恵存
数年前、僕は一冊の本を出した。
自分らしい本ができたな、と思ったのだが、全然話題にならず、思ったほど売れ行きがよくなかった。
1年ほど前のことだったか、ある人が僕のところにやってきた。仮にBさんとしよう。
「実はお願いがあるんです」
Bさんはそう言うと、袋の中から一冊の本を取り出した。
それは、僕が数年前に書いた本だった。
「これに、ひと言書いてほしいんです。Aさんにあてて」
「Aさんに、ですか」
Aさんは僕のよく知る人で、仕事でよくお世話になっている人だった。同業者ではない、ふつうの人である。僕が本を出したと知ると、わざわざその本を買って読んでくれた。たぶん専門的な内容だったので難しかったと思うのだが、それでも、最後まで読んでくれたようだった。
ところがAさんは、その後、仕事を休まれた。ご病気になったのだと聞いた。
ちょっと長引いているなあと思ったが、どのような病気なのか、それがどの程度のものなのか、まったくわからない。入院しているのか、自宅で療養しているのか、それもわからない。
Bさんがなぜ、Aさんが持っていた僕の本を持ってきて、そこにAさんのためにひと言書いてくれと言ってきたのか、それもわからない。風の噂で、AさんとBさんはおつきあいしているのだ、と聞いたことがあるが、本当かどうかはわからない。Bさんは多くを語ろうとしなかった。
AさんがBさんに本を託し、僕のサインをもらってきてほしいと依頼したのではないかと、僕は想像した。
Bさんは、僕のメッセージが入った本をAさんに届けることで、Aさんの励みになるのではないかと思い、その依頼を引き受けたのではないか、とも想像した。
いずれも身勝手な僕の想像である。
Bさんに聞けば、Aさんがいま、どんな様子なのか、わかったのかも知れないが、僕は聞くのをためらった。
いま僕がすべきことは、Bさんに言われたとおりに、Aさんにあててメッセージを書くことなのだ。
僕は自分の本に、Aさんの名前を書き、その下に「恵存」と書いた。
「恵存」とは、「お手元に置いておいてください」という意味である。僕が好きな言葉だ。
そして二言三言の、簡単なメッセージを添えた。
「これでよろしいでしょうか」
「どうもありがとうございます。急なお願いで、しかも妙なことをお願いしてすみません」
「いえ」
Bさんは多くを語らず、その場を立ち去った。
僕も何も聞かなかった。
| 固定リンク
「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事
- 便座(2024.11.26)
- もう一人、懐かしい教え子について語ろうか(2024.11.17)
- 懐かしい教え子からのメール(2024.11.17)
- 散歩リハビリ・14年後(2024.10.21)
- ふたたびの相談(2024.09.29)
コメント