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観客席派か、キャメラ派か、映写室派か

久々に、僕の中で大林映画ブーム再来、である。

家の本棚を整理していたら、1989年に日本で公開されたイタリア映画「ニュー・シネマ・パラダイス」のパンフレットが出てきた。僕が大学2年生の時に見た映画である。映画の内容については、前に書いたことがあるので、そちらを参照のこと。

で、そのパンフレットに、大林宣彦監督が書いた「ニュー・シネマ・パラダイス」評が載っている。

僕はこの文章が大好きで、映画を見たあとにこの文章を読んで感銘を受けた。

若いころに見た映画のパンフレットは、惜しいことにほとんど処分してしまったのだが、この映画のパンフレットだけは処分せずにとっていた。

映画評としてだけではなく、単体としても、とてもすばらしい文章で、こんなエッセイが書けたらなあ、と、若いころからお守りのように持っていたのである。

分析と叙情性を兼ね備えた、範とすべきエッセイだと、いまでも思っているのだが、とくに印象深いのは、映画監督と映画との出会いを、「観客席派」「小型ムービー・キャメラ派」「映写室派」の三つに分類するくだりである。

「映画監督と映画とのそもそもの出会いには、大きく三つあると思う。一は観客席派。「ラスト・ショー」の監督P.ボグダノヴィッチもその代表であり、元々はもちろんファンから始まるわけだが、どちらかといえば作家としては知的に映画とかかわるようになる。二は、自らも8ミリなどの小型ムービー・キャメラを廻してアマチュア作家として出発する。S.スピルバーグなどがその代表例で、こちらはいうなら映画プラモデル派だ。遊びの精神に充ち様さまな映画を技術的にも創意工夫して生み出していく。例えば、模型鉄道マニアの映画版だと考えていただければいい。そこへいくと、この第三の映写室派というのは、少年時代にいきなり本物の蒸気機関車の罐の前に連れ出されたようなものだ。熱さや匂いや光や音や炎などの活力を全身に浴び、映画という巨大なものの存在をまるごと骨の髄まで滲みこませて自らの生を生き始める。

(中略)

もちろんこの少年(注…この映画の主人公「トト」)も人並みに観客席に坐り、ムービー・キャメラを手にしたりもする。しかし観客席ではすぐに後ろをふり向いて映写窓の光源に映画の生命を見ようとする。映写装置こそが実存であり、スクリーンの上の映像は所詮、影なのだ。フィルムが途切れたりしたら、すぐに消滅してしまう。(中略)いわばリアリストとしての痛みを知っている。(後略)」

この文章を読んでからというもの、この三類型がずっと頭の中に残っていた。

昨年秋、前の勤務地で映像に関するイベントをしたときに、映像の修復をしている専門業者の人と話をする機会があった。映像の修復をしている会社の中には、「フィルム」を偏愛する人がいるという話を聞いて、大林監督の文章を思い出した。

「映像の世界で仕事をする人には、映画を見るのが好きな人と、映画を撮るのが好きな人と、映写機とかフィルムが好きな人と、3つくらいのタイプがあると聞いたことがあります」

と私が言うと、その方は、

「たしかにその通りですね。うちの会社には、それぞれいます」

とおっしゃっていて、やはりそうなんだなあと、そのとき思った。

映画の世界に限らず、およそ表現の世界に生きる人は、この「観客席派」と「小型ムービー・キャメラ派」と「映写室派」に准ずる3類型で説明できるのではないか、と何となく思うようになった。

さて自分は、どれだろう。

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コメント

毎年この時期に行っている冬のG山合宿で、今年は積雪が5メートルもあったのにコメント欄に一行も投稿しなかった人は何派だろう?

安静にしてブログで情報を見る「観客席派」

小魚アーモンド食べたりカルシウム牛乳を飲んで自ら創意工夫する「キャメラ派」

肋骨にヒビが入る痛みを知っている「映写室派」


あ、僕は全部です。

投稿: 時にコケるこぶぎ | 2018年3月 3日 (土) 09時05分

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