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2017年11月

クラウドファンディングがどうした

11月27日(月)

クラウドファンディングを仕掛けているという会社の人のお話を聞く機会があった。

「私は大学時代からベンチャー企業にしか興味がありませんでした」といった感じの、物怖じしない若い女性である。

僕がクラウドファンディングという言葉を初めて知ったのは、映画「この世界の片隅で」が話題になったときである。あの映画は、クラウドファンディングによって製作されたと聞いたのである。

僕にはそのていどの知識しかないから、初めて聞く話ばかりである。

どのようにして支援を集めたらよいのか、と聞いたら、

「Facebookがいちばん有効なツールです」

という。

「ほとんどの場合、Facebookを通じて支援を呼びかけることになりますね」

「そうですか…。では具体的にどのようにすれば…」

その人は、これまで手がけてきた成功例を説明した。

「あるプロジェクトを達成するために、2000万円を目標額に設定した人がいました」

「2000万円ですか」

「ところがその人は、とても堅物で、SNSなどまったくやったことがない方でした」

「ほう」

「その方に、まずFacebookをはじめてもらい、『友だちを500人以上作って下さい』とお願いしました」

「500人以上ですか!」

その堅物の人は、Facebookをはじめることになり、仕掛け人に言われるがままに、知っている限りの人に「友だちリクエスト」をしまくった。

Facebook上の友だちを500人以上作り、そこで、クラウドファンディングの呼びかけをおこなった。

できるだけ「いいね!」を押してもらったり、シェアしてもらえるように、インパクトのある内容のことを書き続けた。

するとそれがどんどん広まり、マスコミにも取りあげられるようになった。

同時に、Twitterもはじめた。

Twitterには、刻一刻と支援が集まってくる様子を、情熱的に伝えた。

「ついに来た。すごい支援の伸び。熱い気持ちが伝わってくる。あと少し。立たせて欲しい。絶対に後悔しないスタートラインに。」

みたいな、とても堅物な方とは思えないようなつぶやきである。

こういうオーバーな表現も、仕掛け人による演出なのだという。

言葉は悪いが、こうやってどんどん煽っていくことで、支援を拡大していくのだそうだ。

そしてついに、目標額の2000万円に達したのだという。

「クラウドファンディングで大事なことは何ですか?」

と、その仕掛け人に聞いたところ、

「情熱と物語です」

と答えが帰ってきた。

「何が何でも目標を達成したいという情熱」と、

「そのプロジェクトが持つ物語性」

にどれだけ多くの人を引き込めるか、ということらしい。

そのために、Facebookでどんどん仲間を作って、巻き込んでいくのが大事なのだそうだ。

つまり、自分自身を盛ることに躊躇しないという度胸が必要だ、ということである。

ゲゲッ!!それって、僕がいちばん苦手なことじゃないか!

ふだん、Facebookで「ワタシって、仲間に囲まれてシアワセでしょ!」と、楽しそうな出来事を嬉々として語っているヤツらを見ては、

チッ!!

と舌打ちをしている俺が、はたしてそんなことができるのか???

ようやくわかった。

クラウドファンディングという手法は、Facebookで物怖じせずに「友だちリクエスト」ができ、どんどん仲間を作るようなタイプの人にこそ、有効な方法なのだということを。

近い将来、僕が突然「熱い思い」を口にしたり、何のためらいもなく「友だちリクエスト」をするようになったら、

「ああ、あいつもとうとう、クラウドファンディングに手を染めたな」

と思って下さい。

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世界一のクリスマスツリーがどうした

「世界一のクリスマスツリー」をめぐって、ネットが炎上している。

プラントハンターという職業の有名人が、富山県氷見市の山中に生えていたあすなろの巨木を神戸のメリケンパークに移植して、世界一巨大なクリスマスツリーとして飾り付けて、ギネス記録をめざすというプロジェクトらしい。

そしてイベント終了後、その木は切り刻まれてバングル(腕輪)に加工されて、1つ3800円で販売されるという。神戸のメリケンパークに移植したとしても、根付かずにほどなくして枯れてしまう運命にあるからであろう。

なんでもそのあすなろの木は、高さ30メートルもある樹齢150年の木で、「周りが山火事に遭っても唯一生き伸びた縁起のいい木」だそうである。あすなろの木は、そのプラントハンターに言わせれば、「ヒノキよりも格下の落ちこぼれの木」だそうで、その「落ちこぼれの木」が、世界一のクリスマスツリーとして日の目を見る絶好の機会だと、そのプラントハンターは考えているようである。

こうしたやり方に、多くの人が違和感をいだき、批判をしている。

木を伐採して、クリスマスツリーに仕立て、用が済んだら切り刻んで加工をしてグッズを作って商売をする、ということ自体は、まあ人間の消費活動の現実として、なくはないことだとは思う。

しかしこのイベントに、僕自身がものすごい嫌悪感を懐いてしまうのは、なぜだろうと、自分なりに考えてみた。

巨木の移植、で思い出すのは、岐阜の荘川桜である。

ダムの底に沈んでしまう危機にあった桜の巨木が、植木職人の手によって移植され、奇跡的に命を長らえた。その桜はやがて荘川桜と呼ばれ、いまでも春になると見事な桜の花を咲かせる。

水上勉の小説『櫻守』は、失われそうになる桜を守り、その移植に生涯を賭ける植木職人の生き様を感動的に描いている。

あるいは、1991年にNHKで放映された単発ドラマ「二本の桜」(冨川元文脚本)もしかりである。

この手の話に共感するのは、人間の都合で造られたダムによって命を奪われそうになる桜の巨木を、生き長らえさせるために移植をおこなう、という点である。

しかも植木職人は、自分の技術や経験の粋を集めて、慎重に慎重を重ねた上で、移植という大事業にとりかかる。

もちろん、桜の巨木の移植そのものが人間の都合によっておこなわれているではないかと言われればそれまでなのだが、少なくともその前提となる原因が、人間のエゴイズムによる自然破壊であり、そこからの救出と生命の維持という建前があるからこそ、この話は共感されるのである。

巨木の移植というのは、人間のエゴからの救出と生命の維持という大義名分においてのみ、人びとの共感を得られるものなのである。にもかかわらず、この世界一のクリスマスツリーのプロジェクトは、これとはまったく正反対の方向に進んでしまっているようにみえる。

人間のエゴにより元の自然環境から木を引き離し、環境のまったく異なる場所に移して、しかも生命の維持を保証しない、という、荘川桜とはまったく逆のベクトルで巨木の移植がおこなわれたのである。

それは同時に、これまで巨木の移植を手がけてきた植木職人たちに対する、冒涜でもある。

このプロジェクトに対する僕の最大の違和感は、その点にあるのだ、ということに思い至ったので、忘れないうちに書き留めておく。

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引導を渡す

「引導を渡す」とは、葬儀の時に僧侶が死者に迷いを去り悟りを開くよう説き聞かせることをいう。

葬儀の時、住職は父の棺に引導文を納めていた。

「引導を渡す」には、転じて「相手に仕方のないことだとあきらめさせること」という意味もある。

入院中、父の呼吸の苦しさが激しさを増したとき、その苦しさを和らげるために、最後の処置として麻酔薬のような薬を投与すると、医者に言われた。

その薬を投与すると、意識が混濁し、お話をすることができなくなります、とも言われた。

つまりその薬を投与するということは、父を早く楽にするということにほかならない。

父がいよいよ苦しみだしたとき、薬が投与され、父の意識がなくなり、呼吸は弱くなり、永眠した。

はたしてあのタイミングで、薬を投与することがよかったのか、しばらく煩悶した。

多少の苦しさはあっても、もう少し意識のある状態が続いたほうがよかったのではなかったか、と。

葬儀が終わり、あのときのことを冷静に考えてみる。

父は僕との会話のあと、ほどなくして苦しみ出し、最後に険しい顔をして「苦しい」と言った。いままで弱音を吐いたことのない父が、である。

そしてそのあと、医者は薬を投与した。

あの言葉は、「苦しいからもう楽にさせてくれ」と、僕たちに「引導を渡す」言葉だったのではないだろうか。

そう考えると、僕自身も少し救われる思いがする。

「引導を渡す」とは、死者に対してだけではない、残された者に対しても大事な通過儀礼なのだと思う。

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雨あがる

11月22日(水)

夕方から、小雨が降り出した。

16時半に、市内の斎場に着くと、すでに祭壇ができあがっていた。

僕が気になっていたのは、遺影である。

数日前の葬儀屋さんとの打ち合わせで、祭壇に飾る遺影の写真を選ぶことになった。

遺影の写真というのは、もとになる顔写真があれば、そこに洋服や背景を合成したりして作り上げるものである。背景は、一般に単色の場合が多い。

父は数年前まで、毎年秋に母と妹と3人で家族旅行に行くことが年中行事になっていたので、旅行先で撮った写真が何枚か残っていた。それらが、遺影の顔写真の候補となった。

その中から僕が選んだのは、2014年に田沢湖に旅行に出かけたときの写真である。

田沢湖の湖面と周囲の山の紅葉を背景に、父と母が写っている写真で、妹が撮ったものである。

何より、その写真は、父の表情がいちばんよくとれていると、僕には思えた。

「この写真の表情がいちばんいいので、この写真にしてください」と僕は言った。

「わかりました。では、衣装と背景はどういたしましょう」

そういって、葬儀屋さんは、僕たちにカタログを見せた。

着せ替え用の背広の写真が並んでいるが、どれもしっくりこない。

「父は背広を着ない人だったので、できればこのままにしていただけませんか」

「わかりました」

「それと背景も、このままにしていただけませんか。ちょうど、湖と山の紅葉がバックに写っていて、今の時期にもふさわしいので」

「わかりました」

こうしてできあがった遺影が、祭壇に飾られていた。

思った通り、父らしい遺影となった。

参列した人々が口々に、

「とてもいい表情をしているねえ」

「どこで撮ったんだろう。いい写真だねえ」

と言ってくれた。

18時。通夜が始まる。

近親者だけでひっそりと、と思っていたはずのお通夜には、親族とご近所の方を中心に40人以上の方が会葬に来てくれた。

午後8時過ぎに斎場を出たが、まだ小雨が降っていた。

11月23日(木)

朝から大粒の雨である。

午前10時からの告別式には、やはり40名以上の方が来ていただいた。

ご住職の読経が終わり、棺の中に参列者がお花を入れる「お花入れの儀」がはじまる。

司会が、「これが最後のお別れです」というと、母は父の顔に取りすがって、

「いままでありがとうね」

と何度も言って、泣き崩れた。

やがて棺の蓋が閉まり、僕が、遺族代表の挨拶をした。

「本日は、お忙しいところ、故人のためにご会葬くださいまして、まことにありがとうございます。

生前中は、みなさまより格別なご厚情ご愛顧をいただきまして、故人になりかわりまして、深く感謝申し上げます。

父は11月12日(日)に、呼吸がひどく苦しくなり、入院いたしました。大げさなことが嫌いな父は、救急車に乗ることを拒み、タクシーで病院に向かったそうです。入院中の父は、呼吸がひどく苦しそうでしたが、最後まで、ふだんとなにひとつ変わらない会話を交わしました。

父は70歳を過ぎてから、2度の大きな手術を経験しました。そのたびに、持ち前の飄々とした性格で乗り越えてきました。今回も、父のことだからきっと飄々と乗り越えるだろうと信じておりましたが、今回ばかりは叶いませんでした。

11月15日(水)、午後2時32分に永眠いたしましたが、母と、私と、妹の3人で、最期を看取ることができました。

大げさなことが嫌いな父でしたので、このような形で多くの方にご会葬いただいたことを、きっと照れくさく思っているに違いありません。このように多くの方にお送りいただいて、父は多くの人に愛されたのだと、あらためて思いを致した次第です。

残る遺族一同にも、故人同様のご厚情を賜りますよう、ひとえにお願い申し上げ、まことに簡単ではございますが、遺族を代表し御礼の挨拶とさせていただきます。本日はありがとうございました」

火葬場では、40人近くの人たちに立ち会っていただいた。多くの人たちに見守られて、父は荼毘に付された。

1時間後。

「そろそろ御収骨のお時間でございます」

とうながされ、控え室から外に出ると、午前中の雨はすっかりやみ、晴れ間がのぞいていた。

「雨があがったねえ」

「晴れ間がのぞいてきたね」

まるで父が、もう悲しむなと言っているように、僕には思えた。

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葬儀の前に ~散髪~

11月20日(月)

葬儀の打ち合わせも一通り終わったのだが、僕にはやるべきことがあった。

それは散髪である。

いまの僕は、治療のせいで髪の毛がだいぶ抜け落ち、しかも白髪が極端に増えてしまった。

これではおじいさんというより、ちょっとした幽鬼だな。

まあ仕方がないことなので、ありのままでいるしかないと思っていたのだが、父の葬儀であまりぶざまな格好はしたくないし、久しぶりに会う親戚に何か言われたりしたら面倒である。

ちょっとでも身だしなみを調えようと、行きつけの散髪屋さんに行くことにした。

いまの僕の担当者は、リーさんである。

以前にも書いたが、昨年まで、リーさんは見習いだった。今年に入り、他の支店からこの店に正式に異動になり、晴れて散髪を担当するようになったのである。

それまでの僕の担当はTさんだったのだが、そのTさんが今年の春くらいに人事異動で他の支店に移ってしまったので、それ以降は、リーさんに散髪をお願いすることにしていた。

「どのようにしましょうか」とリーさん。

私はどのように言おうか、少し逡巡したあげく、

「ちょっと治療のせいで髪の毛がだいぶ抜け落ちているので、あまり短く切らずに、調える感じにしてください。あと、カラーリングもお願いします」と言った。

「眉毛もそのようにしましょうか」

「お願いします」

リーさんは、事情を飲み込んでくれたようで、何も言わず、実に丁寧に散髪、染髪、顔そりを仕上げてくれた。

ふだんなら、染髪や顔そりを見習に任せるところを、すべてリーさんがしてくれたのである。

すべてが終わり、

「いかがでしょうか」とリーさん。

「とてもいいです。ありがとう」

散髪屋を出て、少し気分が上向きになった。

別におしゃれをした、というほどのことではないが、やはりおしゃれって、大事だな。

というか、散髪って大事なのだ。

沈んでいた気持ちが、散髪をすることで、上向きになる

この気持ちを、忘れないようにしよう。

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葬儀の前に ~人数確定~

葬儀の前には、葬儀屋さんと、何度も打ち合わせをする。

葬儀の日程と場所の決定から始まり、祭壇をどうするかとか、祭壇に飾る花の種類をどうするかとか、看板をどうするかとか、会葬礼状の枚数、遺影の写真の選定、果ては遺影の額の選定など、とにかく細かいところを、一つ一つを決めていかなければならない。

しかし、先立たれた者からすれば、気持ちが動揺していたり、疲れていたりして、かなり思考力が落ちているところがある。いっぺんにいろいろなことを決める精神的な余裕もないので、葬儀屋さんも、少しずつ、無理のないように進めていくのである。

最も困ったのは、告別式のあとの精進落とし(食事)の人数である。

お通夜のあとの食事は、大皿料理を並べるので、ザックリと何人分、といった形で注文すればよいのだが、告別式のあとの食事は、一人一人のお膳が並ぶので、きっちりと人数を確定しておかなければならない。

父の遺志もあり、葬儀はなるべくひっそりと、家族葬でおこなおうということになった。

家族葬といっても、本当に家族だけでおこなうのではなく、親族にも来てもらうことにならざるを得ない。

また、近所の人にも、声をかけないわけにはいかない。

私の実家があるところは、昔から町内会の組織が強いところなので、声をかけないわけにはいかないのである。

それでも、町内会全体に声をかけてしまうと大変なことになるので、我が家が所属する「4班」にだけ声をかけることにした。

「あまり広めてくださいませんよう…」

と4班の方々にお願いしたのだが、人の口に戸は立てられないものだ。4班以外の人たちにも、広まってしまったようである。

4班だけでも、15人くらいいるのだ。

葬儀の当日に、飛び入りで来られる方もいらっしゃるかも知れない。

親戚のほうも、どれだけ来るかわからない。

はたして、告別式のあとの食事には、何人が参加するのか。

近所の人と親戚と、その全貌を把握しているのは母しかいないので、母は1日かけて、親戚の人たちと近所の人たちに電話をかけて、出欠を確認した。

「どうだった?」僕は聞いた。

「どうも40人くらいになりそう」

「よ、よ、40人??!!!会場は最大30人収容の部屋だぜ!」

近所の人と親戚を合わせて40人ほどが食事まで残るというのだ。

「最後まで残る人が40人いるということは、食事をせずにご会葬だけされる方も含めると、もっといらっしゃるということだ。しかも、通夜と告別式を合わせると…のべで100人近く来るということじゃないか?」

「そうなるかもね」

「通夜や告別式の時にお渡しする会葬礼状は何枚準備したらよいか…。100枚だと不安だから、120枚くらい準備しておいたほうがいいんじゃないの?」

「そうだね」

ということで、会葬礼状を120枚準備することになった。

これのどこが家族葬だ???

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父をおくる(抄)

11月12日(日)

父が入院したと、母から電話が来た。

2年ほど前から、父は酸素を吸入しながらの生活だったが、日常生活は、問題なくすごしていた。

だが、あまりにも呼吸が苦しそうなので、かかりつけの病院に行くことにしたという。

母が救急車を呼ぼうとすると父は、

「救急車なんか絶対呼ぶな」

と言って聞かない。

ふだんはおとなしい父だが、そういうときだけは、意地をはる。

大げさなことが、大嫌いなのだ。

仕方がないので、母はタクシーを呼んだ。

タクシーで病院に着いたとき、酸素の数値はかなり下がっていたという。

あとで医者の先生から、「なぜ救急車を呼ばなかったんですか!」と叱られたそうだが、救急車を拒んだのは、いかにも父らしい、と思う。

僕も僕で、、そんな母の話を電話越しで聞きながら、父のことだからまた飄々と乗り越えるだろう、と、その時は楽観視していた。

夕方、病院に見舞いに行くと、父の呼吸は苦しそうだった。

僕の顔を見ると、お、来たか、という顔をして、飄々と僕に話しかけた。

70歳を過ぎてから、2度の大きな手術をし、何度か入院している父は、いつも飄々としていた。

喋れば喋るほど呼吸は苦しさを増したようだが、苦しさをオモテに出そうとはしなかった。

僕も、たわいのない話をすることしかできなかった。

11月14日(火)

医者の先生が僕たちに、「かなり厳しい状態です」と言った。

どんなに酸素のレベルを上げても、ますます呼吸は苦しくなるだろう。

あとは、薬で、苦しみを和らげる処置を施すしかない、という。

ただ、その薬を投与すると、意識が混濁するので、お話しすることができなくなります、とも言われた。

あとは、その薬を、どのタイミングで投与するか、である。

11月15日(水)

朝、母から電話があり、呼吸の苦しさはさらにひどくなり、遂にその薬を投与することになりそうだ、という。母は日曜からずっと、病室に泊まり込みである。

僕は急いで病院に向かった。

病院に着くと、父は、お、来たか、という顔をした。

「なんかあったのか」と父が聞いてきたので、

「車のブレーキランプが切れちゃってね。昨日、交換したんだ。もう大丈夫だ」

と僕は言った。

それが最後の会話だった。もっと言うべきことがあったはずなのに。

それから少しして、父はものすごく苦しみだした。

父はとても険しい顔をして、

「苦しい」

と言った。

それが最後の言葉だった。

父は最後の最後に、弱音を吐いたように、僕には聞こえた。

「さっきまで普通に話していたのに、急に苦しみ出したりして…」と母。

「僕が来るの、待っていたのかな」

「そうよ。きっとそうだね」

それから薬が投与されて、意識が混濁状態になった。

それまで、まるで険しい山に登っているかのように激しくくり返していた呼吸が、次第に穏やかになっていった。

そして、電池が切れるように、呼吸のペースがゆっくりになり、やがてその呼吸も止まった。

なるほど、「事切れる」とは、こういうことかと、僕は思った。

午後2時32分。

母と、僕と、妹。

家族が揃って、父の最期を見届けることができた。

母は父に、「いままでよく頑張ったね」と声をかけた。母は、父の頑張りを、ずっと見届けてきたのだ。

夕方、父は自宅に戻った。

近所の人が10人ばかり来てくれて、父の顔を見てくれた。

みな、子どもの頃から父のことを知る人たちばかりである。

「Kちゃんは、おとなしくてとてもいい人だった」

「Kちゃんのことを悪くいう人なんて、1人もいなかった」

Kちゃん、とは父のことである。

それはそうだろう、と僕は思った。人のよさだけが取り柄の人だったから。

人のよさが災いして、損ばかりしている人だった。

うちが檀家になっているお寺の住職さんが駆けつけてくれて、お経を唱えてくれた。

「戒名には、どんな字を入れたいか、希望がありますかな?」と住職が聞いてきたので、

「根っからの善人だったので、『善』という字を入れてください」と僕は言った。

「わかりました。そうしましょう」

11月16日(木)

納棺式、というのをやった。

やはり近所の人が10人ほど来てくれた。

僕は映画「おくりびと」を見ていないが、たぶん、その映画に出てくるようなことをやるのだろう、と思った。

白装束に着替え、お化粧をした父の前で、参加者全員が、一つの豆腐を切って食べる。

豆腐を切って食べるというのは、縁を切る、という意味があるらしい。この地域独特の風習だそうだ。

老住職も駆けつけて、お経を唱えてくれた。

「こんな戒名はいかがかな」

住職が、一晩考えた戒名を見せてくれた。

昨日僕がリクエストした「善」の字も入っていた。

「とてもいい戒名です。父らしくて」

と僕は言った。

いくつかの行事をおこなったあと、布団に寝ていた父を、棺に納めた。

「いまにも話しかけてきそうなお顔ね」

「ほんと、穏やかな顔だ」

と、近所の人たちは口々に言った。

みんなで棺を持ち上げ、霊柩車に乗せた。

「クラクションは鳴らしますか?」と運転手さん。

「いえ、やめましょう。父は大げさなことが嫌いだったので」と僕。

救急車に乗ることも嫌がっていた父のことだから、きっと、クラクションを鳴らすことも嫌がるだろうと、僕は思った。

父を乗せた車は、静かに、もう戻ることのない自宅を出発した。

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原稿ため込み党の気がかり

10月末締切の原稿が、全然できていない。

なにしろ、気が遠くなるくらい、量が膨大なのである。

それに加えて、かなり神経を使う執筆内容。

7月からの体調不良のせいで、夏休みには、まったく作業を進めることができなかった。

10月末に至っても、まったく原稿に取りかかる集中力がない。いろいろな気がかりがあって、取りかかる気になれないのである。

これが自分だけの原稿であれば、全部自分が泥をかぶればいいのだが、何人かの方との共同執筆である。

しかも、その中で僕がいちばん若いのだ。

これはかなりマズい。

さらに悪いことに、刊行計画がもう決まっていて、そこから逆算した結果が、10月末の締切というわけである。

これは、体調がマシなときに、一気に進めるしかない。

ということで、この数日に4万字くらい書いたのだが、それでも私の割り当ての、まだ半分程度である。

とりあえずできた分を、先方に送った。

「残りは引き続き取りかかりますので」

と書いた。

まるで借金の返済のようだ。書いていない原稿のことをさして「負債を抱える」とは、よく言ったもんだ。

いまの私の気持ちは、『〆切本』『〆切本2』(左右社)を読めば手に取るようにわかるので、ぜひ一読をお勧めする。

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記者発表の日

11月9日(木)

先月、ある事務所からの調査依頼でお手伝いをした、調査の成果が、記者発表される日である。

もちろん、最初から記者発表が想定されていたわけではない。

調査をしてみて、はじめてそれが記者発表に値する成果であるという結論に達したのである。

私は、先日の調査所見を長いレポートにまとめ、それを事務所のUさんに送った。

事務所のUさんはそれをとりまとめ、報道資料をつくった。

「記者発表の日は、11月9日に決まりました」

「そうですか」

「ひょっとしたら、記者発表のあとに、記者たちが記事を書くために、先生のところに質問が来るかも知れません」

過去にも1、2度、そんな経験があった。

そのときは、職場の電話にかかってきたのだが、今回は、職場の電話をとれる状況にない。

「その日は、職場の電話に出られそうもないので、記者さんたちに、私の携帯電話番号を教えておいてもらえますか」

「わかりました」

本当のところ、かかってくるかどうかもわからないので、なんとも自意識過剰な提案なのだが、いたしかたない。

さて当日。

ふだんは電話がかかってくることなんて全然気にしていないのに、この日ばかりは、少し気になってしまう。

(もう記者発表は終わった頃だろうか…)

そもそも何時に記者発表がおこなわれるのか、わからなかったので、何時頃、記者から電話がかかってくるのかもわからない。

まるで、芥川賞受賞の吉報を電話の前で待っているマヌケな小説家のような心境である。

夕方になって、事務所のUさんからメールが来た。

「先ほど報道発表が無事終わりました。

報道各社から先生の連絡先を聞かれましたため、お教えいただいた携帯電話の番号を教えましたが、質問の電話でご迷惑をおかけしているのでは無いかと心配しております。

新聞社の皆さんとしては、地方版にとどめるか全国版に載せるかのちょうど端境にある内容だったようで、上手く全国版に載ってくれるといいなあと思っております」

記者発表は夕方だったんだな。報道各社から連絡先を聞かれたということは、複数の新聞社から問い合わせの電話が来るということだろうか。

ますます緊張してきた。

ほどなくして、携帯電話がなった。

予想通り、新聞記者からである。

結局、電話が来たのはその1社だけだった。

(とんだ自意識過剰だったな…)

さて、気になるのは、この記事が、Uさんのメールにあったように、地方版にとどまるのか、全国版に載るのか、という点である。

これについては、思い出すことがあった。

もう10年以上前になるが、やはり今回と同じ事務所から調査依頼が来て、調査にうかがった。

すると、どこから聞きつけたのか、一人の新聞記者が取材にやって来た。

あとで事務所の方に聞くと、いつも、どこからか情報を聞きつけてきて、熱心に取材する人だとのことだった。

調査は順調に進んだ。記者はその調査でわかったことを、いろいろと質問してきたので、私はそれに答えた。

なんとも地味な成果だったので、はたしてこれが記事になるのだろうかと半信半疑だった。載るとしても、地方版だろうと思っていたのだが、なんとこれが、私のコメントつきで、全国版に載ってしまったのである。

他に取材した新聞社がなかったから、その記者による、単独スクープということになる。

スクープといったって、他の新聞社が後追いで記事にすることもなく、記事自体は、地味な内容だった。

事務所の方も、いきなり全国版に載ったことに驚いていたようだった。

その後、その記者は、東京本社に「栄転」した、と聞いた。

そのとき私は思った。あの記者は、あの地味な内容の記事を、持ち前の筆力で、「ニュースバリューがある」記事として、かなり強引に全国版に載せることに成功したのではないだろうか。

そもそも、記者発表による「受け身」の記事ではなく、自分の足でかせいだ記事だった。

それで、横並びではない記事を書くことに成功したのである。

その記者が東京本社に「栄転」できたのは、やはり、記者としてのそうした姿勢が、ぬきんでていたからではないだろうか。

どういうニュースであっても、記者がそれを伝える価値のあるニュースだと判断しないかぎり、そのニュースは死んでしまう。逆に、記者は筆力の限りを尽くして、それを伝えようとすれば、それは受け入れられるのである。

それは記者に限ったことではない。私自身にとっても、大きな教訓である。

さて、今回はどうだろうか。前回のときよりも、ニュースバリューのある成果だと、個人的には思うのだが。

地方版にとどまるのか、全国版に載るのか。

あのときのような記者がいてくれればなあ。

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霧吹きは足の裏を救う

8月くらいからでしょうか。

足の裏に違和感を感じて、歩くのがちょっと億劫になりました。

足の裏にデキモノのようなものができて、歩くたびに、「痛い!」となるのです。

痛い足の裏をかばうように歩くわけですから、自然と歩き方も遅くなります。

靴擦れではないだろうか、と最初は思い、まあそのうち自然と痛くなくなるだろう、と高をくくっておりました。

ところが、9月に入ってもまだ痛い。

それどころか、10月に入って、今度はもう1つの足の裏にも、同じようなカ所に同じようなデキモノができて、今度は1歩1歩、大地を踏みしめるたびに、

痛い痛い痛い痛い!

となるのです。

もう、どちらか一方の足でもう一方の足をかばう、なんてことはできません。

歩き方もよちよち歩きになり、まるでペンギンのようです。

しかも、いっこうに治る気配がなく、

(ああ、俺は死ぬまで、この痛みが消えることがないんだろうな。そして、ずっとこの歩き方なんだろうな)

と、覚悟を決めたのでした。

ある日、意を決して、病院の先生にこの悩みを話してみたところ、

「皮膚科に行った方がいいですよ」

というではありませんか。

僕はさっそく、家の近くの皮膚科に行くことにしました。いまから2週間ほどまえのことです。

実はいままで、皮膚科のお世話になったことがなく、ちょっとドキドキしました。

だって、8月からずっと我慢していたのです。

「どうしてこんなになるまで放っておいたんですか!」

などと先生に怒られたら、どうしよう、と不安になりました。

あるいは、取り返しのつかない事態になっていたらどうしよう!とも思いました。

診察室に入ると、ちょっと声の大きな先生が、

「どうしましたか?」

と聞きました。

私が、

「両足の裏にデキモノのようなものができまして、歩くと痛いのです」

と言うと、

「では見せてください」

と先生が言うので、私は両足の靴下を脱いで、足の裏を先生に見せました。

僕は、足の裏の、中指のつけ根あたりと、かかとのあたりを指して、

「こことここが痛いのです」

と言いました。すると先生は言いました。

「なるほど、これはイボですね。このイボにウィルスが入って、足を痛くさせているのです」

「そうですか」

「こういう場合は、液体窒素を噴霧して、このイボをかさぶた状にすればいいのです」

そう言うと先生は、霧吹きのようなものを手に持って、

シュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッ

と、実にリズミカルに、イボの部分に液体窒素をかけました。

最初は、中指のつけ根部分、そして次にかかとの部分と、交互に、

シュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッ

シュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッ

と、10回1セットで、これを何セットかくり返し噴霧し続けます。

左足の裏が終わると、今度は右足の裏です。

シュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッ

シュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッ

やはり10回1セットで、これを何セットかくり返し噴霧し続けます。

「今日はこれくらいでいいでしょう」

と先生は言いました。

「今日は、ってことは、今日で終わりではないんですか」

「はい。液体窒素は刺激が強すぎるので、何回かに分けてやらないとダメなのです」

「そうなんですか」

「これを、1週間~2週間の間隔で、くり返します。そのうち、イボがかさぶた状になって取れていきますから」

「1週間~2週間の間隔」って、ずいぶんアバウトな言い方だなあ。

「1週間と2週間では、何か違いがあるのですか?」と私は聞きました。

「体質ですね。液体窒素の刺激が強すぎると感じた人は、2週間後に来て下さい、というていどの意味です」

「なるほど」

その日はそれで帰ったのですが、両足の裏の痛みはいっこうにおさまる気配がありません。むしろ、もっと痛くなっていった感じがしました。

うーむ、これは騙されたか?

1週間後、またその皮膚科に行きました。

「どうですか」と先生。

「まだ両足の裏が痛いです」と僕は訴えました。

「まだ治療をはじめて1週間ですからねえ。靴下を脱いで下さい」

言われるがままに靴下を脱ぐと、先生は、また霧吹きらしきものを手にとって、

シュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッ

シュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッ

と、例によって10回1セットで、規則正しく、標的のイボに向かって噴霧していきます。

「今日はこれくらいでいいでしょう。今回は若干多めに噴霧しておきました」

染之助染太郎の「いつもよりよけいに廻しておりま~す!」じゃないんだから、と、心の中でツッコミを入れました。

「また1週間後に来て下さい」

診察室を出ましたが、どうも痛みがおさまる気配がしません。

そもそも、

シュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッ

という、一見頼りなさそうな噴霧だけで、3カ月近くも悩まされ続けている足の裏のイボが、治るんだろうか?という根本的な疑問に行き着くのでした。

2回目の噴霧の直後も痛みは変わらなかったのですが、それから数日経って、不思議なことに痛みが和らいでいったのです。

やはりあの頼りなさそうな、

シュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッ

という噴霧は、効果があったのだろうか。

だって、皮膚科の先生は、ただたんに霧吹きを手にとって、

シュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッ

と噴霧していただけだったんだぜ。

「だったらその霧吹きを俺によこせ!家に帰ってから俺が自分でするから!」

と、何度先生に言いかけたことでしょう。わざわざ皮膚科に行くのもしんどいほど、足の裏が痛かったのですから、できれば皮膚科など行かずに、その霧吹きさえあれば家でできるじゃん!と何度も思ったのです。

しかし、たんに素人が霧吹きでもって、

シュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッ

とやったところで、やはりそれは素人。間違ったやり方をしたかも知れません。

何千人、何万人の皮膚を見ている先生だからこそ、適切な噴霧ができるのではないか、と思い直し、今週もまた、足の裏を噴霧されに、皮膚科に行くことにします。

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身内びいき

この3連休、体調がひどく悪いので、とくに面白いこともない。

こういうときはいつも、読むに堪えないような、イラナイことをつい考えてしまう。

昨日以来、この国の社会の「前近代性」ということについて、考えている。「前近代性」という言葉は、もちろん比喩である。

一介の大統領補佐官にすぎない人物を、大統領の娘だという理由で、一国の首相自らが過剰な接待をする、という行動に、違和感を覚える。

大統領の娘に取り入れば、お父さんである大統領の覚えもめでたいだろうという発想と、首相夫人に取り入れば、首相に便宜をはかってもらえるという発想は、どこがどう違うのだろう。

政府が、大統領の娘に対してかくも過剰なパフォーマンスをして、それを何ら恥としないのは、この国では権力者の身内に取り入れば、特別に便宜をはかるものだという価値観について、権力の側が何ら疑っていないことを意味する。

もう1ついえば、この大統領補佐官がこれほどまでにもてはやされるのは、「容子(ようす)がいい」からであり、これもまた、いまの社会が本来克服すべき問題である。

もっとも、自分の娘を大統領補佐官にする相手側も、同じ価値観の上に立っているのかも知れない。

そう考えると、いま、かの国の大統領が推し進めている「多様性の排除」「差別の助長」といった政策と、自分の娘を大統領補佐官にするという発想は、前近代的なものへの回帰という1点において、つながっているといえる。

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続・樅の木は残るか

山本周五郎の『樅ノ木は残った』は、江戸時代のいわゆる「伊達騒動」をめぐって、極悪人の汚名を着せられた原田甲斐を主人公にした物語である。

山本周五郎は『樅ノ木は残った』の中で、「伊達騒動」で極悪人の烙印を押されてきた原田甲斐を、まったく異なる角度から描き出した。事の本質は、幕府による伊達藩取りつぶしにある。

幕府は、大藩である伊達藩に内紛を誘発し、これを自滅させるという形で、取りつぶそうともくろんだのである。

幕府のねらいを見抜いた原田甲斐は、藩内で悪評を受けることも覚悟で、敵の懐に飛び込み、藩内の内紛を未然に防ごうと画策する。

本来、そんな権謀術数など厭わしいと思う原田は、ひたすら諸方面からの攻撃に耐え忍び、誤解されることも覚悟で、権力と闘ったのである。

物語の終盤で、原田甲斐が、彼に好意的な里見十三左衛門に幕府の陰謀について語るくだりがある。

「しかしそれで」と十左衛門が乾いた声で問いかけた。「それでいったい、酒井候はなにを得ようというのですか」

「まえに云ったとおり、仙台六十余万石の改易だ」

「この泰平の世にですか」

「権力とは貪婪なものだ」と甲斐は答えた、「必要があればもとより、たとえ必要がなくとも、手に入れることができると思えば容赦なく手に入れる、権力はどんなに肥え太っても、決して飽きるということはない。(後略)」

「しかしそれが単なる推察でないとしたら、どうして早くその事実を告発しなかったのですか。もっと早くそれを告発していたら、これまでに払われた多くの犠牲は避けられたでしょう、七十郎とその一族の無残な最期も、避けられたのではありませんか」

「そうかもしれない、だがそれなら、どこへどう告発したらいいか」甲斐は囁くような声で叫んだ、「どこへだ、十左衛門、どこの誰へ告発したらいいのだ」

これまでに甲斐が、そんな声でものを云ったことは、いちどもなかった。十左衛門はながいあいだ親しく甲斐に接して来たが、そのように鋭い、そして悲痛な響きの籠もった声を聴くのは初めてであった。

ふだんは自分の本心を明かすことのない原田甲斐が、めずらしく悲痛に語る場面である。

自分たちを殺そうとしているのは、ほかならぬ幕府なんだぞ、その幕府を、誰に訴えればよいというのだ?という、原田甲斐の悲痛な言葉は、いまのこの世の中のあらゆる場面で起こっている出来事とも重なるような気がしてならない。

そのやりとりを聞いていた茂庭主水が原田甲斐にたずねる。

「それは遁れることのできないものですか」

「一つだけある」

「うかがわせてください」

「耐え忍び、耐えぬことだ」

はたして、いまも耐え忍ぶという方法しかないのだろうか。

近代社会は、耐え忍ぶという前時代的な解決策によらないための、新たなしくみを作ったはず、である。

しかし現実はどうだろう。いまも、耐え忍ぶという方法でしか遁れることができない人たちが、数多くいるではないか。

そう考えると、今という時代は、山本周五郎が描いた「樅の木は残った」の時代と、ほとんど変わらないのだ。

「どこの誰へ告発したらよいのだ」という煩悶のない社会、耐え忍ぶことが唯一の解決策ではない社会、それこそが、本当の意味での近代社会なのではないかと、昨今のニュースを見て、思ったりする。

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