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病院ラジオ

先日、夜にテレビを付けたら、NHKで「病院ラジオ」という番組をやっていた。不定期で放送されている番組らしい。

お笑い芸人のサンドウィッチマンが、病院を訪れて、そこにラジオブースを作り、2日間、その病院の中だけのラジオ番組を放送する、というドキュメンタリーである。

なるほど、それで「病院ラジオ」か。

すでに何回目かの放送らしく、毎回、いろいろな病院が舞台となるようなのだが、今回は、難しいガン治療が専門の、日本でも有名な病院が舞台だった。

そのラジオ番組は、サンドウィッチマンがMCとなり、その病院に入院もしくは通院している患者さん、あるいはその家族を入れ替わり立ち替わりゲストとして迎え、お話を聞き、リクエスト曲をかける、という内容である。そのラジオ番組は、病院の中だけに流れるのだという。つまりリスナーは、医師や看護婦や患者を含めて、その病院を訪れたすべての人々である。

ゲストに呼ばれた患者さんは、サンドウィッチマンとのトークの中で、必然的にその病状やいまの気持ちを伝えることになる。僕にとってはとても重い内容に思えたので、見るのをやめようかと、一瞬ためらった。

だが、MCがサンドウィッチマンというところに、興味をもった。こんな難しい仕事を、彼らはなぜ、引き受けたのだろう。難しい病気の患者さんのお話を聞き、それでいて人々を楽しませる、というのは、至難の業ではないか、と僕には思えたのである。

それに、前に述べたように、最近僕は、「当事者」という問題に関心を持っていた。病気の当事者ではないサンドウィッチマンが、患者さんに対して、どのような言葉をかけるのだろうか、と。

番組では、次から次へと難しい病気の患者さんがゲストに登場する。サンドウィッチマンは、根掘り葉掘り聞くこともなく、患者さんが話したいことだけを聞き、過度に心配したり、情緒的に励ますこともなく、かといって突き放すこともない。ちょうどよい距離感で接していた。もちろん、テレビなので映像の編集による力も大きいのだろうが、彼らのこのほどよい距離感は、東日本大震災での体験から体得したものなのではないか、と、僕は勝手に想像した。

難しい病気を抱えている患者さんばかりなのだが、自分のことを淡々と話し、ときにはいまのこの状況を「幸せです」と語るなど、番組自体は決して暗い内容ではなかった。これももちろん、テレビの編集の力なのかも知れない。しかし、2日間のラジオ番組を終えたサンドウィッチマンの二人が、帰りの車の中で、「幸せです、っていっていた人が多かったね」と語り合っていたのが印象に残った。

サンドウィッチマンと患者さんのやりとりの中で、印象に残ったものを一つ思い出すと。

サンドウィッチマンの二人と同じ仙台出身の19歳の女性。仙台の進学校から東京大学に入学したが、その後、病が発症し、過酷な治療が続いている。大学に行きたいけどいまはそれができない、と、言っていた。

サンドウィッチマンの伊達さんが、

「でも、努力して希望の大学に入ることを成し遂げたんだから、きっと病気も乗り越えることができるよ」

と言うと、その学生は、

「でも、努力してもどうにもならないことがあるんだな、ということが、わかったんです」

と、自分の病気のことを念頭において、そう話したのである。

たしかにそうである。この種の病は、自分が努力してもどうにもならないことのほうが多かったりするのである。「きっと乗り越えられる」と説くのは、当事者でない人の常套表現ではないだろうか、と、僕はそのとき思った。

すると伊達さんは次に、こんなことを言った。

「努力した人だからこそ、そういうことが実感できるのかも知れないね」

たしか、こんな内容だったと思う。記憶が不確かだが。

「きっと乗り越えられる」で終わらなかったことが、僕にとっては何となく救いに感じたのである。

ちなみにいま、僕が心の底から笑えるお笑いは、サンドウィッチマンのコントと、ナイツの漫才である。

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