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2019年8月

簡易ベッドの闇

8月30日(金)

娘の入院2日目。

昨晩は、実家の母に病室に泊まってもらい、僕は夜10時頃に家に戻り、今日は朝7時から午後9時過ぎまで、途中2時間ほど中抜けしたが、病室で付き添っていた。で、申し訳ないことに今日も、実家の母に病室に泊まってもらうことにした。

「昨日はよく眠れた?」

と母に聞くと、

「眠れるわけないでしょう」

と、笑いながら答えた。

「この簡易ベッド、見てみなさいよ」

病室に置かれた簡易ベッドは、「簡易というにもほどがあるだろ!」というくらい、貧相なベッドである。いや、これを見た人は、これがベッドであるとは気づかないのではないか、というくらい、鉄パイプと布を簡単に組み合わせただけの粗雑な作りである。

どう考えても、一般的な大人の身長よりも長さが短くて、膝を曲げて眠らなければ、足が簡易ベッドからはみ出てしまう。

「寝ているとハンモックみたいにからだが沈むのよ。だから容易に起き上がれない」

「たしかにそんな感じだね」

「ほら、むかしうちのおばあちゃんが入院したときに、私が病院に何日も寝泊まりして付き添ったことがあったでしょう」

「おばあちゃん」というのは、僕の父の母、つまり母にとっては義理の母にあたる。当時、僕は20歳くらいだったから、もう30年も前の話である。

「あのときの簡易ベッドとさほど変わらないのよ。当時はまだ若かったから起き上がることができたけど、いまじゃあ、起き上がるのも一苦労だわよ」

なんと!いまこの病院で使っている簡易ベッドは、30年前に母が別の病院で使ったことのある簡易ベッドから、まったく進化していないというのである!どうりでボロボロの簡易ベッドだと思った。

30年もたてば、少しは寝心地のよい簡易ベッドが開発されてもよさそうなのだが、この病院では、まるで十年一日、いや、三十年一日のごとく、むかしのままの簡易ベッドを使っているのである。

実際、先日僕が入院した都内の病院の簡易ベッドは、ソファーとして使っているものがベッドになり、ベッドの下に収納スペースもあるという優れものだった。

「あの簡易ベッドは寝やすかったね。さすが、都内の病院ね」そのとき付き添いで泊まったのも、実家の母だった。さながら母は、簡易ベッド評論家である。

つまり、このご時世、快適に寝ることのできる簡易ベッドはいくらでもあるはずなのである。にもかかわらず、なぜこの病院は、地元でも有名な大きな総合病院であるにもかかわらず、何十年も前からの粗雑な簡易ベッドを使い続けているのだろうか?

ここで注意しておきたいことは、簡易ベッドは、病院から支給されるものではなく、病院に出入りしている業者から、1日いくらかで借りる、というシステムになっていることである。ちなみに、簡易ベッドを1日借りるときの代金は、520円である。

支払いは、病院に対してではなく、病院に出入りしている業者に対しておこなうのである。

ここからは僕のまったくの想像なのだが、病院に出入りしている業者は、もうずっとむかしから、簡易ベッドの貸し出しの利権を独占しているのではないだろうか。つまりほかに競争相手がいないのだ。

だから、簡易ベッドは更新されることもなく、何十年も前のものをいまも使い回しているのである。

考えてみれば、ボロい商売ではないだろうか?それを貸し出すだけで、1日あたり520円が手に入るのである。

なんか、こんな話、落語にありそうだな。「猫の皿」?ちょっと違うか?

簡易ベッド利権の闇は意外と深いのではないか、と、つい、深読みしてしまう。

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綱渡りの入院

8月29日(木)

結局、娘は入院することになった。

娘の高熱は、なかなか下がらなかった。

心配していたのは、かかりつけの小児科が、木曜日が休診ということである。

前日の水曜日の夕方の時点で、娘の病状は回復の傾向にあるとはいえない。このまま木曜日を迎えるのは、不安である。

小児科の先生が、近くの総合病院の紹介状を書いてくれた。

「もし木曜日の朝になっても熱が下がらなかったら、この紹介状を持って、総合病院に行ってください。ひょっとすると、入院をして抗生剤を点滴してもらうのがよいかも知れません」

で、今日。

僕はこの日、自宅から2時間ほどかかる病院まで行って、自分自身の検査をしなければならなかった。娘は、妻が連れていくことになった。

検査が終わり、LINEを確認すると、娘は肺炎になっていることがわかり、入院することになったとあった。

僕はまた2時間かけて自宅に戻り、娘の入院に必要な荷造りをして、車で総合病院に向かった。

僕と入れ替わりに、今度は妻が、自身の診察をしてもらうために、別の病院に向かう。妻は、娘の感染症がうつり、かなりの高熱が出ているのだ。妻はとても娘に付き添えるような状況ではなかったので、自宅に帰った。

僕はしばらく病院で娘に付き添い、夜になって、実家の母に来てもらって、娘に付き添ってもらうことにした。実家の母に頼むのは心苦しかったが、うちの母は、夫(つまり僕の父)の母と、自分の母と、夫と、僕の妹と、そして僕、つまり家族全員の入院に付き添った経験があるから、「付き添いのプロ」なのである。

綱渡りのような1日だった。

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生きていくための言葉

1歳5カ月になる娘が、RSウィルス感染症というものにかかった。

小さい頃にだれもがかかる病気だそうで、感染力が強いことから、どうやら保育園でもらってきたようである。

初めてかかると、かなりつらいらしい。治るまでに1週間はかかると医者に言われた。娘はすでに数日間、40度の高熱と闘っている。

寝たり、座ったり、といったことすら辛いようだ。うわごとのように、「あっこ、あっこ」と言っている。「あっこ」とは、抱っこのことである。

抱っこして部屋の中を歩きまわると、抱っこされている状態がずいぶんと落ち着くのか、おとなしくなる。

おとなしくなったなあと思って、抱っこしたままソファーに座ると、とたんに泣き出して、「あっこ、あっこ」と再び言い出す。

「抱っこしてるじゃん!」と思うのだが、娘にとって「あっこ」とは、たんに抱きかかえている状態を言うのではなく、立って抱きかかえることをいうらしい。

つまり、抱っこしている間、ずーっと、立ったままでいなければならないのである。これはこれで、かなりつらい。

僕は僕で、体調がよくないこともあり、すぐに疲れてしまい、その分、妻に負担をかけてしまうのだが、妻は妻で、娘の病気がうつったりして、これまた大変な状況である。

ということで、今週は、わが家は満身創痍なのだ。もちろん、いちばんつらいのは娘なのだから、泣き言は言えない。

娘はもうろうとした意識の中でも、自分の気持ちをなんとか言葉で伝えようとする。いまのところ、

「あっこ、あっこ」(抱っこ)

「おちゃ、おちゃ」(お茶)

「じーぷ、じーぷ」(スープ)

「あち、あち」(暑いまたは熱い)

「ごーごー」(からだダンダン)

「ちゃちゃちゃ」(おもちゃのチャチャチャ)

「あんぱんまん」(アンパンマン)

が、娘のボキャプラリーである。いまはこれらが、自分が生きていくために、親に要求すべき言葉なのだ。

人間は、生きていくために必要な言葉から覚えていくものなのだと、娘を見ていると、実感する。

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ヒョウの絆

8月26日(月)

昨日、たまたまテレビを見ていたら、何かのトーク番組のメインゲストに星野源が出ていて、その友人ということで、俳優の松重豊も出ていた。

二人は、何かの仕事の時に意気投合し、お互い、ベストフレンドだ、と言っていた。

テレビ番組なので、どこまで本当の話なのかはわからないが、松重豊、という人は、もともとほとんど友だちがいないのだという。「孤独のグルメ」はリアルな話だったのかよ!と思ったのだが、星野源だけは、なんでも話せるベストフレンドだ、と言っていた。

星野源も、「この年齢になって、ベストフレンドにめぐり会うとは思わなかった」みたいなことを言っていた。

星野源と松重豊とは、年齢もそうとう違うと思うのだが、大人になってめぐり会った友だちというのは、年齢なんぞ関係ない、というところが、学生時代の友人との、大きな違いだと思う。学生時代の古い友人たちとだんだん話が合わなくなってきているのとは、対照的である。

「前の勤務地」にいた頃にお世話になった老先生から、封書が送られてきた。

その中には、あの「スベリヒユ(ヒョウ)」が入っていた。「前の勤務地」でしか食べないという、雑草である。

僕は以前、その老先生に、僕が関わった本をお送りした。その本というのは、南洋の島で餓死した日本兵が残した日記に関する本である。その先生からいただいた返事には、

「戦争に敗けた時、私は小四の夏でした。航空飛行兵を夢見た少年にとって、雪の降る最中、神社の広場で、裸足で竹槍を突く日々は、何だったのか。毎晩毎晩、男の子四人の足袋を繕っていた母の姿を覚えています」

とあった。その老先生は、いわゆる「敗戦少年」の世代だったのである。

ところでその日記には、飢えを凌ぐために赤草というのを食べたと書かれていて、その赤草というのは、スベリヒユ(ヒョウ)という雑草であるらしいということを以前にお伝えしたところ、今年の夏、その老先生は、ヒョウをわざわざ送ってくれたのである。同封してあった手紙には、老先生の近況とともに、次のように書かれていた。

「今年は我が家の庭が狭くなったことから、隣の空き地から採取しました。私の家でも食べたので安全は保証します。なんの心配もなく食べてみてください。旨いか不味いかと言われれば、旨くは無いということかもしれませんが、8月15日を思い出しながら、どうでしょうか。

74年前の8月は小学4年生でした。当時でしたら美味しい食材であったかも知れません。毎日サツマイモが主食で、「おしん」でみられる大根飯や蕪飯は一日一食だったような気がします」

僕がヒョウについて気になっていることを覚えていて、ヒョウをわざわざ送ってくれたのである。

ヒョウはこぶぎさんからも送ってもらったし、本の執筆を通じて知り合ったツトムさんからもいただいたし、そして「前の勤務地」でお世話になった老先生のIさんからも送っていただいたのだ。

不思議である。まるで僕にとってヒョウは、人と人とを結ぶ絆のようなものなのだ。

老先生とは、親子以上に年齢が離れているが、強いて言えば、大人になってから知り合った「友だち」なのではないか。星野源と松重豊の何気ない話を聞いて、そんなことを思ったのである。

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故郷

以前に買ってまだ読んでいなかった、水上勉の『故郷』を読んだ。

若狭を舞台にした物語である。若狭は、水上勉の故郷でもあり、僕は仕事で若狭に何度か訪れたことがあったので、何となく惹かれて手にとったのである。

二つの家族を軸に、物語が進行していく。一つは、アメリカに渡った女性がアメリカの男性と結婚し離婚するが、その娘が、離婚後に日本に戻った母を訪ねて、母の故郷だった若狭を訪れるという話。

もう一つは、アメリカに移住した日本人夫婦が、そろそろ仕事をリタイアする年齢となり、アメリカで人生の最後を迎えるべきか、日本で最後を迎えべきるのかを迷いながら、故郷の若狭を訪れる話。

接点のないこの二つの家族が、ふとした縁で出会い、若狭を舞台に交錯していく。

正確に言うと、「アメリカに移住した日本人夫婦」のうち、若狭が故郷なのは妻のほうである。夫の故郷は丹後である。妻は、ゆくゆくは故郷の若狭に移り住み、年老いた母の近くで暮らしたいと願うのだが、夫は逡巡する。若狭は、その美しい風景の一方で、原発銀座と呼ばれるほど原発が数多く存在し、それが自分の生命を脅かすのではないかという不安があるのである。それでも妻は、若狭に戻りたいと強く願っている。

変わり果てた故郷に、それでも人は住みたいと思うのだろうか。

僕は自分の故郷に対してそれほど思い入れがないのだが、あの震災の時、原発事故で故郷を追われた人たちが、自分の故郷に戻りたいと強く願っていることを知り、故郷に対する人間の強い思い、というのを感じずにはいられなかった。それはたぶん、当事者にしかわからないことなのかも知れない。

物語の終盤で、あることをきっかけに、その妻は、故郷に対する郷愁を急速に失っていくことになるのだが、それは、故郷がたとえ変わり果てても、そこに住む「人」に対する思いがあるからこそ、故郷への思いが支えられているのだ、ということを意味するのだろう。

話は全然変わるが、先日、高校の同窓会報というのが実家に送られてきたというので、母が持ってきてくれた。1年に1度、発行されるものだが、60年も続く高校なので、同窓会報に登場する人は、自分とは関わりのなかった世代の人ばかりである。

そこに登場する人たちは、みな人生に成功した人たちばかりで、僕の偏見かも知れないが、どちらかといえば「ガハハ」系の人である。読んでもさほどおもしろくはない。

同窓会報が僕にとってなぜつまらないかというと、成功したり有名になった他者がたまたま自分の母校出身だということだけで、「どうだ、俺の母校ってすごいだろ」と、まるで自分がすごいかのように喧伝していることである。

…これって、かなり俺の偏見だな。ま、どこの同窓会報もそんなものなのだろうが。

そんなことを感じとってからというもの、僕は自分の出身高校や、所属していたクラスや部活にまったく思い入れがなくなってしまった。かつてあった愛校心みたいなものが、なくなってしまったのである。

年齢とともに、故郷に対する思いが強くなるというのは、本当なのだろうか。もっと年齢が進めば、そういう境地に達するのだろうか。

今の僕にはわからない。

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いまさらEテレ

この年齢になって、最近は「Eテレ」の子ども向け番組をよく見ている。といっても真剣に見ているわけではなく、娘が見ているのを横から断片的に見ているに過ぎない。いまさらの話だが、子ども番組ってのはなかなか侮れない。同じ時間帯にやっている民放のくだらないワイドショーよりも、はるかにおもしろいのである。

このブログの常連、明智こぶ郎さんと助手の小林君が御贔屓にしている「コレナンデ商会」という番組があり、聞いたところでは、むかし「カリキュラマシーン」という、僕らが子どものころ見ていた子ども向け番組を手がけた作家だったかディレクターだったかが、いまも現役でこの番組を手がけていると聞いて、びっくりした。

もう一つびっくりしたのが、この番組の音楽担当が、僕の高校時代の同じ部活の2学年上の先輩だった、ということである。その先輩は、在校中から、というか幼い頃から音楽の才能に秀でていて、高校卒業後は東京芸大に進み、その後、プロのミュージシャンとして華々しく活躍している。ピアノや作曲が主な専門で、僕の中では坂本龍一のようなイメージの人である。

ということは、音楽のクオリティーもすごく高い、ということなのである。もちろん、川平慈英という類い希なエンターティナーがレギュラーであるという時点で、クォリティーが高いことはいうまでもないのだが。

ほかの子ども番組も、「声の出演」で、有名な俳優や人気のお笑い芸人が担当してる場合が多いことを知って、なかなか手の込んでいる作りだなあと感心すること頻りである。

「作り込んだバラエティー番組」が、ほとんど望むべくのなくなったこの時代に、最後に残された砦は、Eテレの子ども向け番組だけなのではないかと、いまさらながら思うのである。

そんな中で、いちばんのテッパン番組は、やはり「おかあさんといっしょ」なのではないだろうか。いま、娘がいちばんハマっているのが、この番組なのだ。

とくに、毎回、番組の最後のほうに出てくる「からだタンタン」という歌が大好きで、録画しているこの部分を、何度も何度も繰り返す見るのである。

「からだ タタンタン、ゴーゴー!」

というフレーズに合わせて、「ゴーゴー!」と歌うのがお気に入りのようである。

といっても、娘はまだ「からだタンタンの体操が見たい!」と言葉で要求することができないから、テレビのリモコンを指さして、「ゴーゴー!」と叫びながら、自分の意思を伝えるのである。仕方ないので、リモコンでその場面を再生する。

で、それが見終わるとまた、テレビのリモコンを指さして、

「ゴーゴー!」

と叫ぶのだ。この繰り返しである。

ほかの曲にはほとんど目もくれず、なぜかこの曲ばかりを見たいのである。

歌に合わせて、歌のおにいさんとおねえさんが大きく身体を動かしながら体操するのだが、これがけっこうハードな体操で、しかも表情は絶対にニコニコし続けなければならない。それを見ていると、

「歌のおにいさんとかおねえさんって、かなり重労働なんだな。ギャラもそんなに高くないだろうに」

と思わずにはいられなくなる。

まあそれはともかく。

なぜ、娘はこの曲に対してのみ、中毒のような症状になるのだろう?

作詞を見たら「吉田戦車」とあった。吉田戦車の独特の世界観が、娘を虜にしているのだろうか。

娘が最近もう一つお気に入りの曲は、「おもちゃのチャチャチャ」である。これはむかしから有名な歌である。「おもちゃのチャチャチャ」の「チャチャチャ」の歌詞に合わせて、「チャチャチャ」と言うのが楽しいらしい。

「おもちゃのチャチャチャ」って、作詞が野坂昭如なんだね。あらためてびっくりである。野坂昭如による独特の言葉のチョイスのなせる業なのだろう。

子ども向けに作られたコンテンツというのは、むかしから奥が深いのだ。

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生存確認

もうブログはやめようかと思ったことがこれまでに何回かあって、つい最近も体調を崩してブログを書くのが億劫になっていたのだが、それでもまがりなりにも続けていると、数年ぶりにこのブログを読んだ卒業生から、僕の近況を知ってメールをくれて、やはり続けてきてよかったと思う。

もともとこのブログは、10年ほど前に韓国に留学した際に、「前の職場」の学生に向けて「留学先での生存確認」の意味ではじめたもので、いまは文字通り、というか本当の意味での「生存確認」のために書き続けているに過ぎない。

いまも、基本的には僕の教え子(「前の前の職場」と「前の職場」)を読者と想定して書いている。実際に読んでいる人がいるか否かは関係なく、である。なので、10年たってもなお、まだときどき思い出して読んでくれる教え子が、たった1人でもいるとすれば、それは続けてきた甲斐があったというものである。

数年前にお試しでSNSを始めたが、今になって後悔している。ま、そこまで深く考えるこたーない、あんなもの、てきとーにやっておけばいいんだ、と思われるかも知れないが、性分なのだから仕方がない。

ふと思ったのだが、SNSのタイムライン、ってのは、とくに目的なく喫茶店とか居酒屋に集まって駄弁っている感じと近いんではないだろうか。各々が好き勝手なことを喋り、その喋りに合わせててきとーな相づちを打ったり、違う話題に発展させたりして、どんどんと話題が流れていく。ついさっきまでの話題があまり振り返られることがなく、いつのまにか埋もれてしまったり、雲散霧消してしまったりする。

もちろん、だれと話すか、にもよるのだが、最近、古い仲間数人と集まって話す機会があったときに、そんな印象を受けたのである。その仲間というのは、今ではSNS上でしかつながりがないのだが、実際に会ってそこで交わされた話題というのは、さながらSNSのタイムラインのごとく、時間とともに話題が変わり、「流れていく」というのにふさわしいものであった。もちろん会話というのはそもそもそういうものなのだけれど、僕のブログのような長くてクドい話は、なかなか話題に出しにくいのだ。話の中身ではなく、話題に対する反射神経がものを言う世界である。SNS上でのコミュニケーションだけで成り立っている関係の人が実際に会って話したとしても、SNS上でのコミュニケーション以上に踏み込んだ話題になることはない、というのは卑屈な見方だろうか。

誤解のないように言っておくと、良い悪いの問題ではなく、めざしているものが異なるということなのだと思う。僕はそういう感じがちょっと苦手であるというだけの話である。

ということで、SNSからログアウトすることにした。「生存確認」は、このブログだけにとどめることにする。

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写真展

拝啓 N様

ご無沙汰しております。4月27日(土)の大林宣彦監督の講演会の際にお目にかかった者です。その後に、お手紙をいただいたにもかかわらず、今に至るまで返信が滞ってしまい、大変失礼いたしました。

その際にご紹介いただいた、Nさんが企画協力されたという、野口久光さんと渡辺貞夫の写真展を、初日の8月15日に拝見することができました。残念ながら、その日のトークセッションは聞くことができませんでしたが、写真展を見ながら、とても充実した時間を過ごすことができました。

私事になりますが(4月の大林監督の会の時にも少し立ち話でお話ししましたが)、私は高校生の時に渡辺貞夫さんの音楽に魅せられ、高校の吹奏楽部に入部して、アルトサックスを手にしました。ライブも何度か見に行き、10代の私にとっては神様のような存在でした。その後、前の職場では、顧問をしていた音楽サークルの学生たちとバンドを組み、実に久しぶりにアルトサックスを練習して、学園祭で念願の渡辺貞夫さんの「ナイスショット」という曲を演奏したりしました

大学生になってから、今度は大林宣彦監督の映画にどっぷりとハマり、ほとんどの映画を見ました。映画もそうですが、監督の「言葉」や「語り」にも魅せられ、映画のみならず監督の書かれた本も集めたり、ロケ地をめぐったりしました。大林監督は、やはり青春時代の私にとって神様のような存在でした。

その、10代の私にとっての2人の神様が、「野口久光」という人物を介して結び付いていたことをずいぶん後になってから知り(2014年のポスター展を見たことがきっかけです)、私はその不思議な因縁にたいへん驚き、あわせて、野口久光さんという方の人間的な魅力に思いを致さずにはいられませんでした。

このたびの写真展を拝見して、野口久光さんはパリという都会を、そして渡辺貞夫さんはアフリカやチベットなどの自然を背景にしている点が対照的でしたが、お二人の写真の雰囲気や、そこに写し出された人の表情といったものがとてもよく似ていると感じました。展示場で野口久光さんの写真を見ながら歩いていたら、いつのまにか渡辺貞夫さんの写真を見ていた、といったように、お二人の写真はごく自然な形で展示場の中で共存していたように思います。お二人のまなざしの先には、優しさがありました。写真の横で紹介されていた渡辺貞夫さんのコメントもすばらしく、音楽と同様の優しさが溢れておりました。

たんなる一ファンの戯れ言を書いてしまい、申し訳ございません。ひと言、一ファンの感想をお伝えしようと思い、このような戯れ言を書いた次第です。

今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。

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再会は約束せず

前回、唐突に、小田嶋隆さんの『友だちリクエストの返事が来ない午後』(太田出版)の本の一節をいくつか紹介してしまったが、この本は、ここ数年の僕にとっての「人間関係についてのバイブル」であり、折にふれて読んだりしている。このブログでも何度か取り上げてきた。

前回、紹介しなかったが、こんなことも書いてある。

「せっかくだから、この場を借りて若い人たちに言っておく。友だちに義理を通すなんて、そんなカタい考え方は捨てた方がいい。友だちは、どんどん裏切ってかまわない存在だ。すっぽかしたり忘れたり半年無視したりしても、会えば笑顔になる奴だけが本当の友だちだと、そう考えた方が気楽だし、裏切ったり裏切られたりしながらそれでもだらだら付き合って行くのが友情というものだよ」

僕はもう若くないが、この年齢になって、この言葉に溜飲が下がる。それで、思い出したことがある。

今年の、まだ春になる前のことだったか、あるところに出張することになり、その出張先の近くに古い友人が転勤して住んでいるというので、連絡をして会うことにした。ふだんは全然連絡をとっていない。といって、まったく疎遠だったかというと、そうでもなく、ちょっとした集まりで会ったりすることが、数年に一度くらい、あるかないか、といったていどである。

出張の用務が終わったのが夜8時過ぎで、それから合流し、適当な喫茶店を見つけて、そこで少しばかり話をした。

思い出話はあまりせず、近況もさらっと伝えるていどである。僕が2年ほど前に大病を患った話をすると、「それは大変でしたな」と、過度に心配するような様子は見せず、根掘り葉掘り聞かれることもなく、かえってその反応が僕にとっては心地よかった。

話の大半は、どーでもいい話。その内容も、ほとんど忘れてしまった。

しかし話題は止まることがなく、1時間ほどで喫茶店が閉店となったので、店を出た。そこから電車に乗り、僕は予約しているホテルまで行き、その友人は自宅に帰るわけだが、途中まで帰る方向が同じだったので、電車の中で、もう少し喋った。

あれこれと喋っているうちに、その友人が降りる駅に着いたので、話を途中で切り上げて、「じゃあまた」と、その友人は電車を降りた。

今となってはどんな話をしたのか、あまり覚えていないのだが、そのときその友人に勧められた本を、後日読んで、おもしろかったことが、その友人と会ったことの証かも知れない。

次にいつ会うかはわからない。お互いのコンディションのいいときがあれば、また何かのついでに会う機会もあるだろう。

そのときはまた、昨日の話の続きのごとく、話をするのだろう。

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コミュニケーション・ブレイクダウンの教科書(再)

①「『友だち』は『愚行』とわかちがたく結びついている」 

②「どんなに親しくなっても、敬語で始まった関係は、敬語から外に出られない。そして、敬語を介して会話をしている限りにおいて、二人のあいだには、真摯な感情が通わないのだ」 

③「コーヒーで3時間話せる相手を友だちと呼ぶ。 

ワイングラスの向こう側で笑っているあいつは友だちではない」 

④「どんなに仲のいい友だちが相手でも、誰かと会うために時間を作ることは、大人にとって、簡単な仕事ではない。場所の問題もあるし、それなりにカネもかかる。と、気がついた時には、5年も顔を見ていないという事態に立ち至る。あるいは、会う機会が正月の帰省の機会に限られていて、なんだかいつも大勢の中でわめいている関係に堕していたりする。 

『今度ゆっくり飲もう』 

と、会うたびにそんな挨拶を交わしながら、ひとつも実のある話ができない。そうやって20年が経過してしまう。で、あらためて向き合ってみると、お互いに、見る影もないオヤジになっている。なんと悲しい運命ではないか。

⑤「友だちは、ナマモノだ。 

よほどの例外をのぞけば、ふつう、賞味期限は5年以内だ。 

ということは、昔の友だちは、過去の断片であって、現在の友だちではない。その意味で、一生の友だちは、10年モノの刺身と同じく、そもそも設定として無理だ。そんなものはいない。言葉の綾に過ぎない。 

むろん、古い友だちと付き合うことはできるし、実際われわれは、古い友だちと、折にふれて旧交をあたためてもいる。 

が、それは、古い本棚に収蔵してある古い蔵書と同じことで、本当の読書体験とは別のものだ。 

古い蔵書は大切な財産だし、貴重な思い出でもある。が、古い本は、読むための本ではない。読んだとしても、はじめて読んだときの感動は、二度と味わえない。

世にある友情の物語は、一生の友を想定しているが、あれはファンタジーに過ぎない。そんなものはいない。いるのだとしたら、それは、二人の人間が互いにファンタジーを演じることで関係を想像しているケースで、いずれにせよ、自然な感情のやりとりではない」

(小田嶋隆『友だちリクエストの返事が来ない午後』太田出版、2015年)

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おバカなセオリー

(以下は、以前に書いてお蔵入りにしていた文章)

芦原すなお原作・大林宣彦監督の映画「青春デンデケデケデケ」は、青春映画の傑作である。

原作者の芦原すなおさんが、こんなエピソードを語っている。

原作の映画化の話が来たとき、ある制作会社から「大林監督で映画化したい」というオファーが来て、飛び上がるほど喜んだという。

しかし制作会社から送られてきた企画書を見て驚いた。

二つの点を、原作からちょっと変更させてほしい、と。

一つは、原作の讃岐弁がわかりにくいので、関西弁にしたい、と。

もう一つは、「強力なマドンナ役」を設定したい。ついては、「しーさん」役を女の子にしてしまいたい、と。

「しーさん」は、厳密にはロックバンドのメンバーではなく、YMOでいえば松武秀樹みたいな存在である(わかりにくい)。主人公の「ちっくん」とは奇妙な友情で結ばれていた。

それを、男の子ではなく、女の子に変更したいといってきたのである。

芦原すなおさんは、これは男の子たちのロックバンドの物語なので、そんなの絶対に嫌だなあと思っていたら、二日後に企画書の改訂版が届いた。そこには大林監督の自筆のメッセージがついていて、

「ぜひ、この躍動する小説を」「あのリズム、あの勢いを、ぜひカメラで再現したいんだ」

「ついては、前回の企画書について、二点の提案を白紙に戻したい」

と書かれていた。つまり、大林監督もまた、この二点の提案に違和感を抱いていたというのである。

それで、芦原すなおさんは、原作の映画化を快諾したという。

この二つの奇妙な提案は、おそらく制作会社側からのものだったのだろう。

もし、この二点の提案通りの映画が作られたとしたら、記憶に残らない映画になってしまっただろう。

原作のよさを貫いたことにより、この映画は多くの人に影響を与える、傑作となったのである。

ところで、この二つの提案。なかでも、原作の男性を「強力なマドンナ役」に置き換えるという設定変更は、映画やテレビドラマで、実に多く見られる傾向である。おそらく制作サイドに昔から連綿と伝わっているセオリーなのだろう。

しかしそんなことで本当に映画やドラマは「当たる」のか???

思いつくものだけをあげてみても、

映画「チームバチスタの栄光」の竹内結子とか。

テレビドラマ「ガリレオ」の柴咲コウとか。

原作が男性であるにもかかわらず、それを女性に変えてしまっている。

極めつけは映画「SPACE BATTLE SHIP ヤマト」である。

佐渡酒造先生を、高島礼子が演じているのだ!

しかしその結果は、どれも薄ら寒い結果になっている。

とくに原作を愛読している人たちからすれば、噴飯物である。

つまり、誰も得をしない設定変更なのだ。

原作の意図を無視して、「マドンナ役を一人入れておけば、それに惹かれて見てくれるヤツもいるだろう」とばかりに、安易に設定変更をしてしまう制作者が、後を絶たない。

原作を蹂躙し、観客を愚弄する。

まったく困ったものである。

「映画やドラマで、原作の設定を変更してまでマドンナ役を入れることで、多くの人が見てくれるものだ」というおバカなセオリーは、「土俵の上に女性を上げない」という「伝統」と、通ずるものがあるのではないか、と僕は見ている。

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大会廃止論

ここ数年、僕は高校野球大会廃止論を唱えている。

理由は簡単。「男女差別が平然とおこなわれているから」。

最近気づいたことなのだが、戦前に始まり、戦後も解体しなかったシステムというのがこの国にはいくつかあって、それらはいずれも戦前の価値観をいまも引きずっている。とりわけ、そういうシステムの中では、男女差別を平然と説く言説が横行している。

たとえば、代表的なものとしては、あの制度。

女の子が生まれたときよりも、男の子が生まれたときの方が、扱いが全然よかったではないか。あのとき、マスコミがあんなに公然と男女差別した報道をしたときには、愕然とした。

全国高校野球大会も然り。たとえば今年の高校野球のCMは、まるで「前線で戦っている男性兵士のために、女性は銃後で全力で応援すべし」と言っているようなCMである。

 

このCMに対してだれも疑問に思っていないところがすごい。いまは2019年ですよ!

ちなみにこの高校野球大会を主催している新聞社や、これを中継している公共放送も、戦前から存在し、戦後に解体されなかった組織である。

そもそも、熱中症で死者が出るようないまの気候で、昼間に野球の試合をさせること自体が、正気の沙汰ではない。根性論の世界である。

見ていてかわいそうでしかたがない。やめてやればいいのに、と思うのだが、見ている人や、純粋に楽しんでいる人が多いので、やめられないのだろう。そういう人がいるかぎり、高校野球は永遠に続くのだろう。

僕は高校時代、吹奏楽の部活に入っていて、母校の地区予選の応援にかり出されたことが何度かある。当時は何も思わなかったが、いまとなっては、自分もこのイベントの末端のところで「銃後」として加担をしていたことに対し、忸怩たる思いを禁じ得ない。

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振り幅

小学生の頃の思い出話。

小学校高学年のとき、学校で歌のコンクールみたいな催しをすることになった。

各クラスから、1チームが出て、自分たちが自由に選んだ曲を歌って、優勝を決める、みたいなコンクールである。1チームというのは、数名の編成である。

出場するクラスのチームがどのように決められていたのかは覚えていないのだが、1クラスは40名ほどの児童がいたので、1チーム4人だとしても、1つのクラスで10チームくらいはできる計算になる。つまり、各クラスは、クラスの中でまずチームをいくつか作り、クラスの中で予選をして、その中で最もよいと思ったチームが、本選に出場する、という流れだったと思う。

チームが決まると、各チームごとに、どんな歌を歌うかを自分たちで決めて、練習をしなければならない。数日後に、クラス中で予選会が開かれた。僕の記憶では、そのとき担任の先生は不在で、放課後にクラスの児童だけで予選会をおこなったと記憶している。児童たちの投票で1位を決め、翌日にそれを、担任の先生に披露するという流れであった。

僕のチームが何を歌ったのかはすっかり忘れてしまったのだが、その時に1位になったチームの歌はよく覚えている。スギモト君を筆頭に男の子4人くらいのチームの歌だった。

教室の前で自分たちが選曲し、練習した歌を披露しなければならない。

スギモト君たちのチームが歌った歌は、こんな歌だった。

「きっさまとおーれーと~は~ どおきのさ~く~ら~

お~なじへいがっこうの~ にわにさ~く~

さ~いたは~な~な~ら~ ち~るのはか~く~ご~

みごとにち~り~ま~しょ~ く~に~の~た~め~」

スギモト君たちは、この歌を、右手の拳を上げたりおろしたりして、勇ましげに歌っていた。

ほかのチームは、比較的おとなしめの、文部省推奨的な歌を選んでいたのに対して、スギモト君のチームの歌は、ぶっ飛んでいて、圧倒的なインパクトを持っていた。その時の僕たち小学生にとって、実に新鮮な歌だったのである。

スギモト君たちの歌は大ウケして、満場一致で、スギモト君たちのチームを代表として送り込むことが決まった。

さて翌日。担任の先生が、

「では、我がクラスの代表に決まったチームの歌を、披露してください」

と言って、スギモト君たちのチームを教室の前にうながした。先生も、どんな歌が決まったのか知らなかったので、楽しみのようであった。

スギモト君たちは、昨日歌った歌を、昨日と同様、右手の拳を上下に上げ下ろししながら、勇ましげに歌った。

「きっさまとお~れ~と~は~…」

先生の顔がみるみるうちに紅潮するのがわかった。

歌が終わるか終わらないかのときに、担任の先生は、歌っていたスギモト君たち一人一人の頭を、グーで殴った。もちろんいまでは体罰として許されないことなのだが、当時はそんな時代だった。

「君たち、この歌の意味を知っているのか!!!」

楽しそうに歌ったスギモト君たちも、笑いながら聴いていたクラスの僕たちも、次第に真顔になっていった。

「この歌のせいで、どれだけたくさんの若い人たちが、亡くなったと思っているんだ!!!」

先生は戦争の話をはじめ、この歌詞の意味を解説した。そのとき、これが「同期の桜」という軍歌であることをはじめて知り、何も知らずに茶化しながら歌っていたことに関して、僕たちはようやく事の重大さに気づいたのだった。

「うちのクラスの代表として、この歌を披露することなんてとてもできない。ほかの歌を考えなさい!」

それから数日くらいたったころか、スギモト君たちのチームは、別の歌を選曲して、みんなの前で披露した。それは、こんな歌だった。

「雪だるま 雪だるま

まわしげりくれたら ねころんだ

雪だるまって まんまるい

雪だる ま雪だるま

ニードロップくれたら つぶれちまった

雪だるまって かわいいな

しも柱 しも柱

朝ひえこんだのは しもかしら

しもの話で恐縮ですが

しもしも もしもし 今晩は

下北半島に しもがきた

しも柱 しも柱

はまぐりの中には貝柱

おちゃわんの中には 茶柱

春さき 天気がよくなって氷が一枚流れ出し

1枚が2枚 2枚が4枚 4枚が8枚 8枚が16、32、

64、128、256、512、1000、1000... 水になる

そして又 冬が来て 氷になって 春をまつ

1枚が2枚2 枚が4枚 4枚が8枚 8枚が16、32、

64、128、256、512、1000、1000... 水になる

そして又 冬が来て 氷になって 春をまつ

1枚が2枚 2枚が4枚 4枚が... めんどくさいから水になる 」

僕たちはまたも爆笑した。あまりにもくだらない歌詞に、である。

先生からは、ようやく本選出場のOKが出たのであった。

その時はわからなかったのだが、ずっと後になってこの歌のことを調べてみたら、所ジョージの「組曲 冬の情景」という歌だったことがわかった。

今になって思うのだが、「同期の桜」を、面白半分に歌って先生にひどく怒られ、それに代わる歌として所ジョージを持ってきたというスギモト君たちのセンスは、実にすばらしかった。僕はその振り幅の広さに、感嘆したのである。

いまでも、テレビなどで「同期の桜」の歌が流れたりするのを聞くと、あのときのことを思い出し、すごく後ろめたい気分になる。

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俺たちはどう生きるか

僕が憧れる「ダメな大人」は、大竹まことである。これは、以前にも書いたことがある

古稀を過ぎた大竹まことは、ますますポンコツぶりに磨きがかかっている。たまに文化放送の「ゴールデンラジオ」を聴くが、お世辞にも流暢な進行とはいえない。適切な言葉が出てこないこともしばしばである。

しかし、弱い者やダメな人間への優しいまなざし、差別への怒りという点だけは、まったくぶれていない。

大竹まことが、久しぶりに本を出したことを知り、読んだ。僕にとっては、『結論、思い出だけを抱いて死ぬのだ』以来の待望のエッセイ集である。

『俺たちはどう生きるか』(集英社新書、2019年)。若者に向けて書いた連載の文章を一冊にまとめたもののようであるが、実際には、僕のような「ポンコツ予備軍」にこそふさわしい本である。

病気や死にまつわる内容が、前著よりも多い気がする。たぶん本人にとってそれが最も実感されることだからだろう。

いくつか紹介する。

「この番組(注:「大竹まこと ゴールデンラジオ」)に封書が届いた。開くと、点字であった。点字の横に、美しい文字の日本語があり、誰かが訳したことがわかる。

毎日は聴けないが、この番組が好きで聴ける日は聴いてくださっているという全盲の七〇歳の妻と、同じ全盲の七一歳の夫からの手紙である。

特に、月曜日の女性の声と、金曜日の女性の声が気に入っているそうである。

点字の最後に、

『私たちは幸せです』とあった」(「花水木」)

「人にはみな寿命があるのだろう。与えられた命、自ら絶つような真似はしてはならない。歌手の山崎ハコは大病を患い、生死の境をさまよった。

そのことを私に告げ、なおも言葉をつないだ。

『大竹さん、知ってる、朝起きるとね、息をしているの。大竹さん、人間は息をしてるだけで、楽しいのヨ』」(「官僚たちの矜持」)

「Aさんは病気療養中で、かなり前から仕事を休んでいる。死んでしまいたくなって、最後に神様に尋ねたそうだ。

『神様、私はどうしたら良いのでしょう』

その時、それに答えるようにベランダの外から、カラスが『カアーカアーカアー』と鳴いた。その間の抜けた声に死ぬのをやめたと書いてきた。

カラスが鳴いたら、何事も一端中止すべきである」(「カラスが鳴いたら」)

前回に書いた「病院ラジオ」の話と、妙にシンクロした内容である。

シティーボーイズのコントも、久しぶりに見てみたくなった。

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病院ラジオ

先日、夜にテレビを付けたら、NHKで「病院ラジオ」という番組をやっていた。不定期で放送されている番組らしい。

お笑い芸人のサンドウィッチマンが、病院を訪れて、そこにラジオブースを作り、2日間、その病院の中だけのラジオ番組を放送する、というドキュメンタリーである。

なるほど、それで「病院ラジオ」か。

すでに何回目かの放送らしく、毎回、いろいろな病院が舞台となるようなのだが、今回は、難しいガン治療が専門の、日本でも有名な病院が舞台だった。

そのラジオ番組は、サンドウィッチマンがMCとなり、その病院に入院もしくは通院している患者さん、あるいはその家族を入れ替わり立ち替わりゲストとして迎え、お話を聞き、リクエスト曲をかける、という内容である。そのラジオ番組は、病院の中だけに流れるのだという。つまりリスナーは、医師や看護婦や患者を含めて、その病院を訪れたすべての人々である。

ゲストに呼ばれた患者さんは、サンドウィッチマンとのトークの中で、必然的にその病状やいまの気持ちを伝えることになる。僕にとってはとても重い内容に思えたので、見るのをやめようかと、一瞬ためらった。

だが、MCがサンドウィッチマンというところに、興味をもった。こんな難しい仕事を、彼らはなぜ、引き受けたのだろう。難しい病気の患者さんのお話を聞き、それでいて人々を楽しませる、というのは、至難の業ではないか、と僕には思えたのである。

それに、前に述べたように、最近僕は、「当事者」という問題に関心を持っていた。病気の当事者ではないサンドウィッチマンが、患者さんに対して、どのような言葉をかけるのだろうか、と。

番組では、次から次へと難しい病気の患者さんがゲストに登場する。サンドウィッチマンは、根掘り葉掘り聞くこともなく、患者さんが話したいことだけを聞き、過度に心配したり、情緒的に励ますこともなく、かといって突き放すこともない。ちょうどよい距離感で接していた。もちろん、テレビなので映像の編集による力も大きいのだろうが、彼らのこのほどよい距離感は、東日本大震災での体験から体得したものなのではないか、と、僕は勝手に想像した。

難しい病気を抱えている患者さんばかりなのだが、自分のことを淡々と話し、ときにはいまのこの状況を「幸せです」と語るなど、番組自体は決して暗い内容ではなかった。これももちろん、テレビの編集の力なのかも知れない。しかし、2日間のラジオ番組を終えたサンドウィッチマンの二人が、帰りの車の中で、「幸せです、っていっていた人が多かったね」と語り合っていたのが印象に残った。

サンドウィッチマンと患者さんのやりとりの中で、印象に残ったものを一つ思い出すと。

サンドウィッチマンの二人と同じ仙台出身の19歳の女性。仙台の進学校から東京大学に入学したが、その後、病が発症し、過酷な治療が続いている。大学に行きたいけどいまはそれができない、と、言っていた。

サンドウィッチマンの伊達さんが、

「でも、努力して希望の大学に入ることを成し遂げたんだから、きっと病気も乗り越えることができるよ」

と言うと、その学生は、

「でも、努力してもどうにもならないことがあるんだな、ということが、わかったんです」

と、自分の病気のことを念頭において、そう話したのである。

たしかにそうである。この種の病は、自分が努力してもどうにもならないことのほうが多かったりするのである。「きっと乗り越えられる」と説くのは、当事者でない人の常套表現ではないだろうか、と、僕はそのとき思った。

すると伊達さんは次に、こんなことを言った。

「努力した人だからこそ、そういうことが実感できるのかも知れないね」

たしか、こんな内容だったと思う。記憶が不確かだが。

「きっと乗り越えられる」で終わらなかったことが、僕にとっては何となく救いに感じたのである。

ちなみにいま、僕が心の底から笑えるお笑いは、サンドウィッチマンのコントと、ナイツの漫才である。

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「baby color」にご用心

いま娘は1歳4カ月。

友人から出産祝いでもらった、「baby color」というクレヨンが、いまは大のお気に入りである。

Baby-color クレヨンとして使えるのはもちろんなのだが、クレヨンのひとつひとつの形がとんがり帽子みたいになっていて、それを積み木のようにつなげることもできる。そしてなにより、手ざわりが滑らかで心地よい。

そういう皮膚感覚にピッタリフィットしたせいか、いまはとにかく、このクレヨンに触るのが好きな時期らしい。

友人からもらったのは、15個のクレヨンがセットになっている、カラフルなものだった。片づけるときは、5つのクレヨンを重ねてトーテムポールのようにして、それを3セット作れば、ケースに収まるようになっている。

毎晩、このクレヨンでさんざん遊び、これを床にまき散らしてから寝るのが、ここ最近の娘の習慣である。

翌朝に、床に散らばったクレヨンを、5×3のセットにして、ケースに入れて片づけるのが、こちらの役目である。

…ここまでは、おわかりいただけたのかな?

ある朝、いつものように床に散らばった、とんがり帽子のクレヨンを集めて片づけようとしたところ、いくらさがしても、一つ見つからない。14個しか見つからないのである。

「おかしいなぁ」

あきらめて朝食を食べた。娘の朝食が終わると、いつものようにパジャマを脱がせ、保育園に行くための服に着替えさせなければならない。着替えの時にはもちろん、おむつも替えることにしている。

「臭いなあ…。ははーん。これはやってるな」

朝の恒例のウンチである。

最近はおむつを替えるとき、娘が立ったままおむつを脱がす場合もある。パンツ型のおむつなので、おむつの両側を手で破っておむつを脱がすのである。

パンツの両側を破ると、はたしてウンチをしていたのがみえた。

「ビンゴ!」

…と同時に、コロコロコロコロッと、何か妙な色のものがおむつから転がり落ちてきた!

「うぁっ!!なんだ、これ??」

一瞬、変わった色のウンコかと思った。新種のウンコか?と思ったら、さにあらず。

行方不明だった、とんがり帽子のクレヨンだったのである!

ということは、このとんがり帽子のクレヨンは、一晩、娘のおむつの中に入っていたということか???

いったいどんな状況になったら、とんがり帽子のクレヨンがおむつの中に入ってしまうのか?

遊んでいるときに、自然に入る、ということは、絶対にあり得ない。娘が自分自身で、おむつの中にクレヨンを入れたとしか思えない。

手ざわりがあまりに気持ちいいので、おむつの中に入れたのだろうか?

あるいはポケット代わりに、「いったんこのクレヨンを預かっておこう」的な感覚で、おむつにクレヨンを入れたのか?

もう一つ心配だったのは、とんがり帽子の形をしたクレヨンということで、とんがりの部分が肛門に刺さったりしなかっただろうか?ということである。

なにより、クレヨンの形が「イチジク浣腸」とソックリなのである。

あるいは、寝ているときに、寝返りを打ったときがきっかけになったか何かで、とんがり部分が肛門に突き刺さり、それが浣腸の効果になって通じがよくなった、とか???

いろいろな妄想がふくらんだ。

不幸中の幸いだったのは、ポロッと落ちたクレヨンがウンチまみれになっておらず、ほぼきれいなままおむつの中で生きながらえていたということである。

それ以来、とんがり帽子のクレヨンが、おむつに入らないように、細心の注意を払っているところである。

尾籠な話も、子どもの話ということならば許されるだろうと思い、ウンコとか肛門とかが出てくる下品な文章を書いてみました。

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当事者

あるお笑い芸人が、椎間板ヘルニアの手術を受け、それ自体はうまくいったようなのだが、その手術の侵襲によるストレスで、鬱病を発症したため、二カ月間休養をとることにした、というニュースを、つい最近聞いた。

「侵襲」という言葉をこのとき初めて聞いたのだが、なるほど、とくに体に負担のかかる手術をすれば、そのような状況になっても不思議ではない。これは、当事者にしかわからない。

ずっと前に、伊集院光さんが、ラジオでこんなことを言っていた。

「自分が腰痛に悩まされる前は、(読売ジャイアンツの)篠塚が腰痛で試合を休んだりしているのを見ると、『我慢しろ』と思ったものだが、自分が腰痛を経験してから、(高橋)由伸が腰痛に悩まされていると聞くと、『お大事に』と思うようになった」

つまり自分が当事者にならなければ、その苦悩がわからないことが多いのである。

ちょっと政治のお話になるが、このたびの選挙で、重度の障害を持った方2人が、参議院議員に当選した。

このときの反応はさまざまで、「そういう人たちに国会議員の仕事がつとまるのか」と、あからさまに訝しむ意見もあった。

また、一見正論にみえる意見として、「いろいろな立場の人の声を代弁するのが政治家というものなので、重度の障害を持つ人本人が政治に関わるのではなく、そういう人の声を代弁する人に政治を任せたほうがいいのではないか」とする意見があった。

しかし、はたして、本当に当事者でない人が、その気持ちを代弁してくれるのだろうか。

では聞くが、この国の国会は、圧倒的に男性議員の数が多い。男性の国会議員の中で、女性の声を代弁している人は、いったいどのくらいいるのだろうか?

当事者にしかわからない苦しみを、果たして当事者でない人が、どれほどすくい上げることができるのだろう?

障害者施設で長年ボランティア活動をしてきた私の母ですら、「議会活動における介助の費用は税金ではなく、自費で負担すべきだ」と、ニュースを見ながら話していた。たぶんそれが、いわゆる健常者の一般的な感覚なのだろう、と思う。

以前、ある知り合いから「仕事仲間が病気になって調子を崩された」という愚痴を聞いたことがあって、以前の僕なら「それは大変だね」と言ったかもしれないが、僕自身が病気のために仕事に迷惑をかけるようになってからは

「そう言われてしまったら、病気で苦しんでいる人は、立場がないなあ」

と思うようになった。

障害や疾患を抱えた人たちが、社会の中で、無理をせず働くことが尊重されるような社会は、来るのだろうか。

当事者と、そうでない人との間の距離は、どんなに寄り添ったとしても、とてつもなく遠い、と思わざるをえない。

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新ネタ下ろし

8月4日(日)

お久しぶりです。ずいぶんと間が空いてしまったような気がします。

間が空いてしまったのには、二つ理由があります。

一つは、とくに書きたいことがなかったから。

もう一つは、とにかく自分が生きるだけで精一杯だったから。

生きるだけで精一杯だと、なかなか「どーでもいい文章」を書こうとは思わなくなります。

僕の仕事の一つに、「職業的文章」を書かなくてはならない、というものがあり、そちらを優先しようとすると、「どーでもいい文章」に体力を割くエネルギーがなくなってしまうのです。「職業的文章」は、掲載が決まっている場合、穴を開けることができませんので、そちらのほうは、できるだけ義理を果たさなければなりません。

日常的にも、いろいろと声をかけていただくこともあったりするのですが、最近は自分のことばかり優先して、各方面に不義理をしております。

さて、「職業的文章」を書くという仕事のほかに、僕の仕事の一つに「人前でお話しをする」というものもあります。

最近はすっかりそういう機会は少なくなりましたが、それでもたまに、お話しをいただくことがあります。

人前、というのは、いわゆる一般のお客さんの前でお話しする場合もあれば、業界人の前でお話しする場合もあります。人数も、100人の場合もあれば、10人の場合もあります。

お話しする内容も、そのときどきによってさまざまです。以前に別の場所でお話しをしたことのある内容を、少しアレンジしてお話ししたりするケースがあります。とくに一般のお客さんを対象にした場合には、そういうケースがあります。ただその場合も、その地域のお客さんに合うように話を変えなければなりませんので、それなりの準備が必要であることはいうまでもありません。

とはいえ、以前に披露した経験のある話なので、話す側としては、それほど不安に思わずにお話しすることができます。

これとは別に、とくに業界人の集まりの場合は、まったくの新しいネタを考えてお話しする場合がほとんどです。

昨日、新幹線で2時間近くかかる大きな町まで行きました。その町のある場所で、業界人のみなさんを対象にした会合でお話しをすることになっていたのです。

ずいぶん前から日程も決められていたのですが、さて、このときにどんなお話しをしようか、としばらく考えあぐねていました。

以前にどこかでお話ししたようなものをアレンジしてお茶を濁そうか、とも思ったのですが、せっかくだから、今まで僕がまったく準備したことのない、まったくの新ネタをおろそう、と考えました。僕は、そのお話の着地点がどうなるかも予測がつかないまま、とりあえず、タイトルを決めて、先方に連絡をしました。

さあ、そこからがたいへんです。講談や落語でいえば、自分にとってはまったくの新作。はたして、「噺」として成立するのだろうか?

たとえて言えば、「怪談噺」の苦手な落語家が、まったく実践を積まないまま「怪談噺」に挑戦する、というくらい、自分にとっては、無謀な試みです。

一方で、それくらい自分を追い込まないと、新しいことができないのではないか、とも思いました。

日程と演目が公表されれば、あとはそれに向かって頑張るしかないのです。落語家や講談師も、新ネタをおろすときは、同じ気持ちなのだろうかと考えたりもしました。

さて当日。

結果は、予想どおり、ボロボロでした。もともと僕は、人前で話をするときはいつも話の内容がボロボロなのですが、今回はとくに「生兵法は怪我のもと」を実感したのです。まあそれでも、少しは痛い目に遭わなければ、成長もないだろうと、自分を慰めることにしました。

小さな会合でしたが、それでも20名以上の人が来てくれました。なかには、僕がこの町でお話しするということで、ふだんはその会合に来ないのだけれども、今回だけはわざわざ僕の話を聞きに来てくれた、という人もいました。

僕は、業界人にはほとんど相手にされないことを逆に「ウリ」にしているくらいの人間なのですが(笑)、それでも、こんな人間の話を、35度を超える猛暑のなか、わざわざ聴きに来てくれた人がいることに、深く感謝したのです。

1時間半のお話しと、30分の質疑応答で、計2時間。はたして自分の体力が持つのかどうか不安でしたが、不思議なことに、お話しをしているうちに、そうした不安もなくなってきました。不思議な昂揚感に包まれて、僕はその町をあとにしたのでした。

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