コミュニケーション・ブレイクダウンの教科書(再)
①「『友だち』は『愚行』とわかちがたく結びついている」
②「どんなに親しくなっても、敬語で始まった関係は、敬語から外に出られない。そして、敬語を介して会話をしている限りにおいて、二人のあいだには、真摯な感情が通わないのだ」
③「コーヒーで3時間話せる相手を友だちと呼ぶ。
ワイングラスの向こう側で笑っているあいつは友だちではない」
④「どんなに仲のいい友だちが相手でも、誰かと会うために時間を作ることは、大人にとって、簡単な仕事ではない。場所の問題もあるし、それなりにカネもかかる。と、気がついた時には、5年も顔を見ていないという事態に立ち至る。あるいは、会う機会が正月の帰省の機会に限られていて、なんだかいつも大勢の中でわめいている関係に堕していたりする。
『今度ゆっくり飲もう』
と、会うたびにそんな挨拶を交わしながら、ひとつも実のある話ができない。そうやって20年が経過してしまう。で、あらためて向き合ってみると、お互いに、見る影もないオヤジになっている。なんと悲しい運命ではないか。
⑤「友だちは、ナマモノだ。
よほどの例外をのぞけば、ふつう、賞味期限は5年以内だ。
ということは、昔の友だちは、過去の断片であって、現在の友だちではない。その意味で、一生の友だちは、10年モノの刺身と同じく、そもそも設定として無理だ。そんなものはいない。言葉の綾に過ぎない。
むろん、古い友だちと付き合うことはできるし、実際われわれは、古い友だちと、折にふれて旧交をあたためてもいる。
が、それは、古い本棚に収蔵してある古い蔵書と同じことで、本当の読書体験とは別のものだ。
古い蔵書は大切な財産だし、貴重な思い出でもある。が、古い本は、読むための本ではない。読んだとしても、はじめて読んだときの感動は、二度と味わえない。
世にある友情の物語は、一生の友を想定しているが、あれはファンタジーに過ぎない。そんなものはいない。いるのだとしたら、それは、二人の人間が互いにファンタジーを演じることで関係を想像しているケースで、いずれにせよ、自然な感情のやりとりではない」
(小田嶋隆『友だちリクエストの返事が来ない午後』太田出版、2015年)
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