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2017年12月

コバヤシはBARにいる

12月31日(日)

高校時代の友人、元福岡のコバヤシが、この年末に、彼の前の勤務地だった福岡に「帰省」し、福岡時代に知り合ったお店を訪れたり、友人たちと再会したりしたという。

BARめぐりが趣味のコバヤシは、折にふれて、BARで知り合った人たちの人間模様をメールで教えてくれる。

今回の旅でも、中州の行きつけのBARに立ち寄ったらしく、BARでのエピソードに添えて、中州の夜景の写真と、古いブランデーの写真を送ってきてくれた。

26165560_387213855023783_8115554075「中洲の夜景と、BARで見せて貰った60年代の古いブランデー(全く興味無いでしょうが)の写真添付しますのでご覧下さい。

ちなみに、お酒は、ボトルのデザインが変わると味も変わるそうで、このブランデー達も、ご覧の通り60年代はなかなか洒落た趣味の良いラベルだったのですが、新しくなるにつれ、お酒の味同様、無味乾燥なものになってしまいました」

私の返信。

「私はBARにはたぶん一生縁がないと思うので、貴君のBARをめぐる人間関係のエピソードはとてもうらやましく思います。

ラベルの話は興味深いです。全然レベルの違う話ですが、今日、町の小さな古本屋によって文庫本を1冊だけ買ったのですが、そこの古本屋オリジナルの文庫本カバーがシンプルながら実にいいものでした。本を手に取った時の感触もよく、本に対する愛着を喚起させる力を持っていた。そういうところにこだわる古本屋さんも減ってきたのだろうな」

コバヤシの返信。

「BARは色々な人がいて意外に面白いところです。しかもバーテンダーという人達は共同体意識があるようで、同じ地域の同業者は大体知り合いで、お互いお客を紹介しあったりしますし、東京のバーテンダーが九州や北海道の店を紹介してくれたりもします。最近よく行く浅草のBARの方は、北海道と京都のバーテンダーとつるんでいたりします。

そんなことはさておき、本の話ですが、ちょうど今読んでいる吉田健一の文庫本が、本について語っているエッセーで、戦前にヨーロッパから取り寄せた蔵書の装丁が素晴らしく本棚に飾っておくだけでも美しかったとか、昔のヨーロッパの本は持主がなじみの職人に特注で装丁を頼んでいたとか本に関する想いを綴っていて面白いです。貴君の文庫本カバーの話もなんとなく共感できました。ちなみに吉田健一の蔵書は戦災で全て焼けてしまったそうです。

そう言えば、数日前に中洲のBARのマスターがこんな話をしていました。「お客様で印刷関係の方がいるんですけど、その方が言っていたのは、昔の本というのは活版印刷だったので、字の配列というか並びに非常に気を配っていたそうです。良い本というのは、その字の並びが本当に美しく、見る人が見れば良く判るそうです。でも今の本は全部パソコンとかでやってしまうので全然駄目だそうです」

なるほど、BARにはいろいろな人が来るので、いろいろな話が聞けるらしい。

ほどなくしてコバヤシから追伸が来た。

26047070_387213925023776_6106654055「メールを打った直後に、実家の本棚を見ていたら、昭和2年に発売されたと思われる北原白秋の童謡集が何気なく有りました。

装丁と挿絵は恩地幸四郎という有名な画家でした。

ボロボロですがレトロな装丁が良い感じです。活字の方は何とも良く分かりません。でもカタカナの詩は面白いかな。行の間も少し広めでちょっと良い感じでしょうか。

26047421_387213955023773_87647522_2昔は子供向けの本といえども凝っていたんですね」

ブランデーのラベルからはじまった、装丁談義。

まるでBARで話をしているようだ。

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友人って何だ

先日の日曜日、父の四十九日法要を終え、家族で食事をとっていたときのこと。

食事に入った店は、実家から少し離れた、J寺という古刹のすぐ近くにある会席料理屋さんだった。

「J寺で思い出したんだけどね」

母が思い出したように言った。

「3年くらい前だったかしら。お父さんの高校時代の友人だという二人が、突然たずねてきたのよ」

「たずねてきた、って、家に?」

「そう、我が家に」

僕はいささか驚いた。僕は幼いことから父のことをずっと見てきて、ほとんど友人らしい友人がいないことを知っていた。

もちろん、近所には幼なじみが数多く住んでいるのだが、親しい友人、といった感じではなかった。

父が通った高校は、自宅からかなり離れた、都会のほうにあったので、高校時代の友人が近所に住んでいる、という話も聞かなかった。

高校を卒業し、会社に入ってからの同僚や友人といった話も聞かなかった。

父が友だちとどこかへ行くとか、友だちがたずねてくる、といったことも、ほとんどなかったのである。

「その高校時代の友人、ていうのは、よく家に来ていたの?」僕は母に聞いた。

「それが全然そうではないのよ。その二人は、おぼろげな記憶をたよりに、うちを探しあてて、たずねてきたのよ」

「じゃあ、前もって連絡してきたんじゃなく、突然家にやって来たってこと?」

「そう」

母もその二人のことを知らないくらいだから、会わなくなってかなりの時間が経っていたということだろう。ひょっとしたら、高校卒業以来だったりして。

父は、たずねてきた二人の友人と、しばらく話をしたのだろう。

「そうしたら、今年に入ってからだったかなあ。その友人の方から、電話が来たのよ」

「電話?」

おそらく、再会したときに、連絡先を取り交わしたのだろう。

「いま、J寺に来ているから、いまから出てこれないか?って」

「それもまたずいぶん急な話だね」

「でももうお父さんはその頃、酸素を吸っていて遠出ができなくなっていたから、行けないって断ったのよ」

その友人からしてみれば、父の住む家とJ寺は近いから、電話で呼んだらすぐ来てくれるだろう、という感じで電話してきたのだろう。しかし実際は、家からJ寺に行くまでにはかなり時間がかかるのである。

つまりその友人は、このあたりに土地勘のない人なのだ。

結局、父はその友人と2度目の再会を果たせないまま他界してしまった。

それにしても不思議な話である。

おそらくその友人は、高校を卒業し、半世紀ぶりくらいに父に会いたいと思ったのだろう。

それで、おぼろげな記憶をたよりに、家を探し当てて、再会した。

家の場所を記憶していたということは、過去に何度か父の家に行くほど、高校時代は親しかったのかも知れない。

再会して、どんな話をしたのかはわからない。

少なくともいえることは、再会してそれっきりになったわけではなく、再びその友人から連絡があったということである。

僕は、半世紀も音信不通の友人が、自力で家を探しあてて訪れてきたということに、驚いた。

いまは、SNSだとかなんだとかいって、むかしの友人と簡単につながることができる世の中である。

むかしの友人が、いまどんなことをしているのかが、刻々とわかったりする。

場合によっては、まるで日常会話のように、手軽にコメントを書けたりする。

しかし、それは友情のバロメーターなのだろうか?

思い立ったときに、あるいは思い出したときに、再会したいと強く願うことの方が、場合によっては深い友情かもしれない。

母の話を聞いて、そんなことを思った。

父の死を、まだその友人には告げていない。

おそらく次にその友人から連絡が来たら、母はそのことを告げるだろう。

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宣伝

さあ、よい子の読者のみなさん。

宣伝です!

いよいよ新春特番として、みなさんお待ちかねの、あの番組が放送されますよ。

そう、NHKお得意の、教養バラエティー番組の、アレです。

…あれ?ご存じない?

今回は新春特番として、放送時間を拡大してお送りするそうですよ!

…まだワカンナイかなあ。

番組のナビゲーター役が、ほら、市川なんとかっていう歌舞伎役者ですよ!

歌舞伎役者の市川なんとかって言ったら、もうわかるでしょう!

このブログの読者のみなさんは、必ず見るべきです!

もうおわかりですね。

では番組名をご一緒にご唱和ください。

せーの!

「香川照之の昆虫すごいぜ!」

そうです。歌舞伎役者の市川なんとかと言えば、当然、市川中車ですよね。

なぜこのブログの読者が見るべき番組なのかって?

それは、この1年で、私がいちばん面白いと思った番組が、この番組だからです。

この番組の香川照之は、尋常でないくらい、テンションが高い。

昆虫に対する愛情が、ハンパではないのです。

みずからカマキリに扮しながら喋るのですが、着ぐるみのカマキリのクオリティーの高さは異常です。

そしてホワイトボードを使いながら昆虫への愛情を講義風に語るコーナーは、抱腹絶倒。

ケーシー高峰か!っていうくらいです。

しかも歌舞伎役者だから、目力がすごい。話に引き込まれてしまいます。

もし香川照之が大学で昆虫の講義をしたら、間違いなく「ベストティーチャー賞」だろうな。

というわけで、2017年のテレビ番組ベスト1は、「香川照之の昆虫すごいぜ!」に決まりました。

では最後に、放送日の告知です。チャンネルは、NHKのEテレです。

2017年12月31日(日)午前9時~11時

「年忘れ、一挙4本まとめて再放送!」(過去4回分の再放送)

2018年1月1日(月)午前9:00~9:44(本放送)

2018年1月2日(火)午後10:50~11:34(再放送)

「特別編 カマキリ先生☆マレーシアへ行く」(新作)

お正月は、この番組だけ見ればいいです!

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散髪屋は、人生だ! ~リーさんの言葉~

12月27日(水)

行きつけの散髪屋さんに行く。

いつものリーさんに、髪を切ってもらう。

鏡を見て、ギョッとした。

私の顔が、父そっくりなのだ。

あたりまえといえばあたりまえなのだが、父が死んで、その父が、私に乗り移ったのではないか、と思うほど、いまの私の顔は、かつてないほど父とそっくりなのだ。

なるほど、自分の中で生き続けるというのは、そういうことなのだろうな。

さて担当のリーさんは、まだ20代の今どきの女の子なので、当然、私のような人間と話が合うわけではない。

私自身も、自分のことはほとんど喋らない。

なので、髪を切ってもらっているあいだも、ほとんど会話をすることがない。まあ私にしてみれば、その方が気楽なのだが。

一方リーさんにしてみれば、こんなオッサンにどんな話題を出していいのか、困り果てているのかも知れない。

私の横で髪を切っている理容師さんは、お客さんと話が盛り上がっているようで、大きな声で話をしながら、時折手が止まっている。

(喋っていると手が止まるというのは、困るなあ…)

それにしても、横の2人は話が相当盛り上がっているぞ。

黙々と髪を切っているリーさんとは、対照的である。

横の人のほうが、私より少し早く終わった。

「とても楽しかったです」

とその理容師さんは、お客さんに言っていた。よっぽど話が合ったのだろうか。それともたんにストレスが発散できたのか。はたまた社交辞令なのか。

いずれにしても、それにくらべたら俺は「楽しくないほう」の人間だろうな。

それから少しして、私の散髪が終わった。

会計の時、リーさんが言った。

「今回、会費をお支払いいただくと、これから1年間割引になるシステムがあるんですけど、どうなさいますか?」」

それは、この店の特有のシステムで、7月と12月に、そのようなキャンペーンをおこなっているようだった。私も何回か、そのシステムを利用したことがある。

「いえ、遠慮しておきます。…実は、再来月に引っ越すんです」

「そうなんですか?!」リーさんは驚いた顔をした。「どちらに?」

「ちょっとここから離れた町です」

「そうですか…。それは悲しいです」

もちろん社交辞令なのだろうが、常連が減るという意味でも、その言葉に幾ばくかの真実はあっただろう。

以前にも書いたが、私は、リーさんがこの店で見習いをしていた頃から知っているのだ。

とりたてて会話をするわけではないが、それでも、顔見知りであることには違いない。

それで思い出した。僕が「前の勤務地」に転居したとき、住んでいる町には知り合いが誰ひとりいなかった。

しかし散髪屋さんに通ったり、食堂に通ったりするうち、なんとなく顔見知りになる人ができた。

別に親しくなるわけではないが、その町を離れるとなると、寂しい感じがした。

韓国に留学していたときも、そうである。最初は知り合いが誰ひとりいない町だったが、通っているお店の人と、自然と心を通わせるようになった。

そうなのだ。

人間は、どんな町に住んでも、たとえ知り合いがひとりもいなくても、決して孤独ではないのだ。

リーさんの言葉を聞いて、そのことに気づいたのである。

「…そうなると、次回がラスト1回ですか?」とリーさん。

「ええ、おそらく」

「そうですか。聞いておいてよかった。心の準備ができました」

「ありがとう」私はリーさんの丁寧な仕事ぶりに、感謝した。

「こちらこそありがとうございます。よいお年を」

「よいお年を」

扉を開けて外に出ると、風が思いのほか冷たかった。

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記憶のトビラ

「第九のスズキさん」の話を書いていたら、高校時代の記憶の扉が開いた。

うちの高校では、年に1回、第九の演奏会という行事があり、現役の高校生が合唱を担当した。

当時、芸術系の授業は「音楽」「美術」「書道」の選択制になっていて、音楽の授業を選択をした生徒は、第九の合唱に参加することが義務づけられていた。

それに加えて、「美術」「書道」の授業を選択した生徒も、希望をすれば、合唱に参加することができた。

僕は「美術」の授業を選択していた生徒だったのだが、合唱に参加することを希望したのであった。

音楽の先生は、モリ先生という男の先生だった。根っからのクラシック好き、という感じの先生で、風貌も声楽家然としていた。ドイツに留学したこともあるのだという。

オーケストラの指揮者は、たしかモリ先生の教え子だった方で、その縁で、プロだかセミプロだかのオーケストラが毎年、演奏してくれたのだと思う。

第九の練習と、本番の演奏会は、モリ先生の独壇場だった。

モリ先生ご自身が、テノールだったかバリトンだったかのソロを担当された。

たぶん、オーケストラをバックに第九のソロを歌いたい、という理由で、第九の演奏会を発案したんじゃないんだろうか、と思うほど、モリ先生はソロを楽しんで歌っていた。

あとで調べてみると、うちの高校で第九の演奏会が始まったのが、昭和52年(1977)のことで、モリ先生の発案なのだという。僕は昭和59年(1984)入学だから、第九の演奏会が恒例化してまだ10年もたっていないころのことだった。

やはりモリ先生は、自分がソロを歌いたかったから、第九の演奏会を学校行事として始めたのだ。

そのモリ先生が、僕が高校在学中に、ご病気で亡くなった。高校3年生の頃だったか。

僕は音楽選択の生徒ではなかったので、モリ先生がいつ頃から体調を崩されたのか、全然わからなかったので、とてもびっくりしたことを覚えている。

体育館で音楽葬が営まれた。

そのとき、モーツアルトのレクイエムを歌ったような気がしたが、定かではない。

卒業生を代表して、吹奏楽団の2つ上の先輩だったK先輩が、弔辞を読んだ。

k先輩は当時、教員養成系の大学の学生だった。

「僕は、モリ先生と同じ教師の道を歩もうと心に決めています」

という言葉が印象的で、いまでも覚えている。

その後K先輩は、その言葉通り、小学校の教師となるが、その後いろいろあって、教師を辞めてしまった。それはまた別の話。

いまから思えば、モリ先生は、まだ若かったのだと思う。

いまの私よりも、若かったのではないだろうか。

モリ先生はなくなったが、第九の演奏会はいまも続いていて、今年は41回目の演奏会が4月におこなわれたという。

モリ先生には、ある構想があったと、聞いたことがある。

それは、高校生によるオーケストラを作り、全部自前で第九を演奏する、という構想である。

僕が高校生だった当時、吹奏楽団と弦楽合奏団の二つの部活があった。

正式な名前は、器楽部吹奏楽団と、器楽部弦楽合奏団である。

この名称からもわかるように、吹奏楽団と弦楽合奏団は、いずれ統合して、オーケストラにするという構想があったらしい。

モリ先生は、それを強く望んでいたようなのである。

その影響からか、生徒たちの間でも、それを望む声が強かった。

うちの高校の吹奏楽団に入ってくる生徒は、クラシック志向の強い人が多く、私が所属していたサックスパートは、とても肩身の狭い思いをしていた。

おまえら、いずれオーケストラに統合されたら、居場所がなくなるんだぜといわんばかりに、サックスパートは蔑まれていたのである。

…私の被害妄想かも知れないが。

しかしサックスパートとして蔑まれ、肩身の狭い思いをした経験が、いまは自分の糧になっていると思う。

ま、そんなことはどうでもいいのだが、モリ先生というのは、高校生による第九の合唱を発案するなど、かなりぶっ飛んだ、おもしろい先生だった。

モリ先生は、どんな人生を歩んだのだろう…。

とりとめのない話だが、記憶の扉が開いたので、覚えている限りのことを書き留めておく。

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第九のスズキさん ~別冊太陽~

第九のスズキさん

続・第九のスズキさん

続々・第九のスズキさん

第九のスズキさん ~歓喜満堂~

第九のスズキさん ~1枚のハガキ~

12月24日(日)

父の四十九日法要と埋葬が終わり、ようやく一区切りがついた。

その足で、家族と食事に行く。

僕の中では、昨日の、Kさんから「第九のスズキさん」に宛てたハガキのことが、頭から離れない。

Kさんが「第九のスズキさん」に宛てたハガキは、いつ書かれたのか?

ハガキの冒頭に、

「御著作の載った「太陽」(別冊)有難く拝受いたしました」

とある。「第九のスズキさん」の原稿が掲載された『別冊 太陽』は、1987年に刊行されている。その2年後の1989年に、スズキさんは著書を完成させた。..

つまり、ハガキが書かれたのは、1987年頃ということになる。

このことは、ほかの記述とも矛盾しない。Kさんが、僕と同じ職場を定年退職したのは、1985年である。

ハガキの中に

「このところ三、四年、退職、就職、転居等のことにふりまわされて、仲々はじめての方にお目にかかるやうな気持ちにならず、これまで大変失礼いたしました。おわび申し上げます」

とあり、Kさんが僕と同じ職場を定年退職し、自宅を転居し、再就職をした時期であることがわかる。

Kさんの教え子だったAさんに聞いたところによれば、Kさんは、退職後、定年まで勤めた勤務地に骨を埋めるつもりで、地元に新居を構えたという。ハガキの差出の住所は、Kさんの新居の住所だった。

この点から考えても、1987年頃にこのハガキが書かれたということはほぼ間違いない。僕が高校を卒業して、浪人生だった頃である。

ここまでのことを母に話すと、母は驚くべきことを思い出した。

「別冊太陽、覚えているわよ。たしかあんたが見つけて、私に見せてくれたんだよね。その文章の作者を見たら、『あら、トシエちゃん(母の高校時代の親友で、「第九のスズキさん」の奥さん)のダンナさんだ!』と思って、ビックリしたんだもん」

てっきり僕は、スズキさんの第九に関する研究を母から聞かされたと思っていたのだが、母の記憶は逆であった。僕がたまたま興味をもって買った『別冊 太陽』を母に見せたところ、そこに高校時代の親友のダンナさんの名前、つまり「第九のスズキさん」の名前を見つけたというのである。

それを母がスズキさんに伝え、「息子さんが興味を持ってくれたのか」と、「第九と日本人」が完成したおりに、本を送ってくれたというのだ。

僕はまったく記憶にないのだが、もし母の記憶が正しければ、僕は「第九のスズキさん」が、母の高校時代の親友のダンナさんであると知らずに、自力でそこにたどり着いたことになるのだ。

はたして真相はどうだったのだろう?

Photoいま僕の手もとに残っているのは、平成元(1989)年12月21日に、鈴木さんがサインをして送ってくれた著書のみである。

そこには、「第九のスズキさん」の好きだった「歓喜満堂」という言葉が書かれている。

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第九のスズキさん ~1枚のハガキ~

第九のスズキさん

続・第九のスズキさん

続々・第九のスズキさん

第九のスズキさん ~歓喜満堂~

12月23日(土)

実家に帰ると、母が言った。

「スズキさんからファックスが届いているわよ」

そう言うと、そのファックスを僕に見せた。

「これは…」

僕は驚いた。

「第九のスズキさん」の奥さんからのファックスだった。

今までの流れをかいつまんで話すと…。

僕の出身の高校では毎年、第九の演奏会で現役高校生が合唱をするという、なんとも贅沢な機会があった。

僕も高校時代、その合唱に参加をして、第九を歌った。

だから第九には特別な思い入れがある。

ちょうど僕が高校生の頃、母の高校時代の親友のダンナさんが、ある自治体の職員をしながら「第九」の研究しているという話を聞いた。その方が、「第九のスズキさん」である。

僕が大学生になった頃、スズキさんの研究は一冊の本にまとめられた。母を通じて、僕が高校生の時に第九を歌ったことがあると聞いたスズキさんは、その本を送ってくれた。僕はその本をむさぼるように読んだ。

僕は著者のスズキさんに一度お会いしたいと思いつつ、結局その機会は訪れなかった。

数年前、著者のスズキさんが亡くなったことを母から聞いた。

そのことがきっかけで、僕の中で「第九のスズキさん」をめぐる旅がはじまった。

久しぶりにスズキさんの本を読み返して、驚くべき記述をみつけた。

このあたりのことは、「続々・第九のスズキさん」に詳しく書いたが、かいつまんで書くと。

アジア・太平洋戦争中、出陣学徒の間で第九が愛聴されていたのではないかと推測したスズキさんは、その時の様子を、学徒出陣を経験したKという人に取材し、そのKさんがスズキさんにその返事をハガキで送ってきたという。著書ではそのハガキの文面が紹介されていた。

僕が驚いたのは、そのKさんが僕の「前の職場」につとめていらした方で、僕の直接の前々任者にあたる人だということである。厳格な学者というイメージの方だが、紹介されていたハガキの文面には、極限状況下にある青春時代の様子が語られていた。

ひょっとしたら、このハガキが、スズキさんの遺品の中に残っているかも知れないと思い、もし見つけたら教えて下さいと、「第九のスズキさん」の奥さん(つまり母の親友)にお願いした。

そして今日、実家に立ち寄ったら、「第九のスズキさん」の奥さんからファックスが届いていたのである。遺品を整理していたら、Kさんのハガキが見つかったのだという。ただし現物ではなく、それをコピーしたものだった。

「御著作の載った「太陽」(別冊)有難く拝受いたしました。別のパンフにはE(Kさんの戦友)から小生に宛てた書状をご引用・紹介いただき、故人も喜んでくれてゐると存じます。日本における「第九」演奏、日本人の受けた感銘、その記録を、かくも刻銘に追求されたことは、ひとへに貴台のねばりとエネルギーの賜物で、永く記念さるべき業績と存じます。小生、このことに深く感じ入りました。いづれ、O県(Kさんの定年退職後の新たな勤務地)への往復の途中で、F市(スズキさんの勤務地)に寄せていただきます。たぶん今秋になるかと存じます。このところ三、四年、、退職、就職、転居等のことにふりまわされて、仲々はじめての方にお目にかかるやうな気持ちにならず、これまで大変失礼いたしました。おわび申し上げます。まづは取敢へず御礼迄。」

第九に関するスズキさんの文章を読んだ感想と御礼を述べた内容で、本に引用されていたハガキとは異なる。

だがこの実に丁寧な御礼状から、取材後も、Kさんとスズキさんの間でやりとりが続いていたことがわかった。

はたして、Kさんとスズキさんは、実際に会うことができたのだろうか。それはわからない。

いずれにしてもスズキさんはKさんからのこのハガキを受け取って、喜んだことだろう。

僕はKさんの肉筆のハガキを、しばらく見つめた。

母が高校時代に、その親友と知り合ったこと。

その親友のダンナさんが、第九の研究にのめり込んだこと。

その過程で、Kさんに取材をしたこと。

僕が高校時代に第九を歌ったこと。

やがて僕がKさんの後任の後任として、その職場に勤めたこと。

そしていま、スズキさんに宛てたKさんのハガキが、僕の手もとにある。

これらすべてが、つながっているような気がしてならない。

他人からしたら、何だそんなこと、と思うかも知れないが。

折しも今は、第九が最も歌われる年末である。

まるでクリスマスプレゼントのように、その一枚のハガキが僕のもとに届いた。30年の歳月を超えて。

年末に第九が流れるたびに、僕は「第九のスズキさん」のことを思い出すだろう。

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選択肢がない!

むかし、ラジオの深夜番組で、「Yahoo!知恵袋でも答えられないような質問」を募集するコーナーがあった。その中で、

「いま、教習所に通っているのですが実技が苦手です。そんな私が元気になるような教習所を舞台にした映画はないでしょうか。不器用な主人公や、ひと癖ある教官が出てくるようなコメディ映画です。ただし、館ひろし主演の「免許がない!」以外でお願いします」

というネタがあって、大笑いしたことがある。

いま、うちの職場で、シリーズものを出版する企画が進んでいて、3年間で6冊を刊行する予定になっている。昨年度、すでに2冊を刊行し、今年度中に2冊、そして来年度に残りの2冊を刊行する、というペースである。

で、今年度末刊行予定の2冊のうちの1冊に、私もかかわることになった。

初校を返し、あとひとふんばりというところなのだが、出版社の担当者からメールが来た。

この担当者、自分で考えることをせず、かといって変にこだわりがあるのか、こっちの提案を受け入れてくれないこともあり、ちょっとアレな感じがして、なんとなく相性が悪い。

まあそれはともかく。

送られてきたメールには、表紙のカバーの色をどうするか、という質問が書かれていた。

「全6巻、それぞれカバーの色が変わります。お好みの色、また、避けたい色がございましたらお知らせいただきますようお願い申し上げます。

なお、1巻、2巻で使われた色は使えません。特にございませんでしたら、デザイナー任せとなります」

カバーの装丁は6巻とも同じなのだが、色を別々のものにしたい、という方針のようである。

それなりに思い入れのある本なので、色をデザイナー任せにするというわけにはいかない。

もう一人の編者である同僚と相談した。

その本のテーマが、「石」にまつわる話なので、表紙は「石」をイメージした色にするのがいい、ということになった。

既刊の第1巻、第2巻をみてみると、第1巻が茶色っぽいオレンジ。第2巻が青っぽい紫色で、どちらも本のテーマを意識した色にしている。

では、今年度内に刊行予定の、もう1冊のほうはどうだろうか。

こちらに情報が入っているわけではないが、おそらく、本のテーマからすると、表紙の色は緑系なのではないかとふんだ。

これらのことから、石をイメージした、薄い青系の色ということにしてはどうか、という結論に落ち着いた。

そうこうしているうちに、担当者から追加のメールが送られてきた。今年度刊行予定のもう1巻の表紙のカバーの色について、青緑系ということでお願いしたいという提案が送られてきたというのである。

やはりこちらの予想通り、緑を使うんだな。

担当者のメールには、

「色は、1巻、2巻の色、3巻の青緑は避けていただきますよう お願いいたします」

と、念押しの言葉があった。

私たちは担当者に次のように返信した。

「表紙のカバーの色については、イメージとして石の色で、たとえば薄めの青はどうでしょうか。とにかく石の色のイメージということでお願いします」

すると担当者から返事が短い来た。

「もう1つの巻も青銅の青ですので、申し訳ございませんが青系は避けたいところです」

またダメ出しのメールだ。うーむ。どうもよくわからない。青銅の青といっても、実際は緑である。

「緑」は青系なのか?

それに、どうしてうちのほうが妥協しなければならないのか?

いろいろと言いたいことがあるのだが、まあ仕方がない。

いずれにしても、色の選択肢がかなりな部分、封じられてしまった。

これはYahoo!知恵袋に聞くしかないのか?

「本の表紙のカバーの色で悩んでいます。石をテーマにした本なので、石をイメージした色にしたいのですが、茶色、オレンジ、青、紫、緑などはすでに同じシリーズの別の巻に使われてしまっているので使えません。

また、赤、黄色、ピンクなどの暖色系は石のイメージには合いません。

黒は、暗いイメージになってしまうので使えません。

グレーは、すでに表紙の中で部分的に使われてしまっているので使えません。

白では、売れそうにありません。

これ以外で、表紙のカバーの色にふさわしいものがあったら教えて下さい」

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マクナマラ

ベトナム戦争の時に国防長官を務めたマクナマラ、という人物を、恥ずかしながらはじめて知った。

聞きかじりの話なので、これから書くことはかなりいい加減である。

彼はフォード社の社長に就任後、抜群の数学的才能を生かして、各工場の在庫を数値化して、在庫の有無を勤務評定に反映させることにした。

しかし、現場の責任者たちは、現場のことを知らない人間が勝手に数値目標を立てて、それによって評価をおこなうことに、やる気を失い、腹を立てた。

そこでどうしたかというと、在庫を減らす経営努力をしたのではなく、在庫をミシシッピーだかどこだかの川に、バンバン捨ててしまい、「ほら、在庫がなくなりました」と報告した。

俺たちの仕事は数値ではかれるものではない、と、現場の人間が反発したのである。

こんなばかげたことをやったマクナマラだったが、これをどう間違えたのか、政府の中で彼の手腕を評価する人たちがいて、彼を国防長官に抜擢したのだった。

そしてベトナム戦争の時も、彼は同じことをやった。

つまり、各部隊がどれだけ戦果を挙げたのか、数値化して評価しようとしたのである。

現場の部隊は、ただでさえ士気が上がっていない。そもそも縁もゆかりもない土地で、なぜ俺たちは戦わなければならないのか。

そこに、現場を知らない人間が、数値目標を求めてきたのだ。

当然、彼らがやったことは、数字の捏造だった。

各部隊は、自分たちが抜群の戦果を挙げたということを、バンバン報告してきたのである。

このウソの報告のおかげで政府は、自分たちが優勢であるという勘違いをしてしまったのである。

…という話。あくまでも聞きかじりだが。

この話からわかることは、現場を知らない人間が数値目標を言いだしたとき、現場の人間は士気が下がり、数値目標を達成しようと努力する方向ではなく、数値を捏造する方向に向かう危険性がある、ということである。

たぶんこれが、ベトナム戦争の教訓だと思うのだが、残念ながら、いまこの教訓はまったく生かされていない。いま私の業界が取り巻いている状況って、これと同じではないのか?

…と、職場の会議に出るたびに、いつも思うのだ。

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悪い予感しかしない電話

12月16日(土)

今日は午後から職場で、自分がホスト役の「同業者寄合」である。

15人くらいが集まるのだが、全国各地から来てくださるので、最初から最後まで気を抜けない。

もともとそういうのが苦手な人間なので、なおさらである。

午前中に会場の設営が一通り終わり、つかの間の昼食をとっていると、携帯電話が鳴った。

見知らぬ番号である。

「もしもし」

「あのう…鬼瓦権造さんの携帯電話でしょうか」

「そうですが」

「こちら、○○バスの××営業所の者ですが」

「はい」

「鬼瓦○子さんのご関係の方でしょうか?」

鬼瓦○子、というのは、私の母の名前である。

「私の母ですが…」

バス会社から電話???

イヤな予感がした。

母の身に何かあったのだろうか?

事故に巻き込まれたとか??

突然バスの中で倒れたとか??

悪い予感しかしない。

先日父を亡くしたばかりなのだ。

「母がどうかしましたか?」私の声は震えた。

「実は…」

「……」

「鬼瓦○子さんが、財布を落とされまして、その財布がこちらに届けられたのです」

「財布??」

「ええ。現金は入っていなかったのですが、中にカードなどが、そのまま入っていました」

なるほど、それで落とし主がわかったということか。

「ただ、ご本人様の連絡先がわかるものがなくて、何かご連絡できるものがないかと探したところ、お宅様の電話番号が書いたものがありまして…それでご連絡さしあげた次第です」

「そうでしたか…」

「こちらに取りに来ていただくようにご本人様にご連絡いただけますか?」

「わかりました。ありがとうございます」

急いで母に電話した。

「昨日、財布落としたでしょう」

「どうして知ってるの?昨日、それで大変だったんだから」

「バス会社から電話があったよ。財布が見つかったって」

「そうそう、バスの中で落としたのよ。…でもどうしてそっちに連絡が行ったの?」

「知らねえよ。財布の中に俺の電話番号を書いたものがあったんじゃねえの?」

「なるほど」

「現金はもう抜き取られていたようだけど、それ以外は残っていたみたい」

「あらそう。現金は5000円くらい入っていたのに」

ま、5000円で済んだのなら、不幸中の幸いである。

「とにかく早く取りに行った方がいいよ」

といって、電話を切った。

まったく、人騒がせな話だ。こっちは命にかかわることなんじゃないかとびっくりしたじゃないか!

そんなこんなで、午後の会合が始まった。

しばらくして、また携帯が鳴った。

今度は母からの電話である。

何だ何だ?またトラブルか??

気になって仕方がないが、会合の最中なので電話に出ることができない。

休憩時間に急いで母に電話した。

「どうした?」

「財布が無事戻ってきたわよ。現金は入っていなかったけど」

「そんなことで電話するなよ!こっちは大事な会合でそれどころじゃないんだから!」

「ごめんごめん」

命にかかわらなければ、たいていのトラブルはたいしたことはないのだ、というのが、最近の身のまわりの経験から私が実感していることである。

それからすれば、財布を落としたくらいたいしたことではないのだが…。

しかし、落ち着いて考えたらだんだん腹が立ってきた。

落ちている財布から現金を抜くなんて、世の中には最低のやつがいるものだ!絶対に許さねえ!

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堂々完結!

12月15日(金)

帰宅すると、やけに大きな書籍小包が届いていた。

苦節20年の本が完成したのだ!

全1480ページ。十分に凶器になりうる本である。

私が、編者の先生から、最終巻での分担執筆のお話をいただいたのは、まだ20世紀、20代の頃だった。

いまから思うと、編者の先生は、よくもまあ、どこの馬の骨かわからない若造に声をかけたものだ。

こっちにしても、若かったんだろうな。どれだけ大変なことか、なんてわからないまま、引き受けてしまった。

お引き受けしたものの、

(この企画、本当に実現するんだろうか…)

と、実は半信半疑だった。企画が壮大すぎて、想像できなかったのである。

そんなこともあり、執筆が足踏みしていたのだが、21世紀に入り、いよいよ原稿を出さなければならなくなった。

第1巻の刊行が2000年5月、第2巻の刊行が2007年6月。いずれも1000ページを超える大部なものだった。

そしていよいよ、最終巻の刊行が現実味を帯びてきた。

全3巻を完結させることは、編者の先生の執念だったのである。

私は10年ほど前に、原稿を粗々仕上げた。

原稿を仕上げただけではダメである。ここからが本番。出版社の一室で、編者の先生と読み合わせをおこない、猛烈なダメ出しをいただく。そしてそれを書き直す。

その時のことを、私はこのブログに書いていた。2008年11月10日の日記である。

「10日(月)は、朝から都内の出版社で打ち合わせ。打ち合わせというより、さながら大学の演習のようだった。夜6時過ぎにようやく解放され、くたくたになって駿河台下のカレー屋に入ると、サンボマスターのボーカルがカウンターでカレーを食べていた。一般人に見えたが、あれは絶対サンボマスターのボーカルだよな。東京駅で最終の1本前の新幹線に間に合う。駅の構内で、片桐はいりとすれ違う。地味な芸能人にばかり会うものだ。」

思い出した。サンボマスターのボーカルと、片桐はいりを見かけた日だ!

その直後、私は1年3カ月ほど韓国に留学したので、編者の先生と打ち合わせをしたのは、たぶんこのときが最後だったような気がする。

その後、2011年1月に、無念にも編者の先生が亡くなった。本の完成を見届けることなく。

もっと早く原稿を出していれば…、と悔やまれた。

それから約7年が過ぎ、全三巻の最終巻が、ようやく完成したのである。

執筆者紹介をみると、20人ほどいる執筆者の中で、私が最年少だった。

まだ20代だった私に、編者の先生はどんな思いで声をかけてくださったのか、今は知るよしもない。

そんな私ももうアラフィフになってしまったのだから、時はなんと早く過ぎ去ってしまうものだろう。

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おたよりのコーナー

ささ、ではここでいただいたメッセージをご紹介しましょう。

卒業生のSさんからです。

「私事ですが最近くじけることばかりで、ちょっと辛くなっておりましたときに、ふと先生のブログをのぞいたら霧吹きの記事でした。なんだか「ふふっ」となって、うまく言えないのですが、心に少しだけ「違うこと」を考える余裕ができて、くじけていたことを一つ乗り切ることが出来ました。そのお礼がしたかったのでした。ありがとうございました。コメント欄に打とうと思ったのですが、長くなってしまいましたのでこちらで」

ありがとうございます。こういうメッセージが、いちばん嬉しい。

「霧吹きの記事」というのは、「霧吹きは足の裏を救う」という記事のことですね。

実はこのお話には続きがありまして。

皮膚科で「霧吹き」を始めて1週間後のことです。

1週間たっても、両足の裏の痛みがいっこうに引かない。

1歩1歩、歩くたびに、

痛い痛い痛い痛い痛い!

となりながら、また皮膚科の病院にたどり着きました。

「どうですか」と先生が聞いたので、

「いっこうに痛みが引きません」と答えました。

「根が深いですからね。じゃあはじめましょう」

といって、

シュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッ

シュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッ

と例によって始まりました。

治療が終わり、先生が、

「今日は、塗り薬を出しましょう」

といって、薬を処方してくれました。

受付の係の人が、

「これ、処方箋です」

と渡しながら、

「今日、すぐにお使いになりますか?」

と聞くので、

「もちろんです」

と答えました。今すぐにでも足の裏に薬を塗りたい気持ちです。

すると受付の人が言いました。

「でしたら、いまから急いで薬局に行ってください。あと5分で閉まってしまいます」

時計を見ると、午後7時55分。閉店は8時のようです。

「薬局はどこにあるんですか?」

「ここから歩いて、2つめの信号を右に曲がって、しばらく歩くと薬局があります」

「時間はどのくらいかかりますか?」

「そうですねえ。歩くと7,8分くらいでしょうかね」

し、し、7,8分???!!!

あと5分で閉まるんだぞ!

急げってことか???!!!

「急いで行ってください!」

「わかりました!」

といって外に出ると、小雨が降っていました。

…傘がない。

痛い痛い痛い痛い痛い!!

といいながら、歩いて薬局に向かいました。

なにしろ、7,8分かかる道のりを、痛い両足で5分で行けっていうんだからね。

ますます悪化しそうです!

どうしてこんな目に遭わなければならないのか、と、自分の不運を呪って泣きそうになりました。

それでもなんとか間に合いました。

ずぶ濡れになった僕に、薬剤師さんは薬を渡してくれました。

こういうのを「ぬれねずみ」というんでしょうな。

そしてバス停まで、また7,8分の距離を、

痛い痛い痛い痛い痛い!

と歩いたのでした。

僕がその時思ったことは、

「どうして病院の近くに薬局を作ってくれないのか!」

「どうしてこういう日に限って小雨が降っていて、しかも傘を持ってこなかったのか!」

ということでした。

生きるとは、ままならないものですね。

みなさまからのメッセージ、お待ちしております。

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思い出づくり

12月13日(水)

ちょっと前だったか、ある放送局のディレクターから連絡があった。

「今度、かくかくしかじか、こういう番組をするんですけど、インターネットで調べてみたら、先生はこの方面のご専門とのことで…」

「はあ」

初めて聞く番組名だった。なんでも、以前放送されていて、いったん終了したのだが、また復活するのだという。カルチャーエンタメ番組っていうのか?そんな感じの番組である。

「たとえば、今度うちの番組で、○○を取りあげようと思うんですけど、これについてどう思われますか?」

「どうといわれましても、…私が直接かかわったわけではありませんし…」

「今の段階で、軽くコメント言っていただくことは可能ですか?」

「軽く」って…。

電話口からは、ちょっと軽いノリの人だな、と思った、この業界では、ありがちなのだろうと、別に驚くこともなかった。

わざとはぐらかすようなコメントを言うと、

「ありがとうございます。ちょっとどうなるかわかりませんが、もう少し取材を続けてみます」

と言って終わった。

以前も、民放のバラエティー番組のディレクターから電話があって、事前取材を受けたのだが、その受け答えが向こうの満足いくものではなかったようで、結局その後は「なしのつぶて」だった。

今回も同じ感じだろうな、と思っていたら、しばらくたってまたそのディレクターから連絡があった。

「やっぱり番組の構成上、どうしても専門家のコメントが必要なんです」

「そうですか」

「専門家の方に一言言っていただくだけで、番組にアクセントがつきます」

「そんなものですか…」

「試みに、私のほうでコメントの下案を考えますので、それを言っていただくような感じでいかがでしょうか」

なんと!セリフが決まっているのか??

「もちろん、明らかに事実に反しているところがあったら、直していただいてかまいません」

後日、「こんな感じのコメントでいかがでしょう」と、メールでそのコメント案が送られてきた。

(別に俺が言わなくったていいようなセリフだな。もっとイケメンの俳優とかに言わせたほうがいいんじゃなかろうか…)

というくらい、当たり障りのない内容である。

「つきましては、カメラクルーとともに取材にうかがいます」

ということで、あれよあれよといううちに、取材日の今日になってしまった。

(やっぱり断るべきだったかな…)

と逡巡したが、全国放送の番組に出るというのは今後ないだろうから、思い出づくりというつもりでのぞむことにした。

初めてディレクターに会ったのだが、電話の印象よりも、ずっと感じのよい人だった。

職場の私の仕事部屋は人が入れないほど散らかっているので、地下の作業部屋で取材を受けることにした。

ディレクターのほかに、カメラマン一人、音声さん一人、照明さん一人の、合計4人である。

ディレクターが言った。

「まず、私が扉を開けてこの部屋に入って、先生と挨拶するシーンを撮ります。私の肩越しに、カメラマンが先生を映しますから、私を出迎える感じで挨拶して下さい」

「はあ」

「そのあと、先生のアップを抜きますので、挨拶された後はしばらくそのままじっとして下さい」

いきなりハードルが高い!俺は役者じゃねえんだ!

ディレクターが私の作業部屋に訪れて、私が出迎える、という体(てい)で演じなければならないのである。

「じゃあ、いったん我々、外に出ますので、ノックして我々が中に入ったら、立ち上がって挨拶をお願いします」

「わ、わかりました…」一気に緊張が高まる。

トントン!

ディレクターとカメラクルーが入ってきた。

「今日はよろしくお願いします」とディレクター。

「よろしくおねはひひまふ」

緊張のあまり、挨拶を噛んでしまった。

「いったん止めます!」とカメラマン。「ちょっとケーブルが引っかかってしまって…」

「先生のせいじゃありません!こちら側のミスです」とディレクター。

いやいや、いまのは俺がセリフを噛んだのが原因だろ!

もう一度。

トントン!

「今日はよろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

お辞儀をしたあと、顔を上げて5秒くらいじっとした。

「はい、カット!OKです!次に、先生がパソコンの画面をのぞき込んでふむふむというシーンを撮ります」

ずいぶんと注文が多いな。話を聞くだけじゃなかったんかい!

ディレクターは、用意したノートパソコンを私の前に出して、

「これを見てください。で、これを見た上で、それについてのコメント言っていただく、という体(てい)で」

また「体(てい)」かい!

緊張して、パソコンを操作する手もぎこちなくなった。

画面をのぞき込んではいるが、まったく内容が入ってこない。

「はい、カット!OKです!続きまして、コメントを言っていただくことにしますが、まずは私と先生とで、フリートークをして、そこからコメントを組み立てていきましょう」

ディレクターと対話をしていく中で、コメントのセリフを決めていく、ということらしい。

対話をしていくうちに、

「あ、いまのセリフいいですねえ。いただきましょう」とディレクター。

「え?いま自分が何て言ったか、忘れてしまいましたよ」と私。

「大丈夫です。私が覚えていますから」

そういうと、ディレクターはA4のコピー用紙の裏白の部分に、コメントのセリフを書き出した。

「こんな感じでどうでしょう」

きったねえ字だなあ。読めやしない。

「こんな感じで言ってください」

「わかりました」

「では本番です!」

ディレクターの質問に応える形で、私がコメントを言う。

コメントを言っている間、前にいるディレクターは先ほどの殴り書きのカンペを私に見せるのだが、字が汚すぎて読めない。

カンペを見ずにコメントを言った。

「はい、カット!どうでしたか?」ディレクターがカメラクルーに聞いた。

「すみません。なんかガサガサって音が入ったみたいで」と音声さん。

「そうですか。すみません先生。コメントは完璧だったのですが、こちらのミスで、もう一度お願いします」

「もう一度ですか?」

もう緊張の糸が切れちゃったぞ!

「ではすみません。もう一度お願いします」

ディレクターが質問し、私が答える。例によって、ディレクターが殴り書きのカンペをこちらに見せるのだが、やはり字が汚すぎて読めない。

再びカンペを見ずにコメントを言った。

「はい、カット!どうですか?」

「大丈夫です」とカメラマン。

「OKです!完璧でした」

「そうですか」

「この短時間で、よくセリフを覚えられましたね」

セリフって…。

「なかなかこれほどセリフ覚えのいい人はいませんよ。本職のレポーターだって、こっちの言ってほしいことをなかなか覚えてくれないんですから」

「そうですか」

「テレビは何度もお出になっているんでしょう」

「いいえ、これが初めてです」

「そうですか。とてもそうとは思えません」

ま、このあたりは、ディレクターの常套句なんだろう。

「ところで、これはいつ放送されるんです?」

「正月二日です」

なんと、新春特番ということか!

恥ずかしいので、これ以上ヒントは言わない。

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雪男、新幹線を遅らす

12月12日(火)

「雪男だな」

久しぶりに会うなり、同い年の盟友・Uさんが私に言った。

Photo「昨日まで雪降ってなかったのに、今朝になってこの大雪だぜ。雪を連れてきたんじゃないの」

まことにその通り。過去にもこんなことが、何度かあった。

「お前が生まれた日は、大雪だったのよ」と、子どもの頃、母に言われたことがある。

そのせいか、もともと私は、大雪に縁があるらしい。運命論者ではないが、この件だけは信じている。

教え子のW君からの依頼で、約8カ月ぶりにこの仕事場を訪れた

大先輩から教え子まで、この仕事場には昔からよく知る人たちが多く、ここでの仕事は楽しい。帰ってきました、という感じである。

「このたびは御父様の件で大変でしたね」

と口々に言われた。すっかりブログの読者はいなくなったと思い込んでいたが、ここでの読者数はまだまだ多いのか?

仕事場は、いくつかの「班」に分かれていて、今回の主目的は、W君の班での仕事だったが、ほかの班の人たちとも、次々と再会した。

どの方も、以前に一緒に仕事をした人たちばかりである。

鬼瓦が来た、というと、とりあえず顔を見に来てくれるというのが嬉しい。

W君の班で仕事をしていると、Sさんがやってきた。

「お久しぶりです」

「どうもお久しぶりです」

Sさんとも、以前に一緒に仕事をしたことがある。

「お時間がありましたら、うちの班のところにも見にいらしてください」

「ぜひうかがいます」

仕事が一段落したので、2階にあるSさんの作業部屋を訪れた。

以前、偶然お会いした現場から出たものですね」

「そうです」

「あの現場から、こんなにたくさんのものが出たんですか!」

「ええ。数が多くてまとめるのがなかなか大変です」

自分の専門とは異なる分野だったが、それはとても興味深いものだった。

そんなこんなで、あっという間に帰る時間となった。

外は相変わらず大雪である。

大先輩のAさん、Iさん、Tさん、そして同い年の盟友・Uさんが玄関まで見送りに来てくれた。

「また、フラッと来て下さい」

「また、フラッとうかがいます」

帰りの新幹線が大雪のため大幅に遅れたことは、言うまでもない。

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贈りもの

12月7日(木)

自宅にお菓子の贈りものが届いていた。差出人の名前をみると、大学時代の同級生だったE君の御母様からだった。

以前にも書いたが、2014年の1月に、大学時代の同級生だったE君が突然この世を去った。

僕がそのことを知ったのは、1年後の2015年のことだった。E君のお父さんから手紙をもらい、そこには、「息子の卒業論文を読んでみたい」と書かれていた。僕はE君の卒業論文を出身大学から借り出して、それを編集して、私家版の本を作るお手伝いをした

2015年の4月に、関西に住むE君のご両親にお目にかかり、医学部の教授をしておられたというE君のお父さんと、お酒を飲みながらお話をした

それから1年後の2016年6月、E君の卒業論文の私家版が完成した。

僕が2015年4月に御父様とお話をしてからしばらくして、御父様は脳梗塞で倒れて入院されたと、御母様から聞いた。

E君の遺稿集に一文を寄せるはずだった御父様は、それが叶わず、代わりに御母様があとがきをお書きになった。

御父様が元気なうちに、その遺稿集を手にとってもらいたかったと、完成が遅くなってしまったことを悔やんだ。私はその後、E君のお宅にご連絡することをなんとなく躊躇してしまったのである。

今日届いた贈りものは、僕の喪中はがきを受け取ったE君の御母様が、気を遣って送っていただいたのだろう。

僕は久しぶりにE君の御母様に電話した。

「このたびは大変なことで…」

「いえ、お気遣いいただき、ありがとうございました」

「実は、うちの主人も、今年の4月に亡くなりまして…」

「そうだったんですか…」

「1年半の闘病生活でした」

ちっとも知らなかった。E君の御父様は、半年前に亡くなっていたのである。

御母様は、E君の御父様の亡くなるまでのご様子をお話になった。

「本当に、こういうことは、わからないものですねえ」

「こういうこと」というのは、人の死についてである。

「本当にそうですねえ」僕は共感した。

「2年ほど前に我が家に来ていただいたとき、お別れの時に写真を撮ったでしょう」

思い出した。たしかE君の御父様と一緒に写真を撮ったのである。

「主人はあの写真を大事にしていましてねえ。あなたを実の息子のように思っていたんだと思います」

不思議な気がした。

僕はE君の御父様とは2度しかお会いしたことがないのである。

もっとお会いして、いろいろなお話をするべきだった

人生、悔やまれることばかりである。

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嬉野先生

12月3日(日)

昨日に引き続き、今日も、実家に置いてあった本を古本屋さんに買い取ってもらうことにした。

昨日と同じ、約80冊を買い取ってもらい、885円也。

うーむ。どんどん買い取り額が減っていくぞ。

それはともかく。

父の葬儀も終わり落ち着いてきたので、少しずつ実家にあるものを片付けていこうということになった。

実家のパソコンが古くなったので処分しようということになり、中に入っている写真だのデータだのを移し替える作業をした。

ほとんどが、父と母が旅行に行ったときの写真ばかりなのだが、「マイドキュメント」の中に、

「嬉野先生」

というファイル名の文章ファイルが入っていることに気づいた。

「嬉野先生」とは、北海道テレビのディレクターの嬉野雅道氏のことである。

中身を開くと、彼がインターネットで公開していた、2008年8月17日の日記が保存されていた。

知らない人も多いと思うが、嬉野雅道氏は、「水曜どうでしょう」というローカル番組のディレクターをしている。この「水曜どうでしょう」はカルト的な人気を誇った番組で、担当ディレクターの藤村忠寿氏と嬉野雅道氏は、ホームページ上で「本日の日記」というコーナーを設けて、毎日のように、エッセイのようなものを掲載していたのである。

ある時期、僕はそれを読むのが日課になっていた。

実家のパソコンに残されていたのは、2008年8月17日の日記である。

おそらくこのとき、僕はお盆休みで実家に帰っていたのだろう。

毎日の日課として、「水曜どうでしょう」のホームページの「本日の日記」を読んだ僕は、8月17日に書いた嬉野雅道氏の文章に、いたく感銘を受けたものと思われる。

この文章を永久保存しておきたいと思い、その文章をコピペして、実家のパソコンに保存したのであろう。

このほかに、保存していた文章がなかったことからすると、僕はこの文章がよっぽど気に入っていたものとみられる。

さて、どんな内容が書いてあったのか。

嬉野雅道氏の文章を読み返してみて、驚いた。

それは、要約するとこんな話である。

子どもの頃、水泳が苦手だった。

小学校6年生の時の水泳大会で、なんとか自分は水泳大会に出なくてすむようにならないかと、いろいろ思案をした。

学校を休むとか、水着を忘れるとか、台風で中止にならないかなあとか、いろいろな方法を考えてはみたが、パッとしたアイデアは浮かばず、水泳大会当日を迎えることになる。

ここから先の描写が秀逸である。

「その時私は、他人が飛び込む様子を遠くから眺めながら、あの他人事がやがて我がことになる、と、そのことを妙に噛み締めていました。

このまま時間が過ぎていき、やがて三十分もしないうちに、私は、コースの縁にある、あの小さく盛り上がった飛び込み台にあの男のように立つのだと。

そうして衆目の集まる中、妙な緊張感を下腹部に感じながら、水で満たされたあの空白の長方形を目の前にして、塩素くさいあの水の中に当然のことのように飛び込んでいくのだと。

その順番が間もなく来る。

私には、自分の番が自分に回って来るということが段々不思議に思えてきました。

他人事が、やがて自分のことになる。

その当たり前のことが妙に不思議に思えて来るのです。

あんなところに立ちたくないと思っているこの自分は、まだまだ離れたところで事の成り行きを他人事として呑気に眺めている。だが、やがて自分の意思とは裏腹にあの台に立つ時が来る。

その時になって初めて、私は、今あの台に立つ男が経験している現実と直面することになる。

それまではまだまだ時間がある。

だが、やがて間違いなく自分はあの台に立つ。

そして逃れられない現実の中、その私の身に現実が襲い掛かってくる。そして私は苦痛とともに何かを経験する。

水泳大会は流れ作業のように、どぶんどぶんとしぶきを上げながら進んでいきました。

私たちは体育座りのまま、横へ横へと移動を続けていきました。

私は妙に哲学的な小学生になって順番を待っていました。

とうとう六年生の番になりました。

私のクラスの先頭の男が台に上がりました。

そうして両手を後ろに伸ばし腰を屈めました。

一拍あって、乾いたピストルの音がしました。

パーン

台の上の男は背中を押されたようにあっけなく水に飛び込んで、私の視界から消えました。

次の男もその次の男も。

同じように私の視界から消えていきました。

それを繰り返すうちに私とプールまでの距離は見る見る縮まり、私の前にいた男たちが向こう岸に泳ぎ着くごとに私の前の視界はどんどん開けていくのです。

とうとう私のすぐ前の男が立ち上がりました。

そしてその男がピストルの音を聞いて飛び込んでしまってしばらくすると、体育教師の指示で私は立ち上がりました。

やはり私の番になったのです。

私の列の男たちも横一線に立ち上がり、それぞれに手足をぶらぶらとさせ、私もそれに習うようにぶらぶらとさせ、まじないのように耳につばをいれるのでした。

そうして私は自分の足を動かして、とうとうあの台の上に立ったのです。」

この後、自分がプールに飛びこんだときの描写が続く。小学6年生の嬉野雅道少年は、無我夢中で25メートルを泳ぎ切り、翌日からまた、何ごともなかったかのように学校に通い始めた。

さて、僕が感銘を受けたのは、この後に続く文章である。

「今から六年前。

その小学六年生が42歳になった年。

かつての小学生の父親は肝臓を悪くしてこの世を去りました。

父親を亡くしてみて初めて、かつての小学六年生は思いました。

次は私だなぁと。

人間は誰でも永遠に生きるわけではないから、やがて、自分の身にも、その死という瞬間がめぐってくる。

今は他人事として呑気に眺めているだけのものだけれど、いつか自分の番が来る。

そう思った時。

私は、三十数年前のあの日の水泳大会を思い出したのです。

いつかそれは、私の現実になって、私の目の前に立ち現れ、その時初めて、私はその現実に直面する。

私は弾かれたように水に落ちていく。

すると不意に顔に衝撃を受け、鼻の奥がツーンとする。

そして外界の音が一気に消え、ごうごうという水の中の音だけがする。

私は手足をばたつかせ、もがき、そうして何かをくぐり抜けていく。

その時私に、あの台の上に立って飛び込んでいった男の気持ちがやっと分かる。

そして自分が今直面している、このことが現実のことだということを知る。

そのあとのことは誰にも分からない。」

この日の日記は、ここで終わっている。

実はこの文章、嬉野雅道氏の最新のエッセイ集『ぬかよろこび』(KADOKAWA、2017年)に再録されている。

僕はこの文章のことをすっかり忘れていて、つい最近、このエッセイ集を読んだときに、再びハッとさせられたのである。

しかもまことに不思議なことに、このエッセイ集を読んだのは、父が入院する直前のことであった。

この本を読んだ直後、父は入院し、そしてその4日後にこの世を去った。

僕は、父の死を間近で見ながら、嬉野雅道氏の水泳の話を思い浮かべたのである。

なんという偶然であろうか。

僕はその直前に、この文章を読んでいたから、父の死を、すんなりと受け入れることができたのである。

そしていつの日か、自分の死も受け入れることができるようになるのではないか、と。

水泳の順番待ちのように、である。

2008年8月17日に、嬉野雅道氏が書いたこの文章。

おそらくこれは、お盆の時期に、嬉野さんがお父さんのことを思い出して書いた文章なのだろう。

当時の僕がそれを読み、何を思ったのか、ハッとさせられて、パソコンに保存をした。

その時点では、僕の父はすこぶる元気だったので、父を意識してハッとさせられたわけではなく、何かしら琴線に触れるものがあったのだろう。

しかし、そんな文章のこともすっかり忘れて、10年近くがたった。

この文章が再録された彼のエッセイ集を読み、再びこの文章にハッとさせられる。

そしてその直後に、父が入院し、帰らぬ人となった。

僕はこの文章のおかげで、父を送り出すことができ、いつか訪れるであろう自分の死についても、それほど恐れることもなくなった。

2008年に一度、この文章に出会い、ハッとさせられ、それから約10年がたち、今度は本当に自分の問題として、同じ文章と再会したのである。

うーむ。何が言いたいのか、伝わっているのかな?

つまり文章の力ってすばらしい、ということだ。

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1255円也

12月2日(土)

この土日は、本来であれば毎年恒例の「1年で最も気が重い同業者祭り」である。

しかし今年は、いろいろあって欠席することにした。

欠席するとなると、ずいぶんと心が軽くなる。出席しなければならないという重責から、解放されたことによるのだろう。

前回書いた、「戦友の名刺を持って帰る兵隊さんの話」そのものである。

このところ、週末は実家に帰ることにしている。

今日は、実家に置いてある本を整理して、いらない本を古書のチェーン店に買い取ってもらうことにした。

しかし量が膨大すぎて、要る本と要らない本の仕分けが面倒である。

さしあたり、今回はタレント本を中心に、処分することにした。

『ヨンエの誓い』とか、『たけしメモ』とか、『悲しいとき』とか、『最驚!ガッツ伝説』とか、いろいろと面白い本が出てきたのだが、オアシズの『不細工な友情』という本まで出てきた。

とくにオアシズのファンというわけでもないのだが、買った当初はかなり面白く読んだ記憶がある。

しかしもう読みかえすことはないだろうということで、売ることにした。

所ジョージの本も数冊出てきた。とくに所さんのファンというわけでもないのだが、若い頃に買い集めたのだろう。どれもまったく内容のない本だったので、これも売ることにした。

ほかにもいくつか、ばっさりと処分した有名人の本がある。

有名人の書いたエッセイとか対談集って、その有名人のことを好きなときは、必死になって買い集めるけれど、いったん決別すると、まったく関心がなくなり、読む気も起こらなくなるから不思議である。

いかりや長介の『ダメだこりゃ!』とか、伊東四朗の『この顔で悪いか』は、もちろん残すことにした。

そんなこんなで、80冊ほどになり、大きな段ボール箱で3箱分になった。

これを、古書のチェーン店まで車で運び、買い取ってもらうことにした。

「1255円です」

「せ、せ、1255円???!!!」

あんなに必死になって買い集めた本が、たったの1255円である。

首都高速の片道分にもならないではないか!

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戦友の名刺を持ち帰る話

嬉野雅道氏のエッセイ集『ぬかよろこび』(KADOKAWA、2017年)に書かれていた話。

戦争中、南方戦線に送られた一人の兵隊さん。戦争末期の戦場は、それはそれは悲惨な状態で、食べ物なんて何もなかった。多くの戦友が餓死した。

やがて戦争が終わり、いよいよ日本に帰ることができることになった。しかし日本へ帰る引き揚げ船が出るという海岸まで、ジャングルのなかをひたすら歩いていかなければならない。

その兵隊さんは、戦死した戦友の遺品を日本に持って帰りたいと思った。しかし食べ物も満足に食べられず、骨と皮だけになったその兵隊さんにとっては、重いものを持ち帰るなど、とうてい不可能だ。考えたあげく、その戦友の名刺を1枚、持って帰ることにした。名刺ならば、重くて持ち運べない、などということはない。

歩いても歩いても、引き揚げ船が出るという海岸までたどり着く気配がない。そのうち身につけているものが重くて仕方なくなってくる。カラになった水筒を捨て、ズボンのベルトを捨て、それでもまだ身につけているものが重い。とくに左の胸のあたりが重い。

左の胸のポケットには、戦友の名刺が1枚入っていた。たった紙切れ1枚なのに、これがすこぶる重く感じるのである。

ああ、捨ててしまいたい。でも戦友の遺品だから捨てるわけにもいかない。

困ったあげく、その兵隊さんは、戦友の名刺の周囲を細かくちぎりはじめた。少しでも軽くしようとしたのである。でもまだ重い。兵隊さんは、名刺を少しずつちぎっては歩き、ちぎっては歩き、少しでも身軽になろうとしたのである。

引き揚げ船に着いたときには、戦友の名刺が、ほとんど名前の部分しか残っていないほど、ちぎられていたというのである。

嬉野雅道氏は、この話を父から聞いたという。彼の父は、当時小学生だった嬉野雅道氏に、

「人間というものは体力が落ちて極限状態になると、名刺程度の紙でも重くて持てないと感じて捨てたくなってしまうものだろうか。不思議なことだ…」

と神妙な顔でこの話を語ってくれたのだという。

それから35年後のこと。

嬉野雅道氏が、テレビのロケでマレーシアのジャングルを、カメラを持って撮影しながら歩いていたときのこと。

歩き疲れた彼は、カメラを持つのもイヤになり、一刻も早くカメラのスイッチを切りたくなった。スイッチを切ったところで、カメラの重量が変わるわけでもないのだが、とにかくカメラのスイッチを切りたくて仕方がなくなったのである。

とうとう我慢できなくなり、カメラのスイッチを切り、撮影を中断してしまった。

その瞬間、気持ちがウソのように軽くなったのである。

あれだけ重くて持っているのが億劫だったカメラが、スイッチを切ったとたん、軽くなる。

その時、あの兵隊さんの話を思い出した。

あの兵隊さんにとって、名刺の紙が重かったのではない。戦友の遺品を持って帰らなければならないという責任の重さが、極限状態にあった彼にとっては煩わしかったのだ、と。

自分もまた、ジャングルの中をカメラを持って撮影するという重責に耐えかねていたのだ。

かくして、小学生の頃に父から聞いた話の真意が、35年たって、自分の中でようやくわかった、というお話。

…と、ここまで書いてきてくたびれちゃった。

僕も思い当たるふしがある。

体調が悪いとき、仕事に関するメールは、ほんの短いものであっても、返信するのが億劫だった。

長い文章を書く体力くらいはあったにもかかわらず、仕事に関する短い返信メールとなると、とたんにキーボードを叩くのが億劫になるのである。責任のない文章はいくらでも書けるのに。

あれは、体力が弱っている中で、仕事に対する責任が必要以上に重く感じられて、そこから逃れたかったからだろうな。

インターネットで連載している文章も、少し前までは、まったく書く気が起こらなかったが、体調が少し上向きになったいま、気持ちが軽くなったせいか、また書けるようになってきた。

些細なことが億劫に感じられるようになったとき、戦友の名刺を持ち帰った兵隊さんの話を思い出すことにしよう。

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