イクメンと呼ばないで!
イクメン日記のようなものを書こうとも思ったが、一日一日がなんだか知らないがあっという間に過ぎてしまい、しかも自分がまったくふがいないことが次第にわかり、イクメンだなんてとんでもない、と思うようになってしまった。
時々おむつを替えたり、ミルクを飲ませたり、お風呂に入れたり、泣いているのをあやしたり、というていどのことしかできない。
母乳が出たらいいのになあと、一日に何度も思う。
「キョスニムと呼ばないで!」の続編「イクメンと呼ばないで!」を書いてみようか、とも思ったが、ヨシタケシンスケ『ヨチヨチ父』(赤ちゃんとママ社、2017年)にすべて書かれてしまっているので、私の日常についてはそちらを参照のこと。
そんなことはともかく。
4月22日(日)の朝日新聞に、高畑勲監督の「火垂るの墓」についての記事が出ていた。
最近「火垂るの墓」をテレビで放映したところ、インターネット上に「悲劇を招いたのは自業自得だ」という書き込みが目立った、という内容である。
これについてすでに高畑監督は、30年前の雑誌のインタビューで、戦争当時の「全体主義」に対する清太の反時代的な行動が公開当時の人びとの共感を呼んだとする一方で、こんなことを述べていたという。
「もし再び時代が逆転したとしたら、果たして私たちは、いま清太に持てるような心情を保ち続けられるでしょうか。全体主義に押し流されないで済むのでしょうか。清太になるどころか、(親戚のおばさんである)未亡人以上に清太を指弾することにはならないでしょうか、ぼくはおそろしい気がします」
公開から30年経ったいま、自己責任論が横行し、全体主義の社会になりつつあることを、予見していたかのようである。
個人が尊重される社会を目指そうとする動きが、この国で脆弱なのはなぜだろう?
弱い者を叩こうとする風潮が、この国で顕著なのはなぜだろう?
この国の社会のあらゆる場面にはびこっている「同調圧力」が大きな原因だという仮説を持っているが、どうだろう。
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コメント
パパは共感、ママは落胆?!
https://conobie.jp/article/10812
投稿: 立ち読みこぶぎ | 2018年4月26日 (木) 10時02分
何となくドラマ「リーガルハイ」のスペシャル版での最終弁論のセリフを思い出しました。
「以前、共同代理人の黛先生がこんなことを言っていたのを思い出します。この社会からいじめを失くしたい。この裁判をその第一歩にするのだ。私は嘲笑いました。不可能だと思ったからです。
勅使河原先生は和彦君に、いじめに立ち向かうべきだったとおっしゃいました。はたして、立ち向かえる相手なのでしょうか?
そもそも、いじめの正体とはいったい何でしょう?
加害者生徒?教師?学校?
いえ、そのどれもが本質ではありません。
正体は、もっと恐ろしいものです。
それは教室だけでなく、職員室にも、会社にも、家庭にも、この国のあらゆるところに存在します。
我々は常に回りの顔色を伺い、流れに乗ることを強いられる。多数派は常に正義であり、異を唱えるものは排除される。
いじめの正体とは、空気です。
特に右から左、左から右へと全員で移動するこの国では、空気という魔物の持つ力は実に強大です。この敵の前では、法ですら無力かもしれません。全てを飲み込み、巨大化する恐ろしい怪物。立ち向かうどころか逃げることも困難な相手です。あるいは藤井先生も、いや、加害者である青山君たちでさえ、この怪物に飲み込まれた犠牲者なのでしょう(以下略)」
ほんと脚本家の古沢良太はすごいなぁ思います。長文失礼しました。
投稿: 江戸川 | 2018年4月28日 (土) 10時08分
江戸川君ありがとう。
最近、ある女優が「セクハラは、女性の怒りではなく、社会の問題にして下さい」と呟いたのも印象的です。
投稿: onigawaragonzou | 2018年4月29日 (日) 03時02分