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サインください

7月13日(土)

講演会の日。

20年来の付き合いのあるIさんから、講演を依頼されたのである。これは断るわけにはいかない。

事前申込制にしたところ、申し込み受付をの初日に、即日で定員の85名に達したという。実施には、120名くらい申し込みがあったとのことで、定員に達した時点で、すべてお断りしたのだという。

「高校生が二人、申し込んできましたよ」

「それは珍しいですね」

僕の講演会を聞きに来る人は、ご高齢の方がほとんどと相場が決まっていたので、高校生が聞きに来ることなど、めったにないのだ。

「鬼瓦先生の講演をぜひ聴きたいって言ってました」

「そうですか」はて、知り合いがいるわけでもないし。

「サインください、なんて来るんじゃないですか?」Iさんは私をからかった。

「まさか」

僕は大学生や高校生の前で授業をしたりすることを、もう何年も前にやめてしまっているので、いまの高校生が、僕の授業なり講演なりを聴く機会が、これまでにあるはずもない。つまり僕は、無名の人間なのである。

おおかた、高校の先生にでも言われたのだろう、と思った。

さて、講演会が始まった。

講演会の直前は、いつも不安でいっぱいである。自分が準備した内容が、企画の趣旨に合っているか、とか、1時間半なり2時間なり、決められた時間を最後まで話すことができるだろうか、とか。前の晩は、そんなことばかり悩んで、何も手につかなくなる。

ところがいざ講演会が始まると、時間を忘れてしゃべってしまい、つい終了時間をオーバーしてしまうから不思議である。今回も、15分ほど時間を超過してしまった。

一番前の席では、高校生らしき男の子2人が、熱心に聴いていた。

講演会が終わると、高校生が僕の前にやってきて、そのうちの一人が、講演の内容に関して質問してきた。僕はその質問に答えた後、逆に彼に質問した。

「講演の内容、どうだった?」

「とても面白かったです」

不思議である。内容はきわめて地味でマニアックなものでおよそ高校生には理解されないだろうと思っていたのだが、どうやらあるていどは伝わったらしいのだ。

ほかの方が次々に僕のところに来て、その質問に対応したのだが、その間も、その高校生は会場に残っていて、すべての質問に対応し終えた後、もう一度、その高校生が僕のところに来た。

「あの…お願いがあるんですけど」

「何です?」

「サインをいただけますか?」

そう言うと、高校生は、今回の講演会のチラシと、サインペンを取り出した。

「ここにサインをください」

まさか、冗談で言っていたことが本当に起こるとは!

「サインなんかしたことないよ」

「そうなんですか」

僕はサインペンを手に取って、講演会のチラシの適当な箇所に、自分の名前を書いた。我ながらかなりの悪筆で、書いていて恥ずかしくなってしまった。こんなものが記念になるのだろうか。

「ありがとうございます」

と言って、僕のサインの書かれたチラシを持ってその高校生は帰っていった。

俺のサインなんかもらってどうするつもりだろう。俺は別にテレビに出ているわけでもないし、売れている本を書いているわけでもないのだ。これから先も、売れる予定はない。

僕は狐につままれたような気持ちになった。

しかし、僕の地味な話を、1時間45分も飽きずに聴いていてくれたのだ。それだけでも講演をした甲斐があった。

その高校生に幸多かれと願わずにはいられない。

 

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