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「判断を委ねられる」という魔法

9月19日(火)

以前、ある先生と、韓国を旅していた時のこと。

私たちを案内してくれていた韓国の方が、

「昼食は何がよいですか。ビビンバにしますか?それとも豆腐料理にしますか?」

と、その先生に聞いてきた。

だがその先生は、私のほうを見て、

「鬼瓦君に判断を委ねるよ」

というのだ。

それも、1回限りのことではなく、何度も私に判断を委ねてくる。

判断を委ねられたこっちは、プレッシャーである。

判断を間違えて、イマイチの料理だったら、あとで延々とそのことでからかわれる。

判断を委ねられる、というのは、それだけで私にとってはストレスなのだ。

しかし私は、どうも昔っから、判断を委ねられるタイプである。

ここ最近、体調が悪くて、いろいろな仕事を同僚たちに代わってもらったりしている。

「鬼瓦さんは、よけいな心配をせずに、どうか休んでいて下さい」

といわれるのはありがたいのだが、一方で、

「すみません。この場合は、どうしたらいいでしょうか。判断をお願いします」

「こんな感じでいいでしょうか、ご判断下さい」

と言われたりする。

なんだよ、結局俺が判断するのかよ!

と突っ込みたくなるのだが、たいていは私が言い出しっぺの仕事だったりするので、致し方ない。

会議でも、

「ではこの件につきましては、鬼瓦さんにご判断いただくということで…」

仕事だけではない。高校時代の仲間と飲み会を企画する時なんかもそうだ。

企画者は別にいるのだが、たとえば、最終的に飲み会の日程の候補日が2つになった場合、

「○日がいいか×日がいいか、鬼瓦先輩が判断して下さい」

と言われたりするのだ。

そんなもん、企画者が判断しろよ!と思うのだが、なぜか、知らない間に「判断を委ねられる」側にまわってしまうのだ。

俺は「水曜どうでしょう」の大泉洋じゃないんだから!

藤村D「大泉さん、カッパを着るか着ないか、早く判断しないと!」

大泉「ま、まだ大丈夫です」

藤村D「ものすごい雨ですよ。もう手遅れですよ。早く判断して下さい」

大泉「わ、わかりました!カッパ着ます!」

藤村D「大泉さん、判断がちょっと遅かったな」

大泉「…何も私に判断を委ねなくても」

(『原付ベトナム縦断1800㎞』より)

ベトナムのめまぐるしい天気の変化に翻弄されながら原付バイクでベトナムを縦断する大泉洋と、それを車中からディレクションする藤村Dのやりとりを見て、まさにこれは、「判断を委ねられる」という魔法だ、と思った。

知らず知らずに自分が判断を委ねられる側にまわる…。

こういうのを何て言うの?マジシャンズセレクト?ちょっと違うか。

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