« 2018年1月 | トップページ | 2018年3月 »

2018年2月

花筐

2月25日(日)

Mv5byjhjoguzzdktnme5ny00nzfilwi3nta大林宣彦監督の最新作「花筐(はながたみ)」を見た。

いろいろな意味で、自分にとっていま見ておかなければいけない映画である。

都内有数の繁華街のはずれにある、30席くらいの、小さな映画館。

なんといちばん前の席が座椅子で、2列目がデッキチェア、3列目からが普通の席。

僕は2列目のデッキチェアに座って鑑賞した。

すでに知られているように、大林監督はこの映画のクランクインの直前、肺がんで余命半年の宣告を受けていた。

しかし薬で治療しながら、この映画を撮り終えた。

3時間にわたる大作。病気で体力が落ちているとはとても思えないような、力強くて、かつ繊細な映像だった。

大林映画の「原点回帰」であり、「集大成」でもある。

同時に、老境に入った巨匠に特徴的な作品ともいえる。

黒澤明監督の「夢」とか、宮崎駿監督の「風立ちぬ」とかを、思い浮かべてしまった。

老境に入った巨匠が、何かから解き放たれ、自分の中のイマジネーションをてらうことなく表現した作品である。

大林監督は、初期の商業映画は少女を主人公とする映画を撮る。

尾道三部作がその代表例である。

やがて中年を主人公とする映画をさかんに撮るようになる。

「はるか、ノスタルジィ」「なごり雪」「告別」など。

そして、青年を主人公とする映画が、今回。

このあたりの流れは、宮崎駿監督とも何となく通ずるところがある。

老境に入り、青年を主人公とした映画を撮りたくなるのは、なぜだろう。

大林監督は、若い頃に福永武彦の「草の花」と檀一雄の「花筐」を耽読したそうだが、なるほど、この二つの作品は、通底するものがある。ある時代に生きた青年たちの想いをとらえた作品ということなのだろう。

キャスティングがまた、おもしろい。

主な登場人物は、

窪塚俊介。窪塚洋介の弟。

満島真之介。満島ひかりの弟。

柄本時生。柄本明の息子にして、柄本佑の弟。

長塚圭史。長塚京三の息子。

こう言っては失礼だが、いずれも、誰かの息子、あるいは誰かの弟、と形容される。父親や兄・姉の名が、常に持ち出される存在である。

しかしこのキャスティングが、見事にはまっているのである。

この映画全体にただよう、鬱屈した雰囲気は、このキャスティングによるところも大きいのではないだろうか。

映画のパンフレットでは、なんと大林宣彦監督と山田洋次監督の対談が収録されている。

かたや、松竹という会社の中で、映画会社の従業員としてさまざまな制約に縛られながら表現を追求してきた監督。かたや、映画業界のセオリーを無視してアマチュアとして自由に映画を撮ってきた監督。いわば水と油の関係である。

山田洋次監督には、同じような時代の青年たちを描いた群像劇映画「ダウンタウンヒーローズ」があるが、その作風はもちろん、大林監督の「花筐」とは似ても似つかない。

両監督は、お互いのことを、本音の部分でどう思っていたのか。

活字化された対談からは、緊張感を感じ取ることができるのみである。

以上、思いつくままに感想を述べてみた。

| | コメント (0)

約束を果たすための仕事

疲労困憊だが、2月21日におこなわれた国際シンポジウムについて記す。

映画監督の大林宣彦さんがよく、「映画を作ることは約束を果たすことだ」と言っていて、その言葉が、僕が仕事をおこなう上での指針となっている。

いろいろなところに調査に行き、調査をすることで人とつながり、さらに「また一緒に仕事をしましょう」とまた約束をする。

もちろん、果たせない約束も多いのだが、一つ一つ仕事をしていくことで、約束を果たしていく、といった感覚は、大林監督の影響によるところが大きい。

今回の国際シンポジウムも、まさに約束を果たすためにおこなったものであった。

一昨年の11月、韓国のある機関とうちの職場が交流協定を結んだ。そのとき、来年はうちの職場で、日本と中国と韓国が参加する国際シンポジウムをおこなうことを約束した。

しかも、2017年11月におこなうことまで約束してしまった。

その担当になったのが僕なのだが、僕はすっかり困ってしまった。

約束をしたからには、実行しなければならない。しかも意味のあるシンポジウムを。

考えたあげく、あるテーマを考え、それを提案したところ、すんなりと了承された。

しかしこのシンポジウムが本当に実現するのか、半信半疑だった。僕が考えたテーマというのが、やや難しいテーマで、僕にも手に負えないような内容だった。僕に手に負えない内容のテーマが、はたしてほかの人たちに理解されるだろうか?

まあそれでも、提案してしまった以上はやるしかない。

だが昨年夏、僕は体調を崩し、国際シンポジウムどころではなくなってしまった。

とても11月にシンポジウムなどおこなえない状況になったのだが、上司や同僚たちとも相談し、2018年2月に延期することにした。

シンポジウムに関わる実務も、僕だけではなく、何人かの同僚とチームを組んでおこなうことになった。

昨年秋になりようやくシンポジウムに向けて動き出したのだが、開催までに、さまざまなトラブルが起こった。

海外の機関との間にありがちなトラブルである。

しかもシンポジウム当日は、先方の機関の社長までお見えになるというのだから、なおさら問題がややこしい。

まず、参加をあてにしていた中国の機関とのコミュニケーションがとれない。

いわば音信不通になったわけだが、ようやくコミュニケーションがとれたと思ったら、不参加を表明された。

これで、日・中・韓の3機関合同シンポジウムという構想は崩れた。

さてどうしたものか。

僕は、以前に交わした約束のことを思い出した。

それは、以前韓国の若き先生に、「今度日本にお呼びします。ぜひ日本に来て講演してください」と約束したことである。

中国の機関が不参加ということなら、この先生との約束を果たそうではないか。

企画を仕切り直したことにより、より中身のあるシンポジウムになることを目指した。

だが、相変わらず、韓国の機関とのやりとりは、かなりややこしいことになっている。

交渉の窓口になっていた親韓派の同僚は、先方の機関とのやりとりにすっかり疲弊してしまい、

「これ以上私がメールを送ると、国際問題を惹起しかねません!」

と、気分が高揚する一幕もあった。

なんだかんだで、当日を迎えた。

細かなアクシデントはあったものの、ひとまず、滞りなくシンポジウムは終了した。

参加者は40名ほどだった。平日で、辺鄙な場所での開催にもかかわらず、40名集まったというのは、まずまずといったところであろう。

いちばんうれしかったのは、前の職場の卒業生で、今は金融機関に勤めているF君がわざわざ聞きに来てくれたことである。あんな地味なテーマなのに、よく来てくれたものだと感謝した。

今回は慌ただしくてほとんど話ができなかったので、あらためて食事でも、と、また新たな約束を交わした。

こうして、このシンポジウムで、僕は不十分ながらも、二つの約束を果たした。

一つは、交流協定を結んでいる機関との約束。

もう一つは、「今度日本にお呼びしますよ」と約束した韓国の若き先生との約束である。

その先生から、帰国後にメールが来た。

「今回は呼んでいただき、本当にありがとうございます。先生方の暖かい心を忘れず、長く記憶します。

後日、ご恩返しできたらと思います。ソウルに来たら、ぜひご連絡ください。

本当にありがとうございます。ご自愛ください。

またお会いできることを願って...」

これからも、約束を交わしては果たすことの、繰り返しだろう。

さて、あとどのくらい、約束が果たせるだろうか…?

そんなことを思っていたら、ある編集者からメールが来た。

「数年前にお約束いただいたお仕事、進捗状況はいかがでしょうか?」

もう5年以上前に約束したお仕事を、まだ果たしていなかった。

この約束も、果たさなければならない。

| | コメント (0)

マジシャンズセレクト

2月17日(土)、18日(日)

毎年この時期に行われる、2日間にわたる業界人祭りである。

寒い地域の町で行われるのが、この業界人祭りの特徴だ。

今年は、「新幹線がとまる駅から在来線で2駅の町」でおこなわれる。

ほぼ毎年参加しているのだが、今年は体調がアレなことや、引っ越しのことなどもあり、参加するつもりはなかった。

事務局の人には、欠席するつもりです、と最初お伝えしたのだが、事態はそう簡単ではなかった。

いささかややこしい話になるのだが。

僕はこの町で、ある委員を委嘱されていて、その委員会の会議が、2月19日(月)におこなわれることになった。

なぜこの日程に決まったかというと、その前の17日、18日の業界人祭りに合わせて、わざわざ翌日に会議を設定したというのである。なぜなら、業界人祭りの常連と、その委員会の委員というのが、かなりの部分で重なるためである。

つまり、17日~19日に、業界人祭りと、その委員会をいっぺんにやってしまおう、そのほうが効率的だ、というわけである。

業界人祭りに参加することを前提に作られたスケジュールというわけだ。

さあ、どうしよう。業界人祭りを不参加にして、委員会だけに出ようか。

そうすれば、前日の18日(日)の夜にこの町に入ればよいことになる。

しかし、事態はそう簡単ではなかった。

今度は前の職場からの依頼で、16日(金)に、前の勤務地で会議を行うことになり、委員である僕も、その会議に参加しなければならなくなった。

それでまた考えた。

今後しばらく、前の勤務地を訪れる機会はないだろうから、この際に、やれることをやっておこう。

というわけで、前日の15日(木)に、悪友のKさんに頼み込んで、「押しかけ作業」をさせてもらうことにした。これについては前に書いた

さて、16日(金)に前の勤務地の会議に出て、翌日(土曜日)にいったん家に帰り、日曜日にまた移動して、19日(月)の会議に出る。

というスケジュールも考えてみたのだが、頭を悩ませたのは、「業界人祭りがおこなわれる町、すなわち月曜日に会議を行う町」というのが、地理的に、「前の勤務地」と自宅の間にある、ということである。

つまり「業界人祭り」に出ずに、いったん家に帰るのは、無駄な動きということになるのだ。

…どうもわかりにくいな。地名を出せば一発でわかる話なのだが、出さない主義なのでね。

考えたあげく、いったん家に帰るのではなく、土日の業界人祭りに出ることにした。

そうなると、今度は体調が心配である。

自分の体力が、そこまでもつだろうか…。

業界人祭りじたいは、座って話を聞いていればいいだけなので、なるべく体力を使わずに、じっとしていよう。

問題は、土曜日の懇親会である。この業界人祭りで、いちばん体力を使うのが、懇親会なのだ。

そうだ!懇親会を欠席すればいいんだ。

…と思ってみたのだが、すでに参加を申し込んじゃってるし、まったく出ない、というわけにもいかない。

そうだ!みんなが気づかないうちに途中退席すればいいんだ。

せっかくお金を払ってしまったんだし、最初だけ出て、食べるものだけ食べて、さっさと退席しよう。

さて17日(土)。

業界人祭りの初日が終わり、懇親会場に向かった。

(懇親会の席は自由席だし、後のほうに座って、ころ合いを見てそっと帰ろう)

と思って受付のところに行ったら、担当の方が、

「あ、先生、よく来てくださいました。ありがとうございます」

「はあ」

「先生の席はこちらです」

「え?席が決まっているのですか?」

「そうです」

といって案内されたのが、一番前の、偉い人たちばかりが座る席だった。

どうして俺が?と思ってよく考えたら、その町の委員をしている、というのがどうも理由らしかった。

さあ、こうなるともう帰れない。

結局最後までいることになったのだが、とにかく体調が悪いので、できるだけその席でじっとしていることにして、挨拶をしに動き回る、というようなことはしなかった。

きっと、アイツは挨拶にも来ない失礼なやつだと思った人が多かったに違いない。

懇親会は午後9時過ぎに終了。さすがに2次会は勘弁してもらって、そっとホテルに戻った。

18日(日)

昨日からずっと、

(俺が今回の業界人祭りに参加する意味なんて、まったくないんだよなあ)

と思いつつ参加していた、というのが本音である。

そんな違和感をいだきながら参加していると、お昼休みに入り、僕の席のところにたずねてくる方がいた。

「ご無沙汰しております」

「どうもご無沙汰しております」

何度かお話をしたことのある、Iさんである。

社交辞令の挨拶に来られたのかな、と思ったら、そうではなかった。

「あのう…、たいへん恐縮なのですが、これを見ていただけませんか」

そう言うと、Iさんは箱の中身を見せた。

「これを、調査していただきたいのです」

そうか。調査依頼か。

社交の挨拶はまったくもって苦手な僕だが、そういうことならば俄然会話も弾む。

「わかりました」

箱の中身を見てみたが、やはり調査道具がないと、詳しい結論は出せない。

「調査道具がホテルに置いてありますので、この昼休みにホテルに戻って取ってきます。その後あらためて調査させてください」

そう言って、イタイイタイイタイ!と、例によって両足の裏の痛みに耐えながら、お祭り会場とホテルを往復した。

(それにしても、「今日は極力動かないぞ!」と決めた日に限って、どうしてこれだけ歩く羽目になるのだろう…)

人生とはまことに意地の悪いことの連続である。

午後は業界人祭りのかたわら、依頼された調査に力を入れた。十分な調査とはならなかったが、ひとまず、できる範囲のことをして、調査結果をお伝えした。

「突然のお願いにもかかわらず、ありがとうございました」

「いえ、あまりお役に立てず、すみませんでした」

今回の業界人祭り、このことだけでも、来た甲斐があった。

僕が来ると思って、調査資料を持ってきてくれた人がいたのだ。

というより、調査資料を持ってきて、誰かに調査を依頼しようと思ったら、たまたま僕がいたのを見つけた、というのが本当のところだろう。

そうだとしても、声をかけていただいたのは、ありがたいことである。

…そんなことはともかく、である。

できるだけ体力を温存して省力化をはかろうと考えた今回の出張。

結局は、15日(木)以降、ギッチギチのスケジュールになってしまったではないか!

僕が望んだわけでもないのに、どうして、いつの間にこうなってしまったのか?

いったい誰の仕業なのか?

前にも書いたが、こういうのを、マジシャンズセレクトというんじゃないだろうか。

| | コメント (3)

同窓会なしよ

前回の記事は、おでん屋さんの店名を当てるクイズだったのだが、さすがにヒントが少ないためか、答えられないようだ。

ヒントは「ごぼう」。

そんなことはともかく。

2月16日(金)

かなりしんどかったが、2つの会議を乗り切る。

仕事のあと、今日も卒業生2人をまじえて食事をした。

稀にあることなのだが、卒業生と会っているタイミングで、別の卒業生から、久しぶりに連絡が来ることがある。

少しスピリチュアルなことをいえば、卒業生が卒業生を呼ぶ、ということなのだろうか。

この日も、T君とSさんをまじえて食事をしていると、携帯にメールが入った。

東北地方で教員をしているH君からである。私が、前の職場に着任した2年目に受け持った学生。H君は、T君やSさんから見れば、はるか上の先輩にあたる。

「お久しぶりです。

突然ですが、明日の夜はすでに御予定が入っていますよね?

明日、公開授業を見に首都圏に出向くのですが、もし、先生と時間が合えば、東京で一緒にビールを飲めたらなと勝手に考えておりました。

御予定があるのを承知の上で、連絡をさせていただきました」

H君からは、何年かにいちど、こんな感じのメールが来る。

ふと、僕と話をしたい、と思い立つのだろう。思い立ったときに、彼はメールをするのである。

何年か前、やはりそんな感じで彼がメールをしてきて、たまたま時間があったので、一緒にビールを飲みながら話をしたことがあった。

H君はそのときに、自分の抱えている悩みを率直に私に話した。

今回もそんな感じで話がしたいと思ったのだろうが、残念ながら、予定が合わなかった。

(もっと早めに連絡くれよ…)

と思うのだが、彼にとっては思い立ったときに連絡をして、運がよければ会う、というくらいが、ちょうどよいと思っているのかも知れない。

僕自身を振り返ってみると、ふと思い立って、先生に連絡をして、一緒にビールを飲もうなどと、考えたことはない。

どちらかといえば、できるだけ会いたくない存在である。

ふつう、大学時代の先生なんて、会いたくない存在だよな。

してみれば、僕は「先生」らしくない存在、ということか。

最近、自分の教え子たちを集めた同窓会がしたい、と思うようになった。

代々の卒業生が一堂に会するという同窓会を夢想したのである。

卒業生たちにとっても、人脈が広がるいい機会なのではないか。

こっちも卒業生たちと効率よく会えるし。

そんなことを考えたのである。

しかし、自分に置き換えて考えてみると、ちょっとそれは勘弁してほしい、と思うかも知れない。

同窓会の場では、自分以外の人たちがすべて「リア充」に思えて、落ち込むばかりなのではないか、と。

現に僕自身、高校のクラス会に行きたくないので行ってないし。

そう考えると、よかれと思って同窓会を企画することが、卒業生たちに苦痛を与える可能性がある。

やはり、思い立ったときに連絡をして、運がよければ会う、というくらいが、ちょうどよいのかも知れない。

その方が、じっくりと話を聞ける。

そもそも効率よく会うなんて考え方は、僕の主義に反する。非効率であることを大事にしてきたではないか。

そしてそういうことを好む学生たちが、僕のまわりに集まってきたのだ。

この2日間、卒業生たちとじっくりと話をしてきて、そのことを思い出させてくれたのである。

| | コメント (0)

5時間缶詰めになる仕事

2月15日(木)

両足の裏の痛みがぶり返して、1歩1歩歩くたびに激痛が走る。

今日から5日間の出張だというのに、実にタイミングが悪い。

しかも豪雪地帯の町に行くので足下も悪く、なおさら歩くのがつらい。

目的の町の駅は、新幹線がとまったりとまらなかったりする。ちょうどいい時間の新幹線がなかったので、2つ前の駅で在来線に乗り換えて、その町の駅に降り立った。

(2番線にとまっちまったか…)

小さい駅なので、改札は1番線側にしかない。

1番線側にまわるには、階段を上って渡るしかない。

(エレベーター、ないのか…)

イタイイタイイタイ!と、重い荷物を持って階段を上り下りし、やっとの思いで1番線側の改札を出た。

「お久しぶりです」

悪友のKさんが出迎えてくれた。

この日の作業は、私がKさんに無理を言ってお願いしたものであった。

自分から押しかけるというのは、私にはめずらしいことなのだが、お願いする相手がKさんだからできることである。

お昼を食べたあと、とある場所に案内された。

「作業場所は、ここです」とKさん。

「ここですか」

もともと、この町にあった高校の建物だったそうだが、いまは作業場として利用しているらしい。

「寒いのでストーブをつけておきました」

「ありがとうございます」

建物の中に入る。たしかに寒い。

いろいろな物が雑然と置かれていた。

「作業場はどこですか?」

「2階です」

また階段を上るのか…。

イタイイタイイタイイタイ!

重い荷物を持って階段を上った。

2階にある小部屋が、今日の作業場所である。この部屋だけが、ストーブのおかげで暖かい。

「好きなように使ってください」

「ありがとうございます」

「私、これから仕事がありますので、また夕方に迎えに来ます」

「はい」

「トイレは1階です」

「はい」

「私がこの建物を出るとき、外から鍵を閉めますので」

「はあ」

「中からは開きません」

「そうですか」

「ではのちほど」

といって、Kさんは出て行ってしまった。

これで私は、この建物に完全に閉じ込められてしまった。

窓の外を見ると、見渡す限りの雪である。

(まるで山小屋に閉じ込められた登山客のようだ)

もし、いまついてるストーブの灯油が切れてしまったら、確実に凍死するだろうな。

そんなことを思いながら、作業を始めた。

午後1時から6時まで5時間、ほとんど休みなく作業を続ける。

途中、作業部屋を出て1階のトイレに行ったが、死ぬほど寒い。

(やっぱり、この部屋を出たら死ぬな…)

午後6時。なんとか作業の目処がついた。

「作業は進みましたか」Kさんが戻ってきた。

「ええ、おかげさまで」

「これから食事に行きましょう。A君もWさんも一緒です」

A君とWさんというのは、前の職場の教え子で、いまはこの町の職員として働いている。

4人でおでん屋さんに行き、久しぶりにあれやこれやと話をした。楽しいひとときであった。

体調はいまひとつだったが、Kさんに無理にお願いしてこの町に押しかけて、本当によかったと思った。

| | コメント (3)

3分の前説と5時間半の立ち仕事

「2月10日、空いてるか?」

「3連休の初日ですね。何です?」

「この日、うちの職場でイベントをやるやろ」

「はあ」

お客さんを200人ほど集めて、映画を見せるイベントである。

「そのときに、3分間だけ、前説をしてほしいんよ」

「はあ」

と、上司に軽々と依頼されたのだが、2月10日は、自宅の引っ越しの次の日である。

しかも、引っ越した新居から職場までは、片道2時間以上はかかるのである。

休みの日に、2時間以上かけて職場に行って、3分だけ人前で喋って帰ってくる。

なんとコスパの悪い仕事だろう!

しかし仕事なので仕方がない。

この仕事、上司に気軽に声をかけられただけの仕事なのだが、ちゃんと、勤務ということで認識してくれるんだろうな!

どうもうちの職場は、そのあたりがいい加減である。

翌日の11日は移動日。新幹線と在来線を乗り継いで3時間以上かかる町に行った。

そして3連休の最終日12日は、朝からその町で会議である。

気を使わなければならない方たちもたくさんいて、気疲ればかりして1日が終わった。深夜に帰宅。

2月13日(火)

午前中、職場で一仕事終えたあと、廊下で上司にすれ違った。

「今日の1時から、頼むわ」

「はあ、…なんでしたっけ?」

「立ち会いだよ」

「あ、そうでした!」

そうだった!今日は午後から、「工事を見守る仕事」があるんだった。

うちの職場の一部が、いま、改装中である。

いわばリフォームをしているのだが、リフォームをしている一画が、工事現場みたいになっているのである。

今日の午後に行われるのは、「6メートルもある長い柱を、いまある場所から数メートル離れた場所に据え直すために、養生をして移動させる」という作業である。

なんということのない作業のようにも聞こえるが、その長い柱というのは、決して頑丈な柱、というわけではない。

しかも、その柱を、いっさい傷つけることなく、いま据えられている場所から、別の場所に移すのである。

そうねえ。たとえば「諏訪の御柱祭」みたいなことをする、と思えばよい。

で、私の仕事は、その作業を、じっと見守ることである。

午後1時。すぐに終わるだろうと高をくくって現場に行った。

しかし作業は意外に難航した。

鳶職のベテランが数人がかりでも、柱を動かすのに難儀している。

私は、ただそれを立ったままじっと見守る仕事である。

工事現場は寒いし、座る場所はないしで、ずっと立ちっぱなしのまんま、それを見続けなければならない。

最初は、「プロジェクトX」とか「情熱大陸」みたいな、鳶職たちの意地と技術で不可能と思われた柱の移動を見事に成し遂げる、という姿を想像していた。

しかし見ているうちに、

「なんかグダグダだなあ」

かなり試行錯誤している様子がわかる。

1本の古い柱を、もとあった場所から取り外し、無傷のまま数メートル動かすのに、5時間半かかった。

気がついたら6時半である。

5時間半も立ちっぱなしだったのか!

体はすっかり冷え切り、腰はカチカチになってしまった。

もともと決して体調がよいわけでなく、疲労困憊である。

しかし仕事なので仕方がない。

日々、こんな仕事ぶりである。

| | コメント (1)

早押しクイズ!この駅はどこ?

2月11日(日)

午後の遅い時間に家を出たため、目的地に着いたのが夜になってしまった。

(すっかり暗くなっちゃったなあ)

初めて降りる駅なので、まったくといっていいほど土地勘がない。

駅名と、その町の大きさからして、もっと繁華街みたいなところを想像していたのだが、全然そんなことはなかった。

(そうか。実際の繁華街はこの駅ではなく、この近くの駅なんだな)

とりあえず駅を出て、泊まる予定のホテルの方角に向かって歩き出した。

何気なく後ろを振り返ってみて、驚いた。

「これは…」

この駅舎は、以前に見たことがあるぞ。

そうだ!1977年にTBSテレビで放送された「横溝正史シリーズ・悪魔の手毬唄」に出てきた駅舎だ!

物語の中盤、古谷一行演じる金田一耕助が、連続殺人の舞台となった鬼首村を出て、この町に向かう。事件解決のための調査をこの町で行うためである。

この町で、金田一はある重要な事実を知る。

それは、23年前に殺害された活弁士の青柳史郎こと青池源治郎と、その容疑者と目される詐欺師の恩田幾三が、、同一人物である、という、決定的な事実である。

そのことに驚いた金田一は、この事実を早く知らせようと、矢も盾もたまらず、鬼首村に戻ることになるのだが、このドラマではそのとき、金田一が駆け込む駅舎が、大きく映し出される。

その駅舎が、この駅舎なのだ!ドラマの中で見た駅舎と、まったく同じである。

僕はてっきり、この駅舎は別の建物を流用したものか、あるいは本物の駅舎だったとしても、すでに取り壊されたか、と漠然と考えていた。

しかし、まだ残っていたんだね。

調べてみると、この駅舎は昭和5年(1930)に建てられたものだという。いまでもその駅舎が、現役で使われているのだ。

「悪魔の手毬唄」は、設定が昭和30年であるから、時代考証的にも、この駅舎を使うことに何の矛盾もない。

さて、この駅というのは…。

| | コメント (2)

憧れのパリの先輩

私の母は、ごくふつうの人なのだが、やたらと知り合いが多い。

全然関係のない町を歩いていても、むかしの友人にばったり会う、なんてことがザラにある。

私はその場面を、何度も目撃した。

私の母以上に、引きの強い人を、私は知らない。

先日、実家で本の整理をしていたら、『セーヌはどっちに流れているの』というタイトルの本を見つけた。母が買った本である。

著者のKさんは、母の友人である。

あんまり詳しいことは聞いたことがないのだが、Kさんは、むかし勤めていた職場時代の、かなり親しかった友人らしい。なにしろ母は、中学時代の友人、高校時代の友人、むかしの職場の友人など、実にさまざまなレベルの友人がいるのだ。

Kさんは20代の後半に新聞記者の方と結婚し、仕事を辞めて専業主婦になった。

同じ頃、母も結婚し、その職場を辞めた。

そこから二人は別々の道を歩み始めた。

Kさんは結婚してまもなく、夫が特派員としてフランスのパリに滞在することになり、Kさんもパリに住むことになった。

パリ滞在中に、娘さんを生んだ。

出産してほどなくして、日本に帰国した。

その後、Kさんは児童文学の作家として、本を何冊か出した。

…というのが、以前私が母からなんとなく聞いた、kさんに関するお話である。

さてここからは、「第九のスズキさん」のときと同じように、親子二代にわたる物語へと展開する。

Kさんがフランス滞在中に生んだ娘さんというのが、私の高校時代の部活の、1年先輩なのである。

もちろん、これはまったくの偶然であり、部活に入部した時点では、そんな因縁があるなど、知るよしもなかった。

Kさんの娘さん、僕はその人の名前をとって「M先輩」と呼んでいたが、M先輩は、実に個性的で、センスがよくて、おもしろい先輩だった。

ちょっと独特の感性を持っていて、

(どうしてこんな個性的な人が、こんなつまらない吹奏楽団なんぞに埋もれているのだろう?もっと活躍の場はいっぱいあるだろうに)

と常々思っていた。

高校時代は、1学年違うだけで、ものすごい大人に見えたものである。それに加えて、高校時代特有の感情のようなものがはたらいたせいもあって、M先輩は、ちょっと憧れの先輩であった。

部活に入部してしばらくして、母が言った。

「おまえの1年先輩に、Kさんという人がいるでしょう」

「うん」

「むかし、職場で働いていたときに知り合った親友の娘さんなのよ」

「えええぇぇぇ!!」

このとき初めて、母とKさんの関係を知ったのである。

おそらく、何かのおりに、母とKさんがお喋りをする機会があって、そのときに判明したのだろう。

「Kさんの娘さんの名前、Mちゃんっていうでしょう?」

「うん」

「あの名前は、パリで生まれたことにちなんで付けた名前なんだってよ」

「なるほど!」

いわれてみれば、M先輩の名前は、パリを連想させるような、とても美しい名前である。

そうか。M先輩のあのセンスのよさは、パリで生まれたことに由来しているのかも知れないな。

と、高校生の僕は、そんな幼稚な仮説を立てていたのである。

ふつうならばこれは運命的な出会いとなるのだろうが、ま、そんなことにはならない。

そのときの僕は、反抗期だったこともあり、母親どうしが知り合いだということがわかると、どうもM先輩とは顔を合わせづらくなってしまった。

結局あまり話す機会もなく、M先輩は高校を卒業し、それ以来、まったく会っていない。

母からの情報では、大学の仏文科に入ったのだという。

なるほど、やはりパリで生まれたことが、大きく影響しているのだろう、と思った。

それからだいぶ経って、M先輩がフランス人と結婚し、フランスに移住したという話を聞いた。

M先輩は、その美しい名前の通り、パリに引き寄せられるように旅立っていったのだな。

ひょっとしてM先輩は、生まれた時点で、フランスで人生を過ごすことを運命づけられているのかも知れない、などと、例によって運命論が頭をもたげたのである。

…と、そんなことも長い間すっかり忘れていたのだが、実家の本の中から『セーヌはどっちを流れているの』を見つけたときに、以上のようなことを思い出したのである。

さてこの本。

書店のカバーがしてあるので、母が書店に注文して買ったものらしい。

本には、Kさんが母に宛てたハガキがはさまっていた。

本を宣伝するために作った手作りのダイレクトメールだが、余白の部分に、Kさんから母へのメッセージが書き添えてあった。

「このような本を出版しました。M(娘)が序文を書きました。1カ月来ていて、今朝フランスへ帰ったの。

この本はとても好評で、増刷になるかもしれません。

○○センター××××館5Fの本やさんで売っていて、「ベストセラーです」と店長笑っているの。

もしよければ送りますが、押しつけても悪いと思って…。読んでほしいわ」

なるほど。母は本を送ってもらわずに、自分で本を買ったということなのだろう。

このハガキを読んで、Kさんが母のことをすごく慕っていたことが、よくわかる。

本を開くと、「母の巴里ノート」と題する、M先輩の序文が載っていた。

そうか。M先輩のセンスのよさは、パリで生まれたからではなく、母親譲りだったのだな。

序文を読んで、そう感じたのである。

本の内容はといえば、1960年代後半に、フランス語もわからないままフランスで生活をはじめたKさんが、フランス語を学びつつ、いろいろな人たちの助けを得ながら、出産を経験し、次第にフランスの生活に慣れていくという、「フランス生活奮闘物語」である。それは同時に、kさん一家のファミリーヒストリーでもある。決して武勇伝として語ることはなく、日々の生活をありのままに語った心地よい内容だった。

そういえばM先輩は、いまどうしているのだろう?

こういうときに便利なのは、SNSである。

しかしこっちのことなど、すっかり忘れられているかもな、なにしろ高校卒業以来会っていないんだから。

と逡巡しながらも、なんとか探しあてて、ダメ元でダイレクトメッセージを送ってみた。

「実家の本を整理していたら『セーヌはどっちに流れているの』を見つけて、懐かしくなりました」

するとほどなくして、返事が来た。

「鬼瓦君、ごぶさたです!元気ですか? 思い出してくれて、嬉しいです。お母さま、セーヌを持っていらっしゃるんですねえ。ファミリーネタで、恥ずかしいです。 フランスはRという田舎にいるので、もし、パリに遊びに来たら、呼んでください」

R?初めて聞く地名である。おそらくフランスの地方都市なのだろう。

パリに遊びに来たら声をかけてくださいなんて気軽に言ってるけども、パリに行く機会なんて、そうそうないだろうな…。

しかしフランスに知り合いがいるというだけで、何となく心が豊かになる。

いや、知り合いというより、親戚のお姉ちゃん、という感覚に近い。

もう30年も会っていないのに、不思議な感覚である。

やはり母の代からの、因縁なのだろうか。

| | コメント (2)

終わらない引っ越しはない

2月8日(木)

4年間暮らした町を離れることになった。

そして今日は、引っ越しの日。

こっちは体力が落ちているから、金に糸目を付けず「フルプラン」にした。よく「おまかせパック」といっていたコースである。

しかし、いくら「おまかせ」といっても、ある程度は部屋を片付けなければならない。

「フルプラン」の概要はこうだ。

前日の7日の9時から、箱詰めを行い、積み込めるものはトラックに積み込んでいく。

本番の8日の9時から、残りのものを積み込んで、新しい住所のところに運び込む。

翌日の9日の9時から、運び込んだ段ボールを荷ときして、部屋を整理する。

つまり、3日がかりの引っ越しというわけである。

それ以前にやっておくべきことは、電気、水道、ガス、電話等の契約解除ならびに変更、郵便物の転送願いの手続き、大型ゴミの処分、転出届、等々である。

つまり、私が最も苦手とするものばかりである。

それだけではない。最も問題なのは、ひと部屋まるまる使って散乱している、膨大な量の本と、紙の書類と、CDと、DVDをどうするか、である。

7日の朝9時には、箱詰めのおばちゃんたちが来る。

それまでに、ある程度片付けておかなくてはならない。

前日の6日の夜から片付けをはじめたのだが、深夜3時半までかかっても、ほとんど片付かないことがわかって、諦めてしまった。

「引っ越しの才能がないね」

「引っ越し検定があったとしたら4級程度」

「引っ越し学の学位は取れない」

「H-1(Hは、引っ越しのH)ならば一回戦で敗退」

家族にはさんざんの言われようである。

これまで、やむにやまれず何度か引っ越しを経験してきたが、結局、なにひとつ学んでこなかったのである。

さて引っ越し当日。

ちょっとしたトラブルの連続ではあったが、予定通り、旧住居を引き払い、新住居へと荷物を運び終えた。

疲れているので、このあたりのディテールを書く気力がない。

結論だけを書くと、引っ越しをする前は、

「こんな状態で引っ越しなんぞできるのだろうか?」

と諦めかけていたのだが、最終的には、引っ越しというのは、完了するものなのだ。

「終わらない引っ越しはない」

これが、これまで何度か経験してきた引っ越しで得た、唯一の教訓である。

| | コメント (1)

節分前日

2月2日(金)

数日後に、いま住んでいる町を離れることになったので、通常の仕事に加えて引っ越しの準備で、めちゃくちゃ忙しい。

こういうときは、仕事が重なるもので、健康だったとき以上に、いまのほうが忙しいのだから、まったく困ったものである。

この日は、都下の町で仕事である。

「忙しいのに、よくこの仕事を引き受けましたね」と言われたのだが、自分にとってゆかりの深い町での仕事なので、断るわけにはいかない。「ご恩返しのつもりで、お引き受けしたのです」と答えることにしている。

会議は午前10時からはじまり、途中昼休み1時間をはさんで、8時間に及んだ。

ダメ出しというか、たくさんのご指摘をいただき、さらに宿題が増えてしまった。困ったものである。

「そういえば、明日は節分でしたね。ここへ来る途中に大きな看板を見かけましたが、横綱が来るんですか?」

「ええ、横綱には、毎年うちに来ていただいております。去年はそのおかげでものすごい数の方がお見えになってたいへんだったのですが、さて今年はどうなりますか…」

「たしかに、ちょっとここ最近、横綱もふるわなかったですからねえ。…あと、元宝塚歌劇団の女優さんも来るんですね」

「ええ」

「元宝塚歌劇団にしては、地味めの印象の女優さんですけれど、私はけっこう好きですよ」

「そうですか。人気ドラマにも一時期出ていましたしね」

「ええ。それで私も知ったようなもので」

さて、翌日の豆まきには、どのくらいの人が押しかけたのだろう。

| | コメント (2)

« 2018年1月 | トップページ | 2018年3月 »