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2018年5月

ひよこランド

5月30日(水)

近所で、「ひよこランド」というイベントがあるというので行くことにした。

何のことはない。近所の児童館の体育館みたいなスペースを開放して、0歳児から1歳児までの子どもを遊ばせる時間のことである。

午前10時からということだったが、10時半ごろに行くと、すでに多くの親子が遊んでいた。

すべて、「母親と赤ちゃん」である。

まあ、平日の午前中に父親が参加するという方がおかしいのかも知れないが、それにしても、母親ばかりというのも、ちょっと異様な光景である。

ちょっと物怖じしてしまったが、ここで引き下がってしまっては、世の中は変わらない。

数日前、「赤ちゃんはママがいいに決まっている」と発言した政治家がいたが、そのアナクロニズムな発言を聞いて以来、私の残りの育休の時間は、それがまったく根拠のないものであることを証明するためにすごそうと思ったのである。

しかし実際のところ、母親ばかりのところに父親がひとり参加するというのは、かなり勇気がいる。

(あの人、イクメンをアピールしたいのかしら)

(あら、案外別の目的で来ているのかも知れないわよ)

などと思われていそうで、被害妄想の誇大妄想でまたしても汗だくになる。

そんなわけだから、周りの母親たちも私のことを警戒するし、私も、周りと自然に話すことなどできない。

もちろん、父親が来ることは歓迎されてはいるのだが、実際には母親が育児をするという前提でさまざまなシステムが作られているので、結果的に、育児をする父親が排除されてしまうような雰囲気ができてしまう。

職場だけでなく、地域でも徐々に、そうした雰囲気が解消されていくことを願うばかりなのだが、どういうわけか与党政治家たちは、女性議員も含めて、そういう洗練された社会というのは、好みではないらしい。困ったものである。

「ではこれから、手遊びの時間で~す」

11時15分になった。ここからはレクリエーションの時間である。

保育士さんみたいな方が、前に出てきた。

「最初は体操で~す」

グーパーグーパー、と、手を握ったり閉じたりする体操をするのだが、生後2か月の娘には、まだ早いようである。

「次に、お弁当箱の歌を歌いましょう~」

私も子どものころに習った歌である。

「これっくらいの おべんとばこに

おにぎり おにぎり ちょいとつめて

きざみしょうがに ごましおふって

にんじんさん さくらんぼさん しいたけさん ごぼうさん

あなのあいた れんこんさん

すじのとおった ふき」

どうやらこれが公式の歌詞らしいのだが、私が子どものころは、「さくらんぼさん、しいたけさん」はなかったような気がするのだが…。

それに、「きざみしょうが」とか「すじのとおったふき」とかって、いまの親の世代にも通じるのかどうか、いささか疑問である。「きざみしょうが」って、桃屋の瓶詰めくらいにしかその名残をとどめていないのではないだろうか。

ましてや0歳児~1歳児には、まったく未知の世界であろう。

こんな手遊び歌もあった。

足首をつかんで『いち~り~』

ふくらはぎをつかんで『に~り~』

太ももをつかんで『さ~んり~』

最後にお尻わしゃわしゃーとくすぐりながら『しりしりしりしり~♪』

この歌は、ベビーマッサージを兼ねた歌でもあり、単純でわかりやすい。

だが問題は、歌詞の中に出てくる「一里」「二里」という距離の単位である。

これが距離の単位であるということを、いまの若い親御さんたちも、わからないのではないだろうか。

「四里」と「尻」をかけたダジャレが言いたいがための歌詞なのだろうが、ここでもう一つ問題になるのは、「三里」といいながら太ももをつかんでいることである。

三里とは、膝 (脛骨外上顆) より指を横にして3本分下の位置にあるツボのことで、松尾芭蕉の「おくのほそ道」にも、「三里に灸を据え」という表現が出てくる。

つまり「さ~んり~」といいながらつかむべき場所は、太ももではなく、膝から指3本分下の位置なのだ。

そうすることで初めて、この手遊び歌で「一里」「二里」「三里」「四里」を使う必然性が生じるわけである。

そんな屁理屈を考えながら、手遊び歌に合わせて娘の手足を動かしていると、それまで機嫌がよかった娘が突然泣き出した。

お腹がすいたらしい。

妻が慌ててその場で授乳をしたため、私はまた手持ちぶさたになった。

といって、他人の御子をジロジロと見るわけにもいかない。

そうこうしているうちに、手遊び歌のレクリエーションは終わってしまった。

「あとは自由時間です。時間になるまで自由に遊んでください」

お乳を飲み終わった娘は、そのまま寝てしまった。

「帰ろうか…」

「そうだね、帰ろう」

逃げるように児童館をあとにした。

あの場でいちばん社交的だったのは、母親である妻や父親である私ではなく、間違いなく娘であった。

だって、まわりのお友達に笑顔をふりまいていたもの。

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写真スタジオからの予防接種

5月27日(日)

姪が小学校に入学した記念に、写真スタジオで撮影するというので、ついていった。

ついでに、2カ月になった娘の写真も撮ってもらうことになった。

妻の実家の近くにある町は、最近とみにおしゃれになったことで有名である。その町の一角に、子どもの写真専用の写真スタジオがある。

「この町には成城に憧れている人たちが集まっているんですよ」と義妹。

なるほど、そういわれてみれば、なんとなく成城、といった趣がある。

こじゃれた写真スタジオに入ると、カメラマンとそのアシスタントの二人が対応してくれたのだが、いずれも女性で、子どもをその気にさせるのが、実にうまい。

アシスタントが子どもの機嫌をとりつつ、その間隙をぬって、カメラを持ったもう一人が撮影するのである。

集合写真、親子写真、単体写真など、背景を変えながら、さまざまなバージョンの写真を撮ってもらう。

本日の主役である姪は、何度かお色直しをして、ちょっとした子役の芸能人のようである。

1時間ほどして、撮影が終了した。

撮影した写真データ75枚を買うというのが通常プランで、オプションとして、そのうちの1枚をクリスタルフォトスタンドに仕立てたり、選りすぐりの45枚の写真をフォトブックにしてくれたりする商品なんてのもある。

せっかくだから、通常プランに加えて、クリスタルフォトスタンドとフォトブックもセットににしてもらおうということになった。

「しめて5万4000円です」

ご、ご、5万4000円!!!

ずいぶんと値がはるものだと思ったが、できあがりの写真データをみて納得した。

どれも、いちばんいい表情をとらえて撮影している。

さすがプロはすごい。5万円というのも仕方のないことか。

5月28日(月)

生後2カ月が過ぎたということで、初めて予防接種を受けることになった。

生後2カ月になったばかりの赤ちゃんには4種類のワクチンの予防接種を受けることができる。このうち、ヒブ、小児用肺炎球菌、B型肝炎は腕に注射するワクチン、ロタウイルスは飲むワクチンである。

ヒブ、小児用肺炎球菌、B型肝炎は自治体が費用を援助してくれるのだが、ロタウィルスは自己負担である。

「いくらですか?」

「1万2000円ほどです」

い、い、1万2000円!

オプションとはいえ、受けておくに越したことはないと考え、ロタウィルスの予防接種も受けることにした。

3種類の注射は、それぞれ一瞬のことで、注射されている瞬間はギャー!と泣きわめいたが、とくに混乱することもなく終わった。

さて、最後はロタウィルスのワクチンである。

「注射ではなくて、飲むタイプのワクチンです」

といって、看護師さんが小瓶をもってきた。

親指ほどの小さな小瓶である。

「これがワクチンですか?」これが1万2000円とは、ずいぶんと高価だ。

「そうです。これをお口から飲んでもらいます。大丈夫ですよ。美味しいですから」

そういうと、看護師さんは小瓶の蓋を開けて、ワクチンを飲ませようと娘の口にもっていった。

少しずつ口の中に入れていくのだが、初めて飲むこともあり、うまく飲み込めなくて、はき出そうとする。

「はいはい、大丈夫ですよ。がんばって飲み込んでね」

少しはき出してしまい、服にこぼれてしまった。

(おいおい、1万2000円だぞ!はき出すんじゃない!)

看護師さんはなんとか苦心して、ひととおり飲み込ませることができたが、1万2000円のうち、3000円分くらいは、飲み込めずにはき出してしまったかも知れない。

(高級なドンペリなんかより高いんだぞ!こぼすんじゃない!)

と言いかけたが、娘にはわかるまい。

そんなこんなで、無事、初めての予防接種が終了した。

「次回は1カ月後ですね」

スケジュール表を渡されて、びっくりした。

これから1カ月に1回のペースで、延々と予防接種が続いていくのだ。

そういえば、子育ての先輩である義妹(姪の母親)が前日に言っていた。

「これからしばらくは、予防接種に振り回される人生ですよ」

しばらくは、予防接種のことを気にしながら生きていかなくてはならない。

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岡本喜八からの小林桂樹

大林宣彦監督の4時間にわたるインタビューでは、いろいろなお話しが出たのだが、一つ興味を持ったのは、岡本喜八監督のお話しだった。

岡本喜八監督といえば、1945年8月15日における陸軍のクーデターを描いた映画「日本のいちばん長い日」が大好きなのだが、本来、この映画は「東京裁判」「人間の條件」をなど監督した小林正樹が監督をする予定だったという。だが折り合いが合わず、岡本喜八が監督を引き受けることになった。

「俺にとって、8月15日はいちばん長い日なんかじゃない、いちばん短い日だよ」と岡本監督は語ったというが、とすれば半ば「不本意」に、この映画を監督したのかも知れない。

政治家だの、陸軍だの、皇室だのといった、いわば「お上の世界」を描かざるを得なかったこの映画では、玉音放送の録音版の争奪戦という、サスペンス史劇にするしかなかったのである。

作品じたいは、めちゃくちゃ面白い。岡本喜八の職業映画監督としての本領が遺憾なく発揮されている。

しかし、彼が本当に作りたかったのは、こんな映画ではなかった。

無名の若き特攻隊員を描いた「肉弾」である。

特攻隊といっても、派手な戦闘場面があるわけではない。敗戦間際に特攻隊員に任命され、明日に特攻を控えた若者の日常を描いている。

脚本まで完成していた。しかし会社(東宝)が映画化を認めてくれない。そんな地味な映画はだれも見ないというのである。

映画会社というシステムの中では、自分が本当に作りたい作品が作れない。そこで岡本監督は、自宅を抵当に入れて、「肉弾」を完成させたのである。

ATGによる低予算映画だったが、いま見てみると、セットが実に手が込んでいていて、主人公の息づかいが間近に聞こえてくるような映画である。

岡本喜八の最高傑作は、「独立愚連隊」でも「日本のいちばん長い日」でもなく、「肉弾」である、と大林監督は断言する。「戦後の日本人を描いた映画の傑作を選ぶとしたら、岡本喜八監督の『肉弾』と『江分利満氏の優雅な生活』だろうね」という。

「肉弾」は、「日本のいちばん長い日」のような重厚な演出とは真逆で、実に軽妙である。特攻隊員を主人公にした映画となると、どうしても悲劇のヒーローとして描きたくなるのが常で、そうなると反戦映画のつもりで作っても好戦映画としてみられてしまうことが多い。戦争映画にカタルシスは不要なのだ。

その点、「肉弾」は決してカタルシスに陥らず、諧謔的な表現で、日常を奪ってしまう戦争の理不尽さを静かに伝えるのである。

軽妙さの中に静かにメッセージを伝える、という点では、「江分利満氏の優雅な生活」もまた同様であろう。

映画の軽妙な雰囲気は、主演をつとめた小林桂樹によるところが大きい。

小林桂樹は「軽妙だが頑固」という役がぴったりの俳優である。

黒澤明は、山本周五郎原作の『日日平安』を小林桂樹を主演にして映画にすることを構想していたが、映画「用心棒」が大ヒットしたため、三船敏郎を主演にした続編をという東宝の要請により、脚本を大幅に書き直して「椿三十郎」として完成させた。小林桂樹が主役だったら、また違った傑作が生まれたと思う。

黒澤明監督の最後の映画「まあだだよ」は、内田百閒の人間的魅力を描いた映画だが、内田百閒役を、松村達雄ではなく小林桂樹にしていたら、傑作になっていただろうと残念でならない。松村達雄では、内田百閒の人間的魅力が今ひとつ伝わりにくかった。小林桂樹ならば、内田百閒の人間的魅力を十分に伝える映画となったはずである。

…ちょっと話がズレましたが、思いつくままに。

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納車からのベビーマッサージ

5月21日(月)

今日もなかなか忙しい。

午前中は、いよいよ新車の納車である。

いま乗っている「青色のステーションワゴン」は、2003年5月26日(月)に納車されたものである。

なぜ、日付を正確に覚えているかというと、この日、宮城県沖で比較的大きな地震が起こったからである。

この日の夕方6時頃、新車を引き取るために、3年間乗っていた車に乗って販売店に向かった。

たとえ3年間といえども、愛着のある車である。

しばらく道を走っていると、突然、車が左右に揺れだした。

「イヤヨ、イヤイヤ~」

と、まるで車が別れを嫌がっているような動きをしたのである。

車も、別れを惜しんでいるのだなあ、こんなこともあるんだなあと思っていたら、実は地震で揺れていたのであった。

当時の記録によれば、この日の18時24分に地震が発生していたとあるから、私はこのとき、車に乗って国道13号線を走っていたことになる。

さて、そのときに買い換えた「青色のステーションワゴン」も15年がたち、ブレーキを踏むと異音が出るという現象が起こるようになった。

何回かに1度、ブレーキを踏むと、

ブブブブブブブブブブブブ~!

と非常に大きな音がするようになったのである。

調べてもらったのだが、原因不明である。

ちょっと怖くなり、ちょうど車検の時期でもあることから、思い切って車を買い換えることにしたのである。

一生のうちに自分が買える車は、おそらくわずか数台である。どうせならいろいろな車に乗る方が楽しいのかも知れないが、僕は車にまったく関心のないので、トレードマークがわりに「青のステーションワゴン」に乗り続けることにした。

世間では、同じ車種の車に乗り続けようとする人と、車を買い換えるたびに違う車種にする人と、二通りあると思うのだが、どちらが多いのだろう?

あなたはどちらですか?

ちなみにうちの父は、新しく買い換えても同じ車種の車に乗り続けた。

「前の前の職場」のOさんも、長年乗り続けてきた「カリブ」という車がぶっ壊れたあとも、新車の「カリブ」を買っていた。

どうも私の周りには、同じ車種の車に乗り続ける人が多い。

まあそれはともかく。

すべての手続きを終え、新車の前に行くと、営業担当のNさんが、

「では、これから納車式を行います」

と言った。

納車式って何だ?

Nさんは大きな花束をもってきており、

「花束贈呈です」

と言って、その花束を僕に渡した。

ずいぶんと派手で、大ぶりな花束である。いままでこんな大きな花束なんてもらったことなどないぞ。これは慣習なのか???

「以上で納車式を終わります」

終わりかい!

気がつくとお昼近くになっていた。

お昼を作って食べたあと、午後は、市内の施設でおこなわれた「助産師さんと遊ぼう!」というイベントに参加する。

1時開始ということだったが、少し遅れて、1時20分頃に会場に到着した。

すると、畳敷きの大広間みたいなところに、60組くらいの赤ちゃんとそのお母さんが座って、歌を歌いながら赤ちゃんとコミュニケーションをとっていた。

何なんだ!この異様な光景は!

と、初めての光景に、僕はすっかりたじろいでしまった。

しかも、60組ほどのほとんどが母親のみで、例によって父親は僕しかいない(のちにもうひと組、夫婦で来た人たちがいた)。

前方のほうを見ると、女優の淡路恵子みたいなベテランの助産師さんが司会をしていた。

「さあ、では歌を歌いましょう!歌詞カードを見ながら大きな声でぇ!」

「雨雨ふれふれかあさんが

じゃの目でおむかえうれしいな

ピッチピッチちゃぷちゃぷランランラン

かけましょかばんをかあさんの

あとから行こ行こ鐘が鳴る

ピッチぴっちゃぷちゃぷランランラン

あらあらあの子はずぶぬれだ

柳の根かたで泣いている

ピッチぴっちゃぷちゃぷランランラン

かあさんぼくのを貸しましょうか

君君このかささしたまえ

ピッチぴっちゃぷちゃぷランランラン

ぼくならいいんだかあさんの

大きなじゃの目に入ってく

ピッチぴっちゃぷちゃぷランランラン」

これを、ほとんどが女性ばかりの大広間で大声で歌うのは、かなり恥ずかしい。

しかし、作詞はかの北原白秋だから、おろそかに歌うこともできない。

歌が一通り終わり、しばらくの休憩のあと、今度はベビーマッサージである。

休憩が終わり、もうすぐベビーマッサージが始まるころ、娘が火がついたように泣き出した。

抱っこしてあやしても、泣き止む気配がない。

「こりゃあ授乳だね。ちょっと別室で授乳してくるから、ベビーマッサージ、どんなことをやるのか、見ておいて」

そういうと妻は娘を連れてどっかへ行ってしまった。

「はい、ではベビーマッサージをはじめま~す!」

前方の舞台では、赤ちゃんの人形を使って助産師さんがベビーマッサージのお手本を始めた。

その動作に合わせて、みんなが、自分の子どもに対してベビーマッサージを始めた。

しかし、僕の目の前には、何もない。なぜなら、授乳に行ってしまったから。

一人ぽつんと取り残された私は、手持ちぶさたのまま、他の人たちのベビーマッサージを見るよりほかないのだが、その光景は、いかにもアヤシい。

ほどなくして、私の前にいる母親が、授乳を始めた!

もちろん、授乳用のカバーをしているので、赤ちゃんの口元は何も見えないのだが、だが前方で行われているベビーマッサージのお手本を見ようとすると、どうしてもその人が視界に入ってしまうのである。

もうこうなると、被害妄想の誇大妄想で、

(あいつ、育児を口実に別の目的で参加しているんじゃないか、と思われているんじゃないだろうか…)

と、もうその場に居たたまれなくなってしまった。

こころなしか、周りの母親たちが、不審人物を見るような目で僕を見ているような気がする。

かといって、その場から離れることもできない。なぜなら、ベビーマッサージの段取りを見て覚えなければならないから。

かくして、ベビーマッサージのお手本が終わったころ、授乳が終わり妻と娘が戻ってきた。

「ベビーマッサージ、どうだった?」

「ごめん、お腹が痛くなった」

といって、僕はその場を離れ、トイレに駆け込んだのであった。

ベビーマッサージで助産師さんがどんなお手本を見せてくれたのか、まったく入ってこなかった。

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スミス都へ行く

まったく赤ん坊というのは予測のつかない生き物ゆえ、なかなかまとまった時間がとれない。

が、ようやく、以前から見たいと思っていた映画「スミス都へ行く」(フランク・キャンプラ監督、ジェームス・スチュアート主演)を見た。

急死した上院議員の空席を埋めるために、一人の男が担ぎ出される。

担ぎ出したのは、利権にまみれた上院議員たちである。彼らが目論んでいるダム建設に賛成する「イエスマン」の議員として、田舎者のジェフ・スミスに白羽の矢を立てた。

利権にまみれた上院議員たちは、スミスが「田舎のボンクラ」ゆえに、何も考えずにダム建設を支持してくれるだろうと踏んだのである。

かくして田舎者のスミスは、上院議員としてアメリカの都・ワシントンの土を踏んだ。

田舎者の青年が上院議員になったとのことで、マスコミは彼を面白おかしく書き立てる。これに対して理想に燃えるスミスは、ある法案を提出しようと思い立つ。それは、国立のキャンプ場を作るという法案である。

スミスは田舎の「少年団」の団長として、子どもたちに絶大な人気を誇っていた。自然を愛し、動物を愛し、子どもを愛する純朴な若者である。ワシントンやリンカーンなど、アメリカの建国の父を尊敬し、アメリカの建国の理念を体現することを自らの信条としていた。

彼の夢は自分の故郷に国立のキャンプ場を作ることだった。都会の子どもたちに自然の美しさや大切さを学んでほしい、さらには、アメリカの建国の理念を学んでほしいという願いからである。

ところが彼の故郷には、ダム建設の話が進んでいたのである。その話を進めていたのが、スミスを担ぎ出した上院議員たちであった。

そのことを知ったスミスは、利権にまみれた議員たちの汚職を告発するために、議会において孤独で愚直な戦いを試みる。

これに対し、ダム建設を進める議員たちは、圧倒的な金と権力と数の力でスミスに対する徹底的な「印象操作」を行う。

彼らは、マスコミを統制し、スミスを悪人に仕立てあげたのだ。

この、権力者がマスコミを統制して印象操作を企てるくだりは、まさにいま、この国で起こっていることとそっくり同じではないか!

映画では、スミスに対する抗議の投書を組織的に行わせ、あたかも世論がスミスを糾弾しているように思わせるという手法をとっている。

これは、いまこの国の権力者たちが、ネットの工作員を雇って、SNSなどを使って印象操作を行わせていることと、何ら変わらない。

この映画は、権力者による印象操作をかなり誇張して描写しているのだが、いまのこの国の現実は、それ以上である。現実が映画を越えてしまっているのである。

いまこそ、この映画を見るべきである。

この映画を見て、「カリカチュアされているなあ」という印象をもったとしたら、いまのこの国の現実がそれ以上であることに、思いをいたすべきである。

さて、この映画は1939年に公開された。

1939年といえば、アメリカの映画史にとって記念すべき年である。

「駅馬車」「風と共に去りぬ」「チップス先生さようなら」「オズの魔法使」など、後世に名画として語り継がれる映画が数多く公開された、豊作の年なのである。

アメリカ映画が、最も勢いのあった年に作られた映画なのだ。

それからもう一つ。

「スミス都へ行く」が公開されてから50年後の1989年、日本で、ある連続テレビドラマが放送された。

「ラッキー天使都へ行く」(フジテレビ)である!

北海道の原野で育ち、動物と会話ができる主人公(斉藤由貴)が、父の遺言で東京に姉(小林聡美)が居ると知り、アライグマのラッキーとともに上京する。彼女は姉の家に居候することになるのだが、ある大企業の社長(宇都宮隆)が彼女に目をつけ、北海道に一大リゾートランドを建設する候補地として、彼女が所有する土地を買収しようと動き始める…。

…という内容で、僕も大学生の時にリアルタイムで見ていたドラマなのだが、放送当時はとても地味なドラマで、このドラマを見ていたのは、斉藤由貴ファンか、小林聡美ファンか、宇都宮隆ファンくらいなものだったろう。

おそらく諸事情により、再放送やソフト化もされないものと思われる。

しかし、30年経って、ようやくわかった。

このドラマの元ネタは、「スミス都へ行く」だったのだ!

当時あのドラマを見て、この元ネタが「スミス都へ行く」だと気づいた人は、どれくらいいたのだろう?

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距離が縮まる

5月17日(木)

妻が所用で、午前中から夜までいないので、僕が娘の子守を託された。

これだけ長い時間を託されるのは、初めてである。

一人だと不安なので、僕の実家に連れていくことにした。

いちばん心配なのは、妻が不在の間、母乳がないことである。もちろん、物理的にはミルクを飲ませることはいくらでも可能なのだが、母乳がないことに、精神的に耐えられるのだろうか?

車に乗せて実家に向かうと、途中、例の乳酸菌のニオイが…。

実家に到着してすぐにおむつを確かめると、やはりうんちをしていた。

どうも車に揺られると、お腹のあたりが刺激されて、うんちが出やすくなるらしい。

この日は2回、うんちをしていた。

おむつを替えて、ミルクを飲ませて、万全の状態になったあとも、ぐずったりすることが多く、やはり母乳をあげられないことが原因なのかなあと思ったり。

それでも、なんとか1日を乗り越えた。

夜、初めて娘とお風呂に入る。

いままでは、空気で膨らませる小さなプールみたいなところにお湯を入れて沐浴させていたのだが、すでに体重が5キロをオーバーしたので、いよいよ一緒にお風呂に入ることにしたのである。

これも無事に終了。

この1日で、娘との距離がだいぶ縮まったような気がする。

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とんだお宮参り

5月16日(水)

お宮参りというものに行くことになった。

今日は暑くなるというので、朝9時に神社に着くように出発した。

神社に向かう途中、車の中で、

ブリブリブリブリブリッ!!!

という音がして、車内が乳酸菌みたいなニオイに包まれた。

神社の駐車場に着いて、さっそくおむつを確かめると、大惨事になっていた。

あまりにも大量すぎて、どうもおむつだけでは受けとめられなかったらしい。

おめかしした衣服にはもちろん、チャイルドシートにも染みこんでしまった。

この日のためにチョイスした服を脱がせて、別の服に着替えさせる。

出すものを出したあとは、お腹がすくらしい。

お宮参りの控え室で泣き始めたので、授乳をすることになった。

「あと2分で、本日1回目のお祓いがありますけれど、どうされますか?」と巫女さん。

「すみません。次の回でお願いします」

授乳をしているうちに、お宮参りをするグループが次々と受付にやってきた。

私らを含めて、4組が同じ回のお祓いに参加することになった。

時間ぎりぎりまで授乳をして、いよいよお祓いである。拝殿に昇って、宮司さんによる祝詞が始まった。

ほかの3組の赤ちゃんは、実に静かであるのに、うちの娘だけが、火がついたように泣き出した。

泣き声が拝殿に響き渡る。宮司さんの祝詞がかき消されるほどの大声である。

抱きかかえている私は、居たたまれなくなり、「俺の所為じゃねえ」とばかりに、隣に座っていた妻に娘を預けた。

だがやはり泣き止まない。

他の3組の人たちが迷惑しているだろうなあと思うと、そればかりが気になり、宮司さんのありがたい祝詞がまったく入ってこない。

結局、なんだかよくわからないまま、お祓いが終了した。

終わってハタと気づいた。

授乳の直後は、決まってオシッコをするのだ。それでおむつが濡れて泣いたのだろう。

拝殿を降りて控え室に戻ってから、おむつを見てみると、はたしておむつが濡れていた。

おむつを取り替えると、とたんに晴れやかな顔になった。

なんともちぐはぐな感じで、お宮参りが終わった。

…もう一度、最初からやり直せないもんかねえ。

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男人禁制?

5月15日(火)

私が住んでいる町には「すくすく広場」なる施設がある。小さい子どもを持つ親のコミュニケーションの場のようである。

そこで、月に1度、ベビーマッサージというイベントがある。生後1歳未満の子どもを対象に、親と一緒に「ベビーマッサージ」なるものを楽しむ、という行事らしい。

「ベビーマッサージ」というのがどういうものかわからないが、ひとまず参加を申し込んだ。

すると、「ベビーマッサージの場に立ち会えるのはお母さんだけで、お父さんは立ち会えません」という。ま、授乳の関係があるからだろう。

しかし、「すくすく広場」なる施設がどんな施設なのか見てみたいし、なにより母親一人で子どもを連れていくというのも大変なので、私もついていくことにした。

「すくすく広場」に到着すると、助産師さんがいて、満面の笑顔で迎えてくれた。

申込用紙に記入したり、施設の説明をしているうちに、娘が泣き出した。

どうやらおむつを替えてくれと泣いているようだったので、あわてておむつを取り替えた。

そうこうしているうちに、ベビーマッサージに参加する人たちがぞくぞくと「すくすく広場」に集まってきた。

私は驚いた。

みんな、お母さんが単独で子どもを連れてきている。

父親が一人もいないのだ。

いや、待てよ、と周りを見渡した。

ベビーマッサージに参加している人たちだけでない。この「すくすく広場」には、母親しかいないのだ。

つまり男性は私だけということである。

ここは男人禁制か???

聞いてみると、ベビーマッサージをする部屋だけは、父親は入れないのだそうである。そのほかのスペースは、とくに問題ないという。

しかし、問題ないといっても、実に居心地が悪い。父親が入りがたい雰囲気がある。

もっとも、平日の昼間なので、大半の父親は仕事に行っていて不在なのだろう。

しかし待てよ。ということは、私みたいに育休をとっている父親は、ほとんどいない、ということなのだろうか???

男性が育児に参加する機会が少ないから、「すくすく広場」が母親ばかりになり、「すくすく広場」が母親ばかりだから、父親が参加しづらくなる(母親まかせになる)、という悪循環。

もう少し、父親も自然に参加できる環境になればいいのになあ。

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映画的体験・おまけ

5月8日(火)

4時間にわたる大林監督へのインタビューが終わり、監督事務所を出たとき、3人は放心状態だった。

「いやあ、すごい4時間でした」

とくに、3人の中でいちばん若い「編者のOさん」は、かなり気分が高揚しているようだ。

「鬼瓦先生のおかげで、いい取材ができました」と感激気味。

「何を言うんです。僕はひと言も言葉を発していませんでしたよ」

実際、僕はでくのぼうだったのだ。

「いえ、鬼瓦先生がいてくれたおかげで、心強かったです」と「出版社のOさん」。

だから、俺は何の役にも立っていないんだってば!

「少しクールダウンしましょう」

と、近くの中華料理屋に入った。

「結局、質問項目はまったく役に立ちませんでしたね」

「ええ。でも取れ高的には十分すぎるほどあります。それに、結果的に、こちらがうかがいたいと思っていたことをお話しいただけましたから、何の問題もありません」と「出版社のOさん」。

そうなのだ。こちらから質問という形ではひと言も発することができなかったけれど、こちらがうかがいたいと思っていたことは、ほぼ語っていただいたのだ。

そればかりではない。

3人それぞれが、「個人的に聞きたい話」をこちらから質問したわけでもないのに、かなり踏み込んだ形でお話しくださったのだ。

僕自身についていえば、僕の個人的な事情について、一切お話ししてはいないのに、「これは知っておいていいことだと思うんだけど…」と、僕を励ますようなお話しをされたのである。

まるで僕自身の抱えている事情をご存じであるかのように、お話になったのである。

こうなるともう、宗教家と信者の関係に近い。

それはともかく、話を戻す。

「問題なのは、この4時間のお話しを、どうやって8000字にまとめるか、ということです」

「たしかに、それは悩ましいですね」

映画でいえば、撮影した素材を編集する、という作業が必要になる。

そういえば、大林監督が4時間お話になった一番最後に、

「素材は提供しましたから。あとは編集にお任せします。映画でも、編集というのがいちばん大事ですからね」

とおっしゃっていた。編集のプロである大林監督にダメ出しをされないような編集をしなければならない。

文字起こしは、「出版社のOさん」が担当することになった。

「私が4時間のお話しの中から取捨選択して、文字の荒起こしをしますので、Oさんと鬼瓦先生とで、加筆修正をお願いします」

翌日の夜、「出版社のOさん」から、文字の荒起こししたものが送られてきた。

仕事早っ!と思いながら、娘が寝静まったのを見はからって、編集作業を開始する。

もう一度音源を全部聞き直し、「出版社のOさん」が文字起こししなかった箇所で、大事だと思われる箇所をあらためて文字に起こし、それを付け加える。

お話になった順番どおりに並べるのではなく、順番を適宜入れ替えて、内容をわかりやすくしたり、ストーリー性をもたせたりする。

わかりにくいところは、適宜言葉を補う。

教員稼業をついていたころ、学生の文章を添削したり推敲したりする仕事ばかりしていたので、ついそのときの癖で、「編者のOさん」の文章を卒論指導よろしく添削してしまったり。

それはともかく。

まるで、撮影した映像素材をもとに、映画の編集作業をしているような楽しさである。

なるほど、映画の編集って、こんなに楽しいものなのか。

何度も3人で議論しながら推敲を重ね、本日(5月13日)、ようやく決定稿が完成した。

インタビューから1週間経たずして完成したのは、3人の熱量によるものであろう。

さて、その編集がうまくいったのかどうかは、読者に判断をゆだねるしかない。

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映画的体験・その4

5月8日(火)

記念撮影のために監督の横に立った僕は、思い切って監督にお願いしてみた。

「あのう…。生まれたばかりの娘のために、メッセージを書いていただけないでしょうか」

監督にお会いしたら、絶対にお願いしようと思っていたことだったのだが、僕はこのお願いをするのを、インタビューの途中からためらっていた。

というのも、監督の4時間の語りの中で、

「癌に侵されると文字が書けなくなるんです。癌のせいだけではなくて年のせいでもあるけれども」

とおっしゃったのを聞いたからである。

もちろん監督は病気を克服されたのだが、それでもメッセージを書いてもらうのはしのびない…。

しかし思い切ってお願いしてみると、監督は快くお引き受けいただいた。私は鞄の中から色紙とサインペンをとりだした。

「名前はなんて言うの?」

「○○です」

私は別の紙に娘の名前を書き、サインペンを監督に渡した。

サインペンを受け取った監督が言う。

「手塚さんに晩年にお会いしたら、『大林さん、僕、円(まる)が描けなくなっちゃったよ』といって、僕の前で円を描いてみせたんだよ」

「手塚さん」とは、言うまでもなく漫画家の手塚治虫のことである。

監督は、サインペンを持って、その時の手塚さんの様子を再現するような円をお書きになった。

「ほら、晩年の手塚さんが円を描くと、こんなふうに、線がつながらないものができちゃうんだ。それでしまいには、こんなふうに左手を右手の肘に添えて、円を描いたんだ」

すごい話である。

手塚治虫が誰よりも正確な円を描くことができたという話は、有名である。その手塚さんが、晩年に病に冒された時、円が描けなくなってしまったというのである。どれほど無念なことだったろう。

私はますます、監督の前に色紙を差し出したことを申し訳なく思った。

しかし監督は、実に丁寧に、そして言葉を選びながら、色紙にメッセージをお書きになった。

「○○さんへ

映画(えいが)の学校(がっこう)の良(よ)い生徒で、賢(かしこ)く優(やさ)しく育(そだ)ちましょう。 大林宣彦 2018.5.8」

漢字のすべてに、ふりがなまで振っていただいた。

「映画の学校」とは、僕も大好きな言葉で、「映画はあらゆることが学べる学校のようなものである」という、映画評論家の淀川長治さんの言葉からきている。

つまり「映画の学校の良い生徒で」というのは、「映画を見てよく学んで」ということなのだ。

そればかりではない。色紙の余白に、監督の自画像イラストまで描いていただいた。

ゆっくりと、丁寧に、監督が色紙にメッセージをお書きになっている姿を、僕は涙をにじませながら見ていた。

こんな感激なことはない。娘に映画の英才教育をするぞ!と誓ったのである。

これだけで僕は十分なのだが、もう一つ、どうしても監督に伝えたいことがあった。

僕は鞄から、もう一つ取り出した。

それは、1989年に公開されたイタリア映画「ニュー・シネマ・パラダイス」のパンフレットである。

「あのう…僕、このパンフレットに書かれた監督の文章を、お守りのように持ち歩いていたんです」

そう言って僕は、監督にそのパンフレットをお見せした。

実際、若いころに見た映画のパンフレットはほとんどすべて捨ててしまったのだが、この「ニュー・シネマ。パラダイス」のパンフレットだけは、捨てずにとっておいた。そこに書かれた監督のエッセイが、いまでも僕の文章の範となっているのだ。お守りのようにもっているというのは、決して誇張ではなかった。

エッセイの書かれた頁を開き、「この文章です」と監督にお見せすると、監督は、

「覚えてないなあ。こんなこと書いたっけ?」

と、おっしゃった。

ええええぇぇぇぇぇっ!お、覚えてない?!

僕の人生を変えたエッセイなのに?!

「たぶん、うちにも残っていないなあ。ちょっとこれ、コピーさせてもらっていいかな?」

「も、もちろんです」

監督は事務所のスタッフのKさんにパンフレットを私、コピーをお願いしたのだった。

ある意味、思いきってパンフレットを見せてよかった。もしお見せしなければ、この名文はこの先もずっと埋もれたままになってしまっただろう。

夜7時15分。なごりはつきなかったが、監督とお別れして、事務所をあとにした。

(一応完)

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映画的体験・その3

5月8日(火)

「やあ、待たせてしまって申し訳ない」

ゆっくりとした足取りで、大林監督がいらっしゃった。

まず、「編者のOさん」が監督と握手。

「今日はよろしくお願いいたします」

「Oちゃん、久しぶりだね」

続いて私が監督と握手。

「よ、よろしくお願いいたします」

「はい、よろしく」

最後に「出版社のOさん」が監督と握手。

「○○出版社のOと申します。本日はよろしくお願いいたします」

「はい、よろしく」

…とここで、しまった!と思った。

緊張していて、俺は自分の名前を名乗るのを忘れてしまった!

「編者のOさん」はすでに監督とは面識があるし、「出版社のOさん」は、今回の本の企画者と認識されている。

では、いったい俺は何者だ?

もちろん、事務所のスタッフの方には、あらかじめインタビュアーの一人である私の素性を連絡してあるし、さきほどスタッフの方にお会いした時に名刺を渡してある。だがそれが、監督にどれほど伝えられているか、わからない。

監督からしたら、僕のことを何者かわからないままお話になっている可能性があるのだ。

それでも、自己紹介とか、本の企画の説明をしてから、インタビューを始めるのかな、とのんきに構えていたら、いきなり監督のお話しが始まってしまった。

ほらよく、自分が昔から大ファンだった人を目の前にしたら何も喋れなくなるものだ、なんて言うことがあるでしょう。

あれ、嘘だろう、と思っていたのよ。だって、大ファンだった人に会ったら、自分が如何に大ファンだったかを伝えたいし、聞きたいこともいろいろあるし。

…と思って、自分がいざ、大ファンだった人を前にしたら…。

ぜんっぜん喋れねえ!!!

ひとっことも喋れねえ!!!

インタビュアーであるはずの「編者のOさん」も私も、まったく言葉を発することができなかったのである!

あらかじめ用意していた4つの質問事項なんぞ、もはやまったく関係ない。

ただひたすら、監督のお話をうなずきながら聞くよりほかなかったのである。

監督にお会いしたら、こんなことを聞いてみようとか、こんなことを話してみようといったシュミレーションは、すべて無に帰したのである。これは私だけでなく、「編者のOさん」も、まったく同じだった。

質問ができなかったのは、ただたんに大ファンの監督の前で舞い上がったから、という理由ばかりではない。

監督のお話しが実に興味深く、よどみなく、感動的なのだ。

我々がヘタに口を挟む余地など、どこにもない。

これは、後になって「編者のOさん」や「出版社のOさん」とも話したことなのだが、3人が3人とも、

(これは、こちらからヘタに質問するよりも、監督に存分にお話しいただいて、それを真剣に聞くことに徹するべきだろう)

と、このとき思っていたのである。

監督のお話は、「敗戦少年」としての思いや映画史と戦争の関係、交友録など、実に多岐にわたった。

登場人物は、手塚治虫、黒澤明、立川談志、小津安二郎、高畑勲、岡本喜八、阿久悠…。その一つ一つのエピソードが、すごいものばかりである。

その語り口は、まるで監督の映画を見ているようである。

とにかく僕たち3人は、その語りに、圧倒され続けた。

「…そろそろ、こんなところでいいかな」

監督が、そうおっしゃった。

「貴重なお話しを、ありがとうございます。では、録音を止めます」と「出版社のOさん」。

録音を止めたOさんが、隣にいた私に耳打ちした。

「ぴったり、3時間ですよ」

3時間も経っていたのか!時計をまったく見ていなかったので、わからなかった。

「まさに映画的時間ですね」

と、今度は私が「出版社のOさん」に耳打ちした。

しかし、ここで終わらない。

実はそのあと、1時間ほど、お話しは続いたのである。

いったん録音を止めた「出版社のOさん」は、慌てて録音を再開した。

監督は、お茶も飲まず、お茶菓子も口にせず、4時間ぶっ通しでお話しをされたのである。

もちろん、私たちも飲まず食わずである。というより、ひと言も漏らさず聞くためには、お茶なんぞ飲んでいられない。

「最後に写真を撮りましょう」

席から立ち上がり、監督と一緒に写真を撮った。

それは僕にとって、かけがえのない宝物になるものだが、実はもう一つ、どうしても監督にお願いしたいことがあった。僕は意を決して、あることを監督にお願いすることにした。

(つづく)

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映画的体験・その2

5月8日(火)

大林宣彦監督とのお約束は、午後3時からである。

その1時間前、午後2時に、「編者のOさん」、「出版社のOさん」、そして私の3人が集合した。

1時間ほど打ち合わせをした後、本番のインタビューにのぞむことにしたのである。

監督の事務所のすぐ隣に喫茶店があり、そこで、インタビューの戦略を練ることになった。

ところが、である。

打ち合わせと言っては見たものの、3人が3人とも、緊張しすぎて、何を打ち合わせればいいのかがわからない。

平静さを失っているのである。

「こんな緊張感に包まれたのは、何年ぶりでしょうか」と「出版社のOさん」。

芸術家のY氏、建築家のK氏、宇宙飛行士のM氏などの錚々たる人物のインタビュー経験のある「出版社のOさん」ですら、異様なテンションである。

「僕は記録係に徹しますから、インタビューのほうは、Oさんと鬼瓦先生にお任せします」と「出版社のOさん」。

「私はもう、鬼瓦先生を頼りにしていますから」と「編者のOさん」。この中でいちばん若い。ちなみに3人の中で僕が年長である。

「何を言うんです。僕は監督とは初対面で、どちらかといえばこの3人の中でいちばん必然性のない人間ですよ。これはやはり、何度か面識のあるOさんにがんばってもらわないと…」

3人は、誰も主導権をとりたがらない。

「まあ、ここまで来たら自然体でいきましょう」

「それにしても、この緊張感はいったい何でしょうね」

「あれですよ、入学試験の直前の感じですよ」

「たしかにそうですね」

「編者のOさん」の前には、質問事項を書いた紙や、大林監督の本が置かれていて、まるで試験が始まる直前まで参考書を開いている「往生際の悪い受験生」のような様相を呈していた。

「試験の時って、直前まで悪あがきするタイプでしたか?それともあきらめるタイプ?」

「私は直前まで悪あがきしましたねえ」

「僕はもう前日くらいにあきらめました。今回もそうです」

そんな、どーでもいい会話が続いた。

たいした打ち合わせもせず、1時間が経った。

「いやあ、この打ち合わせは失敗でした」

「そうですねぇ。かえって緊張感を高めるだけで終わってしまいましたねえ」

「そろそろ行きましょう」

喫茶店を出て、隣のビルにある監督の事務所に向かう。

午後3時。チャイムを鳴らすと、事務所のスタッフの方が出てきた。

「こちらへどうぞ」と、部屋に通された。

「ちょっといま、前のお客さんがいらっしゃいまして、もうすぐ終わりますので、こちらでお待ちいただけますか」

この時間がさらに、私たちの緊張を高めた。

たとえて言うならば、面接試験の控え室のようなものである。

10分ほどたって、スタッフのKさんがやってきた。

「ではこちらへどうぞ」

広いテーブルのある部屋に通された。

「こちらにおかけになってお待ちください。いま監督がお見えになりますから」

「あのう…私たちの後も、ご予定が入っているのでしょうか」と、「編者のOさん」がスタッフのKさんに聞いた。

「いいえ、入っておりませんので大丈夫ですよ」

資料や録音機器をテーブルに出して準備していると、扉が開く音がした。

大林監督の登場である。

(つづく)

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映画的体験・その1

5月8日(火)

人生で、こんな日が来るとは思わなかった。

ある本の企画で、映画作家の大林宣彦監督にインタビューすることになったのである。

10代後半から大林監督の映画の熱烈なファンである僕は、映画のほとんどを見、著作のほとんどを読んでいる。30年来のファンである。

僕は映画とはまったく関係のない仕事をしているので、もちろん、仕事の上で大林監督と接点を持つことなどあり得ないだろうと思っていたのだが、人生とは不思議である。

ある本の企画に途中から参加することになり、雑談で「実は、大林監督のファンなんですよ」と「編者のOさん」に言ったら、

「実は、この本の中で、できれば大林監督のインタビューしたいと考えているんです」という。

「え!じゃあ、本の目次では大林監督のお名前と僕の名前が並ぶんですか?」

「そうです」

それだけでもうれしいことなのだが、ひとつ気がかりなことがあった。

周知の通り、大林監督は、一昨年に肺がんの第4ステージ「余命3カ月」を宣告されたが、治療を受けながら映画を作り、昨年末、「花筐(はながたみ)」を完成させた。

奇跡的に病を克服されたとはいえ、傘寿を迎えられた監督の御体調が心配である。

3月の末に、「編者のOさん」から連絡が来た。

「ただいま、大林監督インタビュー取材OKのご連絡が入りました!!!

つきましては、ぜひ鬼瓦先生にもインタビューに同席いただくことをお願いできないでしょうか。

大林監督の映画が鬼瓦先生に与えた影響、お仕事とリンクするお話など、ぜひ直接インタビューにご同席いただくことで、読者にお伝えいただくことが叶いましたら光栄です」

なんと!「編者のOさん」だけでなく、僕もインタビューに同席させていただくことになったのである。

僕は、

「メールをいただき、天にも昇るような気持ちです。これほど幸福なことはありません」

と返信した。

そして今度は「出版社のOさん」が粘り強く日程調整を行い、5月8日(火)にインタビューが実現する運びになったのである!

「編者のOさん」と私がインタビュアーとなり、それに「出版社のOさん」がサポートする、という形で、当日は3人が同席することになった。

インタビューの時間は1時間である。その1時間の間に、本の趣旨に合うお話しを引き出すような質問をしなければならない。

「出版社のOさん」が、あらかじめ質問事項をお伝えするのがよいでしょうと提案し、「編者のOさん」と僕とで相談したあげく、質問の柱を4つほどに絞り、質問の意図を書き添えて、先方にお送りした。

あとは当日まで、インタビューのイメージトレーニングをしなければならない。

大林監督の過去の映画を見直してみたり、過去の著作を読み直してみたり、テレビ出演番組を見直してみたりしたのだが、それをすればするほど、何をどう準備していいかわからなくなってしまった。

極めつけは,5月5日深夜にNHK-BS1で放送された「最後の講義 大林宣彦」の、3時間におよぶ完全版を見て圧倒されてしまい、ますますどうしていいかわからなくなってしまった。

この上、いったいどんなことをインタビューすればいいのか、完全に行き詰まってしまった。

そのことを妻に話すと、「自分を賢く見せようとしなくてもいいんじゃない。監督が気持ちよくお話しできるように心がけさえすればいいんじゃないの」

と言われ、なるほどそうかも知れないと思ったのだった。

かくして、インタビュー当日を迎えた。

(つづく)

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綿棒作戦第一号

5月7日(月)

「いよいよ実行しますよ」

早朝にたたき起こされた。

時計を見ると、朝の5時前である。1時間半しか寝ていない。

3日ほど前から、娘はうんちが出ていないのだ。

5月2日に大量のうんちが出て、その翌日も順調に出ていたのだが、5月4日からまたぱったりと出なくなってしまった。

そこで、「綿棒作戦」を実行することになったのである。

インターネットによると、赤ちゃんのうんちが出ない場合、綿棒でおしりの穴を刺激すると出るのだという。

そこで、次の手順で、「綿棒作戦」を行うことになった。

1.赤ちゃん用ではなく、大人用の綿棒を用いる。

2.綿棒の先端から約1センチくらいのところに、しるしを付ける。これは、肛門に綿棒を入れる目安となるしるしである。

3.綿棒にベビーローションをつける。

これで準備万端である。

さて、実際に作戦に取りかかるのだが、インターネットによれば、次のようにするとよいという。

まず、一人が両足をM字の形になるようにおさえる。ちょうど、和式便所にかがんだ時のような足の形にするのだ。

で、もう一人が、綿棒をおしりの穴に差し込む。

私は、両足を押さえる係である。

最初はゆっくりと綿棒を回しながら差し込んで、あらかじめ付けておいたしるしのところまで入ったら、ゆっくりと「の」の字を書くように回す。さらに入れたり出したりする。

これを、綿棒の先にうんちがつくまで繰り返す。

このうんちが呼び水、いや呼びうんちとなって、うんちが出てくるというのである。

実際にこの通りにやってみた。

おしりの穴に綿棒を入れ、ゆっくりと「の」の字を書くように回す。

綿棒の先にうんちがつくのが確認できたぞ!と思った瞬間、

ニュルニュルニュルニュルッ

っと、まるでチューブから辛子が出てくるように、うんちが出てきた。

「やったー!出た-!」

しかし、今ひとつ出が悪い。

もう一度、綿棒で同じ動作を繰り返す。すると、

ニュルニュルニュルニュルッ

「やったー!出たー!」

出てきたのは、やはり練りがらしのような、ペースト状のうんちだった。

「うむ。便秘だったのはやっぱりうんちが堅かったせいだったのか…。しかし、3日も出なかったのだから、もっと量が出てもよさそうなものだが」

「そうねえ。でも水分が奪われたうんちだったから、実際はこんなもんなんじゃないの」

「そうかもね」

ひとまず、「綿棒作戦」は終了した。

このあと、午後に2回、大量のうんち、それも水分を多く含んだうんちが出た。

「綿棒作戦」は成功したのだ!

「顔が晴れ晴れとしているね」

娘の晴れ晴れとした顔を見て、私たちもまた晴れ晴れとした気持ちになった。

「見終わって、心が晴れ晴れとするような映画にすること」。

これは、山本周五郎の「雨あがる」という小説を映画にするために黒澤明監督が脚本を書いた時、その脚本に書かれていた言葉である。

それにならえば、「雨あがる」ならぬ、「うんち出る」である。

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アウトレットの試練

5月4日(金)

今日のミッションは、「激混みしている高原のアウトレットに生後1カ月の赤子を連れて行く」である。

アウトレットの楽しみは、買い物だけではない。この高原のアウトレットには、めちゃくちゃ美味しいハンバーガー屋さんがあるのだ。

なにしろ挟んであるハンバーグが、肉汁が溢れんばかりの美味しさなのである。

で、うちの家族は、このアウトレットを訪れるたびに、ハンバーガー屋さんでお昼を食べることを楽しみにしている。かくいう私もそうである。

家族みんなでハンバーガーを食べるためには、赤子も一緒に連れて行かなければならない。そこで、みんながアウトレットで買い物をしている間、私が抱っこひもを使って赤子を抱きかかえながら子守をすることになった。

予想どおり、高原のアウトレットは激混みである。入口から駐車場に入るまでに30分ほどかかった。

車を駐車場に停めて、抱っこひもを装着して、赤子を「パイルダーオン」する。

これが意外と難しい。抱っこひもが複雑な構造になっていて、とても一人では赤子をパイルダーオンできないのだ。他の人たちは、どのようにしているのだろう?

やっとのことで装着する。最初は赤子もギャーと泣いていたが、不思議なことに、歩き出すととたんにおとなしくなった。適度な揺れが気持ちいいのだろうか。

さて、一番気になるのは、「このアウトレットに授乳室があるかどうか?」である。これについては、あらかじめ調べておいた。「ママパパマップ」というアプリを使えば、どこに授乳室があって、そこにはどんな設備があるのかがわかるのだ。これからしばらくは、このアプリが必需品になるだろうな。

何度か授乳室にお世話になったのだが、それよりも問題は、「居場所」である。

赤子を抱っこしている手持ちぶさたな人間の「居場所」が、このアウトレットにはないのだ。

お店に入るわけにもいかない。仕方がないので、抱っこをしながら、オモテでずっと立ちっぱなしである。

標高1000メートルにあるアウトレットなので、とにかく風が冷たいのだが、赤子が寒がっていないか、心配である。

やがてお昼になった。

目的のハンバーガー屋さんに行くと、長蛇の列である!

1時間ほど待って、ようやく順番がまわってきた。

「あのう…空いているお席がカウンターしかないんですが、よろしいでしょうか」

「いいですよ」

「カウンター席は、椅子がとても小さいのですが…」

「かまいません」

カウンター席に行ってみると、椅子が本当に小さい。

「カウンター席」とはつまり、「背もたれのない小さな椅子」に座るテーブルのことなのである。

私は赤子を抱っこひもを使って抱っこしたまま、不安定な小さな椅子に座った。

椅子に座ると、ちょうど私のあごのすぐ下あたりに、赤子の頭頂部が来る形になる。

私が注文したのは、「クアトロバーガー」である。ハンバーグが二つ重なって、さらにチーズも重なっているハンバーガーだ。

しばらく立って、注文したハンバーガーがやってきた。

Photoずいぶんと分厚いハンバーガーである。

「中の肉汁が垂れてしまわないように、こちらにハンバーガーを入れてお召し上がりください」

といって、半開きの袋のようなものを渡された。その袋の中にハンバーガーを入れて、ハンバーガーをかぶりつくというわけである。

さあ、ここからが大変である。

私のあごのすぐ下には、赤子の頭頂部がある。

私が手に持っているのは、びっくりするくらい肉汁で溢れているハンバーガーである。しかもダブル。

まちがっても、肉汁を赤子の頭頂部にこぼしてはいけない。大惨事になる。絶対に肉汁をこぼすことなく、クアトロハンバーガーを食べなければならないのだ。

慎重かつ迅速に、ハンバーガーを平らげなければいけない。

赤子の頭の上で、肉汁をこぼさないかとヒヤヒヤしながら、ハンバーガーにかぶりつく。

なんとか肉汁をこぼすことなく、クアトロハンバーガーを平らげた。

ハンバーガーを包んでいた半開きの袋の中には、溢れんばかりの肉汁が溜まっていた。

うーむ。肉汁をこぼさないことばかりに集中したせいで、まったく味わえなかった。

教訓。赤子の頭の上でものを食べてはいけない。

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うんち待ち

5月1日(火)

黒澤明監督の記録係を長年つとめた野上照代さんが『天気待ち』(草思社文庫)というエッセイを書いている。黒澤明監督の映画作りを活写した傑作エッセイである。

タイトルの「天気待ち」とは、黒澤明監督が最高の映像を創り出すために自分が理想とする天気になるまでいつまでも待ち続ける様子を言ったものである。

黒澤監督が「天気待ち」なら、さしずめ私は「うんち待ち」である。

毎年、5月の大型連休には、妻の家族たちと標高1300メートルの高原に滞在するというのがしきたりとなっている。

今回の旅に、心配事が三つあった。いずれも、生後1カ月の娘についてである。

一つめの心配は、生後1カ月の赤子を、いきなり標高1300メートルのところに連れて行っても大丈夫だろうか?ということだった。

ポテトチップスだって、標高1300メートルのところに持っていくと、ぱんぱんにふくれあがってしまうんだぜ。

その理屈から言えば、うちの赤子も風船のようにぱんぱんにふくれあがってしまうんじゃないだろうか?

気圧が低くなって、耳がおかしくなって、泣き止まなくなるのではないだろうか。

よく、飛行機に乗っている赤子が大泣きするのは、気圧の関係で耳がおかしくなってしまうからだと言われている。

心配なので、助産師さんや小児科のお医者さんに聞いてみた。

「あのう…生後1カ月で、標高1300メートルのところに連れて行っても大丈夫でしょうか?」

「大丈夫ですよ」

「でも、ポテトチップスの袋みたいに、ぱんぱんにふくれあがらないでしょうか」

「そんなことありませんよ。生後1カ月で飛行機に乗る赤ちゃんもいます」

「はあ」

「それに、標高の高いところで生まれる赤ちゃんもいらっしゃるでしょう?」

「はあ。でも耳がおかしくなったらどうすえばいいのでしょう」

「その場合は、授乳をすればなおると思いますよ」

「はあ」

あまり納得しなかったが、医者が大丈夫だというのだから仕方がない。

二つ目の心配は、自宅から標高1300メートルの高原まで160㎞くらいの距離を、生後1カ月の赤子を車に乗せて移動しても大丈夫か?ということだった。

これについては、自分が安全運転をするより他に方法はない。

授乳やおむつについても心配だったが、途中のサービスエリアには、おむつを替えたり、授乳をしたりするスペースがあったので、これについては問題がなかった。

そんなこんなで、標高1300メートルの高原に到着した。

心配していたような、赤子がぱんぱんにふくれあがる、という事態にはならなかった。

さて、三つ目の心配は、ここ最近、赤子が便秘気味であるということである。

生まれたばかりのときに比べると、どうもうんちの出が悪い。

昨日の早朝にうんちをしたっきり、その後はウンともスンとも言わない。

そしてうんちが出ないまま、5月2日、3日目の朝を迎えた。

(うーむ。この年齢からもう便秘なのか…)

そういえば子どものころ、私は便秘がちの子どもだった。3歳くらいの時、あまりにうんちの出が悪いので、母はどこで買ってきたのか、白い液体の入った、両手で抱えるくらいの大きなビンを買ってきて、それを私に飲ませたのである。とてもまずいものだったが、それでも私の便は堅かった。

(便秘なのは遺伝の問題なのか…?)

赤子のほっぺたを見ると、ぶつぶつができていて、

(便秘による吹き出ものに違いない)

と確信した。

とにかく私の願いは、「早くうんちが出てほしい」ということだけなのである。

だが、待てど暮らせどうんちが出ない。

泣き出したので、すわ、うんちか?と思っておむつを見てみると、

(なんだ、おしっこか…)

と落胆したり、大人なみに大きな音の屁を

ブーッ!

と、何度もヒるので、そのたびにおむつを開けてみると、

(なあんだ、空振りか…)

とまた落胆したりする。

赤子は何度もイキむのであるが、まったくうんちが出ないので、とても苦しそうである。

(ああ、この苦しみから早く解放させてあげたい)

と、綿棒をおしりの穴に突っ込もうとする衝動に何度もかられるのだが、私も私で、赤子のおしりの穴に綿棒を突っ込む勇気がない。

(このまま一生うんちが出ないんだろうか…。病院に行った方がいいんだろうか)

そのうち、家族が買い物に出かけてしまい、赤子と私の二人だけになってしまった。

赤子が泣き出したので、おむつを替えたりミルクをあげたりしたのだが、それでも苦しそうである。

(うーむ。便秘がかなりつらそうだな…)

もはやなすすべもなくあきらめかけた、その時、

ブリブリブリブリブリッ!

と大きな音がした。

(なんだなんだ?ダムの決壊か?)

だがこの近所にはダムがない。

再び、

ブリブリブリブリブリッ!

(これはひょっとして…)

ブリブリブリブリブリッ!

3度目の決壊である。

やった!ようやくうんちが出たようだ!

ブリブリブリブリブリッ!

4回目の決壊だ!

おそるおそるおむつを開けてみて、びっくりした。

うんちの海に、おしりが溺れている!

そう、「うんちの海に、おしりが溺れている」という表現がぴったりなほど、大量のうんちがおむつにあふれんばかりに出ているのだ!

うひょ~!

私は喜んだ。だが、喜んでばかりはいられない。

このうんちにまみれたおむつを、衣類や布団を汚すことなく、きれいに始末するのが、私の大仕事である。

うんちが衣類につかないように、慎重におしりを拭こうとしたその時、

ブリブリブリブリブリッ!

5回目の決壊だ!

しかしそれも、おむつでしっかりと受けとめ、衣類に被害はなかった。

うんちが全部出たことを確認し、おしり拭きを5枚用意した。

下拭き、荒拭き、本拭き、つや出し、総仕上げ

と、慎重におしりを拭いた。

結局、どれくらいうんちをしたんだ?ほ乳瓶1本分くらいじゃないだろうか。

ちょうどおむつを替え終わった時に、買い物を終えた家族が帰ってきた。

あの決定的瞬間に立ち会えたのは、私だけだったのだ。

それは「天気待ち」の末に最高の映像を撮り終えた、黒澤明監督のような境地である。

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