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日記の基本原則

こぶぎさんのクイズの答えが、わからない。

以前ならば、神経を研ぎ澄ませてコメントの文章を読んだり、ネットを駆使したりして喫茶店の名前を見つけ出そうと思うのだが、いまはその気力がない。

それはともかく。

いま読んでいる山下洋輔『ドファララ門』は、とても中身が濃い。

なにより、登場人物が多い。

ジャズの知識はもちろんのこと、クラシック、伝統音楽、さらには、世界史や日本近代史の知識がなければ、とてもついていけない。

これくらい中身の濃い本を、書いてみたいものだ。

こんな一節があった。

山下洋輔の母方の祖母、直子おばあちゃんが亡くなった時の記述である。

「やがて(直子おばあちゃんは)亡くなって、葬儀か何かがあったはずなのだが、あまりよく覚えていない。覚えているのは当時付けていた日記に、そのことを一切書かなかった、ということだけだ。同じ頃に友人準一のおばあちゃんが亡くなっているが、それは日記に書いている。しかし、直子おばあちゃんが亡くなったことは書かなかった。本当に悲しいこと、本当に大変なことは、人生の記録から消し去ってしまう、という性質なのかもしれない。これについては、最近、興味深い記述に出会った。『日記の基本原則は、最も重要なことは記述されない』というおのだ。これは、日記研究家の山本一生氏のご高説だが、それをおれ自身が証明していた」

なるほど、その通りである。このブログも、最も重要なことは記述していない。

最近、SNSというものについて、よく考えることがあるのだが、あれこそまさに、重要なことはなにひとつ記さないという原則にのっとっているではないか。

たまに、かなり赤裸々な個人情報まで書いていたりするのを見かけたりするが、まあそれも、事態が深刻ではないという判断のもとに書いているのだろう。

コメント、というのも見ていると面白い。

「今回は行けなくて残念」

「今度は絶対に行こうね」

「そうだね」

みたいな上滑りした会話を、みんなが見ている前で、いわば社交辞令として書けるという才能が、僕には全然ないのだ。

ああいう才能のある人、というのが、社交的な人なのだろう。

僕にはまねのできないことである。

そして、自分にとって信頼できる友人に、そういうことをコメントで書かないタイプの人が多いということに、気づくのだ。

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コメント

あのコメントには、最も重要なことを記述しちゃっているんですけど...

我ながら大胆不敵、うっしっし。

投稿: 例外こぶぎ | 2017年9月19日 (火) 18時03分

なあんだ。コメント欄の中に答えを書いちゃっていたわけね。そしてダメ押しの「うっしっし」。

写真を見てみると、たしかに「赤いビロウド張りの椅子」だ。

どうしてすぐに見つけられなかったんだろう…。

投稿: onigawaragonzou | 2017年9月20日 (水) 00時53分

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