涙の訴え
小学校6年のとき、学習塾に通いはじめた。
その塾は、駅前のビルのワンフロアを使っていて、クラスの中でも通っている人がけっこういたので、僕もその学習塾に通わされることになったのである。
授業の補習というよりも、私立中学への進学などを意識していて、この町の界隈ではものすごく勢いのある新興の塾として頭角を現していた。母もその噂を聞きつけ、僕を通わせることにしたのだろう。
初めて塾に行くと、教室は熱気に溢れていた。学校のひとクラス分くらいの児童が、ひとつの教室にいた。
僕はその授業を受けて、衝撃を受けた。
問題をあてられて、誤った解答をすると、塾の先生は大声で怒鳴りつけ、その児童の頭をバンバン殴るのである。
さらに出来が悪いと、逆立ちをさせたりするのだ。
いまから思えば、体罰が横行していた塾だったのだ。
もちろん僕も、塾の先生に何度も頭を殴られた。
(なんてひどいところなんだ…)
僕は授業が終わったあと、悔しくてたまらなかった。
しかし不思議なことに、僕より前にいる人たちは、慣れているからなのか、授業が終わると、何ごともなかったかのように、みんなで談笑しながら帰るのである。
しかし僕はそれどころではない。
翌日もまた、同じことの繰り返しである。
母親に「通いなさい」といわれ、授業料を払ってもらっている手前、我慢して通わなければならないのかなあと思いながらも、やはりこれには我慢できない。
3日目、ついに僕は塾をやめる決心をした。
もう、誰がなんといおうと、やめてやるぞ!
僕はひとりで、塾長のところに向かった。
塾長は、小学6年生の僕からみれば、かなりのおじいちゃんに思えた。俳優の伊藤雄之助みたいな顔をした人だったが、年齢は、いまから思えば、日大アメフト部の内田前監督くらいの年齢だったのだろう。
僕が塾長のところに行って、この塾を辞めたいですと言うと、塾長はビックリした様子で、
「君の話だけではわからないから、明日、お母さんと一緒に来なさい」
と言われた。
僕は家に帰ってから、この塾でいかに酷い仕打ちを受けたかを母親に話した。
翌日、母親と一緒に、その塾を訪れた。
塾長室に行くと、僕の話を聞くために、塾長と、授業を担当していた先生が並んでいた。授業を担当していた先生は、日大アメフト部の井上前コーチくらいの年齢だったと思う。
僕は、授業を担当をした先生がいかに酷い仕打ちを私だけでなくみんなにしていたかを、泣きながら訴えた。
塾長はそれを聞いて驚いた様子で、横にいた先生に事実関係を確認した。先生は、大筋で事実は認めたものの、「でもいままでこういう形で訴えられたことはない。だからよかれと思ってやっていたのです」と言った。
暴力をふるう先生はこの先生だけではなく、他の先生もそうだったから、いまから思えば、体罰を加えるというのは塾長の方針だったのだろう。
塾長は、「あなたにとってはちょっと指導が厳しすぎたのかも知れないね」と言った。
僕には、「厳しい指導に耐えられない君の心の弱さに原因がある」と言われているような気がした。
たしかに、現象的にみればそうである。他の児童たちは、頭を何度も殴られても、逆立ちを強要されても、塾をやめようとは思わないのだ。
同じ仕打ちを受けていた僕だけが塾をやめたいと言い出したのだ。
しかし、本当に心が弱いのは、どっちなんだろう?
僕はすっぱり塾をやめた。「あいつ、3日であの塾をやめたんだぜ」とクラスの友達に言われても、僕は意に介さなかった。
この一件があってから、母親は僕に塾をすすめることはなかった。僕も、「絶対に塾なんか行くものか」と思った。
塾なんかに行くより、自分でやりたいように勉強する方がはるかに面白かった。
逃げるという選択肢は、決して弱いことを意味しない。
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