« 2019年1月 | トップページ | 2019年3月 »

2019年2月

反・地元志向

親戚の子どもが、僕の母校である高校を受験することを考えたのだが、結局、受験するのをやめたのだという。

理由を聞くと、

「あの高校、3年間、クラス替えがないそうじゃないですか。それがイヤで、受験するのをやめたんです」

という。僕の母校は、3年間クラス替えをしないというヘンな「伝統」があった。

なるほど、と思った。3年間クラス替えがないというのは、考えようによっては地獄である。もし、そのクラスになじめなかったら、3年間の高校生活は暗黒世界ということになってしまう。

僕も含めて、僕の周りの同級生や後輩たちは、3年間クラス替えがないことをあたりまえのこととして受けとめてきたので、「3年間クラス替えがないからその高校に行きたくない」という気持ちが、たぶん理解できないだろうと思う。

まあ僕の母校の出身者の多くは、「3年間クラス替えがなくてもそつなくやっていける」人が多かった。

ただ、実際には、「3年間同じクラスでイヤだった」という同級生も、いたのだろうと思う。でもそういう人たちは、結局、クラス会にも出ないので、そういう声がオモテに出ることはないのだろう。

かくいう僕も、3年間クラス替えがないことにいままで何の疑問もなく過ごしてきたが、その親戚のこの発言を聞いて、「なるほど」と思ったのである。

僕は、自分の母校が好きか、と問われると、実はあまり好きではない。在校中は何とも思わなかったが、卒業して何年も経ってから、自分の母校が好きになれなくなったのである。

高校は、「自由な校風」だった。制服もなく、私服で通学していた。

でも、本当に自由だったのだろうか、と振り返って思うことがある。とくに映画「桐島、部活やめるってよ」を見て以降、自分の高校生活を振り返ってみるに、同調圧力の嵐だったのではなかったかと、思わずにはいられないのである。

卒業した多くの友人たちが、意外と保守的な思考を持っていることも感じるようになった。

先日、古い友人と話したときに、

「どうしてうちの母校の人間の多くは、地元志向なのか」

という話題になった。就職も地元だったり、結婚後も、男女問わず、地元に住み続ける人が多い。

僕は、同窓生たちのそういう保守的な気質がイヤで、できるだけ地元から離れたところに住もう、と思い、就職先も、地元から遠いところを厭わずに選んできたのだが、いまは諸事情により、地元に回帰してしまった。

「まったく悔しいよ。まさか自分が地元に戻るとはねえ」

「ほんと、そうですよ」

「それにくらべると、君はうらやましい。仕事の都合とはいえ、ずっと地元から離れたところに住んでいる」

「でも、ずっと賃貸暮らしですからねえ。心のどこかで、地元に戻ることを考えているのかも知れません」

「やっぱり、無意識のうちに地元を志向しているのかねえ」

僕が信頼を置いている友人の多くは、地元を離れて住んでいる人である。偶然かも知れないのだが、僕自身が、そういう人に憧れているのかも知れない。

| | コメント (1)

悪意があるのは誰だ?

忙しいので、どーでもいい話を一つ。

かなり前のことだが、Aさんという人が、僕にこんなことを言った。。

「鬼瓦さんがEさんの悪口を言ってるってことを、Tさんが言いふらしてましたよ」

えええぇぇぇぇっ!!!???

僕は驚いた。

僕には、Eさんの悪口を言った記憶など、まったくないのだ。

そもそも、僕はEさんとそれほど接点があったわけではない。

だから、悪口を言う理由もないのだ。

誰かと話している中で、Eさんについて話題に出したこともない。

これが、もっとほかの、僕が本当に嫌っている人の名前が出ていたら、さもありなん、と僕も反省するところだが、なにしろEさんに対しては、僕が悪口を言う必然性が一切ないのである。

(なぜ、そんなことになっているのだろう?)

僕は不思議で仕方なかった。

もう一つ疑問なのは、それが「Tさん」が言いふらしている、というのである。

Tさんは、僕がちょっと苦手に思っている人で、そんな人に、僕が心を開いて第三者の悪口を言うことなんぞ、ありえないのである。

つまり僕がこの話を聞いて信じられないのは、

・僕がEさんの悪口を言うはずがない。

ということと、

・万が一悪口を言っていたとしても、それをTさんに話すはずはない。

ということで、つまり二重の意味でこれはあり得ない話なのである。

さらに不思議なのは、これをAさんが僕に言ってきたという事実である。

Aさんは、EさんともTさんとも親しい。可能性としては、EさんがAさんに、「鬼瓦さんが僕の悪口を言ってるようだね。Tさんから聞いた」と言ったか、AさんがTさんから直接、「鬼瓦さんがEさんの悪口を言ってる」と聞いたかの、どちらかである。

Eさんは、誠実でいい人なので、EさんがAさんにわざわざそんなことを言うはずはないだろう。

とすれば、Aさんに言ったのは、Tさんなのか???

僕は、第三の可能性を考えた。

それは、「鬼瓦さんがEさんの悪口を言っている、とTさんが言いふらしている」ということ自体が、Aさんの作り話である、という可能性である。

こうなると、話は変わってくる。

Eさんと親しいAさんは、Eさんに対しても、「鬼瓦さんがEさんの悪口を言っていると、Tさんが言ってました」と言っている可能性がある。

何のために?

何のためかはわからないが、何らかの意図を以て、そんな作り話をした可能性も、十分考えられるのである。

ここで思い出すのは、「間接的に聞いた、という話法のほうが、心にずしんとくる」という法則である。

たとえば何かについて褒めるにしても、直接褒めるのではなく、「誰々さんが君のこと褒めていたよ」と言ったほうが、より効果的である、といった法則である。

あるいは逆に、直接くさすのではなく、「誰々さんが君の悪口を言っていたよ」と言った方が、ショックが大きかったりする。

それと同じで、間にTさんを挟むことで、「悪口を言っている」という作り話に真実みを持たせようとしたのではないだろうか。

はたして、悪意があるのは、Tさんだったのか?それとも、Aさんだったのか?

今となっては、AさんともTさんとも疎遠になったので、こんな話はどーでもよいことなのだが、こんなどーでもいい話を思い出したのは、最近、Eさんにお会いする機会があったからである。

この根も葉もない話をAさんから聞いたのが、いまから20年近く前である。20年近く経ったいまも、あのときの「根も葉もない噂話」のことが思い出されて、「Eさんには、僕がEさんの悪口を言っているという根も葉もないうわさが耳に入っているのではないだろうか」と、いまでも疑心暗鬼に震えるのである。

もちろん、Eさんとお会いするときは、普通にご挨拶して、普通にお話しをしているので、あんな根も葉もない噂に怯える必要など何もないと信じたい。

まったく、人の世というのは、恐ろしいものである。

| | コメント (2)

マニアonマニア、西へ

2月23日(土)

毎週末、新幹線に乗っては、会合に参加している。年度末だから仕方がない。

この町を訪れるのは、これで3回目である。昨年も同じ時期に、この地で会合を行った。

その会合というのは、「マニアonマニア」の会合なのだが、「マニアonマニア」にとって、この地は聖地なのである。

それだけに、この地で会合を開くのは、身が引き締まる思いである。

あいかわらず、事務担当の僕は「でくのバー」で、何の役にも立っていないのだが、ほかのメンバーの方々の献身的なお力添えのおかげで、無事にまる一日の会合を終えることができた。

ますます深みにはまる様相を呈している「マニアonマニア」の会合。はたして落としどころはあるのか?

| | コメント (0)

4時間半、休みなし

2月22日(金)

またまた旅の空です!

明日土曜日に、まる一日会合があるため、新幹線で西に向かい、前泊した。会合の主催者なので、休むわけに行かない。

今日の午前中は、自分の生まれ育った町で仕事だった。

3年前くらいだったか、自分の生まれ育った町が、数年かけてシリーズ本を刊行するというプロジェクトを立ち上げ、僕もその末端に加わることになった。

僕は29歳になるまで実家に住んでいたし、何かとこの町にはお世話になっていたので、ご恩返しのつもりでそのお仕事を引き受けることにした。

僕が担当する本は、執筆者が全部で5人いて、いずれも僕がふだん恐縮するような先輩たちだった。僕はいちばん年下である。

執筆者のほかに、編集を担当する職員の方が1人いる。基本的に、この6人で、1冊の本を作ることになったのである。

僕以外の方々は、その分野でバリバリ活躍されている方ばかりで、水準の高い本をめざすことを提案した。

僕は、どちらかといえば、市民にわかりやすい本がいいのではないかと思ったが、第一線で活躍されている先輩方を前に、意見を通すことはなかなか難しかった。

何より、できるだけ執筆をする我々の負担が重くならないようにと思っていたのだが、そうはいかなくなってしまったのである。

もう一つ、懸念があった。刊行までのスケジュールが、きつすぎるのである。

これまでの経験だと、原稿が完成してから印刷所へ入稿するまでに1年、校正に1年くらいかけないと、いいものができないのだが、刊行までのスケジュールは、それを大幅に短縮するものであった。

その懸念は、何度か会議の場でも言ったのだが、なかなか理解されなかった。

原稿の締切が2017年9月末に決まり、刊行が2019年3月末と決定された。

ところが、僕は2017年7月に大きな手術をして、その後、ちょっとした闘病生活を送るようになった。

よっぽど、体がつらいのでこの仕事を降りようと思ったのだが、原稿締切の間際になって降りるのは礼に反するかと思い、執筆することにした。

あの、体調が最悪の中で、どのようにして原稿を完成させたのか、今となっては記憶もないのだが、とにもかくにも、締切から1カ月くらい遅れて、原稿を提出した。原稿の分量は、400字の原稿用紙にして200枚近くになった。

さて、ここからが大変である。なにしろ、5人から寄せられた膨大な原稿について、表記の統一だの、校正だのが待っているからである。

世の中で何がいちばん嫌いかというと、校正である。この世に校正さえなければ、心穏やかに暮らすことができるのに、と何度思ったことだろう。

僕は、あの膨大な原稿を自分だけで校正することはとても無理だと思ったので、専門的知識のある大学院生に、あるていどの校正、つまり下読みのようなものをお願いしてはどうかと提案し、その提案が受け入れられた。

大学院生による原稿の下読みは、2018年の年頭から4月くらいまで続いた。

大学院生は、専門的な知識はあるものの、校正の技術がまったくなく、修正部分の赤字が何を意味するのか、意味不明なところもあった。それに、けっこう抜けているところも多かった。結局、自分で全部見直さなければいけなくなり、結果的には二度手間になった。

こうして、提出した原稿の下読みをして、表記の統一やら文字の修正などを行って、ようやく入稿の運びとなるわけだが、この入稿が、なかなか行われなかった。結局、2018年の10月を過ぎた頃に、入稿されたようであった。

この時点で、かなり不安である。刊行まであと半年しかないのだ。

言っても、2019円3月末刊行なんて、お題目だけで、実際は少し遅れてもいいんでしょ?と思っていたら、

「刊行は2019年3月末厳守です」

という。

ええええぇぇぇっ!!そんなの無理だよ!

初校が出たのが年末。

「年明けの1月15日までに初校を戻してください」

との指示。

そんなの、無理に決まってんじゃん!

と思ったが、正月返上して、初校に赤を入れて返した。

編集担当の職員さんのほうでそれをとりまとめて、印刷所に戻したのが、たぶん2月に入ってからだろう。

そもそも、この500頁にもなる本の編集を、職員さん1人で行うこと自体に、無理があるのだ。

僕は、「編集経験のあるプロの人を雇って、校正にあたってもらうべきだ」と意見したのだが、たぶん予算の関係で見送られた。

数年かけての大きなプロジェクトなのに、なぜこんな脆弱な体制なのだろうと、少し哀しくなった。

2月22日時点で、まだ再校は出ていない。

それどころか、先送りにしていた部分の初校が、数日前にようやく出てきた。

送られてきた初校を見ると、直さなければいけないところが山ほどある。

僕は眠い目をこすりながら、100枚近いその初校に目を通した。

で、今日の午前、その初校を持って、編集室に行き、編集担当の職員さんと4時間半、飲まず食わずで初校の読み合わせをした、と、こういうわけである。

こんな形で読み合わせをするのは、先月の27日に続き、2度目である。編集担当の職員さんにしても、1人で悶々と校正作業をするよりも、相談相手がいた方が、気分的にもかなり楽なはずである。それで僕は、「校正の読み合わせ」を提案したのであった。

ほかの執筆者の方は、体調を崩されたり、多忙を極める地位にいたりしていて、あまりご協力いただけそうにない。

編集担当の職員さんも、連日の編集作業で、体調を壊されたようである。

冷静に考えて、2月22日の時点で再校が出ていない500頁の本が、3月末に刊行するとはとうてい思えないのだが、それに加えてこの脆弱な体制である。はたして3月末に刊行できるのか?

もちろんそのために、やれるだけのことをするしかない。一方で、この仕事ばかりにとりかかっているわけにもいかない。本務のほうでも、3月に向けてこれからが修羅場なのである。

考えてみれば、僕の仕事の大半は、こんな感じである。

せめて心覚えのために、この仕事について書きとめておく。

| | コメント (1)

備忘録

忙しくて落ち着いて書く時間がないので、中島敦「弟子」の一節より。

「大きな疑問が一つある。子供の時からの疑問なのだが、成人になっても老人になりかかってもいまだに納得できないことに変りはない。それは、誰もが一向に怪しもうとしない事柄だ。邪が栄えて正が虐げられるという・ありきたりの事実についてである。

この事実にぶつかるごとに、子路は心からの悲憤を発しないではいられない。なぜだ? なぜそうなのだ? 悪は一時栄えても結局はその酬を受けると人は云う。なるほどそういう例もあるかも知れぬ。しかし、それも人間というものが結局は破滅に終るという一般的な場合の一例なのではないか。善人が究極の勝利を得たなどという例は、遠い昔は知らず、今の世ではほとんど聞いたことさえ無い。なぜだ?大きな子供・子路にとって、こればかりは幾ら憤慨しても憤慨し足りないのだ。彼は地団駄を踏む思いで、天とは何だと考える。天は何を見ているのだ。そのような運命を作り上げるのが天なら、自分は天に反抗しないではいられない。天は人間と獣との間に区別を設けないと同じく、善と悪との間にも差別を立てないのか。正とか邪とかは畢竟人間の間だけの仮の取決に過ぎないのか?」 

| | コメント (0)

持ち寄り品、早くも決定か?

2月20日(水)

うーむ。やることが多い。

のだが、今日は焼豚を作ってみた。

正月に、福引きで小さな「ダッチオーブン」という調理器具が当たった。

見た目は、鉄鍋のようなものである。

キャンプで使うことが多いらしいが、キャンプをしたことがないので、家の中で使うしかない。

で、試しに焼豚を作ってみたのである。

レシピは、インターネットサイトに載っていたものを利用した。

材料 (4人前)
豚肩ロース肉(500gくらい)1本
長ねぎ1本
にんにくひとかけ
しょうがひとかけ
サラダ油大さじ1
はちみつ大さじ2
サラダ油適宜
ゆで卵4こ
〔調味料〕
しょうゆ1/2カップ
紹興酒(または酒)1/2カップ
砂糖1/4カップ
みそ大さじ1/2
水1/2カップ
八角(好みで)1こ
赤唐辛子1本

(1)豚肉はタコ糸を巻いて形を整える(タコ糸やネットを巻いて売っていることもある)。長ねぎの白い部分は長さを半分に切る。にんにくとショウガは包丁の腹でつぶす。

(2)鍋を熱してサラダ油をなじませ、1の野菜を炒めて香りをだし、肉を入れて転がしながら全体に焼き色をつける。

(3)2に調味料を加え、煮立ったら蓋をして、蓋と本体との間から蒸気が出るくらいの弱火で1時間くらい煮込む。30分したら肉を上下ひっくり返す。

(4)蓋を取り、ゆで卵とはちみつを加えて中火で煮汁を煮つめる。時々肉の上下を返したり、肉やゆで卵に煮汁をかけたりする。煮汁が半分になったら出来上がり。

1時間半ほどかけて作って、それなりに美味しく完成した。

思いついた!

これを前日に家で作って、3月末のパーティー当日に持っていけばいんじゃね?

「家で作ってきたんです」

みたいなことを言えば、パーティー慣れしたナイスミドルっぽく見えないだろうか?

どうだろう?

ただ、1回に作れる分量が、500グラム。つまり4人前だ。

仮に30人集まるとすると、使う豚肉の料は3,5㎏~4㎏になり、7回か8回くらいに分けて調理しなければならない。

1回あたり1時間半かかるとすると、10時間半から12時間かかる寸法になる。

うーむ。効率が悪いなあ。そもそもパーティーの前日は、仕事があって12時間も調理に時間が割けない。

どうしたものか。

| | コメント (3)

教えて!パーティーの神様

2月19日(火)

まったくもって忙しい。それに加えて、折れた肋骨がまだかなり痛い。

昨年、自分が少しだけお手伝いした本が、めでたく「重版出来!」となった。

(念のため言っておくと、同じ頃に出た僕の単著はまったく売れていない。)

編者と編集担当者のお二人が、3月末に重版出来記念のパーティーをすることを企画したとのことで、電子案内状のようなものが僕のところにも来た。

僕は、パーティーが大の苦手なのだが、「どうしても出てほしい」と言われて、日程調整までされてしまったものだから、出ないわけにいかない。

主な出席者は、僕よりも10歳~20歳くらい若い人たちである。

案内状に書いてあるパーティー会場を見て驚いた。

てっきり、どこかの居酒屋でやるのかなとか、立食パーティーなのかな、と思っていたら、全然そうではなかった。

都内のとてもオサレな町にある、「クラシックなカウンタバー、キッチン付き」という場所というではないか!

そんな場所、行ったこともないぞ!

Image電子案内状に写真がついていたので見てみると、30人くらいが入れる部屋で、カウンターが「コの字型」に配置されている。たとえて言うならば、牛丼の吉野家とか、松屋のような作りである。

…たとえがどうも安っぽいね。

いわゆる貸しスペースなので、料理が出てくるわけではなく、食べ物や飲み物は自分たちで調達しなければならないようである。

電子招待状には、こんなことが書かれていた。

「増刷を祝して、ささやかな会を開催いたしたく、ご案内申し上げます。

すきなものを作って、食べて、飲んで…。

創作料理から、プロ並みの腕をもつ編集者による逸品料理まで。

みなさまとたのしいひと時を過ごすことができればと思います。

おひとり様一品、お好きな食べもの、スイーツなどご持参の上、ご参加いただけましたらありがたく存じます。

ご多用と存じますが、ふるってご参加いただけますよう何卒よろしくお願い申し上げます。

<タイムスケジュール>

12:00集合 (解散目安時刻:21時)

※会場は1日レンタルで翌朝6時まで借りられます

<注意事項>

:飲み物はこちらで用意しますのでご持参いただく必要はありませんが、実費等分とさせてください

:食べ物は、ご無理のない範囲でご用意ください。持ち寄り制とさせていただきます。

:会場は貸しスペースダイニングですので、当日腕をふるっていただくことも可能です。会場のキッチンをご使用される方は、ご連絡ください。10時から開場しております」

…これを読んで、どうしていいかわからなくなってしまった。

要するに、オサレなスペースで「宅飲み」をする、というのである。

「宅飲み」こそが、僕が最も苦手とするスタイルである。

プロ並みの腕をもつ編集者の方が料理の腕を振るってくれるのはありがたい。それはよいとして…。

しかし、プロのシェフではないのだから、たとえば30人参加したとして、30人のお腹を満たすくらいの料理を作ることができるかといったら、たぶん無理だろう。

美味しいものを、少しずつ味わって食べる、という形式になるのだろう。

問題は、「持ち寄り制」だということだ。

「おひとり様一品、お好きな食べもの、スイーツなどご持参の上」とあるが、こういうときって、どんなものをもっていったら恥ずかしくないの?

あと、「一品」って、どういうことを意味しているの?自分が食べる分だけ準備するって意味?それとも、全員にひと品ずつまわるように準備するって意味?

経験がないので、何をどれくらい持っていっていいのか、見当もつかないのだ。

マジで、どうしていいかわからない!このことを考えるだけで、どんよりと疲れてしまう。

教えて!パーティーの神様!どうしたらいいの?

あと気になるのは、昼の12時に集合して、夜9時が解散予定時刻だということだ。

9時間!

1時間半くらいのパーティーだって、居たたまれなくなるのに、座持ちの悪い僕が、とても9時間という長さに持ちこたえることなどできない!

それに大半が1,2回くらいしか会ったことのない人たちなのだ。最初の10分くらいはなんとかお話しできるとして、あとの8時間50分は何をして過ごせばいいのだろう?

ひたすら食べまくる、というのも一つの手だが、持ち寄り制だと、たちどころに食べ物がなくなってしまうのではないだろうか?

オサレな町なので、コンビニに買い足しに行くというわけにもいくまい。

さらに恐いことに、この案内状のいちばん最後には、「会場は1日レンタルで翌朝6時まで借りられます」と書いてある。夜を徹してパーティーをしても大丈夫だということだ!

こうなるともう、ショック死のレベルである!

いったい僕は、持ち寄り制のパーティーで、何をどのくらい持っていき、どんなふうにふるまえば、「パーティー慣れした、気の利くナイスミドル」と思われるのだろう?

教えて!パーティーの神様!

| | コメント (5)

集中講義・大団円

2月18日(月)

先週の水曜日からはじまった集中講義は、今日が最終日である。

最終日の今日は、5班に分かれたチームが、それぞれプレゼンを行い、それについて議論をする。司会も、学生に任せる。

最初はどうなることかと思ったが、5班ともとても面白いプレゼンで、議論は思いのほか白熱した。

プレゼンは、初日に1度、簡単なものをおこなってもらい、最終日に総仕上げのようなプレゼンをしてもらうという段取りで、つまり2回のプレゼンをしてもらったわけだが、この方法がなかなか功を奏したようである。

最初のプレゼンで、自分の中の考えを覚醒させ、それを最後の回のプレゼンで形にしてみる、ということで、一種の達成感を得られたのではないか、とも思う。

集中講義の主担当だった2人の教員も、

「こういうやり方は初めてだったが、とてもおもしろかった」

と、とても満足しておられた。

どの班もおもしろかったのだが、僕がとくにおもしろいと思ったのが、3班の学生である。

初日のプレゼンで、

(なかなかいいところに目を付けるなあ)

と、そのセンスに感心してしまったのだが、最終日のプレゼンでは、僕の予想をはるかに超えるプレゼンをしてきた。

センスのよさという点では、ちょっと他の追随を許さないような感じがした。

もちろんこれは、僕の好みにすぎないのだが。

議論の際の受け答えも、実にしっかりしていて、

(俺が企業の人事担当だったら、絶対この学生を採用したい)

と思わせるものだった。

「前の職場」でもしばしば経験したことだが、基本的にみんな、まじめに取り組んで、一定の水準に達している中で、飛び抜けてセンスのいい学生、というのが、たまにあらわれる。

そういう学生に出会うと、この授業をやってよかった、という気持ちになる。

こういうことがたまにあるから、教員稼業というのはやめられないのだ、ということを、久しぶりに思い出した1日だった。

| | コメント (0)

不思議なホテル

2月17日(日)

この週末に泊まったホテル、というのが、今まであまりお目にかかったことのない感じのホテルだった。

そもそも、小さい町で、200人規模の大きなイベントをするのに、宿の確保とかはどうするのだろう?と思っていた。

そんなに大人数が泊まれるホテルが、あるのだろうか?

…ま、考えてみれば失礼な話なのだが、来る前は、そんなふうに感じていたのである。

そして、この町に訪れたのが、土曜日のお昼。

予想していたとおり、小さな町だった。

「同業者祭り」は午後1時半からなので、ここはひとつ腹ごしらえと思っていたが、駅の周辺に食堂がまったくない。

結局、昼食抜きで「同業者祭り」にのぞんだ。

1日目の行事が終わり、いよいよ予約していたホテルに向かう。会場には、送迎バスが待っていた。

「同業者祭り」に参加するほとんどの人が、同じホテルに泊まることになっていたようである。

(とても大人数が泊まれるホテルがあるとは思えないのだが…)

会場からの送迎バスが、ショッピングモールの駐車場に着いた。

漠然と想像していたイメージと違っていた。

ホテル、というと、どうしても高いビルを連想してしまうのだが、このホテルはそうではない。

2階建てなのだ。

2階建てにもかかわらず、客室が400あるというのだ。

だからたかだか200人くらいのイベントならば、余裕で宿泊できるのである。

ショッピングモールの駐車場の一角に、(こういうたとえがよいのかどうかわからないが)まるで仮設住宅のごとく、2階建てのホテルが建てられているのである。

で、部屋はどうかというと、普通のビジネスホテルの部屋である。できて間もないということもあり、とくに不便に感じるところはない。

(なかなかめずらしい感じのホテルだな…)

調べてみると、このホテルは8年前の震災後に建てられたホテルチェーンらしく、震災復興の工事などで長期滞在する人たちのためにもともとは作られたらしい。

支店がいくつかあるようだが、いずれも8年前の震災で大きな被害を受けた町ばかりである。

ホームページに載っている各支店の写真を見ても、やはりどのホテルも2階建てで、部屋数も多い。

なるほど、高いビルのホテルを建てようとすると、コストも時間もかかるので、広い土地に2階建てのホテルを作ることで、コストと時間をかけないようにしたのではないだろうか。

第一印象が、仮設住宅のようだ、と感じたのは、あながち間違いではなかったのである。

逆に言えば、この町の復興のために、多くの工事関係者が泊まれるホテルの建設が急ピッチで進められたのではないかと想像される。

そしていまは、かつてほど、工事関係者の人は泊まらなくなり、代わりに、僕たちのような、外から来てこの町のイベントに参加する人間が泊まるようになった。

震災から8年経って、大きなイベントを開催して外から多くの人を呼ぶことができるようになったのは、復興の証のひとつなのだろうと、感慨深く思った。

| | コメント (0)

27時間テレビとか、オールスター感謝祭とか

2月16日(土)

またまた旅の空です!

毎年この時期におこなわれる「業界人祭り」のため、北へ向かう。

新幹線と在来線を乗り継いで、着いた先は、初めて訪れる海辺の町だった。

昨年の「業界人祭り」の様子がこちら

僕はあまたある「業界人祭り」にあまり参加しないことにしているのだが、毎年この時期におこなわれるこの「業界人祭り」には、お世話になっている人が多いこともあり、参加することにしていた。

毎年200名くらいが参加し、初日の懇親会にも懇親会にも100名くらいが参加する。

いろいろな人に久しぶりにお会いできてうれしい反面、かなりの気力と体力を必要とする。

テレビ番組でたとえていうなら、そうねえ。「27時間テレビ」とか、「オースター感謝祭」とか。

時間のことを言えば、初日の13時頃から、2日目の16時頃まで、寝る時間以外はほぼ休みなく会合なり懇親会が続くので、さながら「27時間テレビ」である。

200人ほどの人が一堂に会し、同じ場所にずっといるという点で言えば、「オールスター感謝祭」のようでもある。

とにかく、ふだん以上に気力と体力を必要とする「業界人祭り」なのである。

そんななか、肋骨が折れているという最悪のコンディションで、今回はこの「業界人祭り」にのぞんだわけである。

久しぶりに「同い年の盟友・Uさん」にお会いした。

Uさんは、僕が肋骨を折れていることを知らなかったらしい。

ここで書いているだけじゃ、なかなか広まらないんだな…。

しかし何度でも書こう。

僕は肋骨が折れているんです!

| | コメント (1)

一応お見舞い申し上げます

鬼瓦殿

こんばんは。「高校時代の友人・元福岡のコバヤシ」です。

ブログ読みましたが、肋骨の骨折だったとのこと、弱り目に祟り目ということで、お見舞い申し上げます。

こぶぎさん以外誰も同情してくれないとお嘆きのようなので、一応同級生を代表して?メールさせて頂きます。

それにしても、痛風、結石に続き、これまた死にもしないし誰も同情してくれない、肋骨の骨折とは、本当に難儀なことですね。心から同情いたします。

完治したら、お祝いぐらいしてあげるので、またお声がけください。

ところで私はと言えば、インフルエンザにも風邪にもかかること無く、健康かどうかはともかく、まあ身体上は大過なく過ごしております。

ただ、ここ2週間ほどは、社内の大きなトラブル対応に忙殺されながら、50歳にもなって業務論文を書かされ、それを明日の副社長以下での役員報告会を前にウチの部の担当役員に昨日事前説明をしたら、いい加減に書き過ぎた内容に対し見事にダメ出しをくらい、そうは言ってももう時間切れタイムアップも余儀無しと逃げ切ったことを確信しつつあったところ、温情からか嫌がらせからか、役員権限で来週の報告会に発表を1週間延期されて生殺し状態に陥れられ(担当役員曰く「小林としては明日の報告で逃げ切りたかったんだろうな(笑)」と見事に見透かされる体たらく)、挙げ句の果てに上司の変な部長からは「お前のせいで俺も巻き込まれたんだ!どうしてくれるんだ!覚悟しておけよ!」と罵られ、ちなみに「覚悟」とは何ぞやと言えば、ネタとして会社中に言いふらしてやるという意味(この男は関西人なので、最後はネタとして面白ければそれで良し!)、もう明日から憂鬱な日々が続くと絶望的な自分がいる一方で、ネタになって面白いなら其れもまた良し、としてしまう節操の無い自分も居るという支離滅裂な状態です。

まあ、貴君も笑って憂さ晴らしとしてください。

では、また。

| | コメント (1)

肋骨骨折散髪屋

2月14日(木)

肋骨は相変わらず折れているが、今日も2時間半かけて職場に行き、書類を出したり、メールを書いたり、昨日からうちの職場ではじまった某大学の集中講義のお手伝いをしたりする。

さすがにこんな無茶な働き方をしたら、2年前と同じ悪夢を見てしまう、と思ったので、今日は早退し、明日は休みを取ることにした。

帰る道すがら、明日は休みます、と、担当の職員にメールをしたら、

「人事係からも、くれぐれもお大事にされますようにと言付かっております。日々お忙しいことと存じますが、できるだけゆったりとお過ごしください」

と返信が来た。人事係に肋骨骨折の話をした覚えがないのだが、まわりまわって伝わったのだろう。

さて、早退して向かった先は、散髪屋である。

覚えておりますかな?

どうする?散髪屋(後編)

いつも通っていた散髪屋のリーさんが人事異動で、2月をもって他の支店に移ることになったので、2月以降、散髪屋さんはどこに行こうかと悩んでいる、というお話。

結局、今日はリーさんが異動したお店に行くことにした。

まるでストーカーのようだが、いちおう帰り道にあるお店だし、試しに行って見ようと思ったのである。

初めて降りる駅だが、駅から歩いて2分くらいのところにお店があるので、便利と言えば便利である。

今まで通っていた散髪屋は、駅を降りてから、ショッピングモールの無料送迎バスに乗っていかなければいけなかったので、かなり面倒だったのである。それにくらべれば、交通の便はよい。

ただ、わざわざ降りる必要もない駅で途中下車して、見知らぬ町の散髪屋さんで散髪してもらうほどのことか?と言われれば、リーさんが別にカリスマ理容師というわけでもないので、それもまた悩ましい。

「袖すり合うも多生の縁」という程度の話なのだ。

もう少し、様子を見ることにしよう。

そういえば、散髪屋さんて、簡単なマッサージをしてくれることがあるでしょう?とくに本格的というわけでもないので、あのマッサージにどれだけの効果があるのか、いつもわからないのだが。

で、今日も、「マッサージをしますか?」と聞かれたので、

「お願いします」

と、いつものようについ答えたら、肩を思いっきり両手で

ドン!ドン!ドン!ドン!ドン!ドン!

と叩かれた。

(いけねぇ、俺、肋骨骨折してたんだ!)

と叩かれてから気づいた。

あんなに強く肩を叩かれて、肋骨は大丈夫だっただろうか。

| | コメント (1)

肋骨が折れてるんですけども

2月13日(水)

肋骨が折れてるんですけども、片道2時間半の通勤は変わらない。

今日は、同じ県内の大学の学生を対象にした集中講義が職場で行われることになっていて、初日の今日は、そのお手伝いである。

集中講義担当の教員は別にいるのだが、一応、企画者のひとりなので、休むわけにはいかない。

なんてことはない。昨年10月におこなった「課題解決型授業」を、そっくりそのまんまこの大学の集中講義でもおこなおうと提案したのである。

集中講義担当のお二人の教員は、最初は僕の提案に半信半疑だったが、学生のグループ発表を聞いているうちに、どんどんのめり込んでいき、最終的には好評のうちに1日目が終了した。

今日はその合間にも、年度末の予算執行の手続きをしたり、800字の原稿2本を書いて送信したりと、肋骨が折れていないふだんよりも仕事をした感がある。

痛い背中をさすりながら、ひとつ、わかったことがある。

それは、「肋骨の骨折は、骨折の中でも圧倒的に不利だ」ということである。

だって、見た目には肋骨を骨折したことがわかんないんだぜ。

これが、たとえば足を骨折したとしたら、ギブスをはめるとか、松葉杖を使うとか、骨折したことが見た目からも明らかにわかる。腕の場合もそうであろう。

しかし、肋骨の骨折は、こっちから自己申告しないとわからないのである。

たとえ自己申告したとしても、

「ふ~ん。そうですか」

と塩対応されて終わりである。

だいたいこのブログで、「肋骨が折れた」と書いても、こぶぎさんくらいしか心配してくれる人がいないのだ。ほかは、みんな無視である。

そのこぶぎさんも、自身がたまたま肋骨にひびが入った経験があるから、こっちの痛みも理解してくれるわけである。

包帯とかギブスがつけてないから、どれだけ痛いといっても、その痛みが理解されないのである。

電車に乗っていても、肋骨が折れているからと言って、席を譲ってくれたりはしない。

これが、足が折れていれば、見た目に明らかにわかるので、席を譲ってくれるだろう。だが肋骨が折れていることは、誰にもわからないのだ。

よっぽど、「肋骨が折れています」というステッカーでも作ってやろうかと思ったくらいである。

かように考えると、肋骨が折れることほど、損なことはないのである。折るならば、肋骨以外の骨がよい。

| | コメント (0)

原因判明

2月12日(火)

背中がまだ痛い。というか、どんどん痛くなっている。

日曜日に行った廃病院の診察が信頼できなかったので、今日は休みを取って、別の整形外科に行くことにした。

その病院の先生は、ちょっとノリのいい感じの先生で、松山千春みたいなタメ口をきいてくる。ま、悪い人ではなさそうなのだが。

「どうしたの?」

「1週間ほど前から背中が痛くなりまして…」

「レントゲン、撮ったんでしょ?」

「ええ、日曜日に別の病院で撮ったんですけど…」

「どうだった?」

「背骨が歪んでいるのが原因ではないかと言われました」

「背骨が歪んでるくらいじゃあそんなに痛くはならないぜ。ま、考えられるのは筋肉痛だな」

「筋肉痛?」

「痛くなって、どれくらい?」

「1週間ほどです」

「そんなんじゃ、まだまだどんなもんかわかんないぜ。2週間くらい様子を見なきゃね」

「そういうものですか」

「そうだよ。だって、レントゲンでは異常なかったんだろ?」

「はあ、でも、背骨しか見なかったんですよ」

「胸のレントゲンは?」

「見なかったです」

「そうなのかい?じゃあ胸のレントゲンを撮る意味はあるね。診察室を出て、右のところにレントゲン室があるから、そっちに移動して」

「はい」

言われるがままに、レントゲン室に行くと、まるで瞬間移動したかのように、同じ先生がいた。

(あんたが撮影もするんかい!)

「じゃ、ボタンのある服を脱いで」

「はい」

「ここに立って」

「はい」

パチリ!

「あ、わかったぞ!」

「どうしたんです」

「肋骨が折れてんじゃん!」

「ろ、ろ、肋骨!!??」

「すぐにわかったよ。これじゃあ痛いわけだよ」

(あんた、さっき筋肉痛じゃねえかって言ったよね!)

レントゲン写真を見ると、たしかに肋骨が折れているのがわかる。

「どうしたらいいんでしょう…固定したりとかはしないんですか?」

「ほっとくしかないね。肋骨だからね」

…ということで、またまた、痛み止めの薬を処方してもらったのであった。

原因は、肋骨の骨折だと言うことが判明した。

しかしわからないことがまだある。

なぜ、肋骨が折れたのか?という問題である。

外的な衝撃がなければ、肋骨は折れないのだが、その記憶がないのである。

思い当たるとすれば、10カ月の娘が、寝ている私のお腹の上に飛び乗ってきたことくらいか…。

どんだけ骨が弱いんだ?

肋骨骨折だとわかってからというもの、歩くと、体の中の肋骨のあたりが、

ぺこんぺこんぺこんぺこん

と音がしているのがわかる。おそらく、折れた肋骨がぷらんぷらんしているのだろう。

生まれてこのかた、骨折などしたことがないのに、何だかわからないことが原因で、肋骨が折れるというのだから、人生とは、本当にわからないものである。

それにしても、である。

日曜日に行った病院は、レントゲンを撮ったのにもかかわらず、肋骨の骨折に気づかなかったのである。

どんだけ藪医者なんだ?

ただ、結果的に痛み止めを処方されるという結論は同じなので、誤診だかなんだかよくわからない。

まあそんなことはともかく。

読者諸賢の中には、僕のことをよく知っている人もいると思うが、ご承知のように、まあありとあらゆる病気や痛みを経験している。

満身創痍といってもいい。

僕の体は、すでにいろいろなものが欠けており、、もはやポンコツである。

それでも、こうやって生きている。

何度でも立ち上がるぞ。

| | コメント (2)

唯脳論者であり、映写室派

「アンパンマン にぎって!おとして!くるコロタワー」というおもちゃがあるのをご存じですか?

Photo娘が生まれてから3カ月くらいたったころ、「前の職場」の卒業生が、娘へのプレゼントにくれたおもちゃである。彼はおもちゃ会社に勤めている。

「まだちょっと早いですけどね」

見ると、「対象年齢18カ月以上」とあった。

どんなおもちゃかというと、アンパンマンの頭の上に穴が空いていて、その穴に丸い玉を入れる。アンパンマンの体内にらせん状のすべり台があって、その玉がクルクルコロコロと、そのらせん状のすべり台を伝って下まですべり降りてくる、というものである。

しかも、丸い玉が滑り降りてくる間、アンパンマンの音楽が流れるというしくみにもなっている。

なるほど、これは難易度が高い。

まず、頭の上の穴に入れるのは、純正品の丸い玉でなければならない。穴の規格がそうなっているのである。つまり、何でもかんでも穴に入れていいわけではなく、穴に入れる純正品の玉を、見極めなければならない。

次に、頭の上にある穴の位置を正確にとらえ、そこに純正品の玉を入れるという動作が必要である。

つまり、1.丸い玉を見極める、2.丸い玉を入れる穴の位置を見極める、という二つの思考が可能になって、この遊びは成立するのである。

こういうの、知育玩具っていうの?まあそれはともかく。

最初は、当然のことながらこのおもちゃで遊ぶことなどまったくできなかったのだが、生後8カ月、9カ月くらいから、自分で丸い玉をとり、それをアンパンマンの頭の上にある穴に入れることができるようになった。

頭の上にある穴に入れると、アンパンマンの音楽が鳴るしくみになっているので、娘はその音楽が流れると喜び、何度も丸い玉を頭の上の穴に入れて遊ぶようになっていった。

Photo_2ところで、なぜ丸い玉を頭の上の穴に入れると、音楽が鳴るのか?そのしくみを見てみると、穴の下の方に小さな赤いボタンがついている。丸い玉を穴に入れると、その玉が自動的にそのボタンを押すことになる。ボタンが押されることに反応して、音楽が鳴るしくみになっているのである。

ここまでの説明、わかったかな?

もちろん、赤ちゃんなんぞは、そんなしくみなどわからず、ただ玉を穴に入れれば、音楽が鳴るものだと思って喜んでいるのである。

ところが、である。

娘が9カ月、10カ月頃になって、ある異変が起こった。

娘は、あろうことか、この「アンパンマン にぎって!おとして!くるコロタワー」というおもちゃを、分解しはじめたのである。

このおもちゃは、頭の部分や、中のすべり台の部分が、取り外せるしくみになっているのだ。そのことに気づいた娘は、このおもちゃをバラバラにしてしまったのである。

全体の形をアンパンマンの体になぞらえれば、アンパンマンの頭と胴体を分離し、さらに内臓も取り出した、ということになる。

そしてついに、娘は発見した!アンパンマンの頭の中にある、小さな赤いボタンを、である!

やがてその小さな赤いボタンを押すと、例のアンパンマンの音楽が鳴り出すことに、娘は気づいたのであった!

さあ、そこから先は、アンパンマンの頭の中の小さな赤いボタンをひたすら押しまくるだけである。なにしろボタンを押しさえすれば、音楽が流れることに気づいてしまったのだ!

もはや、丸い玉を頭の上の穴から入れることで、音楽が鳴り出すなどといった「子どものための仕掛け」は通用しない。

かくして、アンパンマンの頭の中にある小さな赤いボタンこそが、自分を楽しませる源泉であることに気づいた娘は、アンパンマンをバラバラにし、その頭の中にのみ、興味の矛先を向けるのであった。

つまりこれはどういうことか?

人間とは脳こそが実存であり、人間の心や体は結局は脳に操られているにすぎないのだという「唯脳論」に、生まれて10カ月目にして到達したことを意味するのではないだろうか???

ということは、将来は脳科学者になるのがふさわしいのかも知れない。

…とここまで考えたとき、映画「ニュー・シネマ・パラダイス」のパンフレットの中で、大林宣彦監督が次のような映画評を書かれていたことを思い出した。

「…もちろんこの少年(トト)も人並みに観客席に坐り、ムービー・キャメラを手にしたりもする。しかし観客席ではすぐに後ろをふり向いて映写窓の光源に映画の生命を見ようとする。映写装置こそが実存であり、スクリーンの上の映像は所詮、影なのだ。映写装置が壊れたり、フィルムが途切れたりしたら、すぐに消滅してしまう。(略)人生はいつでも、映画のフレームの外に別にあるのだという、いわばリアリストとしてその痛みを知っている。…」(「映画館が失われた時代に映画を作り続ける勇気」)

うちの娘は、間違いなく映写室派である。

| | コメント (3)

依然原因不明

2月10日(日)

昨日深夜、無事に韓国から戻ってきた。

相変わらず、背中が刺すように痛い。かがんだり、起き上がったりするときに、激痛が走るのである。

日曜日にも診療をしている市内の整形外科の病院を見つけて、今日の午前中に行くことにした。

初めて行く病院なので、どんな病院かわからない。ネットの情報だと、総合病院のようである。

病院に到着して、建物を見て、ちょっと腰が引けた。

さながら廃病院の趣である。

中に入ると、待合室には、患者がほとんどいない。日曜日に開いている病院はめずらしいにもかかわらず、である。

建物の中の感じは、お化け屋敷によくあるような幽霊病院の雰囲気といったらよいか。

とにかく、時代がふた昔以上前に戻ったような感じがするのである。

(今日こそはレントゲンを撮ってもらうぞ!)

先週行ったかかりつけの病院は、整形外科ではないので、レントゲンを撮ってもらえなかったのである。

診察が始まり、

「では、レントゲンを撮ってきてください」

と言われ、レントゲン室に行った。

ここでもまた、何十年前の装置だよ!といった雰囲気のレントゲン装置である。

(本当にこれでちゃんと撮れてるのか?)

と不安になりながら、レントゲン撮影が終わり、再び診察室に戻った。

レントゲン写真を見せられるが、写り方が何となくボンヤリしているように思えて、よくわからない。

「背骨が歪んでますね。それが原因かも知れません」

あのねえ。僕の背骨が歪んでいることは、前から知っているの。ずっと前からそうなの!

「あるいは、内臓の疾患の可能性もなきにしもあらずですので、いまいちどちゃんと見てもらった方がいいでしょう」

…ん?では、今日は何のために俺はここに来たんだ?ちゃんと見てもらうためじゃなかったのか?

あの、ボンヤリしたレントゲン写真は、何だったんだろう?

結局、原因がよくわからないまま、例によって痛み止めと湿布薬を処方された。

休み明けにまた別の病院に行くしかないかなあ。

もしこの件について今後ブログに書かなくなったら、試合終了だと思ってください。

| | コメント (0)

かおる君のこと

2月8日(金)

高校時代の4学年下の後輩だった、かおる君の訃報を知ったのは、韓国に向かう飛行機に搭乗する直前のことだった。かおる君と同期のKさんからメッセージが入っていた。、

「ご無沙汰しております。

久しぶりのご連絡が、このようなことでとても悲しいのですが、先輩のところに私たちの同期、かおるくんの訃報は届いているでしょうか?

いろいろな方面から発信されているので、もうご存知かもしれませんが、念のためお知らせさせていただきます。

そして、もし、まだご存じなかったとしたら、ご連絡が遅くなり申し訳ありません。

もし、お時間のご都合がつくようでしたら…。かおるくん、日本酒同好会をとても楽しみにしていたので、先輩に参列していただけたら、とても喜ぶと思います」

メッセージの後に、2月8日にお通夜、9日に告別式とあった。つまり今日がお通夜で、明日が告別式である。

突然のことに言葉もありません。いま羽田にいて、これから韓国出張のため、お通夜も告別式も出席できず、とても残念です。ただただご冥福を祈るばかりです」

僕は短い返事を書いて、飛行機に乗り込んだ。

…いまから30年近く前。

高校を卒業して大学生になった僕たちは、かつての部活の仲間とともに、新たに吹奏楽団を結成した。高校のOBによる楽団ということで、「OB楽団」と呼んでいた。

OB楽団には、同じ高校を卒業した吹奏楽部の後輩の有志たちが、毎年入ってきた。その中の1人が、かおる君である。

僕は、かおる君と高校時代をともに過ごしたわけではなかった。OB楽団で、一緒に演奏をするようになって、親しくなっていったのである。かおる君も僕も、ある時期、わりと熱心にOB楽団の活動をしていた。

Kさんのメッセージを見て思い出したのだが、ある時期、OB楽団の有志たちで、「日本酒同好会」というのを結成した。今の僕にはまったく考えられないことだが、日本酒が好きな数名の有志が集まって、都内にある日本酒の美味しいお店をまわって日本酒を飲む、という会である。年に1,2回程度開催していたと思う。一応年長者ということで、僕が会の代表だった。かおる君も、ほぼ毎回参加していた。

かおる君は屈託のない笑顔で、人懐っこくて、それでいて自分を前面に出さないタイプの人間だったと記憶する。いまから思えば、損な役回りだったのではないか、と想像するのだが、それも含めて、彼は楽しんでいたのかも知れない。今となっては、わからない。

僕がいまでも忘れることのできない、つらい思い出がある。

OB楽団の、何回目かの定期演奏会の日のことである。

その日の朝、大型の楽器をトラックで運搬する際に、僕の不注意で、かおる君に怪我をさせてしまったのである。

僕が慣れないトラックを運転して、かおる君がトラックの誘導をしていた。僕の運転が下手なせいで、トラックとコンクリート塀の間に、かおる君の手が挟まってしまったのである。

すぐに病院に行き、手当てをした。大事には至らなかったようであるが、たしかその日は、演奏会に出なかったと記憶している。

せっかくいままで練習してきたのに、僕の運転が下手なせいで、腕に怪我をさせ、かおる君の演奏の機会を奪ってしまったのである。

悪いのは明らかに僕の方なのだが、演奏会が終わって数日後、あのときはよけいなことをしてすみませんでした、と、かおる君は僕の家に菓子折を持って謝りに来たのである。

僕は恐縮した。謝らなければならないのは、怪我をさせた僕の方なのだ。

いま思うと、この当時僕は、そのことをそうとう気にしていたのかも知れない。そのことを、かおる君が察したのだろう。あまり気にしないでください、という意味で、彼は僕の家にわざわざ来てくれたのだと思う。

だが僕は、のちのちまでずっとこのことが気にかかっていた。妙な話だが、あのときの怪我のせいで、腕に後遺症など残らなかっただろうか、とか、そんなことを、ずっと気に病み続けた。いまでもときおり夢に見ることがある。

その後、僕は東京を離れることになったため、OB楽団の演奏会には参加しなくなってしまった。かおる君も、仕事が忙しくなったのか、ほとんど顔を見せなくなったように思う。当然、日本酒同好会も自然消滅した。

最後に会ったのがいつだったかは覚えていないが、おそらく15年くらいは経っているかも知れない。

昨年の10月末頃だったか、別の後輩から、こんな話を聞いた。

OB楽団の初期のメンバーを中心に、LINEグループを作っているらしい。僕は参加していないのだが、その後輩は、昨年9月に出した僕の本について、そのLINEグループの中で、宣伝してくれたそうなのである。

そのグループには、かおる君も入っているらしく、かおる君が「すでにポチッたです!普通に面白そうだったのでw」とLINEに書いていたと、その後輩は僕に報告してくれた。

そうか。

長らく会ってないけど、かおる君、僕の本を読んでくれていたのか…。

そしてこれが、僕がかおる君の消息を知る、最後となった。

できれば、本の感想を聞きたかったよ。

僕が何らかの形でかおる君と連絡をとって、本の感想を聞くべきだったと、いまはそれが悔やまれてならない。

いまはただ、彼のことを思い出すことが供養になるのではないかと思い、思い出をここに書きとめる。

| | コメント (0)

韓国飲み会事情

昨日(8日)の夕方、友人のパクさんと、サムギョプサルを食べることになった。

「サムギョプサル、本当に久しぶりですねえ」とパクさん。

「え?そうなんですか?」

「ええ、むかしは1週間に1度くらい、みんなで集まってサムギョプサルを食べたりしていましたけれど、いまはほとんどありません」

「サムギョプサルといえば、飲み会の定番じゃないですか」

「そもそも、飲み会自体をほとんどしなくなりました」

同じことは、先週まで日本に来ていたチェさんも言っていた。

「じゃあ、よく学会の打ち上げで、1次会(食事)、2次会(ビール)、3次会(カラオケ)、4次会という定番コースがありましたけれど、それもなくなりつつあるんですか?」

「そうですねえ。カラオケなんか、もう何年も行ってません」

これもまったく同じことを、チェさんも言っていた。

「ですからほら、市内を見渡しても、カラオケボックスなんてほとんどないでしょう?」

窓の外を見るが、たしかにカラオケボックスがほとんど見えなかった。

「じゃあ、集まって飲みに行ったりはしないんですか?」

「代わりに、昼食の時間に集まったりします。そのときは、お酒を飲みません」

昨日(8日)の午餐のような感じであろう。

何という変わりようだろうか。

飲み会の嫌いな僕にとっては、うれしい変化である。

飲み会の負担から解放されるだけでも、かなりの進歩である。

ついでに言えば、韓国では、食堂が全面禁煙である。

「日本には学ぶところが多いです」

と友人のパクさんは、会うたびに僕に言う。

しかし、僕は、ちょっと違う。

お互い、学ぶところが多いのだ。

| | コメント (3)

社長随行記

2月8日(金)

相変わらず背中が刺すように痛くて、動くたびに激痛が走るので、出張先の韓国で症状が悪化したらどうしようと不安だったのだが、力を振り絞って出張に行くことにした。

なにしろ今回の出張は重要な外交行事で、社長の随行員として通訳と交渉をつとめなければならない。もし僕が行かなかったら、社長ひとりが路頭に迷うことになるのである。

先方の機関には、12時半に訪問することになっていた。

社長は前日の7日からソウル入りしていたが、僕は7日に都内で所用があったので、8日当日の朝に出発しなければならなかった。12時半に先方の機関に着くためには、そうとう早い時間に出発する必要がある。

朝4時に起きて、5時の電車に乗り、空港に6時半に着く。で、搭乗手続きをして、8時25分の飛行機に乗り、11時前に空港に到着し、そこから地下鉄を乗り継いで、ギリギリ、12時半に間に合った。

先方の機関の社長との挨拶もそこそこに、さっそく先方が用意してくれた午餐会場に向かう。

午餐は、重要な外交の場である。話題が途切れないように気を遣わなければならない。それでいて、出された料理を滞ることなく食べなければならない。話に夢中になりすぎて食べずにいると、口に合わないのかな、と思われてしまうからだ。

なのでこの午餐の時間が、僕がいちばん汗をかく時間である。

ソウルの気温がマイナス9度であるにもかかわらず、僕の額には玉の汗が浮かんでいるのである。

なんとか午餐を終え、こんどは社長室で交渉事である。

僕が考えた稚拙な提案を、先方の社長は実に的確に理解され、それをよりよい方向に持っていこうと部下に指示される。

午餐の時から感じていたのだが、先方の社長は、実に話もうまく、物事を的確に捉え、懐が深いのである。ひと言で言えば、人格者である。

この機関の社長は、もともとエリート官僚の「腰掛け」のポストであることは以前から知っていた。

僕はいつも思うのだが、本当に優秀な官僚とは、頭脳明晰で、知識が豊富で、懐が深くて、人格者で、話が上手な人なのだ。

部下の職員たちも、生き生きと仕事をしているようにみえる。

あとで、この機関に勤める友人に、こっそりと聞いてみた。

「いま、この機関はいちばんいい体制なんじゃないですか?見ていて、とても雰囲気がいいと思いました」

「ええ、そうなんです。いまの社長は実に優秀で、人格者で、いいと思ったことをすぐに実行に移す方なので、下にいる我々も、仕事をしていてやりがいがあるのです」

「なるほど」

「ここだけの話ですが、あのお方は、国のために本当に必要な人材です。このような小さな機関の社長におさまるような方ではない。私たちにとっては、あの方が社長でいられることはうれしいことですけど、国にとっては、大きな損失です」

ふだんは冷静な友人が、ここまで人を褒めるのはめずらしい。

僕は僕で、そういう優秀な官僚の方と直接お話しができるというのは、めったにないことである。

その意味で、背中が痛いのを我慢してまで来た甲斐があったというものである。

午後4時すぎ。外交儀礼は無事に終わり、社長も僕も安心したのであった。

| | コメント (0)

原因不明

2月7日(木)

朝、病院に行くが、背中の痛みの原因がわからず、痛み止めの薬をもらう。

背中の痛み、というより、痛い場所が移動して、いまは脇の下あたりが痛くなっている。

力を入れたり、背筋を伸ばしたり、かがんだりすると、激痛が走る。

午後イチから都内で会合があり、妻も僕も参加しなければ行けなかったので、娘も一緒に連れていった。

しかし痛みがまったく引かず、しんどかったので、僕だけ、娘を連れて早退した。

再び同じ病院に行くが、相変わらず原因はわからず。

ま、町のお医者さんだから、仕方ないんだけどね。とりあえず、少し強めの痛み止めをもらう。

さて、明日は、2年ぶりの韓国出張である。今回の目的は「外交」である。

朝4時に起きて、朝8時半の飛行機に乗って、ソウルに向かう。で、明後日の夜に帰る予定である。

はたして、この痛みに耐えて無事に出張を全うできるか?というより、起きられるのか???

| | コメント (4)

背中が痛い

2月6日(水)

久しぶりの大雨である。

本日も振休をとり、午前中は市外の認可外保育園の2カ所に入園応募書を直接提出しに行き、その後、別の市外にある認可外保育園の見学に行った。

午後は、韓国から来たお客さんを妻がアテンドしなければならないため、僕は留守番して娘の子守である。

本当は、「唯脳論」というテーマで書きたかったのだが、事情が変わった。

朝起きると、背中が痛い。

寝違えたのかな?と思ったのだが、どうもそうではないようである。

ひょっとして、恐れている結石だろうか?とも思ったのだが、以前に経験したときとは、違う痛みである。

どちらかというと、背中の上のほうなのである。

筋肉痛とも違う。

痛みは、昼から午後にかけてどんどんと強くなっていった。

何か重篤な病気の前兆だろうか?

このところ、かなり無茶な仕事の仕方をしていたからなあ。

それに今週後半も、ハードである。

明日は娘を連れて都内に行かなければならないし、明後日の金曜日からは、かなりハードな出張が待っているのだ。

ということで、本日は気の利いたことが書けないのでここまで。明日は痛みがおさまりますように。

| | コメント (1)

保育園落ちた。でもめげない。

先週金曜日、市から通知が来て、認可保育園に全部落ちたことがわかった。

うちの市は、認可保育園を第4希望まで出せるのだが、どこにも引っかからなかったのである。

まあうわさには聞いていたが、実際に自分たちが体験してみると、かなりショックである。

二人ともフルタイムで働いていて、しかも職場がかなり遠いというハンデがあるのに、それでも保育園に落ちるとは、いったいどういうことだ???

途方に暮れるとは、このことである。

「育児ウツの大半は、保育園の心配をしなくてもよいような社会になることで解決できるのではないか」

と妻が言っていたが、一理あると思う。

僕は何度でも主張するが、

「すべての問題は、構造的な問題である」

セクハラも、パワハラも、差別も、いじめも、大半は、構造的な問題に起因しているのである。つまり、それを生み出したり、容認したりする社会構造の問題である。

それを、「個人の心の問題」に矮小化してしまうのは、なんの解決にもなっていないに等しい。

…というぼやきはともかく。

途方に暮れてばかりはいられないので、戦術を変えなければならない。

認可保育園がダメな場合のことを考えて、当然、認可外保育所にもいくつか申し込んではいたが、それも当選するかどうか不安になってきた。

こうなったら、手当たり次第に申し込むしかない。

いままで、市内の認可外保育所にばかり目を向けていたが、多少遠くても、市外の認可外保育所にも目を向ける必要がある。

今日は休暇をとり、市外の認可外保育所で、家から通えそうなところをピックアップして、そこに電話をかけまくり、まだ募集しているかを確認した。今日すぐに見学させてもらえるところが1軒あったので、急遽保育園に見学に行くことにした。

どこかに引っかかればよい、というスタンスで、あとは、ひたすら申請書を書きまくる。

僕は就活というのをやったことがないが、たぶん、就職氷河期の頃の就活って、これくらいタイヘンなことなんだろうな。

絶望ではなく、めげないことが、この理不尽ないまの社会に対抗できる、唯一の手段である。

| | コメント (0)

7時間会議

昨日の謎は、解決した。

2014年の手帳の4月13日(日)のところを見てみると、その前日から「大きな湖のある県」に泊まり、翌日曜日の朝からレンタカーを借りて県内をまわっていることがわかった。その過程で、このガイダンス施設に立ち寄ったのだろう。

さて、昨日の4時半過ぎに、そのガイダンス施設での用務を終えた。翌日は同じメンバー6人で、午前中から会議である。会議の場所は、「のぞみの停まる駅」の駅前にある、「いくつかの大学のサテライトオフィスが集まっている建物」である。なので、各自その近くに宿をとることにした。

在来線に乗って、「のぞみの停まる駅」まで移動する。

このところの移動続きでひどく疲れてしまい、早くホテルにチェックインしたいなあと思っていたら、このプロジェクトのボスが、

「懇親会をしましょう」

と提案した。

僕は、あからさまに「ええええぇぇぇぇっ!!!」といって、早く解散したそうな顔をしていたら、

「どうしたんです?」と聞くので、

「ちょっと仕事が詰まっておりまして」と言ったところ、

「軽く夕食をみんなでとるだけですから」と言うので、

「軽く夕食をとるだけであれば大丈夫です」と答えた。

しかしこれが甘かった。

話し好きのボスが、「軽く」ですむはずがない。入ったお店は、ガッツリした居酒屋で、

(飲む気満々やないかい!!)

と思いつつも、渋々そのお店に入ることにした。

居酒屋に入ってしまったら、「軽く」ですむはずがない。僕はウーロン茶で通したのだが、他の人たちは、どんどんビールを飲んでは、このプロジェクトについて談論風発するのである。

結局、3時間もその居酒屋に滞在することになった。ホテルにチェックインして仕事をしようと思っていた心が、その日はポッキリと折れてしまったのであった。

さて翌日の今日。

午前中から会議である。僕が会議の議題を用意して、司会もしなければならないので、気を抜くことができない。

しかも、この業界の重鎮の方もいるので、ヘタなことを言えない。言葉に注意しながら、誤解を生まないような表現で、少しずつ合意を得ていかなければならない。

ここでもまた談論風発。議論は3時間におよんだ。

しかしそこでも議論は尽きず、借りていた部屋を追い出された僕たちは、会場を変え、昼食をとりながらさらに1時間ほど会議をした。

結局、この日は4時間の会議、前日の懇親会での3時間を合わせると、実に7時間も同じテーマで会議していたことになる。

まったく、よく喋ることがあるよなあ。

この業界で生き残っていく条件は、7時間にわたる議論をしても、疲れないスタミナを持つことであることを、悟ったのであった。

| | コメント (0)

以前に訪れたことのある場所

2月2日(土)

新幹線と在来線を乗り継いで、西に向かう。乗った新幹線は、久しぶりに「ひかり」である。

気の進まない出張なのだが、本務にかかわるものなので仕方がない。

「ひかり」の停まる駅で降りて、そこから在来線の各駅停車に乗り継いで、40分ほどで目的の駅に着いた。そこで今回のメンバーと合流し、タクシーで今回の用務先に向かうことになっていた。

初めて降りる駅で、用務先がどこにあるのかもわからない。交通が不便なところなので、タクシーで行くより手がないと言われていた。

みんなでタクシーに乗り込み、ほどなくして、目的の用務先に着いた。

(初めて来る場所だなあ…)

周囲はふつうの住宅街で、その中に、その場所を保存するためにつくられた公園と、その場所のガイダンス施設がある。今日はそのガイダンス施設の中で用務があるのである。

ガイダンス施設の中に入って驚いた。

(ここ、前に来たことがあるぞ!)

この建物に入ったことがあるという記憶が、鮮明によみがえってきたのである!

絶対に来たことがある!

…そう確信したのだが、不思議なことがあった。

僕が、以前になぜこの場所に来たのか、まったく思い出せないのである。

自分の専門分野とはかかわりのない場所なので、今日のような用務でもないかぎり、わざわざこの場所に訪れるという目的は、存在しない。

用務で訪れたという記憶もない。

誰かに連れられて来たという記憶もない。

どうやって、この場所にたどり着いたのかという記憶もない。だいいち、僕は在来線の最寄りの駅に降りた記憶すらないのだ。

だが、この場所のことは、鮮明に覚えているのである。

あれは、いつだったか…思い出した!この建物の中にいたときに、「高校時代の友人・元福岡のコバヤシ」から携帯にメールが来て、そのメールをこの場所で読んだ記憶がある!

メールの内容も思い出した!

以前、僕が新聞の取材を受けて、それが記事になったとき、たまたまそれを読んだコバヤシが、メールをくれたのである。

その記事が掲載されたのが、まだ職場を移ったばかりの頃だから、2014年の4月か…。

このブログに、何か書いてなかったかな、と思って探してみると、あった、あった、ありました!

記事がつなぐ

このメールが来たのが、2014年4月13日(日)である。

この時期、僕は本務の出張で西に来ていたことを思い出した!用務の内容も思い出した!

ただし、メールをもらった日は日曜日である。出張の用務は月曜の朝からなので、前日入りしていたはずである。つまり、ここへは、本務の出張の前に、途中下車して「ついで」に、立ち寄った可能性が高い。

それにしても不思議である。

本務の出張先と、この場所とは、かなり離れている。なにしろここは、大きな湖のある県なのである。わざわざ途中下車して、駅から遠いこの場所を訪れたのだろうか?どうしてこの場所を訪れたのか、その理由が依然としてまったくわからない。

ま、この出張から戻り、過去の手帳を見返してみれば解決するのかも知れないが、僕は手帳に予定を細かく書く人間ではないので、書いてあるかどうかはわからない。

それにしてもこのブログ、過去に訪れた場所を思い出すには、まったく役に立たない。

| | コメント (0)

「連想ゲーム通訳」以前の問題

こぶぎさんは学生たちと韓国に行っているらしい。惜しかったなあ。

1月31日(木)~2月1日(金)

連想ゲーム通訳

さて、僕はといえば、相変わらずの忙しさである。

先週に続き、韓国のチェ先生を引率して新幹線で北へ向かう。ただし今回は、5時間移動ではなく、鈍行の新幹線で40分ほどの町に、1泊2日滞在する。

滞在中は、地元の先生が車を出してくれて、「うどんがソウルフード」の県内をつきっきりで案内してくれた。地元の先生は僕も以前お世話になったことのある先生で、今回の訪問を大歓迎してくれたのである。夜は懇親会まで設定していただき、そこでもまた、むかし一緒に仕事をした、懐かしい仲間とお会いすることができた。

それにつけてもたいへんなのは、通訳である。まる2日間、朝から夜まで、地元の先生がずーっとつきっきりだから、通訳に気を抜くことができない。しかも、いろいろな場所に行き、そこでまたいろいろな方にお会いしてお話しをうかがうものだから、なおさら気を抜けないのである。

今回もまた、難易度が高い。

「これは火山弾が落ちてきたときに土をえぐったさいの穴です」

とか、

「火砕流が一気に流れてきたあと、しばらくしてから火山灰が降って徐々に積もってきました。その結果、軽石がどうのこうの…」

とか、「火山弾」とか「火砕流」とか「火山灰」とか「軽石」、どうやって訳せばいいんだ??

しかも、

「この地層は、ご覧になっておわかりの通りFPで、こちらの地層はFAです」

に至っては、そもそも「FP」と「FA」の意味がわからないので、訳しようがない。

あと、「砥石」とかも、説明の中で重要な要素だったのだが、どう訳していいかわからない。

「砥石」は「刀を研ぐ石」。「刀(カル)」と「石(ドル)」はわかる。

仕方がないので、「カルをアレするドル」と言ったら、何となくわかってもらえた。

だが、

「側壁には漆喰が塗られています」

の「漆喰」がわからないので、これは訳すのを諦めた。

「側壁の石の間には紐を引っかけるフックのようなものが残っていて、おそらくそこに紐のついた幕のようなものを引っかけて、側壁の周囲を覆って、埋葬の儀式の際に荘厳したものと思われます」

…訳せるか!!!

つくづく自分の勉強不足を恥じ入ったのであった。

といった感じで、2日目の午後には頭がはたらかなくなり、ドッと疲れてしまった。

最後の方には、「鏡(コウル)」を「カウル(秋)」と言ってしまうし、まったくチェ先生にはご迷惑ばかりかけてしまった。

ただ、県内を車で案内してもらったのだが、地元の先生と車中での四方山話は、なかなか面白かった。車中の会話は、ほとんど通訳する必要もないので、気も楽である。

「今度、うちのイベントに講談師を呼ぶことになりましてね」

「そうですか」講談師と聞いて、すぐに神田松之丞の名前が思い浮かんだ。

「うちのイベントの内容を、講談に仕立ててもらおうとお願いしたんです」

「それは面白いですね。そういえば、講談師って、既成の講談を語るだけではなくって、功成り名を遂げた人が、自分の一代記を語ってほしいという依頼があるそうで、講談師がその人から聞き取りをして、一代記を創作して講談に仕立てるみたいなことがあるそうですよ」これも、神田松之丞がラジオかなんかで言ってたことである。

「どうしてそんなイベントを思いついたかというと、去年の夏に、うちの職場に実習に来た大学生の中に、講談師になりたいという学生がおりましてね」

「ほう。講談師に弟子入りでもしているんですか?」」

「いえ、弟子入りをしたいと願っている学生で、いまは自分で講談を勉強しているんだそうです」

なんと!ひょっとして、神田松之丞がラジオで「弟子入りしたいという大学生がいるんだけど、自分がまだ「二つ目」なので、弟子がとれないといって追い返した」と言ってた、その大学生のことだろうか???

「で、うちの職場の同僚が、その学生の講談を聞いて感激しましてね。ぜひ今度のイベントで、プロの講談師をお呼びして、関連イベントをしたいと、こういう運びになったわけです」

「ひょっとして…それは、か、か、神田松之丞???」

「いえ、神田松之丞ではありません。「神田」は「神田」なのですが、女性の講談師です」

いずれにしても、神田一門である。

それにしても、こうした同業のイベントで、講談師を呼ぶというところまで、いまは講談がブームなのである。

車中では、なぜか四方山話がはずむ。お酒の席よりも、車中で話しているときの方が、、僕の場合は楽しいのかも知れない。

さて、これで僕のアテンドも終わり、チェ先生は、2週間の滞在を終えて、日曜日に韓国にお帰りになる。

僕はお見送りする暇もなく、すぐに次の新幹線出張である。

| | コメント (4)

« 2019年1月 | トップページ | 2019年3月 »