた。
さて、選挙の結果、その候補者は当選し、都議会議員となった。僕は複雑な気持ちになった。
僕を誘ったその友人は、その勝利体験に酔ってしまったのか、その後もその候補者のもとに通い詰め、次第に、自分も政治家になりたいと思うようになってしまったのである(しかし、彼が政治家になったという話は、ついぞ聞かない)。
その友人は、権力志向で差別主義者で、人としてかなり問題のある人物だった。どうもそういう人ほど、政治家に目覚めやすいのではないかと、僕は例によって偏見をいだいた。
その友人が、ある時、僕に言った。
「政治家になれるんやったら、どの党から出馬してもええで。ただし○○党以外やけどな」
○○党、というのが、どの党のことだったのか、いまでは覚えていないのだが、とにかくその言葉は衝撃だった。
自分の主義主張は二の次で、当選するんだったらどの党から出てもいい、というのは、世間知らずの僕がその当時考えていた政治家のイメージとは、まったく異なる考え方だったからである。
しかしこのたびの総選挙をめぐるゴタゴタで、彼の言った意味がようやくわかった。
彼の言葉は、多くの政治家が持つ、本音なのだ。
そう思ってみると、今回の動きが、不可解でも何でもないということが、よくわかる。
むしろ、政治家の本音がいちばん剥き出しになった選挙といえるのではないだろうか。
さて、僕が1日だけ選挙運動の手伝いをした都議会議員は、その後どうなったか。
彼はその後、国政に進出し、いろいろな政党を転々として、ある政党の役付きに至るまで出世した。
ところが今度の総選挙では、その政党を離党し、別の政党から立候補するのだという。
そうか。
大学時代に、あの友人が僕に語った、「政治家になれるんだったら、どの党から出馬してもいい」という言葉は、彼が心酔した、その政治家の言葉だったんだな。
その政治家というのは…。
話を変えよう。
以前、全然右寄りとは思えない友人から、曾野綾子の本を薦められたことがある。曾野綾子の書く新書がバカ売れしていた頃の話である。
「面白いから読んでみたら」
と言われたのだが、曾野綾子という人物がどのような思想信条を持っているかを知っていた僕は、友人が薦めてきたことに、少なからずショックを受けた。
おそらくその友人は、曾野綾子がどのような思想信条を持っているか、ということについてはほとんど無頓着で、純粋に面白いと思ったから、僕に薦めてきたのだと思う。
しかし曾野綾子の思想信条を知っている僕からすれば、たとえそれが親しい友人から薦められたものであっても、読む気が起こらないのである。
僕は長らくこの体験が喉の奥に刺さった小骨のように気になっていたのだが、昨今の投票行動を見て、これが意味することがなんとなくわかるような気がした。
ひょっとして、多くの人々にとって、政治家や文化人がどのような思想信条を持っているかなんてことは、関心の外にあることなのではないだろうか。
それよりも、溜飲が下がる思いがしたり、聞き心地がよかったりすることのほうが評価されるのではないだろうか。
「政治家は、自分の主義主張は二の次で、当選するためならばどの党からでも出馬する(ただし○○党以外)」
と、
「有権者は候補者の思想信条には無頓着で、聞き心地のよいことのほうが評価される」
という、この二つの原理が、今回の総選挙の、一見不可思議とも思われる候補者と有権者の行動を、突き動かしているように思うのである。
…ささ、またパロディーを考えなくては。
(ちなみに今回のタイトルは、「その男、凶暴につき」のパロディーです)
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