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取り残された人へのまなざし

大林宣彦監督の映画「あの、夏の日 ~とんでろ じいちゃん~」(1999年)

主人公は小学生の「ゆうた」。両親と姉の4人暮らし。

ゆうたはいつもぼんやりしていて、「ぼけた」というあだ名で呼ばれている。

広島県の尾道に、おじいちゃんとおばあちゃんが住んでいる。

おじいちゃん(小林桂樹)は、尾道で高校の先生をつとめた厳格な人で、息子夫婦(つまり、ゆうたの両親)とは、折り合いが悪い。

ゆうたの姉の話では、お父さん(嶋田久作)とお母さん(熊谷美由紀)は「できちゃった結婚」だったため、厳格なおじいちゃんがそれを許さなかったらしい。で、その「できちゃった結婚」で生まれたのが、ゆうたの姉である。だから、姉のこともあまりよくは思っていない。

あるとき、尾道のおばあちゃん(菅井きん)から、おじいちゃんがぼけたのではないか、と、息子夫婦のもとに連絡が来た。

最近のおじいちゃんは、数々の奇怪な行動をとっているというのである。

しかし息子夫婦は、おじいちゃんと折り合いが悪いので、できれば行きたくない。ゆうたの姉は受験勉強で忙しい。

そこで、ゆうたに白羽の矢が立った。

夏休みの間、ゆうたが尾道のおじいちゃんのもとに遊びに行き、おじいちゃんが本当にぼけたのかどうか確かめてほしいと、両親は、ゆうたを尾道に遣わしたのである。

さあここから、ゆうたとおじいちゃんの不思議な冒険物語が始まるのだが…。

不思議な冒険を通じて、二人は次第に心を通い合わせ、互いを認め合っていく。

私がこの映画で気になったのは、この冒険物語が終わった最後の場面である。

おじいちゃんが倒れたという知らせを聞いて、息子夫婦、つまりゆうたの両親が病院に駆けつける。

次第に意識が薄れていく中で、おじいちゃんは、ゆうたが賢くそして素直に育ったことを褒め、そのように育てた息子夫婦と和解するのである。

ようやくおじいちゃんに認められた息子夫婦は、長い間のわだかまりが解けたことに安堵して号泣する。

かくして、物語は大団円を迎える。

…だが映画は、ここで終わらない。

おじいちゃんが最後に両親と和解し、さらにゆうたを褒めていたと聞いた「ゆうたの姉」が、尾道から帰ったゆうたに、聞くのである。

「ねえ、おじいちゃん、私のことなんか言ってた?」

ゆうたが答える。「…別に…」

「…そうなんだ…」

ゆうたの姉は、悲しげな顔をする。

自分だけはこの物語に加われなかったのだ、という思いがあらわれた表情である。

ふつうの映画であれば、大団円で終わるはずのところを、あえて、この物語の中心に関われなかった「ゆうたの姉」を最後に登場させて、この映画は終わるのである。

この映画を見て、いちばん印象に残ったのが、この最後の場面だった。

どうして、僕はこの場面が印象に残ったのだろう…。

「物語の中心から取り残された人たち」を、ちゃんと描いているからではないか、と気づいた。

すべての登場人物が物語の中心にいてハッピーエンドで終わるわけではなく、そこには必ず取り残される人たちがいる。その人たちに対するまなざしも忘れていない、ということなのではないか。

あらためて考えてみると、大林映画ではそのようなまなざしの場面が多い。「時をかける少女」における老夫婦(上原謙と入江たか子)しかり、「ふたり」の尾美としのりしかり、である。(わかる人だけがわかればよろしい。)

映画の中だけではない。現実世界においても、一部の人たちの物語のかげで、取り残されたと感じる人たちは多いだろう。

むかし、あるラジオDJが言っていた。

不良でどうしようもなかったヤツが更生してそれが美談となるような話はよく聞くが(つまり、ヤンキー先生的な話)、なぜ、不良が立ち直ることばかりが褒められるのか?何ごとも問題を起こすことなく3年間ふつうにがんばってきた生徒のほうが、よっぽど褒められるべきではないのか?更生した不良ばかりが世間的にちやほやされ、ふつうの生徒たちは置き去りにされてしまうのは解せない、と。

「物語の中心から取り残された人たち」に対する想像力こそが、本当の優しさなのではないだろうか。

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