台風と虹と大雨と
今年は、台風15号、台風19号と、関東地方に風や雨による被害が続いた。
先週金曜日の大雨も、それに追い打ちをかけるものとなった。実感としては、今回の大雨が、最も危険を感じるものとなった。前の二つの台風が休日におとずれたのに対し、このたびの大雨が出勤日と重なったことにもよるだろう。
金曜日は朝からひどい大雨だったが、夕方になって雨がやみ、幸い電車が動いていたので、帰宅することができた。
ただ、ふだん使っている道が、崖崩れで寸断され、ちょっとした遠回りをする羽目になった。
帰宅すると、僕の職場のある町が、大雨による冠水でひどいことになっているとニュースになっていた。
ニュースを見た何人かの方から、お見舞いのメールをいただき、とてもありがたかった。不幸中の幸いと言うべきか、僕の職場は山の上にあるので、冠水などの被害には遭わなかった(と思う)。
自宅は、職場から通勤時間2時間半の場所にあるので、特段の被害はなかった。
しかし、実際に大雨の被害に遭った地域に自宅のある人は、想像を絶する体験をしたのだろうと思う。
先週の火曜日、10月22日(火)に、さるやんごとなき方がやんごとなき地位に就かれたとのことで、内外からお客さんを招いて、お祝いの式典が行われた。
その日は祝日になったこともあり、僕はテレビでその式典をボンヤリと眺めていたにすぎないのだが、その式典を眺めている間、桐山襲の小説『パルチザン伝説』のある一節が僕の頭から離れなかった。戦争で空襲に遭った男二人が話をする場面である。
「『このへんには工場がないから大丈夫だとは思うけれど―』
私が落ち着きをとりもどしてそう言うと、男はしばらく防空壕の方角を見やっていたが、やがて断固たる調子で、戦争だから家が焼かれるのは仕方ねえが工場が狙われるのが悔しい、それに宮城(きゅうじょう)が心配だ、と答えた。
…戦争だから家が焼かれるのは仕方ないが工場が狙われるのが悔しい、それに宮城が心配だ…
なるほど、この国のひとびとはかつてない空爆のなかでそういうふうに考えているのか――動悸の細波が残っている胸を押さえながら、私は頭のどこかが痺れるのを感じていた。まだ焼かれ足りないのか、まだ殺され足りないのか、いや、全部焼かれ、全部殺されても、そう思いつづけているのか」
「確かに私の周囲で生きているひとびとは、ただならぬ生活の混乱や肉親の死に直面しているにもかかわらず、未だ敗け足りていないように見えた。民間人だけではない、軍人もまた、真剣に降伏を考えているのは上層の極めて一部であり、それ以外は児戯に類する本土決戦の〝準備〟に我を忘れている状態だった。なるほど民は自らの水準に応じてその支配者を持つものだとするならば、知は力であるという段階を通過せぬまま権威と屈従の感覚だけは鋭敏にさせてきたこの国の民の水準に、軍部のごろつきたちはまことに適合しているのかも知れなかった」
儀式が始まると空が晴れて、その直後に上空に虹が現れたと、ニュースがまるでそれを吉兆のように伝えているのは、もはや非科学的でしかなかった。現実にはその3日後に、「弱り目に祟り目」の大雨が、台風19号の被災地に容赦なく襲ってきたのである。
やんごとなき式典についての僕のコメントは、これ以上でも以下でもない。
〔付記〕なお、この記事のタイトルは、あるドラマのタイトルのパロディーである。説明するのも野暮な話だが。
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