ハシゴをはずすこの国の私
これもまた、1年前の話。
うちの出身高校の近くには見事な桜並木があって、毎年桜が満開になる時期には多くの花見客が訪れる。
1年ほど前、高校時代の部活の1年下の後輩に、
「この年齢になって、母校の近くの桜並木を、高校時代にともに過ごした仲間たちと歩くのも、悪くないなあ」
と、ちょっとノスタルジー気味に騙ってみたら、いや、語ってみたら、
「ぜひそれをやりましょう。私が仕切りますよ!」
と、その顔の広い、社交性のカタマリみたいな後輩が、SNSを通じて高校の部活のOBに呼びかけた。
「1年後、4月の第1週の土曜日に、みんなで母校の近くの桜並木でお花見をしましょう。1年も先の予定があるってのも、なかなかいいものでしょ!」
すると、これがみんなのノスタルジーを刺激したらしく、
「1年後のお花見、楽しそ~う。参加したいです」
とか、
「楽しみにしています!」
とか、
「了解!いまから予定空けておきます!」
とか、
「誰かが覚えてくれているはずとのことで、参加に一票!」
とか、
「夜?の宴会のみ参加しま~す」
とか、まあその時はみんなでかなり盛り上がったようだった。
僕自身は、少人数でひっそりと花見をするというイメージだったので、なんか大ごとになっちゃったなあと、少し戸惑ってしまったのだった。
そうこうしているうちに、1年が経った。
1年が経つと、それぞれに事情が変わるものである。
まず、僕が都合がつかず行けなくなってしまった。
さらに、幹事役を買って出た後輩が、4月から海外赴任ということになり、幹事どころか、参加もできないことになってしまった。
つまり、言い出しっぺの二人とも、行けなくなってしまったのである。
まあ、ふまじめな僕だったら、この時点で、
「花見は中止にします。あとはそれぞれで行ってください」
と投げ出すところなのだが、この後輩たちは、みんなまじめなのだ。
その幹事役だった後輩は、さらにその1学年下の後輩に「後はよろしく頼む!」と幹事をお願いしたのだった。
そして幹事を指名された後輩は、とにかく人を集めてこのイベントを成功させないといけないと思い、あらゆる手段を使って、人を集めることにした。
参加するメンバーも、高校時代に一緒に過ごした仲間たち、という最初のコンセプトはどこかに行ってしまい、部活のかなり下の世代にまで声をかけて、とにかく参加できる人にできるだけ来てもらう、という方針に転換したらしい。
つまり、お互いに世代も違い、面識のない者どうしが集まる可能性があるのだ。
そこまでしてやらなくても、と思ったのだが、その気持ちもわからなくもなかった。
というのも、1年前、あれだけ盛り上がった同世代の人たちが、軒並み、
「ごめん、やっぱ行けねえ」
と、次々とキャンセルしてきたからである。
つくづく、人間の気持ちなど、1年も持続しないものなのだと思い知らされる。
そんなことはともかく、それに加えてさらに悪い知らせがある。
今年の桜は、例年よりも満開の時期が早いのである。
当初予定していた4月の第1週の土曜日の時点では、すでに散っている可能性が高いのである。
つまり、当初の目的である「花見」すらおこなえない可能性があるのだ。
僕が当初思い描いていたイベントとは、すでに似ても似つかぬものである。
しかし、1年前から決めていたこの日程を、変更するわけにはいかない。
ということで、きわめて条件の悪い中で、幹事を任された後輩は、奮闘しているのである。
この一連の流れの中に、僕はこの国の社会が持っている、ある特徴を見いだすのだが、いまはそのことについて論じる場合ではない。
それもこれも、無責任な提案をしたこの僕に、すべての責任がある。
まことに申し訳ない気持ちでいっぱいである。
でもなんだかんだ言って、参加した人たちは、それなりに楽しんでくれるだろうと信じたい。
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