まあだだよ
昨日、たまたまテレビを見ていたら、立川志らくが出ていて、師匠の立川談志についてのエピソードを語っていた。
志らくの談志に対する師匠愛は、尋常ではない。
志らくは、談志が好きな古い映画、古い歌謡曲を、片っ端から見たり聞き込んだりして、談志と対等に話ができることをめざしたという。
自分が惚れ込んだ人の好きな映画や歌謡曲を、自分の中に取り入れていくというというのは、その人と自分が同化することを意味する。これ以上の師匠愛はないだろう。
他の弟子たちは、そこまでして談志と同化しようとはしなかったと、志らくは誇っている。
談志も談志で、そんな志らくのことを弟子の中でいちばんかわいがっていた。
そりゃあ、兄弟子の志の輔や談春が、志らくを嫉むわけだ。
ことほどさように、師匠愛とは、師匠に対する秘めたる思いに彩られている。
さて先日、黒澤明監督の遺作「まあだだよ」がテレビで放送されていたので、久しぶりに見た。
法政大学でドイツ語教師をしていた内田百閒と、その教え子たちの交流を描いた物語である。
公開当時、劇場で見たのだが、どうにも私には、退屈で、面はゆい映画にしか思えなかった。
今回、久しぶりに見てみて、その感想は変わらなかった。
多くの人が指摘するように、感想は次の1点につきる。
「内田百閒先生が人間的に魅力的だというのはわかるが、なぜあそこまで教え子たちに慕われるのかがよくわからない」
もちろん、内田百閒の文章を読んだことのある人ならば、内田百閒の人間的魅力というのは、よくわかるはずである。だが、内田百閒を知らない人がこの映画を見たら、かなりどん引きするのではないか、というくらい、全体にわたって「百閒先生礼賛」の描写が続くのである。
また、内田百閒を演じた松村達雄に、映画という短い時間の中で、内田百閒の人間的魅力を表現させるというのは、あまりに酷というべきである。
映画の中で、メインとなるのは、百閒先生の誕生日を祝う「摩阿陀会」という宴会のシーンである。
摩阿陀会には、何十人という百閒先生の教え子たちが集まり、1人1人が、百閒先生に対する思いを述べていく。
そして、誰からともなく「仰げば尊し」の歌が口ずさまれ、それがやがて全員による大斉唱となる。
ちょっと異常なくらい、百閒先生に対して教え子たちが慕っているのである。
映画を見ている私は、まったく縁もゆかりもない先生と教え子の同窓会に紛れ込んでしまった感覚となり、なんともいたたまれない気持ちになっていく。
黒澤明は、なぜこのような映画を撮ったのだろう?
いまはすっかりなくなってしまったが、かつては存在した「人間的な魅力に溢れた先生と、それを慕う教え子たち」「先生を盲目的に思慕する感情」といったものを、美徳として描きたかったのだろうか?
しかし、それはあまりにも時代遅れの感覚である。
どうにも謎だったのだが、「春日太一、サンキュータツオ、宮地昌幸の偏愛映画放談」というサイトで、映画評論家の春日太一さんが次のような発言をしているのを読んで、溜飲が下がった思いがした。以下、長いが、引用する。
「春日:実は週刊文春の連載100回目でこれ(「まあだだよ」)を取りあげたんですよ。
タツオ:それ、何年くらい前ですか?
春日:去年ですね。100回記念でやろうという。仲代達矢さんや野上照代さんといった黒澤の周りにいた人たちとお話をするようになって、黒澤の当時のメンタリティや考えなど、色々な事を知るようになってから見直したことで、全く感想が変わってしまった作品で。
週刊文春の連載でも頭の段落で、「キャリア後半の黒澤作品全般がそうなのだが、本作は退屈な映画だ」と僕は書いているんですよ。はっきり言って、最初に劇場で見た時の感想は、退屈だなと。何が退屈かというと、やはりあれだけ門下生がやって来てひたすら感謝、感謝と。
(門下生が)2時間ひたすら感謝を言って、それに対して「うんうん」と言っている先生という話で、「もう巨匠、何やってんの!」と。そんなのが気持ち良いのかというような気分になってきて、むず痒くなってきたというか。そういう感じをずっと見させられているような気がしたんですよね。「巨匠と弟子たちの織りなす幸せな空間」みたいなものがあったんですけど。それが(取材を通じて)自分の中でどんでん返しが起こって。要は「それが出来なかった黒澤」のファンタジーを込めた作品だと思ったとたんに、切ないなって。「こうありたい自分」、というんですかね。
.
タツオ:慕われたい、という。
春日:それで気付いたのが、この映画って『影武者』の裏返しなんですよ。『影武者』は仲代さんが言うには、影武者になる盗人、皆あれがドラマのポイントだと思って、どちらかというとあの盗人に感情移入して主役だと思っているんですけど、黒澤はその解釈は「そうじゃない」と言うんだそうです。「『影武者』の主役は武田信玄であり、信玄の死後、彼のために死んでいく人間たちの話だ」と。「それだけのカリスマ性が武田信玄にはあり、そして最後にはあの盗人すらも信玄のために命を落としてしまう。その信玄の話であり、そして信玄は俺である」というのが黒澤の考え方だったわけです。つまり、基本的なのは「俺のために動け」、「俺のために働け」、そして「そのくらい俺を慕ってくれ」というのがあって。状況は変わるんですけど、長篠の戦で信玄のカリスマ性のために凄まじい突撃をかけて鉄砲の前に死んでいく武田の家臣たちと、この『まあだだよ』で必死こいて猫探しをする井川比佐志(高山役)と所ジョージ(甘木役)というのは実は同じなんだということに気付いて、「切ないな黒澤」と。(現実では弟子が)一人ひとりと人が離れていってしまって誰もいなくなって、訪れる人もいなくなってしまった一人の老人が、皆が「先生、先生」と訪ねてくる映画を作っていることを考えると・・・
タツオ:これ、『夢』の続編ってことですよね。「こんな夢を見た」って。
春日:そうです。夢だとしか思えないわけですよ。
タツオ:「恥ずかしくて言えないけど、みんな俺の事を愛してくれ」って。
春日:本当にそうなんですよ。「愛してくれ」という映画で。そう気付いた時に全然違う見え方がして、ここまで愛され抜いている先生というのが、ああ黒澤はこうなりたかったんだなと思ったんですよね。というのが僕の感想です。」
以上、引用終わり。
なるほど。この映画「まあだだよ」は、映画「夢」の続編と考えれば、納得がいく。
年老いた映画監督が、自分の理想的な「夢」を、忠実に映像化したものなのだ。
そして、あの誕生会の場面は、自分の願望でもあったのだ。
それで思い出したのだが、私の知り合いに、自分が還暦になった時に、自分で還暦祝賀会を企画して、かつての教え子たちを集めて、パーティーをした、という人がいる。
「みんな、俺のことを慕ってくれ」という気持ちが、そのような行動に駆り立てたのであろう。
黒澤明も、本心ではそう思っていたのか?
そう考えると、この映画は、なんとも切ない。
わざわざパーティーを開いて先生を慕う気持ちをスピーチであらわさなければ、師匠を慕う気持ちというのは、通じないものなのか?
志らくのように、師匠と同化したいと思うあまりに、師匠の好きな古い映画や歌謡曲を全部自分の中に取り入れることもまた、秘めたる師匠愛である。
黒澤明監督は晩年、おそらく多くの人たちが離れていったのかも知れないが、たった1人、最後まで黒澤明のもとを離れずに、師と仰いだ人がいた。
小泉堯史である。彼は、「まあだだよ」の助監督をつとめている。
黒澤監督の死後、小泉堯史は、黒澤明の精神を継いで、映画監督としてデビューした。
小泉監督の最初の映画「雨あがる」(黒澤明脚本)では、黒澤明監督の映像テクニックを駆使し、まるで黒澤明と同化したような作品に仕上がっている。
それだけで、もう十分なのではないか。
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