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世界は誤解でできている

昨年、ある講演をしたときのことである。

講演が終わった後、一人の老紳士が私のところにやってきた。

「いやあ、先生の講演、たいへんおもしろく拝聴しました」

「ありがとうございます」

「先生のおっしゃるとおりです。いちいちうなずきながら、メモしていたんですよ。ほら」

そういうと、老紳士はノートを私に見せた。

「なかでも私が最も感銘を受けた言葉が、

『変化のなかにこそ進歩がある』

という言葉です」

「……」

その老紳士のノートを見ると、たしかに

「変化のなかにこそ進歩がある」

と大書されている。

しかし不思議である。

私は講演のなかで、そんな言葉をひと言も口にしたことはないのだ。

必死に思い出してみるのだが、やはり自分では言った記憶がない。

しかし僕のそんな疑念などお構いなしに、その老紳士はまくし立てるように、10分ほど、ご自身の説を開陳された。

「もう私、先生のお説に大賛成です!今日は来た甲斐がありました」

とおっしゃっていただいたのだが、その老紳士の自説と私の講演がどう結びついたのか、私にはまったくわからなかったのである。

先日、その時の講演を文字に起こした原稿の校正が送られてきて、あらためて読んでみたのだが、やはり、

「変化のなかにこそ進歩がある」

などという言葉は、私はひと言も口にしていなかった。

うーむ。いったいどうしてそのような思い込みが生まれたのか?

それで思い出した話がある。

映画監督の大林宣彦さんが、映画評論家の淀川長治さんのエピソードをラジオで語っているのを聴いたことがあるのだが。

あるとき大林監督は、淀川さんが大林監督の映画の内容を他の人に紹介している場面に、立ち会ったことがあるという。

いわば淀川さんは、その映画を作った監督を目の前にして、その監督の作品を第三者に説明していたわけである。

しかし淀川さんが話す映画の内容は、自分が作ったはずの映画の内容とはかなり違う。

そんな映画を撮ったつもりはないんだけどな。

だが淀川さんの話は、自分の作った映画よりもおもしろい。

そこで大林監督は気づいた。なるほど、映画というものは、観客が頭の中で補いながら見ていくものなのだ、と。

ひょっとすると私の講演も、その老紳士の脳内で補われたがゆえに、その老紳士にとってすばらしいものに聞こえたのかもしれない。

ここから学んだことは、自分の話が正確に理解されるなんてことはあり得ず、受け取る側は自分の都合のいいように誤解するのだということを承知の上で、表現活動に携わっていくしかない、ということである。

そして誤解されることも、時に、いいことなのだ。

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