続・樅の木は残るか
山本周五郎の『樅ノ木は残った』は、江戸時代のいわゆる「伊達騒動」をめぐって、極悪人の汚名を着せられた原田甲斐を主人公にした物語である。
山本周五郎は『樅ノ木は残った』の中で、「伊達騒動」で極悪人の烙印を押されてきた原田甲斐を、まったく異なる角度から描き出した。事の本質は、幕府による伊達藩取りつぶしにある。
幕府は、大藩である伊達藩に内紛を誘発し、これを自滅させるという形で、取りつぶそうともくろんだのである。
幕府のねらいを見抜いた原田甲斐は、藩内で悪評を受けることも覚悟で、敵の懐に飛び込み、藩内の内紛を未然に防ごうと画策する。
本来、そんな権謀術数など厭わしいと思う原田は、ひたすら諸方面からの攻撃に耐え忍び、誤解されることも覚悟で、権力と闘ったのである。
物語の終盤で、原田甲斐が、彼に好意的な里見十三左衛門に幕府の陰謀について語るくだりがある。
「しかしそれで」と十左衛門が乾いた声で問いかけた。「それでいったい、酒井候はなにを得ようというのですか」
「まえに云ったとおり、仙台六十余万石の改易だ」
「この泰平の世にですか」
「権力とは貪婪なものだ」と甲斐は答えた、「必要があればもとより、たとえ必要がなくとも、手に入れることができると思えば容赦なく手に入れる、権力はどんなに肥え太っても、決して飽きるということはない。(後略)」
「しかしそれが単なる推察でないとしたら、どうして早くその事実を告発しなかったのですか。もっと早くそれを告発していたら、これまでに払われた多くの犠牲は避けられたでしょう、七十郎とその一族の無残な最期も、避けられたのではありませんか」
「そうかもしれない、だがそれなら、どこへどう告発したらいいか」甲斐は囁くような声で叫んだ、「どこへだ、十左衛門、どこの誰へ告発したらいいのだ」
これまでに甲斐が、そんな声でものを云ったことは、いちどもなかった。十左衛門はながいあいだ親しく甲斐に接して来たが、そのように鋭い、そして悲痛な響きの籠もった声を聴くのは初めてであった。
ふだんは自分の本心を明かすことのない原田甲斐が、めずらしく悲痛に語る場面である。
自分たちを殺そうとしているのは、ほかならぬ幕府なんだぞ、その幕府を、誰に訴えればよいというのだ?という、原田甲斐の悲痛な言葉は、いまのこの世の中のあらゆる場面で起こっている出来事とも重なるような気がしてならない。
そのやりとりを聞いていた茂庭主水が原田甲斐にたずねる。
「それは遁れることのできないものですか」
「一つだけある」
「うかがわせてください」
「耐え忍び、耐えぬことだ」
はたして、いまも耐え忍ぶという方法しかないのだろうか。
近代社会は、耐え忍ぶという前時代的な解決策によらないための、新たなしくみを作ったはず、である。
しかし現実はどうだろう。いまも、耐え忍ぶという方法でしか遁れることができない人たちが、数多くいるではないか。
そう考えると、今という時代は、山本周五郎が描いた「樅の木は残った」の時代と、ほとんど変わらないのだ。
「どこの誰へ告発したらよいのだ」という煩悶のない社会、耐え忍ぶことが唯一の解決策ではない社会、それこそが、本当の意味での近代社会なのではないかと、昨今のニュースを見て、思ったりする。
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投稿: ひょん | 2017年11月13日 (月) 22時22分