ことばの森
高校生の時、ちょっとした短い文章が雑誌に載ったことがあって、それから少し経ったある日、ある「おじいちゃん」から、電話をもらった。
「かめいたかし」と名乗るそのおじいちゃんは、雑誌に載った僕の短い文章を読んだらしく、どこで聞いたのか僕の家の電話を調べてかけてきたのである。
君の書いた文章はすばらしい、君の文章を読んで、そのことを言いたくて電話をかけた、これからもこの調子でがんばりなさい、といった趣旨の電話だった。
自分は言語学を専攻していた人間だが、いまはすっかりおじいちゃんになって隠居の身だ、とその老人は言っていたが、ある人にこの話をすると、それは有名な言語学者の先生だと教えてくれた。
「かめいたかし」といえば、日本を代表する言語学者で、言ってみればレジェンドともいうべき学者である。頭脳が明晰で、論文が難解なことでも有名だという。
その後、その先生の著作集が出ていることを知り、図書館で探して読んでみたのだが、たしかに難解であった。もちろん、クソガキの僕からしたら難解なのはあたりまえのことなのだけれど、それにしても、難しい文章だとそのとき思ったものである。
そして僕は大学院に進み、言語学ではなかったが、別の学問を志した。
ある日、書店に行くと、かめいたかし先生の『ことばの森』というエッセイ集が出ているのを見つけた。僕は何年かぶりに、この先生のことを思い出し、その本を手にとった。
その本は、かめい先生が亡くなったあとに編まれたエッセイ集だった。僕は、かめい先生が亡くなったことをこの本を手にとって初めて知ったのであった。
当時の僕は、やはり先生のこのエッセイ集を難解だと感じた。言語学の先生は、斯くもことばに対して厳格なものかと、そのとき思ったものである。
だが、いまこの本を読み返してみると、実に味わい深い。ことばを吟味した文章とは、これほど美しいものなのかと感嘆せずにはいられない。重厚で、ずしりと心に響く。
このエッセイには、ある親友への弔辞が載っている。この文章がまた、すばらしい。
「ことばのことを職とする者として、ことばというものゝ虚しさに日ごろからとらわれつゞけている、このペシミストの私がいまこゝに弔辞を述べようとすることはそれ自体において矛盾であるけれども、積年の友情にかんがみるならば、またあえていなむべきではないことを思い、まず謹んで故人に宥恕を乞いたい」
ではじまり、
「あゝなぜかくも忽焉として君は逝ってしまったのだ。残された者のこの憾みは我々一同にとって生きるかぎり消えぬ。安らかにお休みなさいと別れのことばを述べるのが礼儀に協ってはいることだろうけれども、たとえ逝ってしまっても君は我々のこゝろに生きているんだ。どうか十万億土の向こうからいつまでも私達を見守ってください。これが涙を抑えてのおねがいです」
で終わるこの弔辞には、親友に対するひとかたならぬ友情が語られているのだが、僕がとくに感銘を受けたのはこの弔辞の冒頭部分である。
言語学の道を究めた先生が、「ことばというものの虚しさに日ごろからとらわれ続けている」と述べていることは、僕にある種の勇気を与えるものであった。
言語学と道連れだった先生は、けっしてことばの力を過信していたわけではなかった。先生もまた、苦悩し、絶望しながら、言語学を続けていたのではないだろうか。
ちょうどいまの僕と同じように、である。
今さらながら、そんなことに気づいたのである。
「僕はもうおじいちゃんだから、引退したようなものだけど、君はこれからの人だ」
高校生のときに受話器越しに聞いた先生の声を、いまもときおり思い出しながら、
(あのとき僕は、かめいたかし先生に褒めてもらったのだ)
と、そのことだけをひそかな誇りに、心が折れそうになる自分を励ましているのである。
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