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世界一のクリスマスツリーがどうした

「世界一のクリスマスツリー」をめぐって、ネットが炎上している。

プラントハンターという職業の有名人が、富山県氷見市の山中に生えていたあすなろの巨木を神戸のメリケンパークに移植して、世界一巨大なクリスマスツリーとして飾り付けて、ギネス記録をめざすというプロジェクトらしい。

そしてイベント終了後、その木は切り刻まれてバングル(腕輪)に加工されて、1つ3800円で販売されるという。神戸のメリケンパークに移植したとしても、根付かずにほどなくして枯れてしまう運命にあるからであろう。

なんでもそのあすなろの木は、高さ30メートルもある樹齢150年の木で、「周りが山火事に遭っても唯一生き伸びた縁起のいい木」だそうである。あすなろの木は、そのプラントハンターに言わせれば、「ヒノキよりも格下の落ちこぼれの木」だそうで、その「落ちこぼれの木」が、世界一のクリスマスツリーとして日の目を見る絶好の機会だと、そのプラントハンターは考えているようである。

こうしたやり方に、多くの人が違和感をいだき、批判をしている。

木を伐採して、クリスマスツリーに仕立て、用が済んだら切り刻んで加工をしてグッズを作って商売をする、ということ自体は、まあ人間の消費活動の現実として、なくはないことだとは思う。

しかしこのイベントに、僕自身がものすごい嫌悪感を懐いてしまうのは、なぜだろうと、自分なりに考えてみた。

巨木の移植、で思い出すのは、岐阜の荘川桜である。

ダムの底に沈んでしまう危機にあった桜の巨木が、植木職人の手によって移植され、奇跡的に命を長らえた。その桜はやがて荘川桜と呼ばれ、いまでも春になると見事な桜の花を咲かせる。

水上勉の小説『櫻守』は、失われそうになる桜を守り、その移植に生涯を賭ける植木職人の生き様を感動的に描いている。

あるいは、1991年にNHKで放映された単発ドラマ「二本の桜」(冨川元文脚本)もしかりである。

この手の話に共感するのは、人間の都合で造られたダムによって命を奪われそうになる桜の巨木を、生き長らえさせるために移植をおこなう、という点である。

しかも植木職人は、自分の技術や経験の粋を集めて、慎重に慎重を重ねた上で、移植という大事業にとりかかる。

もちろん、桜の巨木の移植そのものが人間の都合によっておこなわれているではないかと言われればそれまでなのだが、少なくともその前提となる原因が、人間のエゴイズムによる自然破壊であり、そこからの救出と生命の維持という建前があるからこそ、この話は共感されるのである。

巨木の移植というのは、人間のエゴからの救出と生命の維持という大義名分においてのみ、人びとの共感を得られるものなのである。にもかかわらず、この世界一のクリスマスツリーのプロジェクトは、これとはまったく正反対の方向に進んでしまっているようにみえる。

人間のエゴにより元の自然環境から木を引き離し、環境のまったく異なる場所に移して、しかも生命の維持を保証しない、という、荘川桜とはまったく逆のベクトルで巨木の移植がおこなわれたのである。

それは同時に、これまで巨木の移植を手がけてきた植木職人たちに対する、冒涜でもある。

このプロジェクトに対する僕の最大の違和感は、その点にあるのだ、ということに思い至ったので、忘れないうちに書き留めておく。

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