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2018年3月

引きの強い一家

出産の翌日には、個室から3人部屋に移される。

この3人部屋の病室が、実に狭い。わずかにカーテンで仕切られてはいるが、カニ歩きをしないと中には入れないような狭さである。

もっとも、病人ではないのだから病室というのは適切ではない。

部屋に入ることができるのは、一親等、すなわち、夫か、夫妻の両親だけである。

兄弟や甥姪などは、部屋に入ることができず、新生児を見るためには、いったん新生児を3人部屋から新生児室に移したうえで、ガラス越しに見るという方法をとる。

水曜日(28日)の夕方、仕事終わりに、愚妹が病院に訪れた。水曜日は定時退勤日ということらしい。

愚妹が廊下に立って、ガラス越しに新生児を見ていると、廊下を通りかかった若い男性が、

「あれ?」

と言った。

「おや」

「これはどうも」

「どうもどうも」

「こんなところで」

「これまたどういうわけで」

「子どもが生まれまして」

横にいた私には、なんのこっちゃわからない。

聞いてみると、その若い男性というのは、愚妹と同じ会社で、某支店時代の直属の部下にあたるというのだ。

愚妹に、仕事のイロハを教わったのだという。

この若い男性も、水曜日の定時退勤日ということで、ほぼ同じ時間に病院にやってきて、生まれたばかりの我が子を見に来たのである。

狭い町ならいざ知らず、この広い大都会で、たまたま同じ会社の同じ部署にいた部下と、産婦人科の病棟でばったり会うなんてこと、あるか?

母も私も、引きの強い人間だと自負はしていたが、まさか愚妹までそうだったとは…。

「ではまた」

といって、その愚妹の部下は、僕たちの部屋に入っていった。

…おいおい!同じ部屋かい!!!

なんと愚妹の部下も、僕らと同じ3人部屋だったのだ。

世間は狭いというべきか、悪いことはできないというべきか。

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桜の季節

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これは、僕の実家の近くにあるお寺の枝垂桜だ。

このお寺の山門が、僕の「前の前の勤務地」出身の著名な建築家による設計であることを、ずいぶん後になって知った。

なんのゆかりもないと思われた、僕の実家の町と、「前の前の勤務地」が、こんなところでつながっているとは思わず、それ以来、つとめてこのお寺の桜を見に行くようにしていた。

3月25日(日)に、運よく訪れることができ、満開の桜を目の当たりにした。

今年の桜は、満開になる時期が例年よりも早いのだ。

しかも天気がよかったこともあり、余計に桜が美しく見える。

今年の桜が美しいのは、冬がとりわけ寒かったからではないか、とも思う。

この桜を見た日の翌日、僕は娘を授かった。

熟考の末、桜の季節にふさわしい名前をつけた(といっても、僕がいくら寅さんファンだからといって、「さくら」と名付けたわけではない)。

昨年の秋には父の死を看取り、今年の春には新しい生命の誕生に立ち会った。

自分自身についていえば、昨年の夏に大病を患い、今までにない体験をした。

去年の夏から始まり、この半年ほど生・病・死について考えたことはない。

ある後輩からのメールに、

「伺う限りこの1年はこれでもかと言うくらいのイベントが詰め込まれた年だったようですね。死と生…両極端な出来事ですが繋がり合うこの二つの事柄を短い時間で迎えたと言うことは何かあるのでしょう」

とあった。まさにその通りである。

ひとつ欲を言えば、父に初孫の顔を見せたかった。

昨年11月、父が入院し、もう父の命も時間の問題だと言われていたときのことである。

病室を出た廊下のところで、母が僕に言った。

「あんたが来ていないときにね、お父さんとこんな話をしたのよ。

『俺、あと3カ月くらい生きられるよな』

『大丈夫よ。生きられるわよ。でもどうして?』

『そうしたら、孫の顔を見ることができるよな』

『きっと見られるわよ』

ってね。お父さん、やっぱり喜んでいたのよ。あんたには何も言わないけれど」

3カ月生きたとしても、予定日はまだ先なのだ。

でも父の中では、あと3カ月生きられれば、孫の顔を見ることができる、と信じて疑わなかったのだろう。

生まれてきた娘は、あくびをしたり、眉間にしわを寄せた時の表情が、僕の父にそっくりである。

「人は常に誰かの代わりに生まれ、誰かの代わりに死んでゆく」

という、大林宣彦監督の映画「野のなななのか」の冒頭のフレーズを思い出した。

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ハシゴをはずすこの国の私

これもまた、1年前の話。

うちの出身高校の近くには見事な桜並木があって、毎年桜が満開になる時期には多くの花見客が訪れる。

1年ほど前、高校時代の部活の1年下の後輩に、

「この年齢になって、母校の近くの桜並木を、高校時代にともに過ごした仲間たちと歩くのも、悪くないなあ」

と、ちょっとノスタルジー気味に騙ってみたら、いや、語ってみたら、

「ぜひそれをやりましょう。私が仕切りますよ!」

と、その顔の広い、社交性のカタマリみたいな後輩が、SNSを通じて高校の部活のOBに呼びかけた。

「1年後、4月の第1週の土曜日に、みんなで母校の近くの桜並木でお花見をしましょう。1年も先の予定があるってのも、なかなかいいものでしょ!」

すると、これがみんなのノスタルジーを刺激したらしく、

「1年後のお花見、楽しそ~う。参加したいです」

とか、

「楽しみにしています!」

とか、

「了解!いまから予定空けておきます!」

とか、

「誰かが覚えてくれているはずとのことで、参加に一票!」

とか、

「夜?の宴会のみ参加しま~す」

とか、まあその時はみんなでかなり盛り上がったようだった。

僕自身は、少人数でひっそりと花見をするというイメージだったので、なんか大ごとになっちゃったなあと、少し戸惑ってしまったのだった。

そうこうしているうちに、1年が経った。

1年が経つと、それぞれに事情が変わるものである。

まず、僕が都合がつかず行けなくなってしまった。

さらに、幹事役を買って出た後輩が、4月から海外赴任ということになり、幹事どころか、参加もできないことになってしまった。

つまり、言い出しっぺの二人とも、行けなくなってしまったのである。

まあ、ふまじめな僕だったら、この時点で、

「花見は中止にします。あとはそれぞれで行ってください」

と投げ出すところなのだが、この後輩たちは、みんなまじめなのだ。

その幹事役だった後輩は、さらにその1学年下の後輩に「後はよろしく頼む!」と幹事をお願いしたのだった。

そして幹事を指名された後輩は、とにかく人を集めてこのイベントを成功させないといけないと思い、あらゆる手段を使って、人を集めることにした。

参加するメンバーも、高校時代に一緒に過ごした仲間たち、という最初のコンセプトはどこかに行ってしまい、部活のかなり下の世代にまで声をかけて、とにかく参加できる人にできるだけ来てもらう、という方針に転換したらしい。

つまり、お互いに世代も違い、面識のない者どうしが集まる可能性があるのだ。

そこまでしてやらなくても、と思ったのだが、その気持ちもわからなくもなかった。

というのも、1年前、あれだけ盛り上がった同世代の人たちが、軒並み、

「ごめん、やっぱ行けねえ」

と、次々とキャンセルしてきたからである。

つくづく、人間の気持ちなど、1年も持続しないものなのだと思い知らされる。

そんなことはともかく、それに加えてさらに悪い知らせがある。

今年の桜は、例年よりも満開の時期が早いのである。

当初予定していた4月の第1週の土曜日の時点では、すでに散っている可能性が高いのである。

つまり、当初の目的である「花見」すらおこなえない可能性があるのだ。

僕が当初思い描いていたイベントとは、すでに似ても似つかぬものである。

しかし、1年前から決めていたこの日程を、変更するわけにはいかない。

ということで、きわめて条件の悪い中で、幹事を任された後輩は、奮闘しているのである。

この一連の流れの中に、僕はこの国の社会が持っている、ある特徴を見いだすのだが、いまはそのことについて論じる場合ではない。

それもこれも、無責任な提案をしたこの僕に、すべての責任がある。

まことに申し訳ない気持ちでいっぱいである。

でもなんだかんだ言って、参加した人たちは、それなりに楽しんでくれるだろうと信じたい。

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グランドフィナーレ

3月21日(水)

ちょうど1年ほど前、メールが来た。

「昨年6月26日にご講演いただき大好評でした。

来年3月に再度ご講演いただけませんでしょうか。

3月の土日でご都合よい日がありませんか

ご返事をお待ちしています」

ある会の幹事をやっているMさんからである。

その会は、同好の士の集まりといった会で、1年に2,3回ていど、講演会を企画している。

1年も先の話か…。

とりあえず、

「3月21日(水)にしてください」

と返事を書いた。

それにしても、困ったなあ。

僕はてっきり、1回きりの依頼だと思っていたので、すでに前回の講演で、自分の持っているネタをすべて放出してしまったのだ。

同じネタをやるわけにはいかないし…。

とりあえず、1年の猶予があるので、おいおい考えていくことにしよう。

そうこうしているうちに、昨年夏、体調を崩した。とても講演のことなど考える余裕もなくなった。

そうなるともう、一気にやる気が失せてくる。

(ああ、引き受けるんじゃなかった…)

よっぽど断ろうと思ったのだが、Mさんからはその後も何度もメールをいただいた。

「すでに3月21日で会場をおさえましたので、よろしくお願いします」

「去る11月20日付メールにて演題の内容要旨100文字位を12月20日までにメールにてご連絡いただき、聴講者の募集を来年早々から開始する旨ご連絡しましたが未だ届いていません。お忙しい中恐縮ですが、改めて急ぎ12月26日(火)までにメールにて100文字位の講演内容要旨をお送りください。チラシを年内に作成し募集を開始します」

新年あけましておめでとうございます。今年3月21日(春分の日)講演会よろしくお願いいたします。その聴講者募集のチラシを添付の様に作成し、関係先に置いていただき、新年早々から聴講者の募集を開始します」

ここ数日何度か電話で確認しようとしましたが、先生の事務所に繋がらず、メールでのご連絡にさせていただきました。3月21日ご講演をお願いしておりますが、聴講者募集開始から数日で64名の応募がありました これで締め切りました」

「講演会当日聴講者に配布するレジュメ原稿を2月末までに小生宛てメールでお送りください よろしくお願いします」

講演会は22日現在82名の聴講希望者があり、この時点で締め切りました 大変な人気です。講演会レジュメ原稿を3月7日(水)までに小生あてメールで送信してください。急ぎ印刷し準備します よろしくお願いします」

21日の講演会レジュメ確かに受け取りました。早速印刷するように、当日の講演会場にメールで送りました。聴講者は82名の希望を会場の都合で62名で締め切りました

Mさんは、矢継ぎ早に、というか、かなり強引に話を進めていった。

もう後には引けなくなった。

さらには、

「終わったあと懇親会をおこなうので参加してください」

というメールも来た。

おいおい、懇親会まで参加するなんて知らないぞ。

前回は懇親会なんかなかったぞ。

体調がよければ気にならないのだが、体調が悪いので、懇親会は勘弁してもらいたい、と思い、

「ちょっとここ最近体調がすぐれないときがあるので、懇親会に参加することは難しいと思います」

と返事をした。

(困ったなあ…)

と思いつつ、それでも配付資料を作成したり、パワポの資料を作成したりして、講演の準備を進めた。

さて当日。

会場に行き、幹事のMさんとお会いした。

「講演会には、Y先生もお見えになります」

「Y先生も、ですか!」

Y先生は、うちの業界の重鎮で、傘寿を越えるお年の先生である。聞くと、この会の会長をつとめておられるという。

会長とは名ばかりなのだろうと思っていたら、まさか講演会にわざわざいらっしゃるとは…。

こりゃあ、ヘタな講演はできないぞ…。

午後2時、講演が始まる。

不思議なもので、最初はどうなることやらと思っていたが、喋っているうちに、どんどん興が乗ってきて、気がつくと予定の1時間半を少しオーバーしていた。

(話し足りないなあ…)

と思いつつ、講演を終えた。

続いて閉会の言葉である。会長のY先生がマイクを持った。

「さて、第28回の講演会も無事に終了しました。10年ほど続いたこの会ですが、本日をもちまして、最終回となりました。今日はとてもいい講演でした。この会は今日で終わりますが、いつかまたどこかで、鬼瓦先生の講演を聴く機会があればと思います。長い間、ありがとうございました」

ええええぇぇぇぇっ!!!

最終回だったの???

そんな責任の重い講演会だとは知らなかった。

幹事のMさんは、そんなことをひと言も言わず、私に依頼してきたのだ。

それにしても、なんで終わっちゃうんだろう?

ほかの会員の方に聞いてみた。

「あのう…。この会、今日で終わりなんですか?」

「ええ、もう10年以上も続いていたんですけどねえ」

「もったいないですねえ」

「ええ、なんでも、幹事のMさんがちょっと体調を崩されて、これ以上続けないと決断されたようです」

「そうだったんですか…」

「なにしろ、この会はMさんでもっていたようなものですからねえ」

Mさんは、最後の最後に、この僕を講師に選んでくれたのか…。

Mさんはかなり強引に話を進め、僕はすっかりMさんの熱意に根負けして引き受けてしまったんだけれども、Mさんからしたら、最後の講演会を、なんとしてでも成功させて終わりたかったんだな。

そんなことだったとは、まったく知らなかった。

「先生、今日はありがとう」幹事のMさんが私の所に近づいてきて言った。

「こちらこそありがとうございました」

「忙しくて、体調もすぐれない中で、本当にありがとうございました。メールでぶしつけなことばっかり書いてしまい、悪かったね」

「いえ、とんでもないです」

「年寄りのわがままだと思って、許してください」

記念写真を撮りましょう、と誰かが言った。

私と、会長のY先生、そして幹事のMさんが前に並び、その周りに何人かの会員の方が集まり、記念撮影をした。

会場を出ると、まだ冷たい雨が降っていた。

「この会は終わっちゃうけれど、また、お願いするかも知れませんよ」とMさん。

「はい、またお目にかかります」

そう言って、お別れした。

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あの温度の音楽

星野源は、メジャーになりすぎた。

本来は、暗くて屈折した歌を作るのが、彼の真骨頂である。

「くせのうた」を初めて聴いたとき、不意打ちをくらったように、泣かされた。

病室で痛みに苦しみながら「地獄でなぜ悪い」を聴いたときも、これは今の俺を歌った歌だと、涙した。

前に書いたように、星野源は細野晴臣の影響を受けたという。

星野源のライブでは、YMOの「Fire Cracker」と「Mad Pierrot」をカバーするんだぜ。どちらもホソノさんにゆかりのある曲である。

「Fire Cracker」はともかく、「Mad Pierrot」を選曲するなんざ、シブいね。

星野源の曲調は、ホソノさんのそれとはまったく異なるのだが、なんというか、雰囲気は、ホソノさんの音楽を彷彿とさせる。ホソノさんの曲を聴いたときの、あの感覚が、よみがえるのだ。聴後感、といったらよいか。

考えてみれば、若いころのホソノさんとか、成熟した清志郎といった、「あの温度の音楽」をリアルタイムで聴く機会が、すっかりなくなってしまった。

僕(ら)は、「あの温度の音楽」に、飢えていたのだ。

ひょっとしたら、星野源を聴くことで、「あの温度の音楽」を聴いたときの聴後感に浸ることができるかもしれない。

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ウルトラシリーズ

自分の記憶をたどってみると、リアルタイムでウルトラシリーズを見たのは、「ウルトラマンA(エース)」くらいからではないだろうかと思う。「帰ってきたウルトラマン」以前は、まだ物心がついていなかったので、再放送で見ていたのだろう。

ただ、強烈に印象に残っているのは、ウルトラマン、ウルトラセブン、帰ってきたウルトラマンまでで、ウルトラマンA以降は、リアルタイムで見ていたはずなのに、まったく印象が薄い。

最近、ローカル局で、ウルトラシリーズの再放送をあちこちでやっていて、時間があるときにそれを見たりするのだが、その理由が何となくわかってきた。

「ウルトラマンレオ」を見たのだが、これがどうにもおもしろくない。

どうやらコンセプトは「スポ根ドラマ」のようで、ウルトラマンレオ(オオトリゲン)が、怪獣を倒す技を習得するために、師匠であるウルトラセブン〈モロボシダン〉の特訓を受けて成長していく、という物語である。

とにかく毎回毎回、そんな流れなので、見ていて退屈きわまりないのである。

おそらくリアルタイムで見ていた子どもの頃も、同様の理由で、退屈に感じていたのだろうと思われる。

で、今度は「帰ってきたウルトラマン」が放送されているので見てみたら、「毒ガス怪獣出現」という回で、これがすごい内容だった。

毒ガスをまき散らす怪獣が出現。だがその毒ガスの正体は、旧日本軍が戦争中に開発した毒ガス兵器で、それを開発したのが、MATの隊員・岸田〈西田健〉の父だった。

岸田は実家に戻り、父の日記を発見する。そこで岸田は、父が毒ガスを開発したこと、その毒ガスが戦争で使われることがなかったが、処分をするために山中に埋めたことなどが書かれていた。

その毒ガスを体内にためた怪獣が、いま、地球を汚染させているのである。

つまり父が開発した殺人兵器が、怪獣を通じて蘇り、人々を次々と殺しているのである。

岸田は、自分の父がしたことに責任を感じ、一人で怪獣を退治しようと試みる。

…とまあ、こんな感じの話なのだが、およそ子ども向けとはいえない内容である。

しかし、まあ話に引き込まれること引き込まれること。

で、脚本を見たら、金城哲夫だと知って納得した。

あとで調べたら、金城哲夫最後の特撮作品だということだ。

「ウルトラセブン」あたりまでは、やはり戦争を引きずっていた。

子どもにわかろうとわかるまいと、戦争へのメッセージを入れる。

それがウルトラシリーズのフィロソフィーだった。

だが金城哲夫が引退してから、そのフィロソフィーは次第に失われ、子どもの成長というわかりやすいコンセプトに変わっていった。

だがどうだろう。

子どもの頃に強烈な印象を残し、今なお覚えているのは、「ウルトラマン」と「ウルトラセブン」、そして「帰ってきたウルトラマン」なのだ。実相寺昭雄であり、金城哲夫であり、市川森一だった。

子どもにわかりやすいはずのストーリーは、なぜか頭には残らなかった。

わかりやすい内容は、すぐに忘れられてしまう。

わかりにくくても、フィロソフィーのある作品が、いつまでも印象に残るのである。

…ちょっと、フィロソフィーという言葉が使いたくて、書いてみました。

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イタい話

先日、初対面の人と、お酒も飲まずに6時間も話し込んだ。

仕事のつながりでお会いした方だったのだが、仕事の話はほとんどなく、もっぱら、大林映画の話だった(またかい!)

その人も大林映画のファンだったので、こちらとしては心置きなくマニアックな話をしたのだが、

「めちゃめちゃ詳しいじゃないですか!」

と、先方も多少引き気味だった。

そんなことはともかく。

6時間の中で、たとえば、こんな話をした。

僕は、自分の仕事を映画の世界に喩えるという癖(へき)を持っている。

僕は、文章を書くのが仕事の一つである。

僕が文章を書くとき、職業的な文章を書く場合と、このブログのように、まったく職業とは関係のない、好き勝手なことを書く場合がある。前者は仕事だが、後者は仕事ではない。

これを映画監督に喩えると、前者は、言ってみれば、映画会社専属の職業映画監督。後者は、自主映画の監督にあたる。

映画会社専属の職業映画監督は、映画を製作したり公開するための安定したシステムがある反面、表現としては、いろいろと不自由な制約が多い。

自主映画の監督は、映画を製作したり公開したりするための安定したシステムがない反面、自分の思い通りに映画を作ることができる。だがともすれば、日の目を見ないこともある。

僕が書く職業的文章は、僕が自由に書ける文章ではなく、テーマと型が与えられたうえで書くことになる。映画会社専属の映画監督が作る映画のようなものである。

しかしだんだんと、そうした職業的文章を書くことが窮屈になってきた。

本来自分の書きたい文章は、プライベートフィルムのような、自主映画のような文章なのである。

僕がこのブログを続けているのも、職業的文章ばかり書いていると、精神のバランスに支障をきたすからと考えているからにほかならない。

すこし、自分のプライベートフィルムにも、日の目を見せてやりたいなと、最近思うようになってきた。

理想は、職業映画監督的文章と、アマチュア映画監督的文章を、自分の中でバランスよく公開していくことだ。

…などという妄想を話したりしたのだが、こんな話、6時間もしているのだから、やはり俺、イタい奴だよねえ。

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人は軽率に出会ったりしてはいけない

久々に私に訪れた大林宣彦ブームは、まだ続いている。

立川談志『観なきゃよかった 立川談志映画時評』(アスペクト、2015年)に、立川談志と大林宣彦の対談が掲載されている。2002年4月におけるラジオ番組での対談を文字化したもののようである。

とくに冒頭の会話がしびれるねえ。

「談志 番組をやっていることのプラスのひとつにね、今日のようなことがある。普段は会えない人に、番組という場において、会うことが出来るでしょう。つまり、大林監督に久しぶりに会えたといううれしさ。

大林 ぼくたちはね、間に仕事がなきゃ古い友達なんだよ、きっと。でも、本当の友達っていうのは、みだりに会えないものなんだよね。本当に大事なときにしか会えないんだよ。ということはね、ひょっとすると生涯、会わない方がよいもの。みだりに会うと下品になるからね(笑)。だから仕事ということにしてようやく会うのね。われわれにとって、仕事っていうのは友情の場なんだよ。生きてりゃ、こうして会えるもんなぁ。

談志 いいねえ。」

「みだりに会うと下品になるからね」という表現が、なんともよい。

『大林宣彦の体験的仕事論』(PHP新書、2015年)でも同様のことを述べている。パーティーに誘われても、「はいはい」と出かけるのが嫌なんです、という言葉に続けて、

「人はみだりに出会ってはならない」というフィロソフィーを僕は持っているから。人と人とにはやっぱり、出会うという旬がある。映画もみだりに作っちゃいかんし、人もみだりに出会っちゃいけない。みだりに会うと下品になるからね。」

と述べている。

「人に出会うのにも旬がある」というのも、よい。

そういえば、大林監督のカルト的映画として知られる「麗猫伝説」(1983年)の中に、

「人は軽率に、出会ったりしてはいけない」(峰岸徹)

という台詞がある。

これまたカルト的映画として知られる「日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群」(1986年)にも、

「人はむやみに出会うもんじゃない」(三浦友和)

という台詞がある。

大林映画にたびたび出てくる台詞なのだが(といっても、どちらもカルト的映画なので観たことのある人はいないと思うのだが)、これは、監督自身のフィロソフィーだったんだな。

1983年の映画にこの台詞が登場するということは、監督が少なくとも45歳の時点で、この境地に達していたことがわかる。

僕はアラフィフといわれるこの年齢になって、ようやくこの境地がわかるようになってきた。

「人は軽率に出会ったりしてはいけない」

「みだりに会うと下品になるからね」

と考えるだけで、ずいぶんと心が軽くなるような気がするのだ。

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世界は誤解でできている

昨年、ある講演をしたときのことである。

講演が終わった後、一人の老紳士が私のところにやってきた。

「いやあ、先生の講演、たいへんおもしろく拝聴しました」

「ありがとうございます」

「先生のおっしゃるとおりです。いちいちうなずきながら、メモしていたんですよ。ほら」

そういうと、老紳士はノートを私に見せた。

「なかでも私が最も感銘を受けた言葉が、

『変化のなかにこそ進歩がある』

という言葉です」

「……」

その老紳士のノートを見ると、たしかに

「変化のなかにこそ進歩がある」

と大書されている。

しかし不思議である。

私は講演のなかで、そんな言葉をひと言も口にしたことはないのだ。

必死に思い出してみるのだが、やはり自分では言った記憶がない。

しかし僕のそんな疑念などお構いなしに、その老紳士はまくし立てるように、10分ほど、ご自身の説を開陳された。

「もう私、先生のお説に大賛成です!今日は来た甲斐がありました」

とおっしゃっていただいたのだが、その老紳士の自説と私の講演がどう結びついたのか、私にはまったくわからなかったのである。

先日、その時の講演を文字に起こした原稿の校正が送られてきて、あらためて読んでみたのだが、やはり、

「変化のなかにこそ進歩がある」

などという言葉は、私はひと言も口にしていなかった。

うーむ。いったいどうしてそのような思い込みが生まれたのか?

それで思い出した話がある。

映画監督の大林宣彦さんが、映画評論家の淀川長治さんのエピソードをラジオで語っているのを聴いたことがあるのだが。

あるとき大林監督は、淀川さんが大林監督の映画の内容を他の人に紹介している場面に、立ち会ったことがあるという。

いわば淀川さんは、その映画を作った監督を目の前にして、その監督の作品を第三者に説明していたわけである。

しかし淀川さんが話す映画の内容は、自分が作ったはずの映画の内容とはかなり違う。

そんな映画を撮ったつもりはないんだけどな。

だが淀川さんの話は、自分の作った映画よりもおもしろい。

そこで大林監督は気づいた。なるほど、映画というものは、観客が頭の中で補いながら見ていくものなのだ、と。

ひょっとすると私の講演も、その老紳士の脳内で補われたがゆえに、その老紳士にとってすばらしいものに聞こえたのかもしれない。

ここから学んだことは、自分の話が正確に理解されるなんてことはあり得ず、受け取る側は自分の都合のいいように誤解するのだということを承知の上で、表現活動に携わっていくしかない、ということである。

そして誤解されることも、時に、いいことなのだ。

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新兵器投入

霧吹きは足の裏を救う

3月8日(木)

びっくりすることに、いまも両足の裏の痛みが治らず、治療を続けている。

2週間に1度程度、皮膚科に通って、例の液体窒素を、

シュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッ

と霧吹きで吹きかけてもらっているのである。

担当の先生は、ものまね芸人の堺すすむみたいな顔の先生である。

今日、2週間ぶりに皮膚科に行くと、その堺すすむにクリソツな先生が、

「では、始めましょう」

と言って、手術用の手袋みたいな手袋をおもむろにつけて、やおら霧吹きを取り出し、例によって、

シュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッ

と、やりだした。

しばらくすると、

「ちょっと堅くなったところを削りましょう」

という。

いつもなら、小型ナイフみたいなものを持ち出して、

ガリガリガリガリ

と、足の裏のできものの堅くなったところを削るのだが、今日はどうもそうではないらしい。

堺すすむ似の先生が看護師さんに、

「○○さん、例のものを持ってきてください」と言うと、

「かしこまりました」と看護師。

と、まるで「笑点」の大喜利で、歌丸師匠と山田君の、

「山田君、例のものを持ってきてください」

「かしこまりました」

というやりとりを彷彿とさせる。

で、看護師さんが持ってきたのが、なにやら真っ白な新しい機械である。

見たところ、歯医者でよく使うグラインダーのようなものである。

「先生、回転数はどうしましょうか?」

「1でいいでしょう」

となにやら謎の会話をして、早速グラインダーのようなものを私の足の裏に近づけた。

ウィンウィンウィンウィンウィンウィンウィンウィン

という音がして、私の右足の裏の、堅くなっている部分を削っている。

グラインダーを使っている先生の姿は、新兵器を手にしたからなのか、なんとなくうれしそうである。

しばらく削った後、また、

シュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッ

と霧吹き、それが終わるとまた、

ウィンウィンウィンウィンウィンウィンウィンウィン

とグラインダー。

シュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッ

ウィンウィンウィンウィンウィンウィンウィンウィン

シュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッ

ウィンウィンウィンウィンウィンウィンウィンウィン

この繰り返しである。

どうも見ていると、グラインダーを手にとって

ウィンウィンウィンウィンウィンウィンウィンウィン

とやっている先生の姿は、初めておもちゃを手にした子どもが遊びたくってしょうがない、という感じに見えて仕方がないのだが、ま、適切に処置してくれたということなのだろう。

「次は左足ですね」

私は左足の靴下を脱いで、足の裏を先生の方に向けた。

「左足の裏も削りましょうか?」

先生は、削りたくってしょうがないらしい。

「いえ、けっこうです…」

はたして、新兵器は効果があるだろうか。

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連載最終回

3月7日(水)

インターネットでの連載が、いよいよ次回で最終回である。

昨日、最終回の原稿を出版社に送信した。

いったいどれくらいの数の人が読んでいるのか、最後まで反響がまったくなかったのでわからなかったのだが、こちらとしては書きたいことを書かせてもらったので、どう思われていても仕方がない。

連載を始めた当初は、自分のライフワークにしたいと、できる限り連載を続けたいと思ったのだが、最近になって、もう潮時かな、と思うようになった。

ちょうど同じタイミングで、編集者の方に「そろそろこのへんで…」とおっしゃっていただいたので、私としても、納得して連載を終えることができた。

自分なりに、新しい文体を確立しようなどと考えてみたが、やはり、これまでの文体の呪縛から逃れることはできなかった。

自分の頭の中を、もう少しストレートに表現できるかな、とも思ったが、自分の頭の中で考えていることを表現することのもどかしさに、苦労し続けた。

いざ文章にしてみると、自分はなんと浅薄な知識や思考しか持ち合わせていないのだろうと、ひどく落ち込んだりもした。

このまま続けていくと、どんどん醜態をさらしていくような気がしてならない。

ここらあたりで、いったん店じまいするのが、ちょうどよい。

とはいえ、これで終わったわけではない。また何か始めたいと思っている。

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月下の一群

堀口大學という名前を聞いたのは、小学校6年生の時である。

そのときの担任のN先生は、芸術家肌の先生で、小学生だった私たちに、容赦なく芸術や文学の話をしてくれた。

私はその先生の言葉を、必死に書きとめた記憶がある。

堀口大學の『月下の一群』の話も、おそらくどこかに書きとめたのだろう。

N先生は、授業中にいくつかの詩を紹介されたが、僕が記憶に残っているのは、ジャン・コクトーの、「耳」という詩である。

「わたしの耳は貝のから 海の響きをなつかしむ」

この詩がいい、とN先生は言った。

フランスの原詩を、七五調に翻訳している。

つまり逐語訳ではなく、そこには堀口大學の苦心と工夫がみられる、というのである。しかもその言葉は、美しい。

いまわたしの手元に、新潮文庫版の古びた『月下の一群』がある。

奥付には、昭和55年1月30日発行の第23刷とあるから、おそらく小学校6年生の時に私が買った本であろう。

なぜかこの本は、実家に置いておく、といったことはせず、引っ越した先にも、ずっとくっついてきた。座右の本、というわけではなかったのだが。

最近は時折、ぱらぱらとめくっては、詩を読む。

いまわたしが好きな詩は、フィリップ・ヴァンデルビルの「死人の彌撤」である。

「私は知ってゐる。やがて、冬のとある日の

五時頃のはや灰色の夕暮に、私は死んで行くのだと。

哀れな同僚たちの意地悪さにもあきはてて、

しかしまた、恨みもなく怖れもなく、あきらめて、安んじて。

私の側にはただ一人、妻だけがゐるだらう、

彼女は私に云ふだらう、私の最後の時はまだ遠いと。

彼女は和げてくれるだらう、私の断末魔の苦痛を。

彼女は私に接吻するだらう、すべてを赦した上で。

私は今、かうしたすべてを予感する。

私自身も気に入らぬ晦渋で気位だけ高い、多くの書物を私は残すだらう。

しかも私の唯一の言ひ癖は、それらの書物を、自分が生きてきたといふにあるが、

その日、この言ひ訳はもはや言ひ訳にならないだらう。

その時、私は六十近い年だらう。

わたしの友は皆、厳しい光栄の中に生きてゐるだらう。

さうして私が死んだことなぞは、あんまり気にもとめないだらう。

翌日、墓地へ、一人の老女が、百合を抱いて来るだらう。」

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髪の毛にまつわる話

3月5日(月)

引っ越したあとも、「前の居住地」の近くの病院に、定期的に通うことになっている。

今日はその日である。1時間以上かけて、「前の居住地」に向かう。

(せっかくだから、ついでに散髪も済ませてしまおう)

と、「前の居住地」に住んでたときの行きつけの散髪屋さんに行った。

散髪を担当してくれたリーさんとは、1月末に、涙の別れ(?)をしたばかりだった。

この日記には書かなかったが、リーさんは最後、本来ならば見習に任せてしまうはずの、カラーリングと顔そりまで、すべて丁寧にリーさんの手でおこなってくれたのである。

「もう、引っ越しちゃうんですよね」

「また、ふらっと訪ねることもありますよ」

「そうしてください」

と言って、今生の別れと相成ったのである。

それから1カ月ちょっとたって、結局、またリーさんの店に訪れることになった。

お店に入ると、リーさんは、

(えっ?)

という顔をした。

(おまえ、引っ越したんじゃねえの?)

といわんばかりの顔である。

こうなるとバツが悪いのだが、仕方がない。

前回、これが最後だと思って、カットから顔そりからカラーリングから、全部自分の手で丁寧にしてくれたのだが、今回は、カット以外は全部見習に任せてしまった。

(前回とはうって変わって、ぞんざいに扱われているなあ)

と苦笑するばかりである。

まあ、ふだん通り扱われるほうがこちらとしても気が楽なのだが。

会計を済ませたあと、いつも通りに店を出た。

リーさんは、(あいつ、きっとまた来るぞ)と思ったことだろう。

ところで、髪の毛、で思い出した。

昨年の夏に体調を崩してから、治療のせいで髪質がだいぶ変わってしまった。

髪質が変わると、見た目の印象がずいぶんと変わるらしい。

1年に1度、ある会合でしか会わない人がいて、その人は、その会合で僕に会うのを楽しみにしているようである。

先日、その会合でその人に会ったときに、

「あれ、ずいぶんと雰囲気が変わりましたね」

と言われた。前回お会いしたのは、体調を崩す前だった。

「そうですか?」

「どうしてだろう…そうだ!髪の毛が短くなったんだ!髪の毛が短くなったんですよ!」

と、周りに人が大勢いるのに、大きな声で私に言った。

私はその話題はやめてくれ、と思っていたのだが、その人はさらに続けた。

「イメチェンですか?」

「いえ、そういうわけでは…」

もうほっといてくれよ、と言いたかったが、その人はまだ考え込んでいる。

「うーん、なんか違うんですよねえ」

まだこだわっているようだ。しばらくして、はたと気づいたようだった。

「あっ!髪の毛がストレートになりましたよね!以前はクセッ毛でしたよね!」

「はあ」

「そうだ!髪がストレートになったんだ!ストレートパーマでもかけたんですか?」

またまた、周りの人に聞こえるような大声で言う。

もう勘弁してくれよ!こっちはいま、髪の毛のことをいちばん気にしているんだから、そっとしておいてくれよ!

「色気づいたんですか?」

ご当人は悪気なくおっしゃったのだろうが、こちらとしてはもう泣きそうである。

よっぽど、治療のせいで髪質が変わったんです、と言いたかったが、それを言うとさらに追い打ちをかけるように大騒ぎされそうなので、やめた。

(早くこの話題、終わってくんないかなあ…)

と、ひたすら、この話題が終わるのを待ったのであった。

他人様(ひとさま)の体について無責任に言及することは、かくも相手につらい思いをさせてしまうものなのか、と、私はこの一件から学んだのであった。

たとえそれが、どんな些細なことであっても、である。

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頼れるのは自分だけ

3月3日(土)

今日は休日出勤。自分がホスト役の寄合がある。全国から10名程度のお客様が集まる。

午後から開始だが、午前中に会場の準備をして、午後の寄合が終わると、夕方から長丁場の懇親会があるから、一日仕事である。

職場の人間は私だけで、あとはみな外部のお客様である。

だが今日は、すこぶる体調が悪い。ちょうど体調の悪い周期なのだ。

「そんなにしんどいのなら、誰かに代わってもらえばいいじゃん」と言われるかもしれない。

では聞くが、いったい誰に代わってもらえばいいのだ?教えてほしい。

結局、頼れるのは自分だけなのである。

ホストなので、愛想よく挨拶したり、会話を弾ませたりしなければならないのだが、体がしんどくて、それどころではない。

無事にこの寄合を終わらせるのがやっとである。

懇親会の席でも、気の利いた会話をすることもできず、申し訳ないと思いつつ、とにかくしんどさに耐えるしかなかった。

長い一日であった。

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観客席派か、キャメラ派か、映写室派か

久々に、僕の中で大林映画ブーム再来、である。

家の本棚を整理していたら、1989年に日本で公開されたイタリア映画「ニュー・シネマ・パラダイス」のパンフレットが出てきた。僕が大学2年生の時に見た映画である。映画の内容については、前に書いたことがあるので、そちらを参照のこと。

で、そのパンフレットに、大林宣彦監督が書いた「ニュー・シネマ・パラダイス」評が載っている。

僕はこの文章が大好きで、映画を見たあとにこの文章を読んで感銘を受けた。

若いころに見た映画のパンフレットは、惜しいことにほとんど処分してしまったのだが、この映画のパンフレットだけは処分せずにとっていた。

映画評としてだけではなく、単体としても、とてもすばらしい文章で、こんなエッセイが書けたらなあ、と、若いころからお守りのように持っていたのである。

分析と叙情性を兼ね備えた、範とすべきエッセイだと、いまでも思っているのだが、とくに印象深いのは、映画監督と映画との出会いを、「観客席派」「小型ムービー・キャメラ派」「映写室派」の三つに分類するくだりである。

「映画監督と映画とのそもそもの出会いには、大きく三つあると思う。一は観客席派。「ラスト・ショー」の監督P.ボグダノヴィッチもその代表であり、元々はもちろんファンから始まるわけだが、どちらかといえば作家としては知的に映画とかかわるようになる。二は、自らも8ミリなどの小型ムービー・キャメラを廻してアマチュア作家として出発する。S.スピルバーグなどがその代表例で、こちらはいうなら映画プラモデル派だ。遊びの精神に充ち様さまな映画を技術的にも創意工夫して生み出していく。例えば、模型鉄道マニアの映画版だと考えていただければいい。そこへいくと、この第三の映写室派というのは、少年時代にいきなり本物の蒸気機関車の罐の前に連れ出されたようなものだ。熱さや匂いや光や音や炎などの活力を全身に浴び、映画という巨大なものの存在をまるごと骨の髄まで滲みこませて自らの生を生き始める。

(中略)

もちろんこの少年(注…この映画の主人公「トト」)も人並みに観客席に坐り、ムービー・キャメラを手にしたりもする。しかし観客席ではすぐに後ろをふり向いて映写窓の光源に映画の生命を見ようとする。映写装置こそが実存であり、スクリーンの上の映像は所詮、影なのだ。フィルムが途切れたりしたら、すぐに消滅してしまう。(中略)いわばリアリストとしての痛みを知っている。(後略)」

この文章を読んでからというもの、この三類型がずっと頭の中に残っていた。

昨年秋、前の勤務地で映像に関するイベントをしたときに、映像の修復をしている専門業者の人と話をする機会があった。映像の修復をしている会社の中には、「フィルム」を偏愛する人がいるという話を聞いて、大林監督の文章を思い出した。

「映像の世界で仕事をする人には、映画を見るのが好きな人と、映画を撮るのが好きな人と、映写機とかフィルムが好きな人と、3つくらいのタイプがあると聞いたことがあります」

と私が言うと、その方は、

「たしかにその通りですね。うちの会社には、それぞれいます」

とおっしゃっていて、やはりそうなんだなあと、そのとき思った。

映画の世界に限らず、およそ表現の世界に生きる人は、この「観客席派」と「小型ムービー・キャメラ派」と「映写室派」に准ずる3類型で説明できるのではないか、と何となく思うようになった。

さて自分は、どれだろう。

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主演はソン・ガンホ

3月1日(木)

3月1日は、韓国では新学期が始まる日である。

2月末になると、韓国に留学していたときのことを、思い出したりする。

「今でも時々、韓国語語学学校で一緒に学んだ中国人留学生たちは、今どうしてるのだろう、と思うことがあるんですよ。当時、みんな20歳前後の連中でしたけどね」

「連絡先を交換したりはしなかったんですか?」

「語学学校の仲間たちとは、連絡先を全く交換していません。まさに一期一会ですね」

「今どうしているのか知りたいですね。一人一人探して会いに行ってはどうですか?」

「うーん。どうだろう。今の彼らが、必ずしも幸福に暮らしているかどうかはわからないし…。僕の中では、あくまであの語学学校の中だけの存在にしておきたいという思いもありますしね。訪ねていくというより、不意にどこかで会えたらいいなあと思ったりしますね。…ま、そんな可能性はまずないと思いますけれど」

「なるほど。でも語学学校では、そんなにいろいろなことがあったんですね」

「ええ。でも最近の語学学校はずいぶんと雰囲気が変わっているようです。数年前に語学学校の先生に聞いたことがあるんですが、『キョスニム(語学学校での私のあだ名)が語学学校にいた頃はよかったですよ。クラスのみんなに一体感がありました。でも、今は違います。みんな、スマホばかりいじっていて、お互いがお互いに関心を持たなくなってしまった』って。僕がいた頃はまだスマホがありませんでしたからね。もし今だったら、あの頃のような抱腹絶倒な体験はできなかったかもしれません」

「へえ、そういうものですか」

「だから今でも、あのとき語学学校で経験した抱腹絶倒な出来事を、いつか本にまとめてみたいと思ったりすることはあるんですよ」

「ぜひそうしましょう。日韓同時発売、なんていいですね」

「実は、本のタイトルも考えています」

「そうですか!」

「それに、映画化することまで、妄想が膨らんでいます」

「映画化ですか!いいですねえ。鬼瓦キョスニムの役は誰がするんですか?」

「韓国人の俳優がいいですね。ソン・ガンホです」

「ソン・ガンホって、有名な俳優さんなんですか?」

「ええ。韓国の国民的俳優です。ハリウッド映画にも出たことがあります。ちょうど僕と年齢が変わらないんですよ。彼が、若き中国人留学生たちに囲まれて困惑している姿を想像するだけで、おもしろくてしかたがない」

「ギャラが高そうですね。交渉できるかな…」

さて、どこまで実現できることやら。

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