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2017年10月

不便な便利ツール

うーむ。これは官公庁とか、自治体にお勤めの方に聞きたいのだが。

最近、私物のUSBを役所のパソコンにつなげるとか、役所のメールアドレスに添付ファイルを送る、といったことが、できなくなっているらしい。

どこの自治体もそうなのだろうか?

昨日、イベントが始まる前に、USBに入れたパワポのファイルを、役所のパソコンに移そうとしたところ、

「ダメです。役所のパソコンに、USBをつなげることは禁じられています」

と言われた。ウィルス対策、ということなのだろう。

「どうすればいいんです?」

「DVD-Rに焼いたものであれば大丈夫です」

だが、まさかDVD-Rが必要だとは思っていなかったので、用意してこなかった。

結局、自分のパソコンをプロジェクタにつないで、パワポを投影することで、事なきを得た。

そして今日。

別の自治体の方から連絡があった。

「あのう…先日、添付ファイルを職場のメールで送っていただいたと思うのですが、セキュリティーの関係で、添付ファイルがはじかれてしまいました」

「そうですか。どうすればいいでしょう」

「では、私の個人アドレスにお送りください」

「わかりました」

お送りしてしばらくして、連絡があった。

「あのう…私の個人アドレス宛にお送りいただいた添付ファイルもはじかれてしまいました」

「え?なぜです?」

「個人アドレスに送られてきたメールを、職場で見るために職場のメールアドレスに転送しているんですが、その時点でどうもはじかれてしまったようです」

「なるほど、それはそうでしょう。では、大容量ファイルをダウンロードできるサイトに、アップロードしましょうか?」

「それもダメです。職場のメールでは開けません」

「そうですか…」打つ手なしである。

「まことに申し訳ありませんが、DVDーRに焼いて郵送していただけませんでしょうか」

「はあ、わかりました」

うーむ。時代が逆戻りしてしまった印象である。

15年くらい前までは、原稿をCDーRに焼いて郵送する、なんてことはよくあったことだった。

いまでは書類や原稿をやりとりするのに、USBやメールの添付ファイルが主流を占めるようになったのだが、ここへ来て、それが封じられてしまったのである。

そしてCDーRとかDVD-Rといった記録媒体が、再び脚光を浴びることになったのだ。

ここで私の中で疑問がわき起こる。

世の中は、どんどん進歩していっていると言われているが、はたして、どんどん便利になっていっているのだろうか?

進歩すればするほど、不便になるような気がしてならないのだ。

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無事じゃなく終わりました

10月29日(日)

TBSラジオ「神田松之丞 問わず語りの松之丞」で、パーソナリティーの神田松之丞が、毎回、番組の最後に必ず言う、

「今日も無事じゃなく終わりましたけどもね…」

というフレーズが気に入っていて、自分もいつかこのフレーズを使ってみたいと思っていた。

ひょっとして今日がその日か?

はたして今日のイベントは、無事に終わるのか?

心配事が3つあった。

ひとつは、自分の体調の問題。喋っている途中で倒れたりするんじゃないだろうか、という不安。

二つめは、このイベントを企画した、大学時代の1年上の先輩が、よくいえば土壇場で力を発揮するタイプ。悪くいえば土壇場が来るまで力を発揮しないタイプの人なので、この人の仕切りでうまくいくのだろうか、という不安。

イベント前の先輩の様子を見ると、緊張でガッチガチの様子である。

三つめは、台風である。予報によれば、イベントがちょうど始まる時間くらいに、台風が最接近するというのである。午前中からかなりの雨である。

ただでさえ地味な企画なのに、雨が降ったら、お客さんが来てくれないんじゃないだろうか。

不安のまま、イベント開始時間を迎えた。

午後1時15分、イベント会場に入ると、三つめの心配事は杞憂に終わった。230名くらいのキャパの会場に、150名くらいのお客さんが入っていた。

午後1時30分、イベント開始。主催者である先輩の趣旨説明のあと、僕が45分、壇上で喋ることになっていた。

一つめの不安も、なんとか乗り越えた。予定の45分を少し10分ほどオーバーして、喋りきった。

そして、二つめの不安についても、ほぼ解消されたといってよいだろう。土壇場で吹っ切れたのか、シンポジウムでの先輩の司会ぶりはかなり強引で、時折僕にムチャブリな質問を投げかけたが、そこはそれ、なんとか乗り切った。

ということで、午後4時15分、予定の時間を少し過ぎて、イベントは無事に終了したのである。

控え室に戻り、窓の外を見たら、晴れ間がのぞいていた。

(これで安心して帰れる…)

みなさんとお別れして、駅から在来線に乗り、1時間ほどで「新幹線のとまる駅」に着いた。

しかし、である。

新幹線に乗ったとたん、「台風による大雨の影響で、新富士~掛川駅間で運転を見合わせております。再開の目処は立っていません」という車内放送があった。

そうだった。こっちは台風が過ぎ去ったが、関東地方はこれからだったんだ。

「これから少しずつ走り出したとしても、ホームのないところで停車する可能性があります。降りるなら、いま決断してください」

的な車内放送があり、

(これはいよいよ車中泊か?)

と覚悟したが、30分ほどして、なんとか運転を再開した。

だが最終的には60分遅れで到着。最寄りの駅から自宅までの最終バスに間に合いませんでした。

…ということで、今回の旅は、無事じゃなく終わりました。

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台風・激痛・懇親会

10月28日(土)

新幹線と在来線を乗り継いで、6時間ほどかかって目的の町に着く。

台風が近づいているということで、雨が降っていた。

明日は、この町にある施設でおこなわれるイベントで、45分ほど喋ることになっている。

体調はあまりよくないのだが、1年くらい前から決まっていた話だし、何より大学時代の1年上の先輩からの依頼なので、断るわけにはいかない。

せっかく呼んでいただいて、先輩にご迷惑をかけるわけにもいかないので、先週は喋る内容を必死で準備した。

しかし、このテの仕事、つまり人前で喋る仕事は、いまだに慣れず、前日になると憂鬱でたまらなくなる。

それに加えて、ここ最近、両足の裏にデキモノのようなものができて、1歩1歩歩くたびに両足の裏に激痛が走るのだ。

だからできるだけ歩きたくないのである。

しかし駅からホテルまで、6分ほどの道のりである。タクシーに乗るまでもないので、雨の中を、重い荷物を持って歩くことにした。

(アイタタタタタ)

ホテルにチェックインしてほどなくして、午後6時頃に明日のイベントのスタッフの方が迎えに来てくれた。

いわれるがままに車に乗る。

6時半から懇親会ですといわれていたので、このままお店に行くのかなと思ったら、先輩のいる職場に連れて行かれた。

エレベーターで5階まで行き、そこから長い廊下を歩いて先輩のいるフロアに行く。

(アイタタタタタタ)

とこらえながら、なんとか到着した。

「お疲れさまです。明日はよろしく」

「よろしくお願いします」

「じゃあ、下に降りましょう」

ええええぇぇぇ!これだけ?

また長い廊下を

(アイタタタタタ)

とこらえながら歩き、エレベーターで下に降りて、建物を出た。

しとしとと雨が降っている。

どうやらやっと懇親会場に移動するようだ。

「ここからどのくらいかかるんです?」

「歩いて15分くらいです」

ええええぇぇぇぇぇぇっ!

この雨の中を、激痛の足をこらえながら15分も歩くのか!

(アイタタタタタ)

「足、大丈夫?」と先輩。

私の歩き方が、見るからにおかしかったらしい。

「ちょっと、両足の裏にデキモノができまして…」

歩くこと15分。ようやく、懇親会場の居酒屋に到着した。

中に入ると、店員さんが言った。

「予約された方ですね。お2階へどうぞ」

ええええぇぇぇぇぇぇっ!

このうえ、まだ2階にのぼらされるのか!

(アイタタタタタ)

ようやく座敷に到着した頃には、肌寒い季節なのに汗だくになっていた。

懇親会じたいは、いい雰囲気で終わった。

午後8時半。店の外に出ると、雨が少し激しくなっていた。

(当然、歩いて帰るんだよな…)

帰り道がわからなかったので、先輩が私のホテルまで連れて行ってくれた。

もちろん、歩いて。

(アイタタタタタ)

ただ、帰り道を歩いていて一つだけいいことがあった。

この町で、全国チェーン書店の「本店」を見つけたことである。

「あ、ここが全国チェーン書店の本店ですね」

「そうだよ」と先輩。

「でもこの本屋さん、以前に調べてみたら本店と名の付く店がこの町に4つあったと思うんですが、どの店が正真正銘の本店なんです?」

「この店だよ」

なるほど、前にこぶぎさんが言っていたのは、このお店のことだったんだな。

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○○を語るように政治を語る

さて、これでひとまず、選挙にかかわるお話はおしまい。

政治を語るとはどういうことなのか、僕なりの表現方法を考えたつもりだが、どうもうまくいかなかった。

落語を語るように政治を語ろう

童話を語るように政治を語ろう

昔話を語るように政治を語ろう

風俗を語るように政治を語ろう

文学を語るように政治を語ろう

「風俗を語るように政治を語る」とは、久米宏が座右の銘としている言葉で、もとは大宅壮一の言葉だそうである。

そのひそみに倣って書いてみたのだが、愚鈍な僕よりも、もっとうまく書ける人がたくさんいるはずである。

「風俗を語るように政治を語る」文化もまた、絶やしてはならない市民の文化であり、智恵であると思う。

「政治を市民の手に!」とは、そういうことなんじゃないだろうか。

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文学を語るように政治を語ろう

10月22日(日)

僕は、司馬遼太郎の文体が、あまり好きではない。

よく、司馬遼太郎と松本清張が、歴史小説の巨頭として比較されたりすることがあったが、僕は断然松本清張派であった。

なので、司馬遼太郎の小説の熱心な読者ではなかった。いまもそうである。

そんな僕が、時代劇ドラマの中でいちばん大好きなのが、1981年のお正月に、TBSテレビで3夜連続で放送された、司馬遼太郎原作の『関ヶ原』である。

いまでも、DVDをくり返し見たりするほどである。

たぶん、これをこえる時代劇は、もうあらわれることはないだろう。いま上映中の映画『関ヶ原』を見たわけではないが、きっと足下にも及ばないはずだ。

なにより、出演陣が、これ以上にないというほど豪華である。徳川家康=森繁久弥、その謀臣の本多正信=三國連太郎、石田三成=加藤剛、その腹心の島左近=三船敏郎。この4人を中心に、物語が展開する。そのほかに登場する俳優たちも、これ以上にない布陣である。

どう逆立ちしたって、今の時代にこれだけの俳優を集めることはできない。

合戦場面はこのドラマのメインではなく、そこに至る人間ドラマに重きを置いている。

おそらく司馬遼太郎の原作がそうなのだろうが、それに加えて、早坂暁の脚本が実に秀逸である。

それに、TBSテレビの名作ドラマを量産した高橋一郎や鴨下信一が演出である。

つまり、脚本、演出、出演陣とも、これ以上にない顔合わせなのである。

さらに、音楽を担当したのが山本直純!このドラマのために作ったテーマ曲は、名曲中の名曲である!いまでも僕はくり返し聞いているほどである。

このドラマの中で、徳川家康と石田三成は対比的に描かれる。

権謀術数を使い、あの手この手を使って次第に勢力を拡大していく家康。

豊臣家への忠義にあつく、理想主義者で正義感の強い石田三成。

司馬遼太郎は、石田三成を義に生きる人物として評価し、これまでほとんど脇役に過ぎなかった彼を主役にすえた小説を書き上げたのである。ドラマでも、この視点を踏襲している。

豊臣家の権勢が揺らぎ、家康が力を持っているとみると、大名たちは露骨な媚態を見せて家康に擦り寄っていった。石田三成はその醜悪さを激しく嫌悪し、義を立てるという信念から、家康と戦うことを決意するのである。

関ヶ原の戦いでは、東軍(家康側)よりも西軍(三成側)のほうが、多くの軍勢がいたにもかかわらず、最後の最後で、惨敗を喫する。

理想を語り、その理想を支持するものが多数いたにもかかわらず、なぜ、石田三成は負けてしまったのだろう?

理想だけでは勝てない、ということなのだろうか。

もちろん、真実の歴史はどうだったのか、石田三成は本当に理想主義者だったのか、それはわからない。

あくまでも、司馬遼太郎の史観にすぎない。

しかし、司馬遼太郎がこのように描いてみせたのは、現代に生きた司馬遼太郎が、この国に染みついた政治風土と重ね合わせたからではないだろうか。

選挙が終わって思ったことは、そんなことである。

くり返すが、僕は司馬遼太郎の熱心な読者ではないので、理解が十分ではないことをお断りしておく。

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風俗を語るように政治を語ろう

10月21日(土)

この国を代表するアイドルグループが、昨年末に「解散」した。

5人の男性からなるグループで、芸能界を牛耳る大手芸能事務所に所属していたが、「解散」後の5人の立場は、さまざまだった。

1人は、大手芸能事務所の幹部の覚えもめでたく、体制派を貫いて事務所にとどまった。

1人は、「解散」前から大手芸能事務所のやり方に不信感を持っていたが、今後のことも考えたのか、結局「解散」後も事務所にとどまった。

あとの3人は、「解散」からしばらくして、大手芸能事務所を辞めた。事務所の呪縛から解き放たれ、自由の身になったのである。

大手芸能事務所の方針にしたがう体制派。

大手芸能事務所に不信感をいだきながらも、生き残りのために自分の身を守った残留派。

大手芸能事務所に「排除」されたリベラル派。

テレビ局は、大手芸能事務所の意向を「忖度」して、「排除」されたメンバーの出演番組を打ち切ったり、露出を少なくしたりした。

「排除」された3人のうち、1人は孤高の「無所属」のようで、2人はラジオ番組で共演したりしている。

かくして、5人の置かれた立場は、さまざまになった。

このアイドルグループの「解散」をめぐる一連の動きと、それをめぐる大手芸能事務所やマスコミの対応を見ているとまるで、今のこの国の政治状況を見ているようである。

SMAPは、この国の政治風土の縮図なのだ。

もちろん僕は、「排除」された3人を支持する。

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原点の場所

10月20日(金)

朝、今日の出張先である事務所にうかがう。

1カ月ほど前だったか、事務所の方から、一度こちらに来てもらえないでしょうかと、調査依頼が来た。

そのころ体調が最悪だった僕は、行けるかどうか不安だったが、ちょうど10月19日(木)にその事務所がある県の別の町に、職場の業務で出張する予定だったので、それに合わせてうかがいますと返事をした。

しかし同じ県といいながら、前日の用務先から鉄道で2時間半もかかったことは、前回述べた。

とはいえ、この事務所からの依頼は、絶対に受けなければならない。

個人的な思い出を述べれば、いまから20年ほど前、僕がまだ大学院生だったころ、当時の師匠が調査を依頼されて、カバン持ちとしてはじめて同行したのが、この事務所だった。

つまり僕にとっては、原点の場所なのである。

あれから20年。

20年の間に、何かあるたびに呼んでいただけるようになった。

落語の世界に例えればですよ。弟子になりたてのころ、師匠の高座のカバン持ちで初めて訪れた寄席に、いまは自分が上がっている心境。

ナンダカヨクワカラナイ。

今回の調査も、予想以上の収穫だった。

依頼された調査が実を結ぶかどうかは、自分がどれだけ積極的にかかわれるかどうかにかかっているのだということを、20年前に、この場所で学んだ気がする。

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黄金色の季節

10月19日(木)

前日、O市に泊まった僕は私は、翌朝、K市に向かう。

そこで、職人さんと一緒に、打ち合わせをおこなった。

職人さんと仕事をするのは久しぶりで、勘が戻るか不安だったが、進めていくうちに勘が戻っていき、なんとか責を果たす。

まだ明るいうちに仕事が終わり、汽車で明日の仕事先に移動する。

同じ県内なのだが、在来線を乗り継いで2時間半ほどかかる町なのだ。

長距離移動は身にこたえるが、空気がいいのと、気持ちよい晴天なので、苦にならない。

窓の外を見ると、稲刈り直前の田園風景が広がる。

黄金色の季節なのだ。

Photo_2

2時間半ほどして、目的の町に着く。

駅を降りると、選挙カーでまわっている与党候補者の声が聞こえた。

「どうかまた、この私を国政に送ってください。私を支えてくれるのは、この町のみなさましかいないのです!選挙戦最終日にも、必ずこの町にうかがいます!」

かなり悲痛な叫びを連呼していた。与党候補者は、この町の出身者らしい。

この県は、どの選挙区も三つどもえの争いを繰り広げているが、この選挙区は、候補者3人のうち2人が前職、1人が新人である。

かなり厳しい戦いなのだろうか。

…これだけでは、僕が何という駅で汽車を降りたのか、わかるまい。

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浅見光彦と金田一耕助

10月18日(水)

復活、といえば、テレビ朝日系のドラマ「相棒」のシーズン16の放送が始まった。

初回ということで見てみたが、内容は少しアレな感じだった。

しかし見ていてそのキャスティングに驚いた。

浅見光彦を演じた役者が、勢揃いしているのである!

たぶん、サスペンスドラママニアはすぐに気づいたことだろう。

水谷豊、榎木孝明、中村俊介。いずれもドラマで浅見光彦を演じた俳優である。

そればかりではない。

石坂浩二と田辺誠一は、かつて金田一耕助を演じている。

しかも石坂浩二に至っては、市川崑監督の映画「天河伝説殺人事件」では、浅見光彦の兄の役を演じている。こうなるともう、何だかワカラナイ。

ツイッターで、こんなツイートを見つけた。

「浅見光彦が首を突っ込んだ事件で犯人の浅見光彦が浅見光彦を告訴して浅見光彦が浅見光彦を潰すために暗躍、金田一耕助が浅見光彦の後ろ盾になる第1話、次回に続く」

これだけで傑作だが、これにもう少し手を加えてみて、

「浅見光彦が首を突っ込んだ事件で犯人の浅見光彦が浅見光彦を告訴して浅見光彦が浅見光彦を潰すために金田一耕助を使って暗躍、浅野光彦の兄である金田一耕助が浅見光彦の後ろ盾になる第1話、次回に続く」

というのはどうだろう。

それぞれの浅見光彦、金田一耕助が、誰にあたるのか?それはドラマを見た人にしかわからない。

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復活、ではない

10月18日(水)

今月は、出張が4回ある。

1回目は、10月8日(日)~9日(月)にかけての「前の勤務地」への出張。これは無事に終了したが、その後少し体調を崩した。

2回目は、10月15日(日)~16日(月)にかけて、「プラハ出身の世界的文学者の名前を店名にしたブックカフェ」のある町。残念ながら、そのお店は閉店してしまったが。

例年のこの出張は、日数も長く、作業量も多いので、体力的に無理かなあと思い出張を辞退しようとも考えたのだが、今年は、作業日が1日だけということで、当初の予定通り行くことにした。しかし1泊2日とはいえ、例年よりもかなり疲労した。

やはり、長距離移動はこたえるのだろう。

3回目は、10月18日(水)~20日(金)にかけて、北の町への出張である。つまり今回。

4回目は、月末に、関西よりも西の方へ行くことになっている。

いつも不思議だなあと思うのは、僕の出張スケジュールが多くの場合、北へ向かう出張と、西へ向かう出張が、交互にめぐってくる、ということである。

まことに無駄な動きであるが、仕方がない。

さて、今回の旅の最初の目的地は、家から新幹線と高速バスを乗り継いで、5時間半ほどかかる町である。

当初は、新幹線で終点まで行き、そこから在来線を乗り継いでいけば到着するだろうと考えていたのだが、乗り換えアプリで調べてみると、それよりも早くたどり着ける方法があることを知った。

まず、北へ向かう最速の新幹線で、ある県の県庁所在地のある駅まで行き、そこから高速バスに乗り換える。

その駅から出ている高速バスに乗れば、その終点が、僕がめざす目的の町である。

…にしても、バスで2時間半はかかる。

目的の町に近づくと、時節柄、窓の外から選挙の候補者のポスターが目に入る。

どこかで見た顔だなあと思ったら、昨年、国会である法案を審議しているときに、まったくもって頓珍漢な答弁をしていた大臣のポスターだった。

そうか。あの大臣は、この選挙区だったのか。

…そんなことを考えているうちに、目的の町に到着した。

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ある思い出

僕は現政権、とくに現首相をまったく支持していない。

それは、ひとえに個人的な事情によるものである。

10年以上前だったか、2年間ほど、極秘の仕事をしたことがある。

どれだけ極秘の仕事かといえば、自分がその仕事をしていることを、誰にも言ってはいけない、というほどの仕事である。

なにしろ、毎年数十万人の人の運命を左右する仕事なので、仕事の成果物は、公平、公正、正確さなどが求められた。情報が漏洩したり、一部の人に有利にはたらかないよう、当然のごとく、その仕事は極秘とされていたのである。

だからとても緊張を強いられた仕事だった。

僕がその仕事につく前の年、ある事件が起こる。

世間に公表された、その年の成果物が、一部の政治家によって問題とされたのである。

成果物の内容が、右派の政治家にとっては、面白くないものだったのだろう。

2人の政治家が、直接「申し入れ」をしてきた。「申し入れ」というよりは、「言いがかり」である。

こんな内容はけしからん、と。

そして次のような要求をしてきた。

このような偏向的な成果物が、今後作られるようなことがあってはならない。ついては、今後、この仕事に携わっているすべての人間の氏名を公表すべきだ、と。

つまり、こんな偏向的な成果物を作ったやつは誰なのか、氏名をさらせ、というのである。

まったくムチャクチャな要求である。

もちろん、任期が終わった後、ある程度の時間が経てば、自分がその仕事についていたことを公表することは差し支えないことになってはいたのだが、全員の氏名を問答無用で公表するなどというのは、信じがたいことである。

氏名を公表することにより、情報の秘匿が守られなくなる可能性がある。

もう一つは、氏名をさらすことにより、身に覚えのない攻撃にさらされる可能性も出てくる。

つまりこれは脅しであり、政治的圧力なのだ。

今後、政権に都合の悪い成果物を出すな、という脅しである。

その仕事を統括している機関は、翌年の担当者、つまり僕がその仕事についた年から、氏名を公表するという、苦渋の決断をした。

たぶん何らかの方法で、その仕事に携わった人間の1人として、僕の名前が世間に公表されたはずである。

この「事件」は、ほとんど報道されることはなかったと思う。

裏で政治家が、こんな圧力をかけている、なんてことは、ほとんど知られていなかっただろう。

その代わり、氏名を公表する、という報道もなされなかったので、今でいう「炎上」のようなことにはならなかった。

さて、その2人の政治家のうちの一人は、北海道選出の与党の大臣経験者であった。それから何年か後に、亡くなってしまった。

もう一人が、いまの首相である。当時は与党の幹部だったと思う。

僕は、自分の身に降りかかったそのときの出来事をきっかけに、彼をまったく許せなくなった。

僕は、彼にとっては、圧力をかけられる側の人間、あるいは弾圧の対象となりうる人間なのである、と、そのとき、認識したのである。

彼が首相でいるかぎり、そのようなことがくり返されるのではないか。

「こんな人たちに負けるわけにはいかない」

という言葉を市民に向けて吐いているのをみて、僕はあのときのことを思い出したのである。

…もう時間も経っていることだし、ブログの読者もほとんどいなくなっているので、ここだけの話として書いてみた次第。

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鎮魂の旅

「前の勤務地」に行ったときにお会いしたいなあと思う方の1人が、人生の大先輩である、Iさんである。

このブログにも何度か書いているが、Iさんは、県内の企業を退職されたあと、独学で自分の好きな研究に打ち込んだ。今は傘寿をこえるお年である。「前の勤務地」に住んでいた頃、僕はIさんから、いろいろなことを学んだ。

今回の映像イベントにも、僕からお願いして登壇していただいた。

前日の打ち合わせのときに、Iさんがカバンから1冊の本を取り出した。

「これ、遊びみたいな本ですが…」

「いただいていいんですか?」

「どうぞ」

Iさんがごく最近出された本だった。

Iさんの母方の先祖は、江戸時代の初めから続く石工だった。

しかし400年続いた石工稼業は、1970年代、19代で途絶えてしまった。

この本は、その400年にわたる先祖の足跡をたどったものである。

Iさんは、先祖の石工の話を、御母様から何度となく聞いていた。御母様はIさんにとって「語り部」だったのだろう。

Iさんは「まえがき」で書いている。

「母は三歳で死別した父の顔を知らずに生きてきて、平成のはじめに探し当てた、父親が写っている古ぼけた一枚の写真に涙を流し絶句していた姿を、いまも忘れることができない」

おそらくこうした御母様の姿が、先祖である石工の足跡をたどる旅に突き動かしたのではないかと僕は想像する。

稼業が途絶え、記録もほとんど残っておらず、「語り部」もいなくなってしまった今、400年にわたる石工たちの足跡は、県内各地に残る石碑にのみ、その名を残している。

Iさんは、石碑のなかに残るその石工たちの名を探して、「後世に記録のかけらを残していきたい」と思い立ち、県内を歩きまわり、調査を始める。

そして100点近くの石碑に、自分の先祖である代々の石工の名が刻まれていることを確認するのである。

Iさん自らが撮影した写真とともに、それぞれに簡単な解説が付されているが、この解説の文章が実に味わい深い。

一つ一つの石碑を、Iさんが愛着をもって見つめている様子がよくわかる。

各地を丹念に歩きまわり、石碑に刻まれた文字を読み取り、そこに、先祖の石工の名を確認し、記録にとどめる。

僕にはそれが、先祖をたどる巡礼の旅のように思えてならない。

そこで、過去に生きた人の声を聴く。

つまりこれは、対話である。

これまた僕が尊敬する、「眼福の先生」もまた、そのようにして過去の資料と向きあっておられる。僕はそこに惹かれたのだ。

本を読み終えて、あらためて思った。

僕は本来、Iさんがやっておられるようなことを、やりたかったのだ、と。

天下国家を論じたり、大言壮語の学問を立ち上げたり、大きな組織をまとめあげたり、といったことではない。

いまはすっかり埋もれてしまった、過去に生きた人の声を探しだし、思う存分、耳を傾けたい。

Iさんは「あとがき」のいちばん最後に、こう書いている。

「母との鎮魂の旅は終わりが見えてきた」

Iさんを突き動かしたのは、御母様への思いだったのだろう。

さて、これからの僕を突き動かすものは、いったい何だろう。

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想像ラジオ

10月9日(月)

3カ月ぶりの泊まりがけの出張である。

すべての仕事が終わり、さあ帰ろうとなったときに、歩けないくらいしんどくなった。たいした仕事はしていないのだが、やはり体力が相当落ちているようである。

しかし今回の仕事は面白い体験だった。

以前から、映像に関するイベントをやりたい、と思っていたのだが、それが、「前の勤務地」で国際的な映画祭がおこなわれているこの時期に、まさにその会場で実現したのである。

とはいっても、僕はただ企画の原案を出したくらいで、実際にそれを形にしてくれたのは、元同僚のSさんと現同僚のUさんである。

僕は体調不良のため全然準備のお手伝いができなかったのだが、せめてイベント当日には、何らかのお手伝いをしなければと思っていた。

で、そのイベントの打ち合わせのときに、古いフィルムの修復をしたりフィルムを高画質のデジタル映像に変換したりする会社の方に、いろいろとお話を聞くことができた。

なにしろこっちは、映像技術についてはド素人なので、聞くお話のすべてが新鮮である。

「最近は、視覚障害者が映画館で映画を楽しむための技術が開発されているんです」

「どういうものですか?」

「視覚障害者が映画を楽しむためには、副音声が必要でしょう?」

「ええ」

「あらかじめ、映像コンテンツのなかに、副音声を埋め込んでおきます」

以下の技術的な話は、知識のない僕が聞き取って書いているので、不正確な書き方をしているかも知れないが、お許しいただきたい。

「それを、映画館で映画を上映するときに、通常の音声と同時に、副音声もスピーカーから流すんです。ただし、人間の耳には聞こえない周波数に乗せて」

「はあ」このあたりの原理は、僕もちんぷんかんぷんである。

「いま、その周波数を変換するスマホのアプリがあって、それを使えば、通常は聞こえない副音声を聴くことができるんです。視覚障害者の方は、スマホから聞こえる副音声をイヤホンで聴けば、映画館の中で、ふつうに映画を楽しむことができるのです」

「なるほど。映画をふつうに見ている人には、通常の音声しか聞こえないけれども、スマホのアプリを使って周波数を変換して副音声を聴けば、視覚障害者の方も同じ映画館の中で映画を楽しむことができるわけですね」

「そういうことです」

うーむ。内容を正しく理解しているかどうか自信がないが、まあおおよそそのようなことである。

僕はこの話を聞いて、いとうせいこうの小説『想像ラジオ』のことを思いだした。

ある種の人々にのみ聞こえる、想像ラジオ。

たとえば、この世に、通常の周波数では聞き取れない、さまざまな声があったとしよう。

それは必ずしも、いま生きている者の声とは限らない。

失われた人たちの声は、現実にはもう聴くことができないが、もし失われた人たちの声が、生きている僕たちには聞こえない周波数で、いまもこの世界を飛び交っているとしたら…。

近い将来、僕たちがその人たちの声を聴くための技術が開発されるかも知れない。「想像ラジオ」を聴くための技術が、である。

そんな妄想をお話ししようとしたが、あまりにも恥ずかしいのでやめた。

ここだけの話にとどめておく。

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植木等とルパン三世

NHKの土曜ドラマ「植木等とのぼせもん」を途中の回から見て以来、いまのマイブームは、すっかりクレージーキャッツである。

動画サイトで、クレージーキャッツのむかしの映像を見まくっていたら、その中に、クレージーキャッツ結成30周年記念の特番というのがあがっていた。クレージーキャッツは1955年に結成されたから、1985年に放送された番組のようである。

ゲストとして、タモリ、ドリフターズ、萩本欽一といったそうそうたるメンバーが共演していた。

当時まだ若手だったタモリが、クレージーキャッツによる集団面接さながらの圧力のなか、日野皓正の物まねを披露していたりとか、クレージーキャッツとドリフターズのコントで、やはり当時若手だった志村けんがかなり緊張気味だったとか、欽ちゃんバンドと谷啓のコントを見ていて、欽ちゃんは、クレージーキャッツみたいな音楽ギャグをやりたくて「欽ちゃんバンド」をはじめたんだな、とか、いろいろな発見があって面白かった。

ちょうど先日、フジテレビ「とんねるずのみなさんのおかげでした」の30周年記念特番をやっていて、たまたま見てしまったのだが(どちらの30周年記念にも出演しているタモリもすごい!)、先輩芸人や後輩芸人に対するいじり方だとか、保毛尾田保毛男だとか、見ていて不愉快になっていたところに、クレージーキャッツのような、洗練された芸と、誰も傷つけない笑いを見て、とても安心したのである。

久しぶりにクレージーキャッツ結成10周年記念の映画「大冒険」を見た。

じつに痛快なアクション映画である。

世界で初めてワイヤーアクションを使用した映画といわれる。主演の植木等は、アクションシーンを、スタントマンなしで演じている。ただ唯一、オートバイで転倒するシーンは、弟子の小松政夫がスタントマンとして出演している。

なにより植木等のアクションが軽快なのと、危機一髪、難を逃れたときに軽やかに笑うシーンが、実に心地よい。変装をして検問を突破するシーンも笑える。

この漫画みたいなアクションの連続を見て、何かに似てるなあと思ったら、「ルパン三世」そのものじゃないか、ということに気がついた。

そう思って、クレイジーキャッツの映画を見てみると、「ルパン三世」的なアクションが実に多い。

たとえば、「クレージーだよ奇想天外」という映画では、スパイ役の谷啓の乗っている車が走りながら部品が次々と取れていって、タイヤまで取れてしまって、最後には谷啓がハンドルだけを持って走る、というシーンがある。

これなどは、アニメ「ルパン三世」でいかにも出てきそうなシーンではないか。

ひょっとして、アニメ「ルパン三世」は、クレージーキャッツの一連の映画のアクションシーンに影響を受けているのではないか?

アニメ「ルパン三世」の制作者は、クレージーキャッツの映画のファンだったのではないか?

もっというと、アニメ「ルパン三世」の、あの軽快なキャラクターは、植木等をモデルにしたのではないか?

などと、妄想したくなる。

そんなことを妄想していたところ、やはり世間には同じ考えをもつ人がいるものだ。

動画サイトに、クレージーキャッツの映画ををルパン三世になぞらえて編集している動画があった。

「ルパン三世」の原点は、植木等である!

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祝・ノーベル文学賞受賞

10月5日(木)

夜の8時頃だったか。

「カズオ・イシグロがノーベル文学賞を受賞」というニュース速報が流れた。

そのあとの夜のニュース番組は、ツッコミどころ満載だった。

まず、カズオ・イシグロが「日本生まれ」であることをやたら強調している。

夜11時から始まる民放のニュースでは、政治部記者あがりのキャスターが、「カズオ・イシグロの本は一冊も読んだことがない」としながらも、「作品を通じて、日本の奥深さを世界に知ってもらえるとよい」と、実にトンチンカンなコメントをしていた。

なんとかして、ノーベル賞と「日本人」を結びつけようという報道は、今年のノーベル物理学賞にも見られた。

受賞したのは3人の米国人なのだが、日本人研究者も装置開発に貢献していた、ということを、さかんに強調していた。

「日本」とかかわりがなければ、カズオ・イシグロがこれほどニュースで取りあげられることもなかっただろう。

次に、これも毎年ニュースで流れるのだが。

今度こそ、村上春樹がノーベル文学賞を取るのではないかと、毎年、発表当日には、多くのハルキストたちが1カ所に集まって、固唾を呑んで見守っている。

で、「カズオ・イシグロが受賞」という速報が流れて、今年もガックリ、となる。

ま、毎年の風物詩みたいなものなのだが、面白いのは、ハルキストたちが、

「村上春樹は、カズオ・イシグロを弟分のように思っているだろうから、カズオ・イシグロが受賞して、春樹も喜んでいると思う」

みたいなことをコメントしていて、なんとかして村上春樹と結びつけることで自身を納得させようとしているハルキストたちを見て、微笑ましく思った。

さらに、ニュース番組のナレーションの中で、『わたしを離さないで』のストーリーの核心部分を、思いっきりネタばらししていたんだが、あれはかなりマズいんじゃないだろうか?

映画「猿の惑星」でいうところの、「自由の女神だったのか!」的な、核心部分である。

これから本を読む人にとっては、災難以外の何物でもない。

…といいつつ、受賞記念に、私が過去に書いた『日の名残り』評を再掲する。

「好きな本は二度買う」

「『日の名残り』再見」

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不規則発言

「選挙パロディーシリーズ」は、ひとまずこれでおしまい。

最後の「日本昔話・かちかち山」は、もはやパロディーではなく、昔話そのままである。「タヌキ」「老夫婦」「ウサギ」が、それぞれ何のメタファーなのか、わかった人はエライ!

さて、今日たまたま、TBSラジオ「ジェーン・スー 生活は踊る」の1コーナー、「毒蝮三太夫のミュージックプレゼント」を聴いていたら、ちょっとしたハプニングがあった。

「毒蝮三太夫のミュージックプレゼント」は、毒蝮三太夫…めんどくせえや、マムシさんが、東京やその近郊各地のお店を訪れ、そこに集まった人々にインタビューするという20分ほどの生中継番組である。

私が物心ついた頃からやっていたから、かれこれ50年近く続いている番組ではないだろうか。

マムシさんが、「ジジイ」「ババア」とか「くたばり損ない」とか、集まってきたおじいちゃん、おばあちゃんに呼びかけるのがすっかり定番となっている。ま、マムシさん自身も、傘寿を越えた立派なジジイなのだが。

ハプニングというのは、生中継中に、マムシさんがあるおじいさんにマイクを向けたときに起こった。

「ちょっとこれだけは言いたいことがある」と、そのおじいさん。「ジジイとかババアとか呼ぶのはやめてほしい」「もっと敬語を使いなさい。そうすればもっと面白くなるから」「こういう言葉遣いが、日本をダメにする」と、マムシさんに向かって言い出したのである。

どうやら、クレームをいうためだけにラジオの公開生中継に参加した人であることは間違いない。

場が一瞬、凍り付いたようにも思えた。

もちろん、お年寄りに対してマムシさんが「ジジイ」「ババア」と呼ぶことに対して、不愉快に思っている人は、それなりにいるだろう。生理的に受け付けない、という人もいるかもしれない。

しかしこれは、マムシさんが番組の中で50年にもわたってリスナーとのあいだで築き上げてきた信頼関係の中から生み出されてきた一種の話術ではないか、と、長年のリスナーである僕は、そうとらえている。ラジオというコミュニティの中だからこそ成立するコミュニケーション、というべきか。

まあこれに関する議論については別の機会に譲るとして、ともかく、いつものように予定調和的に終わるはずだった生中継が、おじいさんの「不規則発言」で、場が一瞬、凍り付きそうになったのである。

マムシさんからしたら、50年にわたる話術の蓄積を否定されたことになる。かといって、その人に言われたからといって話しぶりを変えるわけにもいかない。

マムシさんは、自分の中での筋を通しつつ、そのおじいさんを傷つけないように、その意見を尊重するという姿勢を見せて、何とかその場をおさめ、いつもの雰囲気を壊すことなく、番組を終えたのであった。

おそらく生中継でのいくつもの修羅場をくぐり抜けたマムシさんだからこそ、最後は自分のペースへ引き戻すことができたのだろう。

この一連のやりとりを聴きながら、思い出したことがあった。

数年前、私が、市民向けのシンポジウムの司会を務めたときのことである。

シンポジウムが滞りなく進み、さあそろそろお開きにしようかと思った矢先、フロアーにいた一人の老紳士から手が上がったので、その老紳士にマイクを向けた。

その老紳士は、あろうことか、話しているうちに興奮しだして、シンポジウムを全否定するような不規則発言をはじめたのである。

断っておくが、その老紳士は、クレームをつけるためにこのシンポジウムに来たわけではなかった。なぜなら、私も親しくさせていただいている老紳士だったからである。

おそらく、どこかの時点で、スイッチが入ってしまったのだろう。ひどく激高しながらお話をはじめたのである。

さあ、困ったのは主催者側である。最後の最後に、なんという不規則発言をしてくれるのだ!と、主催者側は凍り付いてしまった。

だが、いちばん困り果てたのは司会をしているこの私である。

この場をどうおさめようか…。なにしろ、フロアーには100人ほどのお客さんがいて、固唾を呑んで聞いているのである。

とにかくそのときに考えたのは、ヘタにこちらで、老紳士の誤解を解くような反論をしてしまうと、別のスイッチが入って、かえって収拾がつかなくなってしまうのではないだろうか、ということだった。

しかも、司会がここでうろたえてしまうと、100人ほどいる他のお客さんを不安にさせてしまう。

ここはいったん落ち着こう。

老紳士の言葉を遮ることはせず、誤解だろうとなんだろうと、ここは思いの丈を述べてもらおう。絶対にこちらがうろたえてはならない。

その間に、私は、この場をどうやっておさめようか、と考えた。

決して老紳士を刺激せず、老紳士のクレームをないがしろにせず、かつ、老紳士の不規則発言によるダメージを最小限に食い止めるようなおさめ方をしなければならない。さらには、その不規則発言をも取り込んだ上で、このシンポジウムが有意義なものであったことを強調して、この会を閉じなければならない。

つまり「アウフヘーベン」(笑)ですよ!

今となっては、なんと言ってその場をおさめたのか、記憶にないのだが、ともかくその場は無事に終わった。

その老紳士は、後日、あのときの発言は誤解にもとづいたものだったと、主催者側と和解した。

だから今日のマムシさんの番組を聴いて、マムシさんの気持ちが、手に取るようにわかった。

マムシさんは、クレーマーのおじいさんの発言を、決して封じることはしなかった。自分に対するクレームだとわかってからも、そのおじいさんにマイクを向けつづけたのである。

いやあ、久しぶりに、あのシンポジウムの最後の、あの感じを思い出した。

いい思い出である。

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日本昔話・かちかち山

むかしむかしあるところに、畑を耕して生活している老夫婦がいました。

老夫婦の畑には毎日、性悪な緑のタヌキがやってきて、不作を望むような囃子歌を歌う上に、せっかくまいた種や芋をほじくり返して食べてしまうので、業を煮やしたおじいさんは、やっとのことで緑のタヌキを捕まえました。

おじいさんは、おばあさんに狸汁にするように言って畑仕事に向かいます。緑のタヌキは「もう悪さはしません。家の仕事のお手伝いをします」と言っておばあさんを騙し、縄を解かせて自由になると、そのままおばあさんを杵で撲殺し、その上でおばあさんの肉を鍋に入れて煮込み、「婆汁」(ばばぁ汁)を作ります。そして緑のタヌキはおばあさんに化けると、帰ってきたおじいさんにタヌキ汁と称して婆汁を食べさせ、それを見届けると嘲り笑って山に帰りました。おじいさんは追いかけましたが緑のタヌキにまんまと逃げられてしまったのです。

おじいさんは近くの山に住む仲良しのウサギに相談することにしました。「仇をとりたいが、自分には、かないそうもない」と。事の顛末を聞いたウサギは緑のタヌキの成敗に出かけました。

ウサギは、お金儲けを口実に緑のタヌキを柴刈りに誘います。欲深い緑のタヌキは、たくさんの柴を背負いました。その帰り道、ウサギは緑のタヌキの後ろを歩き、緑のタヌキの背負った柴に火打ち石で火を付けます。火打ち道具の打ち合わさる「かちかち」という音を不思議に思った緑のタヌキがウサギに尋ねると、ウサギは「ここはかちかち山だから、かちかち鳥が鳴いている」と答え、緑のタヌキは背中にやけどを負うこととなりました。

後日、ウサギは緑のタヌキに良く効く薬だと称してトウガラシ入りの味噌を渡しました。これを塗った緑のタヌキはさらなる痛みに散々苦しむこととなりました。

緑のタヌキのやけどが治ると、最後にウサギは緑のタヌキの食い意地を利用して漁に誘い出しました。ウサギは木の船と一回り大きな泥の船を用意しました。思っていた通り欲張りな緑のタヌキが「たくさん魚が乗せられる」と泥の船を選ぶと、ウサギは木の船に乗りました。沖へ出てしばらく立つと、泥の船は溶けて沈んでしまいました。こうしてウサギは見事おばあさんの仇を討ったのでした。おしまい。

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彼らが最初攻撃したとき

「ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった。

私は共産主義者ではなかったから

社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった。

私は社会民主主義ではなかったから

彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった。

私は労働組合員ではなかったから。

そして、彼らが私を攻撃したとき、

私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった」(マルティン・ニーメラー)

「緑の服を着た党首が、不用意な発言を封じるという理由で党員の言論活動を制限したとき、私は声をあげなかった。

私はその党の支持者ではなかったから。

緑の服を着た党首が、分派行動だと言いがかりをつけて党員の飲み会を禁止したとき、私は声をあげなかった。

私は飲み会が嫌いだったから。

緑の服を着た党首が、子どもに害があるという理由で家庭での喫煙制限を条例化したとき、私は声をあげなかった。

私は嫌煙家だったから。

緑の服を着た党首が、自分の党に合流しようとした他の野党の党員を、思想信条が異なるという理由で排除したとき、私は声をあげなかった。

私はその野党の党員ではなかったから。

そして、彼女が私たちの言論を封じ、集会を弾圧し、選択の自由を奪い、反乱分子だと言いがかりをつけて排除しようとしたとき、

私たちのために声をあげる者は、誰一人残っていなかった」

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