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記憶のトビラ

「第九のスズキさん」の話を書いていたら、高校時代の記憶の扉が開いた。

うちの高校では、年に1回、第九の演奏会という行事があり、現役の高校生が合唱を担当した。

当時、芸術系の授業は「音楽」「美術」「書道」の選択制になっていて、音楽の授業を選択をした生徒は、第九の合唱に参加することが義務づけられていた。

それに加えて、「美術」「書道」の授業を選択した生徒も、希望をすれば、合唱に参加することができた。

僕は「美術」の授業を選択していた生徒だったのだが、合唱に参加することを希望したのであった。

音楽の先生は、モリ先生という男の先生だった。根っからのクラシック好き、という感じの先生で、風貌も声楽家然としていた。ドイツに留学したこともあるのだという。

オーケストラの指揮者は、たしかモリ先生の教え子だった方で、その縁で、プロだかセミプロだかのオーケストラが毎年、演奏してくれたのだと思う。

第九の練習と、本番の演奏会は、モリ先生の独壇場だった。

モリ先生ご自身が、テノールだったかバリトンだったかのソロを担当された。

たぶん、オーケストラをバックに第九のソロを歌いたい、という理由で、第九の演奏会を発案したんじゃないんだろうか、と思うほど、モリ先生はソロを楽しんで歌っていた。

あとで調べてみると、うちの高校で第九の演奏会が始まったのが、昭和52年(1977)のことで、モリ先生の発案なのだという。僕は昭和59年(1984)入学だから、第九の演奏会が恒例化してまだ10年もたっていないころのことだった。

やはりモリ先生は、自分がソロを歌いたかったから、第九の演奏会を学校行事として始めたのだ。

そのモリ先生が、僕が高校在学中に、ご病気で亡くなった。高校3年生の頃だったか。

僕は音楽選択の生徒ではなかったので、モリ先生がいつ頃から体調を崩されたのか、全然わからなかったので、とてもびっくりしたことを覚えている。

体育館で音楽葬が営まれた。

そのとき、モーツアルトのレクイエムを歌ったような気がしたが、定かではない。

卒業生を代表して、吹奏楽団の2つ上の先輩だったK先輩が、弔辞を読んだ。

k先輩は当時、教員養成系の大学の学生だった。

「僕は、モリ先生と同じ教師の道を歩もうと心に決めています」

という言葉が印象的で、いまでも覚えている。

その後K先輩は、その言葉通り、小学校の教師となるが、その後いろいろあって、教師を辞めてしまった。それはまた別の話。

いまから思えば、モリ先生は、まだ若かったのだと思う。

いまの私よりも、若かったのではないだろうか。

モリ先生はなくなったが、第九の演奏会はいまも続いていて、今年は41回目の演奏会が4月におこなわれたという。

モリ先生には、ある構想があったと、聞いたことがある。

それは、高校生によるオーケストラを作り、全部自前で第九を演奏する、という構想である。

僕が高校生だった当時、吹奏楽団と弦楽合奏団の二つの部活があった。

正式な名前は、器楽部吹奏楽団と、器楽部弦楽合奏団である。

この名称からもわかるように、吹奏楽団と弦楽合奏団は、いずれ統合して、オーケストラにするという構想があったらしい。

モリ先生は、それを強く望んでいたようなのである。

その影響からか、生徒たちの間でも、それを望む声が強かった。

うちの高校の吹奏楽団に入ってくる生徒は、クラシック志向の強い人が多く、私が所属していたサックスパートは、とても肩身の狭い思いをしていた。

おまえら、いずれオーケストラに統合されたら、居場所がなくなるんだぜといわんばかりに、サックスパートは蔑まれていたのである。

…私の被害妄想かも知れないが。

しかしサックスパートとして蔑まれ、肩身の狭い思いをした経験が、いまは自分の糧になっていると思う。

ま、そんなことはどうでもいいのだが、モリ先生というのは、高校生による第九の合唱を発案するなど、かなりぶっ飛んだ、おもしろい先生だった。

モリ先生は、どんな人生を歩んだのだろう…。

とりとめのない話だが、記憶の扉が開いたので、覚えている限りのことを書き留めておく。

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