踊る阿呆と踊らない阿呆
子どもの頃、町内の神社で秋祭りがあった。
お囃子の山車が町を練り歩き、御神輿を担いで町内をまわる、というお祭りである。
お囃子は、お祭りとなると血が騒ぎ出す人たちにとっては花形スターのようなもので、秋祭りが近づくと、毎晩、公民館みたいなところでお囃子の練習の音が聞こえた。
小学校の頃、僕の同級生や、その前後の学年の人も、そのお囃子に参加していたのだが、不思議なことに、そのほとんどが、のちに「ヤンキー」と呼ばれる人たちだった。
いや、当時まだ、ヤンキーって言葉はなかったから、当時の言葉でいえば「不良」とか「ツッパリ」である。
当時小学生だった僕は、秋祭りにあんまりなじめず、何度か山車を引いたり御神輿を担ぐていどの関わりしか持たなかった。
小学校を卒業し、僕は「荒れた中学」に入学した。
不良と呼ばれる生徒たちが多くいる中学校で、僕は生徒会長をやらされた。
個人的には、不良グループと仲が悪かったわけではなかったのだが、「立場上」、僕は不良グループに敵対視される存在となった。
不良グループたちは、ことあるごとに中学校の「決めごと」に対して反抗し、時にはボイコットしたりした。
そのあたりのことは、以前、「ツッパリが死語ではなかった時代」という記事に書いたことがある。
さて、その不良グループたちは、町内の秋祭りの時期が近づくとお囃子の練習に余念がなく、秋祭りでは、一糸乱れぬお囃子を披露していた。
ふだん、学校に対してはあんなに反抗している連中が、秋祭りとなると大人の言うことに従順になることが、僕は不思議でならなかった。不思議というか、可笑しくてたまらなかったのである。
僕はそれ以降、「地域のお祭りはヤンキーに支えられている」という漠然とした仮説を抱くようになった。
ヤンキーになれなかった僕は、お祭りと聞いても血が騒ぐことのない、たぶん落ちこぼれの住民だった。
「この世の人間は、2つに分けられる。スウィングする者とスウィングしない者だ」
これは、映画「スウィングガールズ」における名言だが、この言葉はこの社会の本質を突いているように思う。
「この世の人間は、2つに分けられる。踊る阿呆と踊らない阿呆だ」
毎年この時期に行われる、独特の踊りで有名な、この国を代表する夏祭りでは、そのクライマックスに総踊りというイベントがあるそうだ。
この国を代表する夏祭りであるにもかかわらず、このお祭りは赤字続きだそうで、このお祭りが行われる市の市長は、赤字を減らすことを理由に総踊りの中止を決めた。
ところが、踊りと聞くと血が騒ぐ人たちは、市長の決定に猛反発して、なんと総踊りを決行してしまったのである。
「祭りのことは市長が口出しをするな!俺たちがとりしきる!」
世論は、圧倒的に、総踊りを決行した人たちを支持した。
たしかに映像を見ると、一糸乱れぬ総踊りは、とても美しく、これを中止にしてしまうのは、もったいないとも思う。
しかし一方で僕は、あそこで誇らしげに踊っている人びとと、僕の中学時代の不良グループとが、ダブってみえたのである。
中学校の「決めごと」に、ことあるごとに反発してきた、あの不良グループと、である。
あの県では、踊る阿呆こそが正しく、踊らない阿呆の存在が許されない雰囲気なのだろうか?
踊らない阿呆からしたら、ちょっと生きにくい社会だなあと思う。
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