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瞳の中の訪問者

最近は、10代の頃に読んだ本をあれこれと読み返したりしている。すっかり内容を忘れてしまっていることが多い。

実家で、高橋和巳の『わが解体』(河出文庫)を見つけた。文庫版は昭和55年(1980年)が初版とあり、僕が小学校6年生の年であるが、いくら何でも小学生の時にこれを読んだはずはない。おそらく中学生か高校生の時に買ったものだろう。

「死者の視野にあるもの」という随筆があって、その冒頭に、こんなことが書いてあった。

「何の雑誌だったろうか。かつてイタリアの法医学者が殺人事件の被害者の眼球の水晶体から、その人が斬殺される寸前、この世で最後に見た恐怖の映像を復元するのに成功したという記事を読んだことがある。本当にそういう《残像》がありうるのかどうか。またその技術が実際の事件解決に利用されているとも聞かないから、あまり信用のおけない雑誌の、非科学的な記事にすぎなかったのかも知れない。

しかし私はこの紙面の一部に紹介されていた写真を奇妙な鮮明さで覚えている。全体が魚眼レンズの映像のように同心円的にひずんだ面に、鼻が奇妙に大きく、眼鏡の奥に邪悪な目を光らせた男の顔がおぼろげに映っていた。被害者はその男に首をしめられたのだろうか、それとも凶器で殴りつけられたのだろうか。もはや抵抗力を失った被害者が、無念の思いをこめて相手を見、そこで一切の時間が停止し、最後の映像がそのまま残存する―それは充分ありそうなことに思われた」

僕はこの文章を読んで、手塚治虫の『ブラックジャック』の「春一番」というエピソードを思い出した。手元に本がないので記憶をたよりに書くが、たしかこんな内容だったと思う。

片目のみえない少女が、ブラックジャックによる角膜移植手術を受けて、見えなかった目が見えるようになる。ところがその時から、彼女の目の前には、見知らぬ男があらわれるようになった。ブラックジャックはそのことを不審に思い、角膜の元の持ち主をさぐっていくと、ある男に乱暴された上に殺された被害者の女性の角膜であることがわかった。死ぬ直前に見たものが角膜に焼き付けられ、それが残像として見えていたのである。つまり瞳に映った男性は、女性を殺した犯人であるという動かぬ証拠であった。一方、角膜を移植された少女は、瞳に映った男性に憧れ、ようやくその本人を見つけ出すのだが、殺人がばれることをおそれたその男性は、その少女をも殺そうとする。危ういところでその少女は、ブラックジャックに助け出される、というところで、この物語が終わる。

高橋和巳が何かの雑誌で読んだとされるイタリアの法医学者の話は、まさにこの『ブラックジャック』の「春一番」のエピソードそのものではないか!

はたして手塚治虫は、高橋和巳が雑誌で読んだ、イタリアの法医学者の話を知っていて、それにもとづいてこのエピソードを描いたのだろうか?

それとも、「春一番」は手塚治虫のまったくのオリジナルのストーリーで、たまたま高橋和巳が読んだイタリアの法医学者の話と同じだったにすぎないのか?

殺された人の眼球あるいは角膜に、死ぬ直前の映像が残像として残るという話は、都市伝説的なものとして、医学界の間では有名な話だったのか?

調べてみると、高橋和巳の「死者の視野にあるもの」の初出が、1970年(高橋和巳編『明日への葬列』合同出版、1970年7月の序文として書かれた)。手塚治虫の『ブラックジャック』「春一番」の初出が、『週刊少年チャンピオン』1977年4月11日号であるから、高橋和巳の文章の方が先である。時系列からいえば、おそらく手塚治虫も、イタリアの法医学者の話を以前から知っていて、それをエピソードに取り入れた可能性が高いのではないだろうか。

いずれにしても、興味深い問題である。

何より僕がおもしろいと思ったのは、たまたま高橋和巳の文章を読んでいて、それが、手塚治虫の『ブラックジャック』のエピソードとシンクロしたという自分自身の体験そのものである。

高橋和巳の『わが解体』と手塚治虫の『ブラックジャック』が結びつくなどと、だれが想像しただろうか。

たまたま手にとって読んだ本の内容が、自分のかつての体験(読書体験を含む)とシンクロしたときほど、本との運命的な出会いを感じる瞬間はないのである。

なお『ブラックジャック』の「春一番」のエピソードは、1977年、大林宣彦監督により『瞳の中の訪問者』というタイトルで映画化されている。

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