ポスターの思い出
鉄道の駅に貼られた自殺防止のポスターが、かえって自殺願望の人たちに疎外感を与えるものになっているのではないか、とインターネット上で話題になっている。制服を着た女学生たちが、まるで悩みなどひとつもないかのように、満面の笑みを浮かべてこちらを見つめて、「ひとりじゃないよ」と問いかけている。悩み苦しんでいる人にとっては、かえって同調圧力を強要するような残酷なポスターなのではないかと批判が高まっているのである。僕もそのポスターを見て、そう思う。
ポスターで思い出した。
10年以上前、僕がまだ「前の職場」にいた時のことである。
やや前置きが長くなるが、その頃、中央官庁の次官を務めた官僚が、うちの職場の社長になるという話がふってわいた。
職場の自治を守るために、何としてもそれだけは食い止めなければならん、と、組合に所属していた僕は、組合の支部長のKさんらと一緒に、天下り社長就任の反対運動を繰り広げた。
しかし結局、その次官がうちの職場の社長に就任したのである。
それからほどなくして、組合の支部長だったKさんが僕の仕事部屋にたずねてきた。
「ちょっと相談が…」
「何でしょう?」
「実は、社長から、副社長にならないかと打診を受けてね…」
僕は驚いた。天下り社長は、反対派の急先鋒であったKさんを、副社長にするというのである。
「あなたと一緒に反対運動をしてきたのに、いきなり僕が副社長になったら、あなたに申し訳ないと思ってね。あなたにだけは事前に申し上げておきたかった」
「はあ」
僕は、突然のことで、どう反応していいかわからない。
「外から反対するのではなく、中に入って意見を言うことも大事だと思いますよ」
と僕は答えた。
「ありがとう。そこでひとつ相談なのだが」
「何でしょう」
「あなたに、副社長付スタッフをしてもらいたい」
「僕がですか?」
「私は何としても、自分の任期中に、キャンパス・ハラスメントの防止をするための規則を作りたい。そのために、あなたの力を貸してほしい」
「…わかりました」
ということで、どういうわけか僕も巻き込まれてしまったのである。
僕は、キャンパス・ハラスメント対策のために、いろいろなことを提案した。講演会、ワークショップ、全学アンケートの実施などである。そのたびに、Kさんは僕の提案を全面的に聞き入れてくれ、実現させてくれた。
その中のひとつが、「キャンパス・ハラスメント防止の啓発ポスター」の制作である。
ポスターのデザインじたいは、美術専攻の学生に画いてもらうことになり、そのコンセプトを僕が考えることになった。
僕は、他の機関の同様のポスターを研究して、ある結論にたどり着き、次のようなコンセプトを学生に伝えた。
「まず、『ハラスメントは絶対にダメ!許さない!』みたいな、断罪するようなポスターはやめてください。ポスターを見た人が、他人事だと思ってしまいますので。みんなが当事者であることがわかるようなデザインにしてください」
「できるだけかわいいポスターにしてください。人目をひくような。立ち止まって見ても、不審に思われないものにしてください。ハラスメントで悩んでいる人は、ポスターをじっくり見ていることを、他人に見られるだけでも、イヤな思いをするものなのです」
こうして完成したポスターが、以下のものである。
ポスターのキャッチコピーは、他の機関の同様のポスターのよい部分をまねて、僕が作成した。
学生は僕の意図をくんでくれて、とてもかわいいポスターに仕上げてくれた。これは、いまでも僕の自信作であり、僕が「前の職場」に残した、唯一の誇るべき仕事であると思っている。
その後、副社長だったKさんは任期を終えて職場を退職され、僕も同じ年に職場を移った。それから数年経って、「前の職場」では、セクハラやパワハラの事件が相次ぎ、いまや世間からは非難の目が注がれている。
Kさんと僕とで取り組んできたことは、いとも簡単に、水泡に帰した。
僕はどんな眼差しで、そのことを眺めればよいのだろう。
〔付記〕
このポスター、作られて10年以上たった今も、「前の職場」の中で貼られているところがあるという。はがさないでいてくれる人がいるわけで、このポスターが貼られて続けていることに、希望を見出すべきだろう。
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