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備忘録

「一八九五年一〇月八日、新任の三浦梧楼公使は、公使館員たちと共謀して、クーデターを起こし、日本守備隊の護衛のもとに王宮に侵入した。このとき、三浦の同行者は俗に大陸浪人といわれた壮士(いわゆるゴロツキ)たちで、彼らは明成皇后を斬殺し、その死屍に石油をかけて焼却した。これを乙未事変という。

日本公使はれっきとした外交官である。その公使が相手国の国王妃の殺害に関わり、これを朝鮮軍隊内部の紛争のように偽装工作したのである。だが、当時王宮内にいた外国人が事件を目撃して、明成皇后殺害の実行犯は、日本の大陸浪人たちだと証言した。欧米諸国が三浦公使の犯行を非難すると、政府はすぐに三浦を召還し、三浦の官位を剥奪し、型どおりの裁判を行った。しかし、証拠不十分で釈放し、しばらくするとまた官位を戻した。日本政府も、朝鮮政策を遂行するためには、邪魔な明成皇后は消すしかないと考えていたので、三浦に寛大だったわけである。この荒っぽい犯行の手口は、日本政府の朝鮮侵略の本音そのものであった」(山中恒『アジア・太平洋戦争(上)』岩波現代文庫、31頁)

「大隈内閣、寺内内閣のお粗末な大陸政策、対華外交を見ていくと、「なるほど、これでは近現代史は教えたくない、教えられない、教えないというのも当然だろう」と思ってしまう。とにかく日本は、辛亥革命は成功しない、中国に共和政治は根付かないと予想し期待した。辛亥革命が成功すると、反革命、反共和主義者を援助して利用しようとした。けれども日本の予想は外れ、日本の思い通りにはならなかった。まったく誤算の連続だった。

(略)辛亥革命後の日本の対華外交は、二一ヵ条条約問題でわかるように、中国側の政情不安につけこんで、無理難題を押しつけ、交渉が難航すると武力で脅して決着を付けるというパターンになった。これでは日華関係は悪化するばかりで、紛争の種は絶えることがなかった。一方、米国と英国は革命を支持し親華路線に切り替えて、自国の権益や国益を護ろうとした。日本は二一ヵ条条約問題で、中国をはさんで英米と対立する構図を自ら作りあげてしまった。以後、国際社会から孤立して、英米と戦争する道を自ら踏み固めながら歩み続けていくことになる」(山中恒『アジア・太平洋戦争(上)』岩波現代文庫、116頁)

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備忘録2

教育審議会の答申「国民学校ニ関スル要綱」(1938年12月)において、注入主義の教育を排し、「常に進んで学習せんとする強き興味と習慣を養うこと」が謳われています。子どもたち少国民の学習や勤労奉仕などの場面において、積極的な主体性や自発性が要請されました。自ら進んで学ぶ、働く姿勢を奨励する理念として、大正新教育運動で提案された個人の主体性、自発性、活動主義が戦時下新教育の理念に引き継がれたのです。
 つまり、国民学校を始め戦時体制下の教育では、少国民の主体性や自発性の調達を目的に、教師が子どもの興味や関心を引き出そうと、知識の注入ではなく、体験や作業を通じて、そこから「皇道ノ道ニ帰一セシメ」ることを目指したのです。〔…〕
 人間の主体的または能動的な行為は、個人の自由意志(voluntas)を前提に、初めて成立します。〔…〕
 自ら進んで学ぶ、積極的に参加するという主体性や自発性は、戦時体制と矛盾することなく、むしろ都合よく国民学校の制度、その内容や方法に取り込まれていきました。そこには、大正新教育運動の遺産としての「戦時下新教育」の特質が見出せます。それは戦時体制を下支えするスローガンやカリキュラムとして実施され、機能していきました。
 しかし、それが戦時中の数多の悲劇をもたらしたことは言うまでもありません。
 これからの学校教育で本格的に実施されるアクティブラーニングも、戦時下新教育のように、国家や政府のめざす政治・経済体制に、自発的または能動的に奉仕、奉公することを子どもに求める教育になっていくのではないかという懸念を禁じ得ません。

小針誠『アクティブラーニング 学校教育の理想と現実』講談社現代新書、2018年、pp.119-120.
 

投稿: ひょん | 2018年4月25日 (水) 22時49分

「なにしろ張学良は権力者のドラ息子で、アヘンを常用し、手に負えない愚かな男だという風評が専らであった。だから、簡単に関東軍の傀儡になるだろうと踏んだのである。これも大誤算であった。歴史に「もし」は許されないが、「もし」関東軍の思惑どおりにことが運んだら、満州事変は起きなかったことであろう」(山中恒『アジア・太平洋戦争 上』岩波現代文庫、146頁)

「しかし、日本側の脅しに屈せず張学良は、「故大元帥(張作霖)は、臨終にあたって重ねて和平を主張し、統一の促進を遺嘱とした。私(張学良)は故大元帥の遺志を受け継ぎ、統一を図るために努力し、和平を貫徹する。本日より三民主義を遵守し国民政府に服従し、旗幟を改めることを宣布する」と言明した。」(山中恒『アジア・太平洋戦争 上』岩波現代文庫、148頁)

投稿: onigawaragonzou | 2018年5月 3日 (木) 15時33分

実は日本政府は年次別の戦没者数を公表していない。福井新聞社の問い合わせに対して厚生労働省は、「そうしたデータは集計してない」と回答している〔…〕。
岩手県は年次別の陸海軍の戦死者数を公表している唯一の県である(ただし月別の戦死者数は不明)。岩手県編『援護の記録』から、1944年1月1日以降の戦死者のパーセンテージを割り出してみると87.6%という数字が得られる。この数字を軍人・軍属の総戦没者数230万人に当てはめると、1944年1月1日以降の戦没者数は約201万人になる。民間人の戦没者数約80万人の大部分は戦局の推移を見れば絶望的抗戦期のものである。これを加算すると1944年以降の軍人・軍属、一般民間人の戦没者数は281万人であり、全戦没者数のなかで1944年以降の戦没者が占める割合は実に91%に達する。日本政府、軍部、そして昭和天皇を中心にした宮中グループの戦争終結決意が遅れたため、このような悲劇がもたらされたのである。〔…〕
 日本では基本的な数値さえ把握できないのに対し、アメリカでは月別年別の戦死者数がわかることに驚きを感じる。〔…〕日米間の格差は、政府の責任で果たすべき戦後処理の問題にまで及んでいる。
吉田裕『日本軍兵士 ──アジア・太平洋戦争の現実』中公新書、2017年、25-26頁。
 

投稿: ひょん | 2018年5月 5日 (土) 11時20分

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