当事者
あるお笑い芸人が、椎間板ヘルニアの手術を受け、それ自体はうまくいったようなのだが、その手術の侵襲によるストレスで、鬱病を発症したため、二カ月間休養をとることにした、というニュースを、つい最近聞いた。
「侵襲」という言葉をこのとき初めて聞いたのだが、なるほど、とくに体に負担のかかる手術をすれば、そのような状況になっても不思議ではない。これは、当事者にしかわからない。
ずっと前に、伊集院光さんが、ラジオでこんなことを言っていた。
「自分が腰痛に悩まされる前は、(読売ジャイアンツの)篠塚が腰痛で試合を休んだりしているのを見ると、『我慢しろ』と思ったものだが、自分が腰痛を経験してから、(高橋)由伸が腰痛に悩まされていると聞くと、『お大事に』と思うようになった」
つまり自分が当事者にならなければ、その苦悩がわからないことが多いのである。
ちょっと政治のお話になるが、このたびの選挙で、重度の障害を持った方2人が、参議院議員に当選した。
このときの反応はさまざまで、「そういう人たちに国会議員の仕事がつとまるのか」と、あからさまに訝しむ意見もあった。
また、一見正論にみえる意見として、「いろいろな立場の人の声を代弁するのが政治家というものなので、重度の障害を持つ人本人が政治に関わるのではなく、そういう人の声を代弁する人に政治を任せたほうがいいのではないか」とする意見があった。
しかし、はたして、本当に当事者でない人が、その気持ちを代弁してくれるのだろうか。
では聞くが、この国の国会は、圧倒的に男性議員の数が多い。男性の国会議員の中で、女性の声を代弁している人は、いったいどのくらいいるのだろうか?
当事者にしかわからない苦しみを、果たして当事者でない人が、どれほどすくい上げることができるのだろう?
障害者施設で長年ボランティア活動をしてきた私の母ですら、「議会活動における介助の費用は税金ではなく、自費で負担すべきだ」と、ニュースを見ながら話していた。たぶんそれが、いわゆる健常者の一般的な感覚なのだろう、と思う。
以前、ある知り合いから「仕事仲間が病気になって調子を崩された」という愚痴を聞いたことがあって、以前の僕なら「それは大変だね」と言ったかもしれないが、僕自身が病気のために仕事に迷惑をかけるようになってからは、
「そう言われてしまったら、病気で苦しんでいる人は、立場がないなあ」
と思うようになった。
障害や疾患を抱えた人たちが、社会の中で、無理をせず働くことが尊重されるような社会は、来るのだろうか。
当事者と、そうでない人との間の距離は、どんなに寄り添ったとしても、とてつもなく遠い、と思わざるをえない。
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