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2019年4月

ふたつの顔

4月29日(月)

一昨日に行われた大林宣彦監督の講演会は、「野口久光 シネマグラフィックス」展の関連イベントとしておこなわれたものだった。

以前このブログにも書いたのだが、2014年11月に、僕はある場所で「野口久光 シネマグラフィックス」展を見ている。

そのときの記事の中で僕は、20代の頃にある映画のポスターを見たのがきっかけで、野口久光という名前を知った、と書いた。その映画というのは、大林監督の「ふたり」「はるか、ノスタルジィ」「青春デンデケデケデケ」である。この3本の映画のポスターは、1990年代前半に、野口久光さんが手がけたものである。

このころすでに野口さんは、映画のポスターの仕事を引退し、ジャズ評論家として名を馳せていた頃だったのだが、野口さんを慕う大林監督が、ぜひポスターを野口さんに描いてもらいたいと依頼して、実現したものらしい。洋画のポスターを描くのが専門だった野口さんが、日本映画のポスターを描いたのは、大林監督のこの3本の映画だけである(野口さんは最晩年に、TBSドラマのポスターを1枚描いている)。

さてこの「野口久光 シネマグラフィックス」展の仕掛け人が、NPO法人を主宰するNさんという、僕よりも8歳ほど年上のおじさんである。今回の企画展と講演会も、もちろんNさんの企画によるものである。

懇親会の席で、Nさんとも少しお話しすることができた。とてもバイタリティーのある方で、お話しも歯切れがよく、面白い。

Nさんから聞いたエピソードで興味深かったのは、ジャズサックス奏者の渡辺貞夫さんに関するエピソードである。

以前のブログに書いたように、野口久光さんは、映画のポスター制作の仕事から引退した後、ジャズ評論家として活躍した。渡辺貞夫さんは若い頃から野口さんと知り合い、野口さんのことを信頼していたという。

「貞夫さんは、野口さんがおびただしい数の洋画のポスターを描いていたということを、知らなかったんですよ」

「え?そうなんですか?」

「貞夫さんは、野口さんとはジャズ評論家としておつきあいしてましたからね。ジャズ評論をやる前に、洋画のポスターを描いていたことは聞いていなかったようなのです」

「野口さんも、渡辺貞夫さんに言わなかったということですか?」

「おそらくそうなのでしょう。ですからね、先日、こんなことがあったんですよ。野口久光展に、貞夫さんをゲストでお呼びしたときに、貞夫さんが驚かれましてね。野口さんがこれほどたくさんの洋画のポスターを描いていたとは、長いつきあいだったけれども知らなかったと。で、展示室にご案内したら、野口さんのポスターを、実に熱心にご覧になるんです」

「ほう」

「熱心にご覧になるあまりに、ポスターが展示されているガラスケースに何度も何度も頭をぶつけるほどでした」

「それはすごい話ですね」

「ええ。で、貞夫さんがこれからいろいろなところでコンサートをするときに、その会場で野口さんの洋画のポスターも展示できないだろうか、と考えてくれているようです」

驚きである。野口さんは、自分の過去の仕事を言わなかったんだな。また言う必要もないと思ったのだろう。こういう生き方を「粋」というのかも知れない。

「もう一つ面白かったのはですねえ。野口さんは、カメラの腕前もよかった」

「そのようですね」

「貞夫さんも、写真はプロの腕前です」

「そうですね」

「野口さんの撮った写真と、貞夫さんの撮った写真をくらべてみると、貞夫さんの写真は、野口さんの影響を受けているなあということがよくわかるんです」

「なるほど」このエピソードだけでも渡辺貞夫さんが野口さんに信頼を寄せていたことがよくわかる。

「野口さんは不思議な人なんですよ。古い世代の人にとっては、洋画のポスターの画家として知られていて、下の世代に人にとっては、ジャズ評論家として知られていたんです。だから、洋画のポスター作家とジャズ評論家というふたつの顔が、結びつかないという人が多いのです」

「なるほど」僕も思いあたるフシがあった。「実は僕、10代の頃、大林監督の大ファンであったと同時に、渡辺貞夫さんの大ファンでもあったのです

「そうでしたか」

「僕は大林監督を通じて、洋画のポスター画家の野口久光さんのお名前を知り、渡辺貞夫さんを通じて、ジャズ評論家の野口久光さんのお名前を知ったんです。でも若い頃はそれが結びついてはいませんでした」

「やはりそうでしたか」

「不思議なものですねえ。10代の頃に、全然別のきっかけから、大林監督と渡辺貞夫さんのファンになったのですが、それが野口久光さんを介してつながるんですからね」

「なるほど、それはおもしろいですねえ。…今度8月に、野口さんと貞夫さんの写真展を東京でやることになっているんですよ。そのときはぜひ来てください」」

「それは行きたいですねえ」

野口久光、恐るべしである。

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痛いファン、憧れの人と再会す

4月27日(土)

ブログを書くためには、ブログを書くための体力を残しておかなければならないことに、最近になって気づいた。

その意味からすれば、最近は、ブログを書く体力を残すことなく一日が終わることがほとんどである。

昨年(2018年)11月8日のことである。「前の勤務地」で、僕が実行委員の一人として参加している委員会の会議に出席したとき、会議の最後に、こんな報告があった。

「来年の4月27日に、大林宣彦監督をお招きして、本館の事業に合わせて講演会を行います」

ええええぇぇぇっ!!と驚いた。

5月に、僕はある本を作るために、大林監督のところにインタビューに行ったのである。10代の時から大ファンだった僕は、監督を前にして、緊張して何もしゃべれなかったということは、以前に書いた

その大林監督が、「前の勤務地」の、しかもいま私が関わっている仕事の関連事業で講演会をするとは!

僕の中では、5月のインタビューの仕事と、「前の勤務地」での仕事は、まったく別の仕事なのだが、それが一つに結びついていく感じがしたのである。

5月に「大林監督と一緒に仕事をする」という夢が実現したので、僕はもうそれで十分だったのだが、まだ続きがあったというわけだ。

日程を調べると、前後の日は職場で休めない仕事があるのだが、この日はぽっかりと空いている。これも何かの運命なのだろうと思い、日帰りでこの行事に出席することにしたのである。そうしたところ、昨年5月に大林監督に一緒にインタビューをした編者のOさんも、僕からこの情報を聞いて、この会場にかけつけることになった。OさんはOさんで、次の仕事につなげるために監督に会いに行きたかったらしい。

全面的に協力してくれたのは、この事業でスタッフとして働いている「前の職場」の卒業生の旧姓Mさんだった。旧姓Mさんは卒業後、こんどは仕事仲間として、一緒に仕事する機会が多かった。そんな縁もあり、当日のいろいろな段取りをつけてくれたのだった。

こうして、一見無関係に思える編者のOさんと卒業生の旧姓Mさんが、ひょんなことからつながっていくのである。

旧姓Mさんから事前に連絡があった。

「講演会が終わったあと、午後6時から大林監督ご夫妻を囲んで懇親会をしますが、鬼瓦先生は参加されますか?」

どうしよう。翌日は朝から職場で長丁場の会議なのだ。本当は講演会を聞いたあとすぐに帰りたかったのだが、「大林監督ご夫妻を囲んで」と聞いて心が動いた。大林監督だけでなく、二人三脚で映画を作ってきた恭子プロデューサーもいらっしゃるということか!恭子プロデューサーにぜひお会いしたい、という欲が出てきて、懇親会に参加することに決めた。

編者のOさんは、その日のうちに隣県の沿岸の町に移動しなければならないとかで、講演会が終わったらすぐに移動するとのことだった。

さて当日。

講演会場で、編者のOさんは思いがけず、さまざまな出会いを体験する。まったく知らない土地であるにもかかわらず、思いもよらぬ人と人とのつながりを目の当たりにし、無縁の土地ではなかったことを実感したのである。そこで、Oさんの気持ちに変化が生じたらしい。

「私、やっぱり懇親会に出ます。調べてみたら、6時50分に懇親会の会場を出れば、その日のうちに目的の町に着けるみたいです」

ということで、編者のOさんも、懇親会に顔を出すことになったのである。

さて、講演会が無事に終わり、午後6時に懇親会場に移動した。参加したのは20人弱だろうか。

大林監督ご夫妻が真ん中の席に座り、それを囲むようにして参加者が座る。当然、監督に近い関係の人が近くに座り、僕は端っこに座った。

編者のOさんは、50分という限られた時間の中でいろいろな人と話をして、最後には大林監督夫妻とも話をして、会場をあとにした。

さあ、残された僕は、どうしていいかわからない。

(うーむ。やっぱり今回も監督と話をするチャンスがないだろうな)

と思っていたら、今回の事業のスタッフの一人であるKさんの計らいで、監督夫妻の近くに行くことができた。

だが、相変わらず、緊張して監督の前でお話しすることができない。

僕は恭子プロデューサーの方を向いて話をした。

「あの、…僕、10代の頃から監督のファンで、映画も全部見て、ロケ地も全部まわって、…臼杵の『ほりかわ』にも行きました!」

「あら、そう。臼杵っていい町よねえ」

「はい。恭子プロデューサーも、DVDのメイキング映像でしかお目にかかっていませんでしたが、こうしてお会いできるとは思いませんでした」

恭子プロデューサーは苦笑いしていた。

「こうして、…10代の頃の夢がいまになって実現したのは、とても感激です」

「まあ、ありがとう」

…もう完全に俺は「痛いファン」である。

こんなことをご本人たちに言ったところで、何の意味もないのだ!

僕は猛反省をして、その場を離れた。

しばらくして、スタッフのkさんが、

「せっかくの機会なんですから、監督の隣に座ったらどうです?」

と、監督の隣の席を空けてくれたのである。

監督の隣に座ったものの、やはり緊張のためまったくお話をすることができず、わずかに、

「パキさんがテニスの審判役で僕の映画に出てくれたことがあったね。何だったっけな」

「『瞳の中の訪問者』ですね」

というやりとりと、

「いま流れているBGM、僕の映画で使った曲だよね。何だったっけ」

「『あした』のサントラです」

と会話したのが精一杯だった。前者は、「パキさん」が藤田敏八監督のあだ名であることを知っていないと答えられないクイズである。後者は、映画好きの店主が、大林監督がいらっしゃるということで、BGMとして流していたものだった。

そんなこんなで、あっという間に帰る時間となった。店を出るとき、監督ご夫妻に、

「お会いできて夢のような時間でした」

と申し上げると、お二人は僕に向かって、バイバイと手を振った。

僕は、映画「麗猫伝説」の中の、あるシーンを思い出した。

こうして僕は、最終の新幹線に飛び乗った。

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30人待ち

4月24日(水)

保育園入園からまだ1カ月もたっていないのだが、もうヘトヘトである。

今日は休みをとり、夕方に娘を迎えに行ったのだが、娘を保育園から引き取った後、二つの病院に連れていかなければならなかった。

ひとつは耳鼻科である。ここ最近ずっと鼻水が止まらないので、耳鼻科に行って鼻水を吸い取ってもらっているのである。この耳鼻科が家からちょっと離れたところにあり、バギーを転がしながら歩いて行かなければならない。

もう一つは家の近所にある小児科である。

ちょっと込み入った話なのだが。

来月からの保育園の転園にむけて、その保育園の担当医のところに健康診断に行ったのが22日(月)である。そこは、かかりつけの小児科とは異なる病院だった。

気難しそうな先生だったのだが、まあそれは措いといて。

「鼻水が出てるわね」

「ええ、耳鼻科に通っています」

「耳鼻科だけでいいのかしら。原因が、気管支ってことも考えられるわよ」

「そうですか…」

「耳鼻科だけじゃ信用できないわね」

そう言われると急に不安になってきた。

その先生にそのまま診察をお願いしようとも思ったのだが、いつもはうちの近所のかかりつけの小児科で見てもらっているので、日を改めてかかりつけの小児科に行くことにしたのだった。そんなわけで、耳鼻科と小児科をハシゴすることになったのである。

家の近所のかかりつけの小児科の診察時間が午後6時までで、耳鼻科の診察時間が午後7時までなので、まず小児科に行ってから、耳鼻科に行くことにした。

5時に娘を保育園から引き取り、その足で家の近所の小児科に行くと、待合室には数多くの親子が診察を待っていた。

「あのう…予約していないんですけど」

「ただいま30人待ちです」

「30人待ちですか!!!」

「おそらくいまからだと、7時か8時になってしまいますよ。それでもいいですか?」

ちょっと逡巡したが、そのまま30人の順番を待つことにした。

「整理番号は100番です」

「100番ですか!!」

ということは、今日1日で100人が診察を受けに来たことになる。

「では先に耳鼻科に行ってから、戻ってきます」

といって、いったん小児科を出て、耳鼻科に行った。

耳鼻科の方は診察がすぐに終わり、そのまま小児科へ戻った。

この時点で午後6時を過ぎていたが、あと20人待つらしい。

待合室が狭い上に、娘と同じくらいの年齢の子どもとその親が待合室でひしめき合っている。

そのストレスに耐えかねたのか、娘は途中から泣き始めた。いや、泣き暴れたといってよい。

なんとかなだめてみるのだが、ダメである。

そのうち、となりの席で、お父さんの抱っこひもに抱かれていた子どもが、

ゲロゲロゲロゲロ!!

と吐いてしまった!

子どものゲロは、抱っこをしているお父さんの胸元に直にかかってしまったのである。

おいおい!大丈夫か?吐瀉物から空気感染する病気だってあるんだぞ!

僕は急に恐くなった。

次に、反対側の隣に座っていた親子が診察室に呼ばれたようで、立ち上がって診察室の方に向かった。

「どうしました?」

「熱が40度以上出てしまいまして…」

というやりとりが聞こえた。

おいおい!大丈夫か?どおりで子どもがグッタリとしていたわけだ。というか、真横に座っていたら、こっちにもうつるんじゃないだろうか???

すでにかれこれ、待合室に1時間ほどいるのだ。もともとうちの娘は、

「鼻水の原因として、気管支も念のため見てもらう必要がある」

という理由だけで来ているので、とくに熱があるわけでもなければ、体調不良というわけでもない。すでに1時間以上も待合室にいるが、その方がよっぽど体調を悪くさせるのではないだろうか?

だんだん不安になってきた。

午後7時半過ぎ、ようやく順番がまわってきた。

「気管はまったく疑いがありません。心配ありません」

のひと言で終了。わずか30秒ほどで診察は終わった。

こうして、3時間にわたる病院行脚は終わったのである。

それよりも、待合室に1時間半以上も居たことのほうが心配である。

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ヤングパラダイスリターンズ

こぶぎさんのコメントを見て、慌ててラジコのタイムフリーで「三宅裕司のヤングパラダイスリターンズ」を聴いた。

いやあ、懐かしい。

番組のオープニング曲、安部恭弘の「Cafe Flamingo」が流れたときは、涙が出てしまったよ。

 

「三宅裕司のヤングパラダイス」こそが、僕にとっての青春のラジオである!

ヤンパラが始まったのが、1984年2月。中3の最後の2月である。僕は中3から高校時代にかけて、ヤンパラを熱心に聴いていた。

YMOのファンだった僕は1983年、「高橋幸宏のオールナイトニッポン」というニッポン放送のラジオ番組の小さなコーナーで、SETという小さな劇団があることを知り、その座長が三宅裕司であることを知った。

その後三宅裕司は、ニッポン放送の「パンツの穴」というラジオ番組で、当時売り出し中の菊池桃子らと、ラジオコントをしていた。ちなみにこの番組については、ウィキペディアにも出ていない。土曜日の夕方だったか、夜だったかに放送されていた(土曜日夕方は、「欽ちゃんのここからトコトン」、通称「欽トコ」→「パンツの穴」という流れで聴いていたような記憶がある。どうだ、だれにもわからないだろ)

つまり僕は、「高橋幸宏のオールナイトニッポン」→「パンツの穴」→「三宅裕司のヤングパラダイス」と、三宅裕司がまだ無名だった頃から、彼が出演するラジオ番組を聴いていたのである。そればかりではない。高1の時に、巣鴨の三百人劇場というところで、当時知る人ぞ知るの存在だったSETの公演「ディストピア西遊記」を見に行った(いまもう、巣鴨の三百人劇場って、なくなっちゃったんだね)。僕は中学生から高校生までのある時期、三宅裕司の追っかけをしていたのである。

まあそれくらいのファンだったから、「ヤングパラダイスリターンズ」が放送されると聞いて、聴かないわけにはいかなかった。もっとも僕が聴いていたのはヤンパラの初期の頃なので、「ヒランヤ」あたりからは、熱心なリスナーではなくなってしまった。

今回「ヤングパラダイスリターンズ」を聴いて驚いたのは、名物コーナー「ドカンクイズ」の参加者や、はがきのコーナーに投稿している人が、軒並み50歳!つまり僕と同い年の人たちばかりだったことである。これには笑った。やっぱりアラフィフにとって「三宅裕司のヤングパラダイス」は、青春のラジオだったのだ。

もっとも、これは東京の場合に限られる。おそらく関西の人がこの番組を聴いたら、「どこが面白いのか?」となるのではないだろうか。

例えば、「○○にならなくてよかった」というはがきコーナーがあった。

「桃太郎にならなくてよかった。なぜなら、桃が割られたときに包丁をよける自信がないから」

みたいなネタなのだが、つまりは「笑点」の大喜利なのである。

だがそういう短いネタのコーナーよりも、この番組の特色は、体験談を中心とする長いネタが多いことである。その時の三宅裕司の「はがき読み」は絶品で、ちょっとした落語を聞いているような心持ちだった。

あらためて思うのは、三宅裕司の笑いは、誰も傷つけない笑いだ、ということである。

それまで「ビートたけしのオールナイトニッポン」の信奉者として、毒舌を聴かないとラジオを聴いた気がしないと思っていた僕にとって、毒舌のないラジオは、新鮮だった。これはクレイジーキャッツの笑いに近いのだと、後々になって気づいた。

そんなわけだから、ビートたけしのラジオと、三宅裕司のラジオは、どちらも好きだったが、まったくカラーの違う番組として、僕は聴き分けていた。当時、ビートたけしが「オールナイトニッポン」で、三宅裕司の番組を批判していたことがあったが、さもありなん、と思ったものである。ただ、両人が根底で共通していたのは、落語のような江戸前の語り口だった。

後にその二人が「ぢ・大黒堂」というバンドを結成したときは、僕にとってのラジオスターが共演したという意味で、とても感慨深いものがあった。

どんな経緯があったのかは、わからない。

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幻の夏野菜スペシャル

4月20日(土)

娘がいま通っている保育園で、「栽培活動」なるものがあるというので、参加することにした。「栽培活動」とは、保育園が借りている市民農園の一角に、保育園の園児たちと保護者、そして保育士さんが一緒になって夏野菜を植えて、収穫したあかつきには、それをみんなで食べよう、という活動である。

言ってみれば、「シェフ大泉 夏野菜スペシャル」のような企画だな。

希望者は申し込んでくださいとあったので、申し込んだところ、たくさんの応募があったという。

「24のご家庭にご参加希望をいただき、ご両親、ごきょうだいのみなさまを合わせると60名の大所帯となり、面積的に全員がお入りいただけない状況が予想されます。各ご家庭、お子様と保護者の方お一人で参加いただきたく、ご協力をお願いいたします」

市民農園の一角に60名も集まったら、たしかにパニックになる。我が家では、僕が保護者代表として娘と参加することにした。

しかし僕は、この「栽培活動」に、かなり複雑な気持ちで参加することになった。

というのは、つい2日ほど前に、第一希望だった認可保育園の二次募集に、入園の内定をもらい、来月に転園することが決まったからである。

その認可保育園は、自宅の目の前にあって、ここに入園することが我々の悲願だった。しかし競争率が高く、昨年度、あっけなく落選してしまったのである

二次募集もある、と聞いていたが、1歳児クラスは募集が1名しかなく、二次募集もどうせ引っかからないだろうと諦めていたのである。聴くところでは、その1名の枠をめぐって、26名の申請者がいると言うことで、つまりは倍率が26倍というわけである。これでは受かる気がしない。

しかし諦めなかった。

以前にも述べたように、認可保育園に入る際には、さまざまな条件が点数化されていて、その点数に応じて、入園できるかどうかが決まる。4月に入ってから、その点数を上げるために、妻はさまざまな書類を抜かりなく作成して提出した。おそらくそれが、功を奏したものと思われる。持ち点が上がって、上位にくい込めたのだろう。

もう一つは、市役所に行って食い下がったことである。

一次募集に落ちたあと、市役所に行って、どうして自分たちは落ちたのかを聞きに行った。もちろん、そんなことを聞いたところでどうなるわけでもないのだが、何も意思表示をしないよりは、何らかの意思表示をした方が、あるいは審査の時に有利にはたらくのではないか、と思ったのである。

最終的には市役所の苦情受付係にまで行って、「保育園入園のための条件設定がおかしい」という意見を言った。おそらくクレーマーとして処理されたのかもしれないが、「声を上げなければ何も変わらない」という信念に賭けてみたのである。

もちろんそれが、二次募集の内定に直接結びついたとは思えないが、結果的には、内定をもらうことができたのである。

これはめちゃくちゃうれしいことなのだが、一方で、せっかく慣れてきたいまの保育園から転園しなければならないのは、ちょっと複雑な気持ちである。

そういう状況にある我が家が、「栽培活動」に参加してもよいものだろうか?

いまの保育園に在籍するのはあと1週間である。夏野菜が収穫される頃には、もうこの保育園にはいないのである。

自分で収穫できない野菜を植えても、テンションが上がるはずがない。

それに、「来月転園するのに、栽培活動に参加するのは、どういう了見だ?」と言われかねない。

では、いっそのこと参加しない方がいいだろうか?

それはそれで問題である。「あの家族、転園が決まったら手のひら返したようにこの保育園に対して冷たくなった」などと批判されるかもしれない。

ま、どっちでもいいことなんだが、気病みするタイプの僕は、こんなどうでもいいことに悩み続け、結果、参加することにしたのである。

午前10時少し前、指定された場所に行ったら驚いた。

猫の額ほどの広さの農園ではないか!

当然である。ふつうは、一つの家が家庭菜園として借りる区画を、保育園が借りているわけである。つまり、ふつうでいえば一家族分の広さの畑なのである。たしかに、とても60名もの人が参加できるような場所ではない。

結局は欠席した家族も多かったので、実際に集まったのは20名弱くらいだった。

しかし、やはり場違いだったかな、と思った。昨年から継続して来ている家族が多いせいか、顔見知り同士の家族がけっこういたのだ。当然僕は、参加者の家族を誰も知らないので、その人たちの輪に入っていくこともできない。

もう一つは、娘がまだ1歳になったばかりで、おそらく参加者の中で最年少なのだが、スコップを使うことも、水をまくこともできない、ということである。ほかの子どもたちは、スコップを自分で持って、土を掘ったり苗を植えたりできているのだが、うちの娘は、それがまったくできない。ただただ石をつかんだり、土をつかんだりして、その手で顔をこするものだから、あっという間に顔が真っ黒になってしまった。地べたに直接座ったりして、着ている服も真っ黒になってしまったのである。

娘が勝手気ままに動くものだから、こっちは苗を植えるどころではない。かろうじて、ゴーヤの苗を一つ植えただけで、「栽培活動」は終わってしまった。

栽培活動が一時間ほどで終わったあと、今度はその足で耳鼻科に寄り、娘の診察をしてもらって、帰宅したのがお昼である。

ただただ真っ黒になっただけで、何の達成感もないままに「栽培活動」から帰ってきたのだった。

午後、娘は文字通り「泥のようになって」昼寝していた。よっぽど疲れたのだろう。

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さよなら、リーさん

4月19日(金)

職場の会議が4時前に終わるので、今日は職場をちょっと早めに出て散髪屋に向かった。

このブログで以前に述べているように、いま通っている散髪屋は、自宅の近くでも職場の近くでもない、実に中途半端な場所にある。ふだん通勤している電車の乗換駅などでもないのだ。つまり、降りる必然性のまったくない見知らぬ町の駅の駅前にある散髪屋に通っているのである。

なぜそんなことになってしまったかについては、すでにこのブログで述べたので省略。簡単にいえば、僕の髪を切ってもらっていたリーさんが、人事異動で別のお店に移ってしまったため、僕もそれに合わせてリーさんのいるお店に通い続けることにしたのだが、そのお店のある場所が、もはや自分とはまったく関係のない町だった、というお話。

職場の最寄りの駅から私鉄に乗り、ある駅で別の私鉄に乗り換える。あらかじめ時間を調べてみたら、予約していた5時半には十分に間に合うようだ。

というわけで、のんびりかまえて電車に乗っていると、5時を過ぎたあたりだろうか。車内アナウンスが流れた。

「たったいま、4時58分頃に○○駅で人身事故があったとの知らせが入りました。詳しい情報が入りましたらまたお知らせいたします」

○○駅、というのは、たしか、僕が降りることになっている駅の、2つ先の駅だった。

ほどなくして第2報がアナウンスされた。

「○○駅で人身事故が起こったため、この路線は当面運転を見合わせます。したがいましてこの電車は、○○○駅までで折り返します」

ええええぇぇぇぇっ!!!

○○○駅といったら、僕が降りる予定になっている駅の、ひとつ手前の駅ではないか!!!

ということは、散髪屋にたどり着けないではないか!!!

予約をしている5時半までに着ける見込みはなくなった。僕は散髪屋に電話した。

「すみません。電車が人身事故で、いま運転見合わせで、○○○○駅にたどり着けません。5時半に着けそうにないのですが、少し遅れても大丈夫ですか?」

「6時までにお着きになればなんとか大丈夫です。6時を過ぎますと他のお客様の予約が入っておりますので…」

「わかりました。なんとか頑張ってみます」

…とはいってみたものの、人身事故は相当深刻なものだったらしく、復旧する目処は立っていないようである。

ひとつ手前の○○○駅で放り出されてしまった僕は、途方に暮れてしまった。

(うーむ。どうしよう…)

こうなったら、タクシーを使って行くしかない!

○○○駅の改札を出てタクシー乗り場に行くと、すでにタクシー乗り場は長蛇の列だった。しばらく列に並んでみたが、タクシーが来る気配がない。

(こりゃあ、ダメだな)

あきらめてもう一度、○○○駅に戻り、改札のところで駅員さんに聞いてみた。

「あのう…、○○○○駅に行きたいんですけど…」

「○○○○駅ですね。代替手段はですねえ」と、駅員さんがなにやら調べはじめた。「この駅からJRに乗ってもらって、二つ目の駅で降りてもらえれば、そこから路線バスが出ています」

この時点でもう5時40分である。いまからJRに乗って二つ目の駅で降りて、そこからバスに乗っていくのは、かなり時間がかかることは、容易に予想できた。

「急いでるんですけど…」

「では、歩いて行くしかありませんね」

「時間はどのくらいかかりますか?」

「そうですねえ…。20分か30分はかかります」

この辺の地理をよくわかっていない僕が、歩いて20分で着けるとは思えない。

こういうのを「詰んだ」っていうの?つまりゲームオーバーである。

散髪屋さんに電話して、「すみません。6時に着けそうにありません」というと、「では別の日に予約を入れますか?」と聞かれた。そもそも僕は、忙しくて今日しか時間がとれないと思ったので、今日予約したのである。それが封じられたわけだから、現時点で別の候補日があるわけではないのだ。

「ちょっと考えてからまた電話します」

といって電話を切った。

さあ、どうしよう。すでに僕の頭は「散髪の頭」になってしまった。ほら、よくカレーを食べたいと思ったときに、「カレーの口」になるっていうでしょう。あれと同じ、もうどんな手を使ってでも散髪をしないと気が済まなくなっているのである。

この近くの散髪屋に、飛び込みで入ろうか、とも思ったが、さすがにそれは気が引けた。

そうだ!

ここからJRに乗って2つ目の駅は、かつて僕が通っていた散髪屋さんの最寄りの駅である。そこに行こう!

急いで電話をかけてみたが、今日はもう予約でいっぱいだとのことだった。

ま、冷静に考えてみると、予約していた店に行けなくなったからって、やけを起こして他の店に行くと、ロクなことはないのだ。

ここはいったん冷静に考えよう。

明日は土曜日で休みなので、この際、自宅の近くの散髪屋に行ってみるというのが、いちばん現実的な方法である。

スマホで探してみると、自宅から歩いて10分くらいのところに、よさげな散髪屋さんを見つけた。急いで電話すると、明日の土曜の午後の予約を取ることができたのであった。

もし明日行く散髪屋さんがよかったら、しばらくその店に通い続けることだろう。そうなるともう、リーさんのいるあのお店には、行くことはなくなるだろう。

さようなら、○○○○駅の散髪屋さん!さようなら、リーさん!

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人生で大切なことはすべて○○から学んだ

相変わらず仕事がクソ忙しいのだが、仕事の話を書くとシャレにならないほどの愚痴になるので、全然別の話を書く。

よく「人生で大切なことはすべて○○から学んだ」というフレーズがあるよね。昨日、家族とそんな話題になった。

で、調べてみると、童門冬二という作家が、

『人生で大切なことはすべて映画で学んだ』

という本と、

『人生で必要なことはすべて落語で学んだ』

という本を書いていることがわかった。おまけに、

『人生の歩き方はすべて旅から学んだ』

という本も書いていることがわかり、どないやねん!と突っ込みたくなった。いっそのこと、

『人生で大切なことは、映画、落語、旅からそれぞれ三分の一ずつ学んだ』

という本を書けばいいのに。

それはともかく。

自分にとっては、○○のところに何が入るだろう?と、昨日から考えていて、ハッと思い至った。

「人生で大切なことは、すべて『ルパン三世』から学んだ」

これだ!これに間違いない!

このところ、アニメ『ルパン三世』の再放送をやっているので、折にふれて見ているうちに、あることに気づいた。

子どものころの知識や教養は、ほとんど「ルパン三世」から学んでいたことを、である。

まず、『ルパン三世』のエピソードは、世界のありとあらゆる国が舞台となっている。当然そこには、その国の名所も登場する。ひょっとしたらノートルダム大聖堂も登場していたかも知れない。

つまり僕は、学校で習うよりも前に、「ルパン三世」を通じて世界の地理を学んでいたのである。

世界の地理だけではない。北京原人の謎やら、ジンギスカンの謎やら、世界史上のさまざまな謎もモチーフになっている。ナチスを思わせる独裁国家が登場する回もあったりして、世界史のありとあらゆる出来事が総動員されてエピソードが作られているのだ。

海外だけではないぞ。日本の歌舞伎や時代劇の知識だって得られるのだ。そもそも銭形警部とか石川五右衛門なんて名前は、時代劇へのオマージュだし、忠臣蔵をモチーフにしたエピソードや、歌舞伎の白浪五人男をモチーフにしたエピソードなんかもある。忠臣蔵のストーリーなんて、「ルパン三世」を見てはじめて知ったんじゃなかったろうか。

ほかにも、古今東西の名探偵が一堂に会する「名探偵空をゆく」というエピソードや、007シリーズをもじったタイトルなど、オマージュやパロディーまで含めると、それだけで世界の文学史や映画史が「ルパン三世」を通じて語れるのではないだろうか。

つまり、古今東西のありとあらゆる知識や教養は、子どものころに「ルパン三世」を通じて学んだのである。

知識だけではない。愛や憎しみ、友情や孤独、といった人間のさまざまな感情も、すべて「ルパン三世」の中で語られていたことである。

本編だけじゃないぞ。音楽だってそうだ。

「ルパン三世80のテーマ」は、なんといっても衝撃だった。あの曲が、自分にとってのジャズの原体験だったといってもよい。

というわけで、自分にとっては疑いなく、「人生で大切なことはすべて「ルパン三世」から学んだ」のである。

「ルパン三世」の原作者であるモンキー・パンチ先生が亡くなられたという。合掌。

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白衣で立ち仕事

4月15日(月)

昨日のクイズは、またまたこぶぎさんが見事正解していた。まったく、あの短時間でよく調べがつくものだ。

今日は隣の県で、朝から白衣を着ての立ち仕事である。朝9時半から夕方4時半まで、お昼の1時間の休憩のほかは、一つの部屋に閉じ込められて水を飲むこともトイレに行くことも座ることもできない。集中力と忍耐を強いられる仕事だが、なんとか無事に終了した。

しかしそこからがまた長い。私鉄電車と新幹線などを乗り継いで、4時間半かけて帰宅した。まったく、移動人生である。

明日も早いのでこの辺で。

 

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生憎の雨ではなく、恵みの雨

4月14日(日)

今年度最初の出張は、新幹線に乗って西に向かう。

「のぞみのとまる駅」で降りて、在来線と地下鉄を乗り継いで、市街地から少し離れた目的地に着いたのが午前11時半。生憎の雨模様である。

今日はここ「桜の名所」で、午後1時から桜にかかわるお祭りがあるのだ。出張の用務は、そのお祭りに使われるあるものを調査することである。

はじめて参加するお祭りなので、どのような規模のお祭りなのかもよくわからない。桜の名所でのお祭りだから、さぞ見物客が多いだろうと予想して1時間半前からスタンバイしていたのだが、小雨だったせいなのか、あるいは市街地から離れている立地のせいなのかはわからないが、予想していたほどのお客さんは集まっていない。ちょっと拍子抜けしてしまった。

ぱらぱらと集まってくる見物客は、観光客というよりも、地元の人のようである。観光客もいるのだが、そのほとんどは、外国人のようである。

このお祭りのメインは、ちょっとした仮装行列である。いろいろと聞き耳を立てているうちに、なぜ、このお祭りには地元の人たちが多く集まっているかが、わかってきた。

第一に、仮装行列をするメインの人たちが、地元の企業の社員のみなさんだからである。このお祭りは毎年、地元の企業にスポンサーになってもらって、おそらくその見返りに、仮装行列の主役を演じる栄誉を与えられるらしい。むろん、仮装行列でいちばん偉い人を演じるのは、その企業の社長さんである。したがって、その会社の関係者や招待客が、このお祭りを見に来るのである。

第二に、仮装行列には、地元の小学生たちも数多く参加する。華やかな衣装に身を包んだわが子を写真や動画におさめようと、その家族たちがこのお祭りの見物客として参加しているのである。

なるほど、このお祭りは、実は地元密着型のお祭りだったわけだ。

行列は、出発地のA門からB門を通り、数百メートルほど練り歩いて、目的地であるC堂広場に到着する。その間、時間にして15分くらいだろうか。見物客は、その行列の様子を見ることができるのだが、その区域は限られている。A門からB門までの道の両側に見学スペースがある。B門からC堂広場の入口までの道は立ち入り禁止区域で、仮装行列のみが通ることができる。したがって、見学ポイントは、出発地であるA門からB門までの間の道か、到着地のC堂広場の2カ所しかないのである。私たちは迷ったあげく、到着地のC堂広場で行列を待つことにした。

午後1時。出発地で法螺貝が鳴り、行列が出発する。といっても、到着地で待機している僕には、その様子はわからない。1カ所、見晴らしのいい場所があり、そこに立つと、行列がゆっくりと進んでくる姿を見ることができることがわかった。僕はすかさず、その場所に陣取った。

しばらくして行列がこちらに向かってくるのが見えてきた。思った通り、華麗な衣装を身にまとった小学生たちと、その後ろに、これまた華麗な衣装を身にまとった企業の社長以下社員たちが、ゆっくりと練り歩いてくる。

僕のまわりは、小学生の子どもの家族とおぼしき人たちばかりで、わが子の姿をカメラに収めようと必死である。なるほどこれは、学校の運動会で、わが子の写真を撮るようなものなのだな。

行列はあっという間に通り過ぎ、C堂広場に到着した。晴れていれば、広場に仮設された舞台の上で、さまざまな演目が披露されるはずである。しかし雨脚は次第に強くなり、とても演目を披露できる状況ではない。

そこで急遽、C堂の中でさまざまな演目が披露されたのであった。ふだんはC堂の中に入ることができないのだが、今日は生憎の雨という不可抗力のおかげで、C堂の中に入って、さまざまな演目を見ることができたのである。恵みの雨というべきか。

なかでも圧巻だったのは、演目の最後に行われた時代劇ショーである。映画会社の大部屋俳優の人たちが、C堂の狭い廊下を所狭しと殺陣の披露をしていた。本来ならば青空の下の舞台で大立ち回りをするはずだったのだが、雨で予定が変わり、細長いスペースで、貴重な建物に気を遣いながら殺陣をしなければならない。急な段取りの変更にもかかわらず、そこはさすがにプロである。お客さんを楽しませていた。

実は、C堂での演目がはじまる前、僕がC堂の裏手を見に行くと、C堂の裏で、ちょんまげ姿の人たちが刀を振り回していた。最初は、いい大人がチャンバラごっこでもしているのかな、と思ったのだが、最後の時代劇ショーを見て得心がいった。あれは、チャンバラ遊びをしていたのではなく、段取りの変更による殺陣の練習をしていたのだ。なんということのないお祭りで、観客もそれほどいない時代劇ショーだったのだが、それでもプロは、お客さんを楽しませようと、ギリギリまで殺陣の練習をしていたのである。

雨が降ったことでお祭りの予定に変更があり、そのおかげで、おそらく例年には見られないような貴重な場面を見ることができた。本来の調査の目的とは違うところにも、いくつもの収穫があった。

またこのお祭りを見に来るかどうかは、わからない。

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祝辞

以前に書いた「今こそ読め、『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』」という記事が、昨日、このブログ内の人気ページの上位に来ていたのは、東大の入学式で上野千鶴子が祝辞を述べたことが話題になっていることと、関係するのだろう。

この祝辞を取り上げたニュースで、大手マスコミは軒並み「東大にも性差別」という一言でまとめていたが、祝辞の本質からはかけ離れている。上野千鶴子が東大の性差別を告発した、というのがこの祝辞の本質ではないことは、公開されている祝辞の全文を読めば明らかである。これは多分に、上野千鶴子に対する固定化されたイメージから導き出されたまとめ方に過ぎず、相変わらず大手マスコミは、あらゆる対象を浅薄な記号であらわすことにしか関心がないようである。

なぜ、上野千鶴子の祝辞は、胸を打つ内容だったのか。

それは、上野千鶴子が闘う学者だったからである。その意味で、遙洋子の本のタイトルは上野千鶴子の本質を言い当てている。学問のパイオニアとは、闘う学者のことである。そして闘う学者の言葉は、思想信条を超えて、人々の心を打つと、僕は信じる。

(上野千鶴子の祝辞全文 東京大学のホームページより引用)

ご入学おめでとうございます。あなたたちは激烈な競争を勝ち抜いてこの場に来ることができました。

その選抜試験が公正なものであることをあなたたちは疑っておられないと思います。もし不公正であれば、怒りが湧くでしょう。が、しかし、昨年、東京医科大不正入試問題が発覚し、女子学生と浪人生に差別があることが判明しました。文科省が全国81の医科大・医学部の全数調査を実施したところ、女子学生の入りにくさ、すなわち女子学生の合格率に対する男子学生の合格率は平均1.2倍と出ました。問題の東医大は1.29、最高が順天堂大の1.67、上位には昭和大、日本大、慶応大などの私学が並んでいます。1.0よりも低い、すなわち女子学生の方が入りやすい大学には鳥取大、島根大、徳島大、弘前大などの地方国立大医学部が並んでいます。ちなみに東京大学理科3類は1.03、平均よりは低いですが1.0よりは高い、この数字をどう読み解けばよいでしょうか。統計は大事です、それをもとに考察が成り立つのですから。

女子学生が男子学生より合格しにくいのは、男子受験生の成績の方がよいからでしょうか?全国医学部調査結果を公表した文科省の担当者が、こんなコメントを述べています。「男子優位の学部、学科は他に見当たらず、理工系も文系も女子が優位な場合が多い」。ということは、医学部を除く他学部では、女子の入りにくさは1以下であること、医学部が1を越えていることには、なんらかの説明が要ることを意味します。

事実、各種のデータが、女子受験生の偏差値の方が男子受験生より高いことを証明しています。まず第1に女子学生は浪人を避けるために余裕を持って受験先を決める傾向があります。第2に東京大学入学者の女性比率は長期にわたって「2割の壁」を越えません。今年度に至っては18.1%と前年度を下回りました。統計的には偏差値の正規分布に男女差はありませんから、男子学生以上に優秀な女子学生が東大を受験していることになります。第3に、4年制大学進学率そのものに性別によるギャップがあります。2016年度の学校基本調査によれば4年制大学進学率は男子55.6%、女子48.2%と7ポイントもの差があります。この差は成績の差ではありません。「息子は大学まで、娘は短大まで」でよいと考える親の性差別の結果です。

最近ノーベル平和賞受賞者のマララ・ユスフザイさんが日本を訪れて「女子教育」の必要性を訴えました。それはパキスタンにとっては重要だが、日本には無関係でしょうか。「どうせ女の子だし」「しょせん女の子だから」と水をかけ、足を引っ張ることを、aspirationのcooling downすなわち意欲の冷却効果と言います。マララさんのお父さんは、「どうやって娘を育てたか」と訊かれて、「娘の翼を折らないようにしてきた」と答えました。そのとおり、多くの娘たちは、子どもなら誰でも持っている翼を折られてきたのです。

そうやって東大に頑張って進学した男女学生を待っているのは、どんな環境でしょうか。他大学との合コン(合同コンパ)で東大の男子学生はもてます。東大の女子学生からはこんな話を聞きました。「キミ、どこの大学?」と訊かれたら、「東京、の、大学...」と答えるのだそうです。なぜかといえば「東大」といえば、退かれるから、だそうです。なぜ男子学生は東大生であることに誇りが持てるのに、女子学生は答えに躊躇するのでしょうか。なぜなら、男性の価値と成績のよさは一致しているのに、女性の価値と成績のよさとのあいだには、ねじれがあるからです。女子は子どものときから「かわいい」ことを期待されます。ところで「かわいい」とはどんな価値でしょうか?愛される、選ばれる、守ってもらえる価値には、相手を絶対におびやかさないという保証が含まれています。だから女子は、自分が成績がいいことや、東大生であることを隠そうとするのです。

東大工学部と大学院の男子学生5人が、私大の女子学生を集団で性的に凌辱した事件がありました。加害者の男子学生は3人が退学、2人が停学処分を受けました。この事件をモデルにして姫野カオルコさんという作家が『彼女は頭が悪いから』という小説を書き、昨年それをテーマに学内でシンポジウムが開かれました。「彼女は頭が悪いから」というのは、取り調べの過程で、実際に加害者の男子学生が口にしたコトバだそうです。この作品を読めば、東大の男子学生が社会からどんな目で見られているかがわかります。

東大には今でも東大女子が実質的に入れず、他大学の女子のみに参加を認める男子サークルがあると聞きました。わたしが学生だった半世紀前にも同じようなサークルがありました。それが半世紀後の今日も続いているとは驚きです。この3月に東京大学男女共同参画担当理事・副学長名で、女子学生排除は「東大憲章」が唱える平等の理念に反すると警告を発しました。

これまであなたたちが過ごしてきた学校は、タテマエ平等の社会でした。偏差値競争に男女別はありません。ですが、大学に入る時点ですでに隠れた性差別が始まっています。社会に出れば、もっとあからさまな性差別が横行しています。東京大学もまた、残念ながらその例のひとつです。

学部においておよそ20%の女子学生比率は、大学院になると修士課程で25%、博士課程で30.7%になります。その先、研究職となると、助教の女性比率は18.2、准教授で11.6、教授職で7.8%と低下します。これは国会議員の女性比率より低い数字です。女性学部長・研究科長は15人のうち1人、歴代総長には女性はいません。

こういうことを研究する学問が40年前に生まれました。女性学という学問です。のちにジェンダー研究と呼ばれるようになりました。私が学生だったころ、女性学という学問はこの世にありませんでした。なかったから、作りました。女性学は大学の外で生まれて、大学の中に参入しました。4半世紀前、私が東京大学に赴任したとき、私は文学部で3人目の女性教員でした。そして女性学を教壇で教える立場に立ちました。女性学を始めてみたら、世の中は解かれていない謎だらけでした。どうして男は仕事で女は家事、って決まっているの?主婦ってなあに、何する人?ナプキンやタンポンがなかった時代には、月経用品は何を使っていたの?日本の歴史に同性愛者はいたの?...誰も調べたことがなかったから、先行研究というものがありません。ですから何をやってもその分野のパイオニア、第1人者になれたのです。今日東京大学では、主婦の研究でも、少女マンガの研究でもセクシュアリティの研究でも学位がとれますが、それは私たちが新しい分野に取り組んで、闘ってきたからです。そして私を突き動かしてきたのは、あくことなき好奇心と、社会の不公正に対する怒りでした。

学問にもベンチャーがあります。衰退していく学問に対して、あたらしく勃興していく学問があります。女性学はベンチャーでした。女性学にかぎらず、環境学、情報学、障害学などさまざまな新しい分野が生まれました。時代の変化がそれを求めたからです。

言っておきますが、東京大学は変化と多様性に拓かれた大学です。わたしのような者を採用し、この場に立たせたことがその証です。東大には、国立大学初の在日韓国人教授、姜尚中さんもいましたし、国立大学初の高卒の教授、安藤忠雄さんもいました。また盲ろうあ三重の障害者である教授、福島智さんもいらっしゃいます。

あなたたちは選抜されてここに来ました。東大生ひとりあたりにかかる国費負担は年間500万円と言われています。これから4年間すばらしい教育学習環境があなたたちを待っています。そのすばらしさは、ここで教えた経験のある私が請け合います。

あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと...たちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。

あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。女性学を生んだのはフェミニズムという女性運動ですが、フェミニズムはけっして女も男のようにふるまいたいとか、弱者が強者になりたいという思想ではありません。フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です。

あなた方を待ち受けているのは、これまでのセオリーが当てはまらない、予測不可能な未知の世界です。これまであなた方は正解のある知を求めてきました。これからあなた方を待っているのは、正解のない問いに満ちた世界です。学内に多様性がなぜ必要かと言えば、新しい価値とはシステムとシステムのあいだ、異文化が摩擦するところに生まれるからです。学内にとどまる必要はありません。東大には海外留学や国際交流、国内の地域課題の解決に関わる活動をサポートする仕組みもあります。未知を求めて、よその世界にも飛び出してください。異文化を怖れる必要はありません。人間が生きているところでなら、どこでも生きていけます。あなた方には、東大ブランドがまったく通用しない世界でも、どんな環境でも、どんな世界でも、たとえ難民になってでも、生きていける知を身につけてもらいたい。大学で学ぶ価値とは、すでにある知を身につけることではなく、これまで誰も見たことのない知を生み出すための知を身に付けることだと、わたしは確信しています。知を生み出す知を、メタ知識といいます。そのメタ知識を学生に身につけてもらうことこそが、大学の使命です。ようこそ、東京大学へ。

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子連れ狼ならぬ子連れ熊、バスに6回乗る

4月12日(金)

慣らし保育も2週目の金曜日である。

今日はなかなか忙しい。慣らし保育の2週目ともなると、3時半にお迎えに行くのだが、今日はちょっと早め、1時半にお迎えに行くことになった。理由は、病児保育所の登録をするためである。

初めて知ったのだが、病児保育所、というものがあるらしい。

ふつうの保育園は、園児が37度5分以上の場合、預かることができない。ほかの園児に感染すると困るからである。

つまり病気になってしまうと保育園に預けられなくなってしまうのだが、そんなときに預ける保育園が、病児保育所である。

市内に2カ所あるという。そのうちの1カ所は、すでに妻が登録に行ったのだが、もう1カ所は、面談の時間が決まっており、しかも親子そろって面談をした上で登録をしなければならないという。面談の時間は午前10時か午後3時ということだったので、午後3時の面談を予約し、保育園を早退することにしたのだった。ちなみに今日の送り迎えは僕である。

午前9時に保育園に預けたのだが、あっという間に午後1時半になるね。保育園に迎えに行くと、園児たちは昼寝の最中だった。寝ている娘を起こして連れて行くのは忍びないと思いながらも、仕方なく連れて行くことにした。

「だいぶ慣れてきたので、来週からは通常の保育にしましょう」

「そうですか!ありがとうございます」今日で慣らし保育は、終了である。

保育園を出て、娘をバギーに乗せて、バス停に向かう。

この「バギー」という言い方が、いまだに慣れない。つい「ベビーカー」と言ってしまう。さらに僕の子供の頃は「乳母車」と言った。

さあ、ここからが長旅である。

バギーを押して、バス停に向かい、そこからバスに乗り、途中の停留所で降りる。さらにそこから別のバスに乗り換え、目的の病児保育所に近いバス停で降りるのである。うーむ。意外と面倒くさい。

保育園を出てから1時間以上かかって、ようやく病児保育所に着いた。

そこで、いろいろと説明を受けるのだが、病気になったからといって、どんな場合でも預かってくれるというわけではないのだという。

ふつうの風邪ならば問題ないが、たとえば天然痘とかペストとかといった伝染病はダメである。

…それはあたりまえか。もっと身近な、インフルエンザとか、ノロウィルスとかを例に出した方がよかったな。

とにかく、意外と手続きが面倒くさい。それに交通が不便なこともあり、なるべくならお世話にならないようにしようと心に誓ったのであった。

さて、病児保育の面談が終わった後は、娘を耳鼻科に連れて行かなければならない。昨日から、鼻水が止まらないのである。

再びバスに乗り、途中の停留所で別のバスに乗り換え、いったん家の最寄りのバス停で降りる。そこから今度は、徒歩で15分ほどかけて、耳鼻科の病院に向かうのである。

同じ市内なのに、やはり1時間くらいかかって、ようやく到着した。

診察が終わり、また徒歩で15分ほど歩いて、薬局で薬をもらい、ようやく今日の予定をすべてこなすことができたのであった。

今日は子連れ狼よろしく、「乳母車」を押しながら、市内を行ったり来たりの大移動であった。帰宅して夕食にカレーを作って食べたら、いつの間にか僕は大鼾をかいて気絶してしまった。

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たぶん大雨のせいだ

4月11日(木)

出演依頼を断った朝のワイドショー番組を動画サイトで見てみたが、出演しなくてよかったと安堵した。

この件について僕が言いたいことは、すでにTBSラジオ「荻上チキ Session22」で、パーソナリティーの荻上チキさんが述べているので、ラジオクラウドを参照のこと。

昨日(10日)は、真冬のような冷え込みだった。朝から晩まで大雨が降っていた。

認可保育園に落ちて、認可外保育園に通っている、ということはすでに述べた。いまの認可外保育園は、認可外の中では第2希望のところだったので、とくに不満はないのだが、それでも、自宅の目の前にある認可保育園に、もし空きができたら、転園させたい、という希望がある。その方が、圧倒的に負担が軽くなるからである。

さてその認可保育園は現在、1歳児クラスに1名だけ空きがあるというので、二次募集を行っている。そこで、申請することにしているのだが、諸々の書類の締切が昨日、つまり10日までであるという。郵送でもかまわないし、直接市役所に持っていってもかまわないという。

その前日(9日)に、申請に必要な妻の復帰証明書をようやく入手できたので、郵送ではすでに間に合わず、非番だった私が、締切の日の10日に、直接市役所に持っていくことにした。

申請の際には、ほかに、「現在認可外保育園に入園していることを証明する書類」も必要である、という。

認可保育園に入る際には、さまざまな条件が点数化されていて、その点数に応じて、入園できるかどうかが決まる。これはおそらく、どこの自治体もそうである。ただ、自治体によって、点数の基準はそれぞれだと思う。

たとえば、親がフルタイム勤務であれば、当然点数が高いのだが、それだけでは、認可保育園には入れない。なぜなら、みんなそうだからである。そこに何らかの+αがないと、点数が抜きん出ないのである。

そのひとつが、「認可外保育園に入っている」という実績である。すでに保育園に通っているという実績があれば、それは+αの点数になるというのである。もちろんこれは、あくまでもうちの自治体の基準である。

うちは4月から保育園に入園したばかりだが、それでも通っている事実には変わりないのだから、その事実を証明すれば、(うちの自治体の基準では)点数が4点ほどアップすることになるのである。

だが、入園したばかりの保育園に「認可保育園の第二次募集に申請したいので、在園証明書を書いてください」とは言いにくい。そのことを事前に市役所に電話で問い合わせたところ、

「契約書のコピーで大丈夫です」

という。ということで、書類を揃えて、市役所に出しに行くことにした。

娘を保育園に預けたあと、バスを乗り継いで市役所に向かう。市役所はなかなか不便なところにあるのだ。

大雨で道が混んでいたせいもあり、なおさら時間がかかった。

市役所4階の担当部署に書類を提出すると、担当の職員さんが、書類に目を通して言った。

「あのう…」

「なんでしょう?」

「保育園に月12日以上、1日4時間以上預けている、という証明が必要なんですが…」

「契約書に書いてありませんか?」

「書いてありませんねえ。これでは不十分です」

「でも、契約書があればいい、と聞いたので…」

「いえ、大事なのは、月12日以上、1日4時間以上預けているという契約になっているかどうかなのです」

聞いてないぞ!

市役所の人は続けた。

「この契約書を拝見しますと、契約時間については別紙参照とありますね。この別紙がないと、契約時間についての証明ができませんので、点数が下がってしまいます」

「下がるんですか?」

「ええ。通常だと4点ですが、契約時間がわからないと1点です」

なんと!4点と1点では、大きな差である!しかし、契約時間を記した「別紙」なるものがあるかどうか、家に帰ってみないとわからない。この大雨の中を、また市役所まで往復するのは、かなりつらい。

「なんとかなりませんかねえ。フルタイムで働いているんですから、月12日以上、1日4時間以上預けているのは当然だと思うんですが」

「そう言われましても必要な書類がありませんと…。保育園は幼稚園と違って、入園の条件が厳密なんですよ」

「とりあえずいまある書類を提出して、後日、契約時間を記した別紙を持ってくる、というのは…」

「締切は今日の5時までなので、それまでに持ってきていただかないと…」

「そうですか…」杓子定規だが、それがお役所の対応というものなのだろう。

担当者は、先輩職員とおぼしき人に相談しに行き、戻ってきて僕に言った。。

「では、こうしてください。いまここで誓約書を書いてください」

「誓約書?」

「月12日以上、1日4時間以上預けているという誓約書です」

そう言うと、文案を書いた紙を渡された。

「このように書いてください」

A4版の白紙のコピー用紙を渡され、ここに文案どおりに手書きで書けという。

「○○保育園の契約時間について、月12日以上、1日4時間以上であることを誓約します。上記に相違があった場合、内定取消になることに同意します」

温情と言うべきかも知れない。だがこんな誓約書を書かされるとは、一方でなんとも屈辱的である。大雨でずぶ濡れの身にとっては、ふだん以上に屈辱と感じるのだ。

よくわからんが、巷間言われている、生活保護の申請なども、こんな感じなんだろうな。認可保育園に入りたいあまりにごまかすヤツがいるから条件を厳密にしようという、市役所が市民を性悪説でとらえていることが、よくわかる事例である。もちろんこれは、職員個人の問題ではなく、構造的な問題である。

「これで大丈夫です」

と言われたのだが、手書きの誓約書というのは、いかにも心証が悪い。こうなったら、横着をせずに、ちゃんと書類を揃えよう。家に戻って、「別紙」なるものを見つけ出し、もう一度、大雨の中を市役所に向かった。

再び4階の部署に行く。

「先ほどの者です」

といって、契約時間を書いた「別紙」を提出した。

「これでいいですか?」

「はい、これで大丈夫です」

「ほかに不足しているものはありませんね?」

「はい、これで大丈夫です」

「あのう…事前に電話で確認したときには、契約時間について書いたものが必要だとは聞きませんでした」

「ふつうは契約書に書いてあると思ったものですから、とくに説明しておりませんでした。すみません」

「この保育園のように、契約時間を別紙に記載する例がほかの保育園でもあると思いますので、今後説明される際には、申請の際には契約時間がわかる書類が必要だということを明言する必要があると思いますよ」

「わかりました。今後検討します」

またしても僕は、クレーマーになってしまった。

僕がこんな文句を言ったところで、状況は何も変わるはずもあるまいと、例によってひどく反省をしたのであった。

それもこれも、たぶん、大雨のせいである。

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用件を聞かずに居留守を使う

4月9日(火)

やることが多すぎて、何から手をつけていいかわからない。

とりあえず、職場の仕事部屋で、明日締め切りの書類の原稿を一所懸命書いていたら、会議を一つ、飛ばしてしまった。

手帳にメモしておかなかったこっちが悪いのだが、ずっと仕事部屋にいたのに、誰も呼びに来ないって、どういうことだ???

僕がいないことに、誰も不審に思わなかったということは、その会議にとって、僕はあんまり必要とされていないんだな。

そんなことはともかく。

夕方に電話が鳴った。電話を取り次いだ警備員さんからである。

「○○テレビの方から鬼瓦先生にお電話が来ています」

「○○テレビ?何でしょう?」民放のテレビ局が、何の用だろう?

「何でも、特番をやるとかで、先生にお願いがあるとか」

出演の依頼だろうか?うーむ。僕は以前に一度、テレビ出演して懲りているのだ。僕は迷ったあげく、電話をとらないことにした。

「すみません。不在だと先方に言ってください」

「取り次がないと言うことですね」

「はい」

こうして僕は、用件を聞くことなく、居留守を決め込んだのである。

特番って、何だろう?俺に何かコメントを求めるような出来事が、最近あったっけ?どうも思い浮かばない。

何の依頼だったのか、聞くだけ聞いておいてもよかったかなと、一瞬思ったのだが、まあこれで次に連絡が来なければ、先方は諦めたと思うし、諦めなければ、また連絡が来るだろう。そのときにお話を聞いてみようと思ったのである。

さて、帰宅途中の電車の中で、メールをチェックしてみると、先ほどの民放のテレビ局のスタッフとおぼしき人から、メールが来ていた。

「お世話になっております、○○テレビ「××××」の△△と申します。

急なご連絡で大変恐れ入りますが、昨日報道された◇◇◇の件につきましてスタジオでお話しいただける先生を探しておりましてご連絡させていただきました。

急な話ですが、「◇◇◇を徹底解剖(仮)」は明日の放送を予定しており、内容としましては、
・これこれ
・それそれ
・あれあれ
等についてお話いただけますと有り難いと思っております。

大変恐れ入りますが、メールをご確認されましたら、下記連絡先までご連絡ちょうだいできますと幸いです。」

なんと!特番ではなく、朝の老舗ワイドショー番組からだった!電話を取り次いだ警備員さんは、たぶん聞き間違えたんだな。

しかも、明日朝の生放送にスタジオ出演して、コメントしてほしいというではないか!いきなりすぎるだろ!

まず、着ていく服がない。それに、明日は「慣らし保育」でちょうどその時間は娘を保育園に預けに行かなければならないのだ。物理的に無理である。

それになあ。

あの番組、コメンテーターとしてたまに出ているあいつとあいつのことが、嫌いなんだよなあ。ああいうやつらと一緒にされたくないよなあ。あと、メインの大物司会者の隣にいるアナウンサーも、嫌いなんだよなあ。

ただ、メインの大物司会者を間近で見てみたい、という気持ちはある。それと、本好きのあの方がコメンテーターとして出るんなら、出てもいいかなあ。

いろんなことが頭を駆けめぐったが、どっちにしろ朝のワイドショーに出演することはとてもリスキーなので、お断りすることにした。

「せっかくだから出たらいいじゃん。ブログのネタになるし」

という声も聞こえてきそうだが、身を削ってまで、ブログのネタにしたくはない。

それにしても、何で俺のところにいきなり出演依頼が来たんだろう?

さしずめ、ネットで検索したら俺の本のタイトルがヒットしたから、とりあえず出演依頼をしてみたってところなんだろう。こんな時代が来ると知っていたら、あんなタイトルにするんじゃなかった。

…というわけで、朝の老舗ワイドショー番組にスタジオ生出演の依頼が来たけれど、それをお断りした、というお話でございました。

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強啓ロス

TBSラジオ「荒川強啓 デイキャッチ」が、3月末をもって終了してしまった。

心のよりどころがまた一つ、なくなってしまった…。

「荒川強啓 デイキャッチ」は、平日の午後3時半から5時50分まで放送されているので、リアルタイムで聴く機会はほとんどなかったのだが、夜、家で夕食を食べながら、「デイキャッチ」のラジオクラウドを聴くのが、ここ最近の習慣になっていた。

とくに好きだったのは、金曜日のコメンテーター・宮台真司の暴走っぷりである。

「はっきり言って、クソ政策ですね」

「クズ政治家」

「クソ政権の、ケツ舐め外交」「ケツ舐め官僚」

「朝まで生テレビ」における大島渚監督の「バカヤロー!」発言と同じように、宮台真司が、番組の中で「クソ」「クズ」「ケツ舐め」をどのタイミングで、何回言うのかが、僕のもっぱらの関心事だった。

最終回なんて、最後だとばかりに連発していたからね。まるで打ち上げ花火のフィナーレを見ているようだった。

宮台真司の暴走に対して、さすがの強啓さんも、呆れて何も言えなくなる場面がしばしばあった。というか、宮台真司が暴走しすぎて何言ってるかわからない時の、強啓さんの困った感じ、というのがたまらなく好きだったのだ。

「デイキャッチ」は、コンテンツとしてとてもよくできていた。「荻上チキのセッション22」は、聴くと疲れるのだが、「デイキャッチ」は、適当に力を抜いた感じで、それでいてその日のニュースが硬軟取り混ぜてよくわかる構成になっていた。疲れて帰ってきて、夕食を食べながら聴くのにちょうどいい温度の番組だった。

アシスタントの片桐千晶さんとの相性もよかった。強啓さんの「前の勤務地」と、片桐さんの出身地が同じだったことも、相性がよかった理由かもしれない。

さすがに最近、強啓さんも年齢が年齢だけに、ちょっとおとろえたかな、と、聴いていて思わなくもなかったが、それがまた味になっていて、これからいよいよ「志ん生」の域にまで達するのではないかと、楽しみでもあった。

これからはどうやってニュースを「インプット」すればいいのだろう?(…あ、こういうときに「インプット」って使うのか!)

2019年2月16日(土)のTBSラジオ「久米宏 ラジオなんですけど」の「空白の12分」(オープニングトーク)の中で、強啓さんとの出会いや、強啓さんの人柄について、久米さんが例によってまどろっこしく語っているが、これは「デイキャッチ」が終了することに対する、久米さん流のねぎらいの言葉だったんだろう。

もし放送局の上層部が、今の元号が終わるタイミングで「デイキャッチ」の使命が終わったと考えているのだとしたら、「改元」はとても迷惑なものである。

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射程と地平

嫌いな言葉、というのがけっこう多い。

最近、嫌いだなと思うのが、「インプット」「アウトプット」という言葉。

何かの情報を仕入れることを「インプット」と言ったり、こちらから情報を提供したりすることを「アウトプット」と言ったりするようだ。

たいした情報でなくても、「インプット」「アウトプット」と言ったりすれば、何かすげえ知的営為であるように聞こえるから不思議である。SNSとかブログとかで、「インプット」「アウトプット」という言葉をふつうに使っている人がいたりするけど、ちょっと僕は恥ずかしくて使えない。あれって、やっぱり自己啓発本か何かで使われている言葉なんだろうか。

あと、本や論文のタイトルで「…の射程」って使ったりしているものがけっこうあるけど、あれも好きではない。そもそも「射程」ってどういう意味なんだ?「…の射程」ってタイトルをつけることで、どんな内容であることを喚起しているのだろうか?

タイトルの最後に、「…の射程」ってつければ、なんとなくかっこいいタイトルになるからという理由で使っているようにしか思えないのである。

試みに、Amazonの「本」のカテゴリーで、「射程」と入れて検索してごらん。ありとあらゆる分野の「射程」が出てくるぞ!サイニーの論文検索で「射程」を検索してみると、実に3000件以上の論文がヒットする。

いまや、「射程」ブームなのだ。流行語大賞の候補と言ってもいい。

あと、「…の地平」ね。これもAmazonの「本」のカテゴリーで「地平」と入れて検索してみたら、ありとあらゆる分野の「地平」が出てくるぞ。サイニーで論文検索すると、2000件以上がヒットする。これも意味がよくわかんないのだが、「地平」がついてるとなんとなくかっこいいタイトルになると思ってるのかなあ。

もうさ、「…の射程」「…の地平」というタイトルの本とか論文を見つけたら、タイトルをノリでつけている感じがして、なんとなく信用できない感じがするんだよね。あくまでも個人的感想だが。

今、売れる本を書くとしたら、

残念な元号』『ヤバい元号』『元号論の射程』『元号制定の新地平』

あたりなんじゃないだろうか。

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怒濤の予感

4月5日(金)

今年度は、職場で5つの委員会をかけ持ちすることになった。

それも、かなり重い委員会ばかりである。

もちろん、これ以外にも、通常の業務や出張や臨時の委員会などがある。こうなると、日程調整がかなり難しい。

人使い荒すぎだろ!

加えて、本務以外に外部から頼まれた仕事もある。さらにノルマの原稿や書類も書かなければならない。

今日は、午前10時から午後5時過ぎまで、各2時間ずつ、3つの会議が続いた。いずれも重い内容のもので、集中力を切らすことができない。会議が続けば、当然、書類や原稿を書く時間がなくなる。

会議に使うエネルギーの多くは、「人間関係の調整」に費やされる。議論が平行線にならなくするために、どのような落とし所を見つけるか、ということを、その時々の情勢を見極めながら状況判断していかなければならない。といって、中身のないまとめ方をするわけにはいかない。これがまた疲れるのだ。

それに加えて、片道2時間半、往復5時間の通勤時間である。

「往復5時間もあると、本が読めていいですね」と言ってくれる人がいるが、とんでもない!最近は、往復5時間の通勤の電車の中では、ほとんど気絶しているのだ。

だから今一番したいことは、「時間をとって本を読むこと」である。

さらにこれに加えて、昨年の秋の「申請書祭り」の際に提出した「予告編」が、「三度目の正直」で見事当選!して、実際に本編を作らなければならなくなった。

しかも、(C)ではない。(B)ですぞ!

もちろんありがたく、うれしいことなのだが、この状況で、さらに本編を作らなければならないとなると、どうやって時間をやりくりしていいものか…。

万が一、もう一つ申請している予告編が当選してしまったら、死んでしまうだろうな。

もちろん、育児のこともある。というか、これが一番心配。

まだ新年度が始まって1週間しかたっていないのに、すでにぐったりである。こんな調子で、1年間が続くのだろうか…。

うーむ。困った。

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狂い泣きサンダーロード

4月4日(木)

ついさっきまで機嫌がよかったと思えば、夜寝る頃になると、突然大泣きを始める。

理由がわからない。

妻が授乳をして寝かせようとするのだが、それでも泣き止まない。

僕が抱っこして、部屋の中をゆっくりと歩き回るが、むしろ狂い泣きをする。

ま、たいていの場合、僕が抱っこをすると泣くことが多いのだが、それにしても今日の泣き方は尋常ではない。

悪霊にでも取り憑かれたか?というくらい、大泣きするのである。

いつもならば、それでも10分もすれば寝てしまうのだが、今日はむしろ泣き方が激しくなるばかりである。

たいていの場合、抱っこを妻に代われば泣き止むものなのだが、妻に代わっても、狂い泣きは変わらない。

ミルクが飲みたいのだろうか?と思って、ミルクを作って哺乳瓶で飲ませようとすると、激しく拒絶する。ということは、ミルクが飲みたいわけではないんだな。

夕食に何か悪いものでも食べさせてしまったのだろうか?とも考えたが、もしそうだとしたら、吐いたりするはずである。だが、そういう症状はなく、熱があるわけでも、何かアレルギーが起きてるわけでもない。単なる狂い泣きなのである。

するとあれか?便を軟らかくする薬を飲んだから、おなかが痛いのだろうか?

ひどく便秘気味で、しかも便が硬いため、月曜日に病院に行って便を軟らかくする薬をもらって、朝夕に飲ませていたのだ。にもかかわらず、今日は排便していない。ということは、便意があるがうんちが出ないために、おなかが痛くなって泣いてるのだろうか?

お腹をさすってみるが、全く泣き止む気配はない。

テレビをつけてみたらどうだろう?テレビの方に注意が向けば、とりあえず何で泣いているかを忘れて、泣き止むのではないだろうか?

テレビをつけると、最初のうちはテレビの方に注意が向いて泣くのを忘れるようだが、しばらくたつとまた狂い泣きする。

うーむ。打つ手なしか?

「尋常な泣き方ではないね」

「今までこんなに泣くこと、なかったよね」

この夜中に病院に連れて行こうか、という考えが脳裏をかすめる。

「一応、おむつを替えてみるか」

おむつを替えてみてたところ、嘘のようにピタッと泣き止んだ。

ええええぇぇぇっ!!!原因はおむつだったの???

少しおしっこをしていたようだったが、そんな狂い泣きするほどおしっこがたまっていたわけでもない。

それでも、おむつを替えてもらえないことが、狂い泣きするほど気持ち悪かったのかもしれない。

ということで、暫定的な結論ですが、狂い泣きの原因は「おむつを替えていなかったから」に決定したいと思います。

「狂い泣き おむつ替えたら 泣き止んだ」

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慣らし保育

4月3日(水)

保育園入園後、最初のうちは、保育園に慣れさせるために「慣らし保育」というのがある。

「慣らし保育」の期間は、フルタイムで預けるのではなく、午前中の2時間程度預けるだけなので、預けたと思ったら、すぐに迎えに行かなければならない。

子どもも慣れないだろうが、親も慣れない。

入園式の時、園長先生は「お子さんを預ける時、申し訳ない、とか、ごめんね、という顔をしてはダメです。気持ちはわかりますが」とみんなに説明していた。つまり、預けるときは、親が明るい顔をしないと、子どもが不安になる、ということなのだろう。

朝9時に保育園に行くと、やはり「慣らし保育」で子どもを預けるお母さんが1人、私より一足早く来ていた。

そのお母さんが子どもを預けて部屋を出て行ったあと、僕が子どもを預けて部屋を出たのだが、部屋の外で、そのお母さんがまだ残っていて、部屋の中の様子をじっと見ていた。まるで「家政婦は見た!」みたいな感じで。

どうやら預けた子どもは泣き叫んでいるらしい。そのことが心配で、そのお母さんはなかなか保育園を出ることができないのだろう。

部屋を出た僕が、そのお母さんと目が合うと、すみません、という感じで、そそくさと保育園の玄関の方に歩いて行った。僕もそのあとに続いて、玄関の方に歩いて行く。

玄関で靴を履いて、「よろしくお願いします」といって僕は保育園を出たのだが、そのおかあさんは、なかなか出ようとはしない。子どものいる部屋を向いて、部屋から漏れる泣き声を聞いて、少し涙ぐんでいる様子だった。

そこに園長先生が通りかかり、

「大丈夫ですよ」

というと、そのお母さんは、

「ごめんなさい。つい気になっちゃって」

と、涙をぬぐって、ようやく保育園を出る決心をしたようだった。

あまりにその様子が哀れに見えたので、僕もつい、

「じきに慣れますよ」

とそのお母さんに言って、保育園をあとにした。

さて、2時間後。

保育園に迎えに行くと、娘は一心不乱に遊んでいた。

保育士さんが、

「全然泣きませんでしたし、おやつもしっかり食べましたよ。お遊びもしていたし」

と言った。

うちの娘は、3月末生まれなので、1歳児クラスの中でも最年少なのだが、そんなことも関係なく、ふてぶてしく遊んでいたようだった。

保育士さんが付け加えた。

「うんちもしてましたよ」

「うんち、したんですか?」

「ええ」

「硬かったですか?」

「いえ、普通便でした」

「そうですか」

「ふつう、保育園に入ったばかりだと、緊張してうんちが出ないものなんですが、うんちが出たってことは、さほど緊張していないということなんでしょう」

入園式の時に、園長先生がうちの娘を見て、「大物になるわね」と声をかけてくれたことを思い出した。

娘はとくに泣きわめくこともなく、無事に「慣らし保育」1日目を終えた。

そういえば、朝のお母さんとその子どもさんは、どうなったのだろう?

ひとつ思ったのは、親が泣けば、子どもも泣く。親が笑えば、子どもも笑う。

だから笑って送り迎えすることが大事なのではないか、と。

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入園式と浣腸

4月1日(月)

午前10時に始まった入園式は、11時30分頃に終了した。

明日からがいよいよ、正念場である。

保育園の近くで昼食を済ませたあと、妻は職場に向かった。僕は娘を連れて、家に戻った。

ひとつ心配だったのは、娘の便が硬く、便秘気味であるということである。

先週の土曜日、硬い便が出たあと、ちょっとした出血が見られた。おそらく切れ痔であろう。

しかも今日は、まだうんちが出ていない。

かかりつけのお医者さんのところに行くと、先生が、

「浣腸をしましょう」

という。

娘を別室に連れていき、ベッドに寝かせると、何かを察したのか、火が付いたように泣き出した。

看護師さんが、大きな浣腸器具を持ってきた。

肛門のところにズボッと入れたと思ったら、ニュルニュルニュル、と、ゼリー状のものを注入した。

「これで10分間お待ちください」

「10分ですか?」

「はい。10分経つとおむつの中にうんちをすると思いますから、うんちが出たら、おむつを取り替えてください。念のため、先生がうんちを確認しますので、うんちが出た方のおむつは、捨てずに提出してください」

「わかりました。10分後ですね」

「ええ。ただ、人によって10分経ってもうんちが出ない場合もありますので、場合によってはもっとかかるかも知れません」

「そうですか」

別室を出て、待合室で待っていると、すぐに娘が息み出した。

5分も経たないうちに、うんちが出たようである。

恐るべし、浣腸の効果!

腸の中のうんちを出し切った娘は、苦渋から解放されたからなのか、家に帰ってしばらく熟睡してしまった。

ということで、新年度は浣腸から始まったのであった。

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POISSON D'AVRIL

高橋幸宏特集。

 

 

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