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映画的体験・その4

5月8日(火)

記念撮影のために監督の横に立った僕は、思い切って監督にお願いしてみた。

「あのう…。生まれたばかりの娘のために、メッセージを書いていただけないでしょうか」

監督にお会いしたら、絶対にお願いしようと思っていたことだったのだが、僕はこのお願いをするのを、インタビューの途中からためらっていた。

というのも、監督の4時間の語りの中で、

「癌に侵されると文字が書けなくなるんです。癌のせいだけではなくて年のせいでもあるけれども」

とおっしゃったのを聞いたからである。

もちろん監督は病気を克服されたのだが、それでもメッセージを書いてもらうのはしのびない…。

しかし思い切ってお願いしてみると、監督は快くお引き受けいただいた。私は鞄の中から色紙とサインペンをとりだした。

「名前はなんて言うの?」

「○○です」

私は別の紙に娘の名前を書き、サインペンを監督に渡した。

サインペンを受け取った監督が言う。

「手塚さんに晩年にお会いしたら、『大林さん、僕、円(まる)が描けなくなっちゃったよ』といって、僕の前で円を描いてみせたんだよ」

「手塚さん」とは、言うまでもなく漫画家の手塚治虫のことである。

監督は、サインペンを持って、その時の手塚さんの様子を再現するような円をお書きになった。

「ほら、晩年の手塚さんが円を描くと、こんなふうに、線がつながらないものができちゃうんだ。それでしまいには、こんなふうに左手を右手の肘に添えて、円を描いたんだ」

すごい話である。

手塚治虫が誰よりも正確な円を描くことができたという話は、有名である。その手塚さんが、晩年に病に冒された時、円が描けなくなってしまったというのである。どれほど無念なことだったろう。

私はますます、監督の前に色紙を差し出したことを申し訳なく思った。

しかし監督は、実に丁寧に、そして言葉を選びながら、色紙にメッセージをお書きになった。

「○○さんへ

映画(えいが)の学校(がっこう)の良(よ)い生徒で、賢(かしこ)く優(やさ)しく育(そだ)ちましょう。 大林宣彦 2018.5.8」

漢字のすべてに、ふりがなまで振っていただいた。

「映画の学校」とは、僕も大好きな言葉で、「映画はあらゆることが学べる学校のようなものである」という、映画評論家の淀川長治さんの言葉からきている。

つまり「映画の学校の良い生徒で」というのは、「映画を見てよく学んで」ということなのだ。

そればかりではない。色紙の余白に、監督の自画像イラストまで描いていただいた。

ゆっくりと、丁寧に、監督が色紙にメッセージをお書きになっている姿を、僕は涙をにじませながら見ていた。

こんな感激なことはない。娘に映画の英才教育をするぞ!と誓ったのである。

これだけで僕は十分なのだが、もう一つ、どうしても監督に伝えたいことがあった。

僕は鞄から、もう一つ取り出した。

それは、1989年に公開されたイタリア映画「ニュー・シネマ・パラダイス」のパンフレットである。

「あのう…僕、このパンフレットに書かれた監督の文章を、お守りのように持ち歩いていたんです」

そう言って僕は、監督にそのパンフレットをお見せした。

実際、若いころに見た映画のパンフレットはほとんどすべて捨ててしまったのだが、この「ニュー・シネマ。パラダイス」のパンフレットだけは、捨てずにとっておいた。そこに書かれた監督のエッセイが、いまでも僕の文章の範となっているのだ。お守りのようにもっているというのは、決して誇張ではなかった。

エッセイの書かれた頁を開き、「この文章です」と監督にお見せすると、監督は、

「覚えてないなあ。こんなこと書いたっけ?」

と、おっしゃった。

ええええぇぇぇぇぇっ!お、覚えてない?!

僕の人生を変えたエッセイなのに?!

「たぶん、うちにも残っていないなあ。ちょっとこれ、コピーさせてもらっていいかな?」

「も、もちろんです」

監督は事務所のスタッフのKさんにパンフレットを私、コピーをお願いしたのだった。

ある意味、思いきってパンフレットを見せてよかった。もしお見せしなければ、この名文はこの先もずっと埋もれたままになってしまっただろう。

夜7時15分。なごりはつきなかったが、監督とお別れして、事務所をあとにした。

(一応完)

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