平気で生きる
熱戦を制して2日がたつが、さすがに身体にダメージがあったようで、少しフラフラする。ま、前回もそうだったので気にすることはない。
一昨年に88歳で亡くなった脚本家・早坂暁のエッセイ集『この世の景色』(みずき書林、2019年9月)を読む。
僕は必ずしも早坂曉の熱心な視聴者ではなかった。もちろん有名な脚本家であることは知っていたのだが、代表作の「花へんろ」や「夢千代日記」を見ていない。でも小学生の時に見て、いまでも強烈に印象に残っている、早坂暁脚本のドラマが2つある。
それは、TBSテレビで正月特番として放送された、司馬遼太郎原作の「関ヶ原」(1981年)と、毎日放送制作の「人間の証明」(1978年)である。「関ヶ原」は、いまでも僕の中でベスト1の時代劇ドラマで、これを越える時代劇を知らない。このドラマは、早坂暁の脚本の力によるところが大きいと、のちに原作を読んでそう思った。「人間の証明」は、松田優作の角川映画が有名だが、早坂脚本版のドラマ「人間の証明」の方が、はるかに完成度が高く、さまざまな人間模様をじっくりと描いている傑作ドラマである。この2本はその後も、何度となくDVDで繰り返し見返している。
早坂暁脚本のドラマについてはそれくらいの視聴体験しかないのだが、以前、一緒に仕事をしたことのある編集者の方が出した本というご縁があって、読むことにしたのである。
名脚本家による、珠玉のエッセイ集というべき本で、とくに原爆や戦争の体験をめぐるエピソードや、親友・渥美清との交流のエピソードは、印象深い。
しかし僕が最も驚いたのは、早坂暁自身が、さまざまな病気を体験し、その病気と共生しながら仕事を続けてきたことを綴った文章である。
早坂暁は、50歳の時に、心筋梗塞と胆嚢癌を患い、余命幾ばくもないことを覚悟した。そのときに、早坂と同郷の歌人・正岡子規の言葉に出会う。
東洋のルソーと言われた中江兆民は、喉頭癌となり、医者から余命一年半と告知を受ける。その余命を見すえて書いた本が『一年有半』である。正岡子規は、中江兆民のこの本を読んで、彼の考えを批判した。
曰わく、中江兆民は、死病にとりつかれて、もうジタバタしない、あきらめの境地にたどり着いたと書いているが、あきらめるというのは、どうもいただけない。死の約束は人間、生まれた瞬間からの約束ごとで、死病にとりつかれた人間だけのものではあるまい。そこで、あきらめるというよりは、なおかつ平気で生きるのが、望ましいありようではあるまいか、と。
正岡子規は、自身も脊椎カリエスという死病にとりつかれていたが、彼は繰り返し「平気で生きる」という言葉を述べている。
手元にある正岡子規の「病牀六尺」を見ると、
「余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた」
と書いている。
早坂暁は、正岡子規のいう「平気で生きる」という境地を胸に抱き、その後も次から次へと訪れる病気と共生しつつ、仕事を続けるのである。
そんな早坂が、「平気で生きる」ことを貫いた人間としてまなざしを向けたのが、彼の親友・渥美清であった。
渥美清もまた、晩年は癌に冒されていたが、彼は親友の早坂にすら、そのことを打ち明けなかった。
早坂暁は、渥美清に対する弔辞の中で、次のように述べている。
「…あなたはそういうことを気取らずに、正岡子規さんの言葉ではないですが、なおかつ平気で生きてみせた本当に強い人だと思う。正岡子規さんは、やはり結核からきた業病で身体中穴だらけというそういう姿で、自分の死期をも悟っていたわけですから、書いておられますけども、それでも、なおかつ平気で生きることが大事だと、なおかつ平気で生きる。なかなかそういうことは出来ることではありません。あなたは、僕が知っている限りでは、正岡子規さんの他にはあなただけだなと思います。本当に偉かったなと思います」
だが僕は、このエッセイ集を読んで思う。
早坂暁こそが、数々の病気に冒されてもなお、「平気で生きること」にこだわり続けた人なのだ、と。
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