階段
先月、友人からDVDが送られてきた。この夏、家で安静にしてばかりいては退屈だろうと、退屈しのぎにと、差し入れとして送ってくれたのである。『シャーロック・ホームズの冒険』という、むかしの連続ドラマであった。友人らしい、粋な計らいである。
恥ずかしながら、僕はこのドラマの存在を知らなかった。見れば、翻訳が額田やえ子で、シャーロック・ホームズの声が露口茂、ワトスン博士の声が長門裕之ではないか!
子どものころからミステリーが大好きだったにもかかわらず、シャーロック・ホームズのシリーズを読んだ記憶が、あまりない。僕はどちらかといえば、モーリス・ルブランのルパンシリーズをもっぱら読んでいて、あとは、江戸川乱歩や横溝正史。なぜかシャーロック・ホームズやアガサ・クリスティは、すっぽりと抜け落ちてしまったのである。
ドラマの内容がおもしろかったので、原作も読んでみることにした。ホームズのシリーズをちゃんと読むのは、初めてかも知れない。
『シャーロック・ホームズの冒険』を読み始めたところで、ある記憶がよみがえってきた。
小学校高学年の時の授業のことである。
担任のN先生が、僕たちにこんなことを聞いた。
「みんなの中で、二階建てのおうちに住んでいる人はいるかな?」
僕は手をあげた。ほかにも何人かが手をあげた。
「じゃあ聞きますが、自分の家の階段が、何段あるか知ってる人?」
誰も手を上げる人がいない。僕も、自分の家の階段が何段あるか知らなかった。毎日上り下りしているのに、である。
「ほら、毎日上り下りしている人でも、階段が何段あるかなんて、知らないでしょう。そんなことに関心がないからです。でも、いちど階段の数を数えながら登ってみると、すぐにわかります。そして、決して忘れません。人間の記憶というのは、そういうことです。関心がなければ、覚えられないのです」
なるほど、と思った。その日、帰ってから自分の家の階段の数を数えながら登った。14段という数は、いまも忘れてはいない。
…こんなことを思い出したのは、『シャーロック・ホームズの冒険』の最初のエピソード、「ボヘミアの醜聞」を読んでいて、こんなくだりがあったからである。
「『きみの説明を聞くと、いつもばかばかしいほど単純に思えて、自分でも簡単にやれそうな気がするんだが、そのくせ、きみの推考の一段階ごとに引っかかって、きみの口から論証の過程をひとつひとつ説明してもらうまでは、まるきり五里霧中だ。はばかりながら僕の目だって、きみの目に劣らず、よく見えているはずなんだがな』
『そりゃそうだろうさ』そう言いながら、ホームズは煙草に火をつけ、どさりと肘かけ椅子に身を投げかけた。『きみはたしかに見てはいる。だが観察はしない。見るのと観察するのとでは、大ちがいなんだ。たとえばの話、この家の玄関からこの部屋まであがってくる階段、きみは何度も見ているだろう?』
『ああ、たびたび見ている』
『たびたびとは、何回くらい?』
『そうさな、何百回となく』
『じゃあ訊くが、階段は何段ある?』
『何段か、だと?知るものか』
『そらね!きみは観察していないんだ。そのくせ、見るだけは見ている。そこなのさ、ぼくが言いたいのは。ついでに言うと、ぼく自身は階段が十七段であると知っている。見るのと観察するのとを、ふたつながらやっているからだ』」(深町眞理子訳)
ここを読んだとき、そうか、あのときの先生の質問は、このことだったんだな、と今になって気がついたのである。担任のN先生は、無類の文学好きだった。授業の中で、シャーロック・ホームズの話が出たことはなかったが、当然、シャーロック・ホームズのシリーズも読んでいて、その出典を明かさずに、僕たちにホームズがワトスンに投げかけたのと同じ質問をしたのである。
いまさらだが、シャーロック・ホームズはおもしろい。
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