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2019年10月

台風と虹と大雨と

今年は、台風15号、台風19号と、関東地方に風や雨による被害が続いた。

先週金曜日の大雨も、それに追い打ちをかけるものとなった。実感としては、今回の大雨が、最も危険を感じるものとなった。前の二つの台風が休日におとずれたのに対し、このたびの大雨が出勤日と重なったことにもよるだろう。

金曜日は朝からひどい大雨だったが、夕方になって雨がやみ、幸い電車が動いていたので、帰宅することができた。

ただ、ふだん使っている道が、崖崩れで寸断され、ちょっとした遠回りをする羽目になった。

帰宅すると、僕の職場のある町が、大雨による冠水でひどいことになっているとニュースになっていた。

ニュースを見た何人かの方から、お見舞いのメールをいただき、とてもありがたかった。不幸中の幸いと言うべきか、僕の職場は山の上にあるので、冠水などの被害には遭わなかった(と思う)。

自宅は、職場から通勤時間2時間半の場所にあるので、特段の被害はなかった。

しかし、実際に大雨の被害に遭った地域に自宅のある人は、想像を絶する体験をしたのだろうと思う。

先週の火曜日、10月22日(火)に、さるやんごとなき方がやんごとなき地位に就かれたとのことで、内外からお客さんを招いて、お祝いの式典が行われた。

その日は祝日になったこともあり、僕はテレビでその式典をボンヤリと眺めていたにすぎないのだが、その式典を眺めている間、桐山襲の小説『パルチザン伝説』のある一節が僕の頭から離れなかった。戦争で空襲に遭った男二人が話をする場面である。

「『このへんには工場がないから大丈夫だとは思うけれど―』
私が落ち着きをとりもどしてそう言うと、男はしばらく防空壕の方角を見やっていたが、やがて断固たる調子で、戦争だから家が焼かれるのは仕方ねえが工場が狙われるのが悔しい、それに宮城(きゅうじょう)が心配だ、と答えた。

…戦争だから家が焼かれるのは仕方ないが工場が狙われるのが悔しい、それに宮城が心配だ…

なるほど、この国のひとびとはかつてない空爆のなかでそういうふうに考えているのか――動悸の細波が残っている胸を押さえながら、私は頭のどこかが痺れるのを感じていた。まだ焼かれ足りないのか、まだ殺され足りないのか、いや、全部焼かれ、全部殺されても、そう思いつづけているのか」

「確かに私の周囲で生きているひとびとは、ただならぬ生活の混乱や肉親の死に直面しているにもかかわらず、未だ敗け足りていないように見えた。民間人だけではない、軍人もまた、真剣に降伏を考えているのは上層の極めて一部であり、それ以外は児戯に類する本土決戦の〝準備〟に我を忘れている状態だった。なるほど民は自らの水準に応じてその支配者を持つものだとするならば、知は力であるという段階を通過せぬまま権威と屈従の感覚だけは鋭敏にさせてきたこの国の民の水準に、軍部のごろつきたちはまことに適合しているのかも知れなかった」

儀式が始まると空が晴れて、その直後に上空に虹が現れたと、ニュースがまるでそれを吉兆のように伝えているのは、もはや非科学的でしかなかった。現実にはその3日後に、「弱り目に祟り目」の大雨が、台風19号の被災地に容赦なく襲ってきたのである。

やんごとなき式典についての僕のコメントは、これ以上でも以下でもない。

〔付記〕なお、この記事のタイトルは、あるドラマのタイトルのパロディーである。説明するのも野暮な話だが。

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粘土詩

前回の続き。

小学校4年~6年の時の担任だったN先生が松山東高校出身だったことから、いろいろなことを思い出す。

同級生だった人たちの話も、しばしばしてくれた。その中には、のちに絵手紙作家として有名になる小池邦夫さんの名前もあった。

ほかにもいろいろな同級生のお話しをしていたよなあ、とつらつらと思い返してみると、愛媛県の知的障害者施設の先生をしている方がいらっしゃったことを思い出した。

すぐに名前が思い出せなかったが、僕は小学6年生の時、その学園に通う子どもたちが書いた詩をまとめた『どろんこのうた』という詩集を授業で読んだことを思い出した。そしてその先生の名前が、仲野先生であることを思い出した。

仲野先生は、学園に通う知的障害者の子どもたちに詩を書かせるのだが、その方法が一風変わっていた。粘土板に、自分がその時に浮かんだ言葉と、絵を彫らせて、版画にするのである。

その「版画詩」を集めた詩集だから、タイトルが「どろんこのうた」。

知的障害を持つ子どもたちの詩は、何の不純物も混じっていないようなみずみずしい言葉で綴られており、当時の本の帯には、詩人の谷川俊太郎の推薦文が書かれている。

また、のちに音楽家の池辺晋一郎がこの詩集に感動し、いくつかの詩に曲をつけたそうである。

さて、話を僕の小学生時代に戻す。小学6年生のときである。

N先生は、この『どろんこのうた』という本をクラスの一人一人に配った。

「この詩集を読んで、感想文を書いてください」

よくよく説明を聞くと、この詩集をまとめた仲野先生は、N先生の高校時代の同級生であり、この本は、仲野先生が知的障害者施設の子どもたちが粘土に掘った詩をまとめた本である、という。

その本を、まずはまっさらな気持ちで読み、感想文を書く。

その後、N先生が国語の授業でこの詩集をとりあげ、詩についてみんなで考える時間を作る。

そしてそれをふまえて、各自がもう一度、感想文を書く。

つまり、N先生による指導の前と指導の後、2度にわたって感想文を書いたのである。N先生は、指導によって児童の感想がどのように変化するかを見るために、このようなやり方をとったのであろう。

しかし、この詩集の感想を書くことは、当時の僕、いや、今の僕からしても、とても酷な課題だった。

それぞれの詩は、本当に純粋な気持ちに溢れたもので、飾りのない、混じりけのない言葉に溢れている。その詩について、僕がいくら感想を書いたとしても、それは所詮は飾り付けた言葉でしかないのである。どんなに言葉を並べ立てても、彼らの詩にふさわしい感想文を書けるはずがないのである。

詩人の谷川俊太郎は、この本の帯文に、「生まれたてのことば、何も着ていない裸のことば、心と体の見わけのつかぬ深みから、泉のようにわいてきたことば、詩の源と、生の源とがひとつであるということを教えられました。粘土に書くという着想も、すばらしい」と書いている。これ以上、どんな言葉が必要だろう。

400字だったか800字だったか、とにかくどのようにして僕が2回の感想文を原稿用紙のマス目に埋めていったのか、今となってはまったく覚えていない。

クラス全員が2回ずつ書いたその感想文は、ガリ版刷りの手作りの感想文集、いわゆる私家版としてまとめられた。

その後、その文集が誰かの目にとまったのか、ラジオの短波放送に取り上げられることになった。そのとき、N先生とともに、クラスの児童の何人かが出演し、インタビューに答える形でラジオ出演した。僕も出演した児童の一人として選ばれた。そのとき何を喋ったのか、まったく覚えていない。

…そんなことを思い出し、『どろんこのうた』の本は、いまどうなっているんだろう?と思って調べてみたら、なんと2016年に新装版が出版されていた。最初の出版が1981年であるから、35年以上経たロングセラーだったのである。

新装版には、仲野先生の回想録が掲載されていて、その中に、N先生が作った感想文集についても触れられていた。

「『どろんこのうた』出版直後に、東京都○○小学校のN先生が指導・編集されたクラス全員による初読と指導後の感想文を収めた『どろんこのうた 感想文集』(1981年、自家版)は交流教育の始まりでした」と述懐している。

小学校の国語の授業中で、『どろんこのうた』の詩集を読み、感想文集を作る、という試みは、N先生だけの着想で、ほかでは行われなかったようである。同級生だったからこその、着想だったのかも知れない。

さて、そこにどんな感想文が綴られていたのか。読み返したくもあり、読み返したくもなし。

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松山東高校

脚本家・早坂暁さんのエッセイ集について書いてきたが、早坂暁さんの出身地は愛媛県で、旧制松山中学、つまり松山東高校が出身校である。

松山東高校からは、伊丹万作とか、大江健三郎とか、多くの文化人を輩出している。

それで思い出したことがあった。

僕が小学校4年~6年の時の担任だったN先生の故郷は愛媛県で、松山東高校出身だった。その後、地元の大学の教育学部で教員免許を取り、数年間、故郷で教鞭をとったあと、東京の小学校に移ってきたのである。

N先生はよく、松山東高校時代の思い出話もしてくれた。その話を聞きながら、早く高校生になりたいと思った。松山東高校は、当時小学生だった僕にとって、最も身近な、そして憧れの高校名として、その後も記憶に残り続けた。

N先生は、当時小学生だった僕たちに、折にふれて、芸術や文学のお話しをしてくれた。もちろん、当時小学生だった僕たちには難しすぎて、そのすべてを理解したわけではなかったが、後々、僕が文章を書くことを生業のひとつにするようになったきっかけは、N先生との出会いが決定的だったと思う。

N先生はまた、正岡子規をはじめとして、伊丹万作や大江健三郎など、郷土の先輩方のお話しをしてくれたので、あるいはその時に(高校の先輩である)早坂暁さんのお名前も出ていたかも知れない。いずれにしても、松山東高校という響きに、僕は不思議な懐かしさを感じるのである。早坂暁さんのエッセイを読んで久々にその感覚を思い出し、N先生のことを思い出したのであった。

そんな折、母から電話があった。

「さっき、道ばたでN先生に会ったわよ」

N先生は、いまも、僕の実家の隣の町に住んでおられる。かかりつけの病院に行くとかで、うちの実家の近くの交差点を歩いていたところ、うちの母と出くわしたのである。

N先生は数年前に、体調を崩されているという噂を耳にしたが、いまはどうなのだろう?

「お元気そうだった?」

「お元気そうだったよ。以前お目にかかったときは、少し痩せていたけれど、いまは体調が悪そうな感じではなかった」

「それはよかった」

「でも先生がねえ、『癌で余命3年の宣告を受けましたが、いまもこうして生きています』と言っていたのよ」

「癌だったの?」

「そうみたい」

N先生は、僕の父と同じ、1941年生まれである。そういえば、高校時代の担任だったKeiさんもやはり、1941年生まれである。僕の父は2年前に他界したが、僕にとっての恩師、N先生とKeiさんのお二人が、いまでもお元気なのは、僕にとってまだ頼るべき父親がいるような気がして、嬉しいことである。

Keiさんとはここ最近、メールなどで連絡を取り合ったりしているが、近いうちに時間を作って、N先生のところに会いに行こうか、とか、手紙を書こうかとか、そんな考えが浮かんだ。

いろいろなことをつらつらと思い出しているうちに、一冊の本のことを思い出した。長くなるので次回に書く。

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運動会

10月19日(土)

保育園の運動会が、近くの学校の体育館を会場にしておこなわれた。

娘にしても僕にしても、保育園の運動会に出るのは初めてである。

クラスごと、つまり年齢ごとに、競技というか出し物が違っていて、バラエティーに富んでいる。毎年この運動会を準備する保育園のスタッフの方たちは、大変だろうなあと、本当に頭が下がる。

僕も、娘と一緒に1歳児クラスの競技に参加したのだが、たいしたことをしていないのにもかかわらず、汗だくになった。

それはともかく、いちばん印象に残ったのは、4歳児・5歳児クラスが合同でおこなった「バルーン」という出し物である。

音楽に合わせながら、体育館の真ん中に敷かれている巨大な円形のカラフルなビニールシートのようなものに園児たちが出たり入ったりして、巨大な円形のシートをバルーンのように立体的に動かしていく。園児が円形の巨大なシートの端っこをみんなで持ち上げたりすると、そこから空気が入り、半円形のバルーンができあがっていくのである。

…うーむ。言葉で説明するのはなかなか難しい。百聞は一見にしかず、である。

で、その時に流れている歌が、妙に耳について離れない。子ども向けの歌にしちゃあ、楽曲が高度すぎる。

歌っている声は、大人ではなく、子どもたちのようなのであるが、有名な歌なんだろうか???

妻に聞いてみると、

「知らないの?米津玄師の曲だよ」

米津玄師の名前くらいは、聞いたことがあるぞ。たしか昨年の紅白歌合戦に出ていたんじゃなかったっけ?

で、調べてみると、「パプリカ」という曲であることがわかった。NHKのみんなの歌でも流れているらしい。

東京2020の公式応援ソングにもなっていると書かれていて、東京五輪開催反対派の僕にとっては、なんとも複雑な気持ちではある。だが、歌に罪はない。

さらに調べてみると、この曲を、「Foorin(フーリン)」という子どもユニットが歌っているのだが、そのダンスの振り付け師の一人が、辻元知彦という人なのである。

ダンスの世界にはまったく疎いのだが、辻元知彦という名前、どこかで聞いたことがあるぞ。

思い出した!TBSラジオ「荻上チキのSession22」で、俳優の森山未來と二人で「きゅうかくうしお」というダンスユニットとして、トークゲストに出演していた人だ!ダンスの世界ではすごい人らしい、ということだけは知っている。

というか、俳優の森山未來も、それまで全然知らなかった人だが、大河ドラマ「いだてん」で、若いころの古今亭志ん生を演じているのを見て、すげえ達者な俳優さんだということを、ごく最近に知ったばかりである。で、その俳優さんが、一流のダンサーの人とダンスユニットを組んでいるというのをラジオで知って、またまた驚いたわけである。

ナンダカワカラナイが、いろいろとすごい。世の中は、知らないことだらけだ。

 

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私だけの逸話

先日、知り合いの編集者が出版した、脚本家・早坂暁さんのエッセイ集を読んだという話を書いた。

その感想を、知り合いの編集者の方にメールでお送りしたところ、なんと僕の感想を早坂さんの奥様に伝えてくださったようで、奥様がたいへん喜んでおられましたと、その編集者の方からメールをもらった。

なんとも恐縮するようなお話しである。僕は一読者にすぎず、書いた感想も実に拙いものだったのだが、早坂暁さんや早坂さんの奥様とはまったく面識がないにもかかわらず、存在がぐっと身近に思えてしまったのである。

僕の感想を、早坂さんの奥様がご覧になったと聞いて、ちょっとこれは書かない方がよかったのかな、と思った部分があった。

「エッセイ集とは関係のない話になりますが、早坂暁さんと大林宣彦監督は、「恋人よわれに帰れ」(1983年)という単発ドラマで、いちどだけ一緒にお仕事をされていますね。僕は未見なので内容はよくわからないのですが、ある評論によれば、ビデオ制作によるテレビドラマだったために、大林監督らしい演出が発揮できず、当時はあまり評価されなかったようだったとありました(樋口尚文編『フィルムメーカーズ20 大林宣彦』2019年7月、宮帯出版社刊)。同じ瀬戸内海の生まれで、しかも広島での戦争体験を共有しているお二人が、映画で一緒にお仕事をなさるところをもっと見たかったなあとも思います」

僕が大林宣彦監督のファンであるあまりに、上記のような、エッセイ集の感想とは関係のないことを書いてしまったのであるが、ここで大林監督のお名前を出してよかったのだろうか?と、ちょっと心配になった。お二人が良好なご関係にあったかどうか、僕はわからないまま書いてしまったからである。

編集者の方からの返信によると、「奥様はもともと実家が尾道で、大林監督と同郷です。医者だった大林監督のお父さんは地元では「大先生」と呼ばれていて、「ちなみに大林さんの父上は開業医で、私の伯母は、盲腸を切ってもらったそうです」とのことです」とあったので、僕はまたまたびっくりしてしまった。人間の縁とは、なんとおもしろいものだろう。早坂さんと大林監督は、意外なところでつながっていたのである。僕があの感想を書かなければ、「早坂さんの奥様の叔母様が大林監督の父上に盲腸を切ってもらった」というエピソードを伺うことはできなかったのである。

大林監督といえば、今年の5月にお目にかかったときのエピソードを思い出したので、書きとどめておく。

大林監督の講演会の後、僕は厚かましくも懇親会に出席して、あろうことか途中から監督の隣の席に座ることになった。

僕はガッチガチに固まって、結局何もお話しできなかったのであるが、まあそれは置いといて。

その懇親会場には、プロジェクターがセットされていて、壁には大きなスクリーンが掛かっていた。

途中、スタッフの方が気を利かせて、スクリーンに映像作品を流しはじめた。食事をしたり歓談したりしながら、BGM的に見てもらおうと思ったのだろう。

大林監督が、スクリーンに映し出された映像に気がついて、スタッフの人に質問した。

「いま、前で流れているあの映像は、何?」

「あれは、地元の大学の学生が、授業の一環として制作した短編映画です」

たしかそんなふうに答えていたと思う。すると大林監督がおっしゃった。

「食べたり飲んだりしながら見ちゃ、失礼だよ。見るんならばちゃんとした環境で見たい。あとでじっくり見たい」

「では、後日にこの映像作品をお送りします」

「ありがとう」

横で聞いていた僕は、びっくりしてしまった。いってしまえば、たかが学生が作った、おそらくは未熟な作品である。そうした作品さえも、映画として尊重しているのだ。どんな映像作品も、1つとしておろそかには観ない。つまりこれは、映画そのものに対する、監督の畏敬の念なのではないだろうか。僕はすっかり感動してしまった。

おそらく、その場に居合わせた僕しか知らないエピソードだろうと思うので、書きとどめておく。

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あっこイェーイェー

生後1年半を過ぎて、娘が急速にいろいろな言葉を覚えるようになってきた。

たとえば、絵本の中に描かれているいろいろな絵を指さして、

「これは?」

と聞いてくるのである。

正確に言うと、「これは?」とは発音できないので、

「こわ?」

とか、

「わ?」

と聞いてくる。

そのたびに、こちらは答えなければならない。

「わ?」(と指をさす)

「ぞうさん」

「ダータ。…わ?」(とまた指をさす)

「ばいきんまん」

「あいきんまん。…わ?」(とまた指をさす)

「ガオー」ガオ-とは、ライオンのことである、

「ガオー…わ?」(とまた指をさす)

「スープ」

「ジップ」

この繰り返しである。

まだ、忠実な発音ができないのだが、それがかえって、かわいいのである。「ぞうさん」を「ダータ」と発音するのは、何度でも聞きたくなるくらい、かわいいのだ。

これが、「ぞうさん」と、ちゃんと言えるようになってしまうと、「ダータ」は永遠に聞けなくなってしまう。いましか聞けない言葉なのだ。

何かが欲しいときに、「あぎて!」と言うのも口癖である。どうやら「貸して!」という意味のようなのだが、これもやはり「貸して!」とちゃんと言えるようになってしまうと、「あぎて!」という謎の言葉は、永遠に使われなくなってしまう。

さて、絵本の中の絵について、「こわ?」と、なんでも聞きたがると書いたが、困るのは、ありもしない動物の絵が描かれている場合である。

実在の動物だったら、「おさるさん」とか「かば」とか「イノシシ」とか、答えることができるのだが、見たこともない空想上の生物が描かれていると、即座には答えられないのだ。

うーむ。これから、絵本に描かれたありもしない動物とか、アンパンマンのキャラクターとか、そういう非実在の生物の名前についても、覚えていかなくてはならないのだろうか。この年齢になって無駄な知識を増やすのは、至難の業である。

いま、もうひとつ気になっている言葉は、

「あっこイェーイェー」

である。

以前にも書いたが、「あっこ」というのは「抱っこ」のことである。しかも、ただたんに抱っこするのではなく、立ち上がって抱っこして、歩きまわるところまでを含めた言葉である。

しかし最近、「あっこイェーイェー」と言い始めた。「あっこ」はわかるが、「イェーイェー」の意味がわからない。

これとは別に、「あっこイヤーイヤー」という言葉もある。これは、抱っこしようとして拒否をするときに使う言葉のようだ。

「あっこイェーイェー」は、まったく逆の意味で、抱っこしてほしいときに使う言葉のようである。

「イェーイェー」はどんな意味だろう?いまのところ「抱っこしてして~」という意味に解釈しているのだが、本当のところはよくわからない。

こういう言葉は、正しい発音ができるようになるにつれて駆逐されていくのだろうが、寂しくもある。なので忘れないうちに、ここに書きとめておく。

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キョスニムが愛した秋の空

台風のこととか、この時期恒例の「申請書祭り」(予告編大賞)の話とか、大河ドラマ「いだてん」の「懐かしの満州」のエピソードが神がかっていたとか、書きたいことはいくつかあるのだけれど、ブログを書くこと自体がしんどい。

台風の接近でたいへんだった12日(土)に、1通のメールが来た。

10年ほど前、韓国のK大学の語学学校で1年間勉強していたときの、4級の先生である。このブログでは「よくモノをなくす先生」として登場していたのだが、おそらく記憶にとどめている読者はいないだろう。

私よりもかなり年下の先生なのだが、外国語の先生というのは、それを初めて学ぶ者からすれば、「生まれたばかりの鳥が初めて見たものを親と思う」くらいの存在である。僕が習った韓国語の先生は何人もいるが、「よくモノをなくす先生」もその一人である。

最後に会ったのは、5年ほど前に、僕がK大学を訪れたときだった。それからまったく連絡をとっていないから、5年ぶりに連絡が来たことになる。K先生はいま、母校のK大学で非常勤講師をしているようだった。

韓国でも日本の台風のことがニュースになっていて、それで心配になってメールをくれたのかな?と最初は思ったのだが、メールの本文を読んで、まったくそうではないことがわかった。

「今日、ふと、キョスニムと奥様のことを思い出しました。

最近、韓国の空、とくに、キョスニムがこよなく愛した、 大学構内から見上げた空がとてもきれいで、先日大学構内を散歩していて、お二人を思い出したのでした。

お二人はいま、どのようにお過ごしですか?韓国へいらっしゃる機会はありませんか?

安否が気になってメールしました。

素敵な秋の季節、素敵にお過ごしください」

そうか。あれから5年、こちらの消息をまったく伝えていなかった。

僕は、返信に、昨年に子どもが生まれたことを書いた。

それともうひとつ。

僕の友人が、この9月から、僕の通っていた韓国のK大学に就職することになった。これもまた、深い因縁である。

その友人は、韓国語が堪能で、僕も妻も韓国に留学するときにはその橋渡しになってくれたりして、ずいぶんとお世話になった。その後も、いろいろなプロジェクトで一緒に仕事をしている。

メールの返信には、そのことも書いた。

「僕の親しい友人が、この9月から、K大学の研究教授になりました。韓国人のように韓国語が堪能ですし、とても人柄がいいので、機会があったら会いに行ってみてください。僕たち夫婦の話題を出せば、きっと会話がはずむはずです。

そんなこともあり、これからまた、K大学を訪れる機会が増えると思います。その時はまた連絡します」

すると返信にこうあった。

「お子様のご誕生を祝福せずにはいられません。この週末は、夫ともその話題で持ちきりでした。

週明けにK大学に行くので、キョスニムのご友人のところに行って、キョスニムのお話しをしてみようと思います。

K大学にいらした時には、必ずご連絡ください。私の子どもは10歳になりました。育児のノウハウを教えて差し上げます」

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都内で会合、からのお通夜

10月10日(木)

本務に関わる会合のため、都内の貸し会議室に向かう。

今回は、自分の専門とはまったく異なる、最先端の科学のお話を聞く。

N大学におつとめの、まだ若い先生なのだが、世界で初めて、あることを発見された方で、世界中のその分野の専門家にインパクトを与えたのだという。

専門分野の話を、とてもわかりやすく説明されて、たいへんおもしろかった。

おりしもいまは、ノーベル賞の時期である。どうも最近のノーベル賞は、基礎研究とはいっても、人間に役に立つものを発明した人に与えられる傾向にあるように思うのだが、その先生の研究は、直接には、僕たちの生活には何の役にも立たない。しかしそれにもかかわらず、大発見であることには違いないのだ。こういう研究こそ、評価されるべきだと思うのだが、まあそれは置いといて。

お話を聞いているうちに、ある先生のことを思い出した。この若い先生の研究は、僕が知っているある先生の研究と、非常に近いことに気づいたのである。

こういうとき、とても微妙な問題が生ずる。その若い先生に、僕の知り合いの先生の名前を出してもよいものか?もし、同じ専門分野の中で、その二人が仲が悪かったら、その先生の名前を出すことで、かえって若い先生の気を悪くすることになるからである。

…逡巡したあげく、会合が終わってから、その若い先生にご挨拶に行くことにした。

「今日のお話、とてもわかりやすくておもしろかったです」

「ありがとうございます」

僕は、「実はいまの職場にいる前は…」といって、「前の職場」の名前を出した。すると、

「ああ、S先生ですね!」

「そう!S先生です!S先生と研究分野が同じですよね」

「一緒に研究してますよ。今日のお話の中の一部は、S先生が明らかにされたことです」

「そうですか!僕は前の職場にいたときに、S先生とちょっとしたお仕事でご一緒する機会があったんですけど、今日のお話で、S先生のご研究を含めたこの分野の内容が、よくわかりました」実際のところ、S先生のご研究は、当時、僕にとっては難しすぎて、よくわからなかったのである。

「いまは退職されましたけど、研究はまだ現役でされておりますよ」と、その若い先生。

「そうですか。実は、S先生の娘さんと、僕の教え子が結婚しまして、最近双子が生まれたそうなんです」

「そうでしたか」

初対面で、専門分野のまったく異なる人だったが、ひょんなところで、つながりがあるものである。

まったく、人間の縁というのは不思議なものだ。

さて、都内での会合が終わり、夕方、お通夜に向かった。同業者の先輩が、亡くなったのである。

僕とは年齢がひとまわり以上離れた、大学の研究室の先輩なのだが、その先輩も僕も、口数が多いほうではないので、特別に親しいということはなかった。

ただ、ここ数年、その先輩と一緒に、「僕の実家のある町」の企画で、ある本を一緒に作っていた。その関係でたいへんお世話になったのである。

今年の5月末にその本が完成した。その過程についてはこのブログでも少し書いたことがあるが、その本作りはとてもたいへんなもので、その先輩の調整なくしては、予定どおりに完成しなかったと思う。

その先輩は、昨年の秋頃に体調を崩し、手術をした、と聞いた。

退院してしばらくしてから復帰したと聞いたので、ホッとした。今年の2月頃、僕はその先輩と一緒に、本の最終校正の作業をした。少しお痩せになっていたが、校正作業は、粛々とおこなわれた。そしてそれが、その先輩との最後の仕事となった。

5月末に本は完成したが、実はもう1冊、作ることになっていた。1冊目が完成し、さあこれから2冊目を作る準備にとりかかろう、という矢先に、先輩の訃報を聞いたのである。

あまりに突然なことで、びっくりした。僕は、すっかり復帰されたものだと思っていたからである。

僕は同業者のお葬式に参列するのが苦手なのだが、今回ばかりは、行かないわけにはいかない。

派手なお仕事をされた方ではなかったので、比較的こぢんまりしたお通夜のようにも思われたが、それでも、同業者が何人も参列した。

僕が苦手なのは、故人に最後のお別れをしたあとの、「通夜ぶるまい」の席である。そこには多数の同業者がいて、僕にとっては居心地が悪い場である。しかしまったく顔を出さないのも失礼だろうと思い、少しだけ顔を出すことにした。

久しぶりに会った人もいたようで、昨今の業界の話やら、仕事の話に興じていたりする様子が見られた。

もちろん、それも故人を供養することにつながると思うのだが、僕はどうしても、

「わたしの友は皆、厳しい光栄の中に生きてゐるだらう。

さうして私が死んだことなぞは、あんまり気にもとめないだらう」

という、堀口大學『月下の一群』におさめられた、フィリップ・ヴァンデルビルの「死人の彌撤」という詩を思い出してしまい、なんとも居たたまれなくなるのだ。

僕が死んでも、こんな感じになるのだろうかと思うと、憂鬱になり、そそくさとその場をあとにした。

あと1冊、一緒に本を作ることができなくなったことが、無念でならない。

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平気で生きる

熱戦を制して2日がたつが、さすがに身体にダメージがあったようで、少しフラフラする。ま、前回もそうだったので気にすることはない。

一昨年に88歳で亡くなった脚本家・早坂暁のエッセイ集『この世の景色』(みずき書林、2019年9月)を読む。

僕は必ずしも早坂曉の熱心な視聴者ではなかった。もちろん有名な脚本家であることは知っていたのだが、代表作の「花へんろ」や「夢千代日記」を見ていない。でも小学生の時に見て、いまでも強烈に印象に残っている、早坂暁脚本のドラマが2つある。

それは、TBSテレビで正月特番として放送された、司馬遼太郎原作の「関ヶ原」(1981年)と、毎日放送制作の「人間の証明」(1978年)である。「関ヶ原」は、いまでも僕の中でベスト1の時代劇ドラマで、これを越える時代劇を知らない。このドラマは、早坂暁の脚本の力によるところが大きいと、のちに原作を読んでそう思った。「人間の証明」は、松田優作の角川映画が有名だが、早坂脚本版のドラマ「人間の証明」の方が、はるかに完成度が高く、さまざまな人間模様をじっくりと描いている傑作ドラマである。この2本はその後も、何度となくDVDで繰り返し見返している。

早坂暁脚本のドラマについてはそれくらいの視聴体験しかないのだが、以前、一緒に仕事をしたことのある編集者の方が出した本というご縁があって、読むことにしたのである。

名脚本家による、珠玉のエッセイ集というべき本で、とくに原爆や戦争の体験をめぐるエピソードや、親友・渥美清との交流のエピソードは、印象深い。

しかし僕が最も驚いたのは、早坂暁自身が、さまざまな病気を体験し、その病気と共生しながら仕事を続けてきたことを綴った文章である。

早坂暁は、50歳の時に、心筋梗塞と胆嚢癌を患い、余命幾ばくもないことを覚悟した。そのときに、早坂と同郷の歌人・正岡子規の言葉に出会う。

東洋のルソーと言われた中江兆民は、喉頭癌となり、医者から余命一年半と告知を受ける。その余命を見すえて書いた本が『一年有半』である。正岡子規は、中江兆民のこの本を読んで、彼の考えを批判した。

曰わく、中江兆民は、死病にとりつかれて、もうジタバタしない、あきらめの境地にたどり着いたと書いているが、あきらめるというのは、どうもいただけない。死の約束は人間、生まれた瞬間からの約束ごとで、死病にとりつかれた人間だけのものではあるまい。そこで、あきらめるというよりは、なおかつ平気で生きるのが、望ましいありようではあるまいか、と。

正岡子規は、自身も脊椎カリエスという死病にとりつかれていたが、彼は繰り返し「平気で生きる」という言葉を述べている。

手元にある正岡子規の「病牀六尺」を見ると、

「余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた」

と書いている。

早坂暁は、正岡子規のいう「平気で生きる」という境地を胸に抱き、その後も次から次へと訪れる病気と共生しつつ、仕事を続けるのである。

そんな早坂が、「平気で生きる」ことを貫いた人間としてまなざしを向けたのが、彼の親友・渥美清であった。

渥美清もまた、晩年は癌に冒されていたが、彼は親友の早坂にすら、そのことを打ち明けなかった。

早坂暁は、渥美清に対する弔辞の中で、次のように述べている。

「…あなたはそういうことを気取らずに、正岡子規さんの言葉ではないですが、なおかつ平気で生きてみせた本当に強い人だと思う。正岡子規さんは、やはり結核からきた業病で身体中穴だらけというそういう姿で、自分の死期をも悟っていたわけですから、書いておられますけども、それでも、なおかつ平気で生きることが大事だと、なおかつ平気で生きる。なかなかそういうことは出来ることではありません。あなたは、僕が知っている限りでは、正岡子規さんの他にはあなただけだなと思います。本当に偉かったなと思います」

だが僕は、このエッセイ集を読んで思う。

早坂暁こそが、数々の病気に冒されてもなお、「平気で生きること」にこだわり続けた人なのだ、と。

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熱戦を制す

10月3日(木)

巷ではラグビーワールドカップやらバレーボールやら世界陸上やらで熱戦がくりひろげられているが、僕も負けてはいられない。

7月末に続く2回戦である。

7月末の1回戦は、前半2時間、後半2時間(ハーフタイム1時間)の長期戦となり、26対23で辛くも勝利した。

その2か月後にあたる今日の2回戦は、前半1時間40分、後半1時間半(ハーフタイム40分)で、やはり長期戦となったが、23対0で完勝した。前半戦では、準備していたBGMが聴けないというアクシデントと想定外の暑さで、精神的に翻弄されたものの、後半戦ではBGMの回復と気温が下がったことで、尻上がりに復調した。ただし一部判定に持ち込まれたものもあり、年末に再試合の可能性も残されている。

ラグビーワールドカップに影響されたか?はたまた、ドラマ「盤上の向日葵」に感化されたか?

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祝・ラグビーワールドカップ開催!

盛り上がってますねえ。ラグビーワールドカップ!

何を隠そう、このブログでも、ラグビーをテーマにした記事を、これまで数本書いております。

最初は、2013年1月の記事。

湯たんぽが先か、やかんが先か

本文を読んでも、湯たんぽの話ばかりでラグビーの話がいっこも出てこないって?

コメント欄をお読みください!!

ラグビー愛に溢れたコメントで埋め尽くされております!!!

正直に告白しますと、この当時は、ラグビーのラの字も知りませんでした。ドラマの「スクールウォーズ」の内容も、子どものころに見たっきりで、忘却の彼方でした。なのでラグビーについての記述がかなりボンヤリとしております。

それより何より、この記事は、その後の「こぶぎさんと僕のコメント欄での大喜利合戦」という名物コーナーの原点となった、記念碑的な記事なのであります!!

…ま、他人様にはどーでもいいことではありますが。

続いて、2015年9月の記事。

ラグビーの見方を教えてください

ラグビー解説者への道

ラグビー解説者への道・その2

立て続けにラグビーの記事を書いたのは、ちょうどこのとき、前回のワールドカップが開催されていたからである。

すっかり感化された僕は、半ば本気で、ラグビー解説者をめざそうと思っていた。

野球やサッカーの場合とは異なり、ラグビーはまだ的確な解説ができる人が少なく、いわば「鉱脈」だと思ったのである。ニッチビジネスとでも言おうか。

しかしすぐに飽きてしまい、現在に至る。

で、4年後。

うかうかしていたら、ラグビーの試合解説が4年前とくらべて格段に進歩していたのである!!

で、僕は、相変わらずラグビーのルールがよくわかっていない。

代表チームには、国籍にかかわらず、一定の条件さえクリアすれば外国人選手を登録してもいい、ということを、今回初めて知った。

あとは、ボールは後ろにパスしなければならない、とか、ボールを前に落としてはいけない、とか、地面に倒れたらその選手はプレーをしてはいけない、とか。

それくらいしかわからないのだが、でもそれだけでも知っていれば、なんとなく試合の動きがわかるような気がして、楽しめる。

あと、「ラストプレイ」というルールがあるそうで、文化放送の「大竹まことのゴールデンラジオ」で、きたろう教授が得意げに説明していたが、いまひとつよくわからなかった。

実際のところ、あまり試合を見ているわけではないのだけれど、湯たんぽをラグビーボールに見立ててくだらない文章を書いていたころにくらべると、格段の進歩である。

さて僕も明後日、7月末に続く2回戦である。「ワン・フォー・オール、オール・フォー・ワン」の精神で、乗り越えよう!

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