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2019年12月

寅と清と田所と

12月28日(土)のアクセス数が、ふだんの10倍にまで跳ね上がり、ビックリした。

その翌日の29日(日)は、少し減ったが、それでも、ふだんの6倍のアクセス数である。

なんだなんだ?記事が3000本に到達したことが、巷でそんなに話題になっているのか?

…と思ったが、そんなはずはない。

アクセスの最も多い記事が、2012年に書いた「被害妄想の教科書」であることがわかり、なるほど、そういうことか、と思った。

前日の12月27日(金)に、山田洋次監督の映画「男はつらいよ お帰り寅さん」が封切りになったことが関係しているのではないだろうか。

「被害妄想の教科書」は、「男はつらいよ 寅次郎相合い傘」に出てくる名シーン「メロン騒動」について書いたものである。新作の寅さん映画を見た人が、たまたま検索をしたら、このブログに引っかかった、ということなのではないだろうか。

試みに「寅次郎 メロン」で検索をかけてみると、上から2~3番目に、このブログが登場する。「メロン騒動」は「男はつらいよ」の中でも屈指の名エピソードだから、これに触れているサイトはいくつもあるのではないかと思うのだが、なぜかこのマイナーブログが検索の上位に出てきてしまうのである。

ちなみに「寅のアリア」で検索をかけてみても、上から3番目くらいにこのブログが登場する。「寅のアリア」もまた、「男はつらいよ 寅次郎相合い傘」の中の名シーンである。ある場面における寅次郎の語りが、まるでアリアのような美しい独唱のように聞こえるから、そう名付けられているのだ。

それにしても、これだけのアクセス数になったのは、ヨン様について書いた時以来である。2回目に書いた時は、ヨン様ファンの方がご自身のブログで紹介して下さったほどである

そう考えると、ヨン様と寅さんの人気というのは、目を見はるものがある。

僕は一時期、このブログで、寅さん映画評をせっせと書いていた。けっこう気に入っているのは、「映画的余韻」「不遇と共感」という記事なのだが、この記事はあまり読まれてはいない。

最近は、「寅さん」からすっかり遠ざかってしまった。このブログの読者の中には、寅さん映画が苦手だ、という人がいるのではないか、という思いにとらわれたことと、なにより自分自身が、劇中の寅さんのことを「なんという人格破綻者だ」と思うようになり、いまや僕の古びた時代感覚からしても、寅さん映画は遠い過去のものになってしまったことによる。

しかし、渥美清という役者に対するリスペクトは、いまも続いている。最近は早坂暁さんのエッセイ集『この世の景色』を読んで、渥美清に対する新たなリスペクトが生まれたといってもよい。

渥美清は、3つの名前を持っていた。

芸名としての渥美清。

役名としての車寅次郎。

そして、本名としての田所康雄

おそらく本人の中では、それを使い分けていたはずである。映画の中では、渥美清でも田所康雄でもなく、車寅次郎だった。あたりまえのことだが。

だが、ときおり寅さん映画を見ていると、ややこしい場面に遭遇した。

なんの回だったか忘れてしまったが(「寅次郎夢枕」だったか…)、米倉斉加年演じる気弱な男に対して、「キヨシ」と名前を呼ぶシーンがある。その男の名は本当は「キヨシ」ではないんだが、なにかのはずみで寅次郎がその男のことを「キヨシ」と呼んだのである。たぶん渥美清のアドリブなんだろうが、僕はその場面を見たとき、「キヨシはあんただろ!」と、なぜか可笑しくて仕方がなかった。

また、「男はつらいよ 葛飾立志編」には、小林桂樹が田所という役名で出てくる。田所というのは、ご存じの通り映画「日本沈没」で、小林桂樹が演じた偏屈な博士の役名である。つまりパロディーとして、「男はつらいよ」でもこの役名をつけたのである。

寅次郎が、小林桂樹に対して「田所先生」と呼んでいたのが、そこはかとなく可笑しい。「田所は、あんたでしょう」と。

役名と芸名と本名がグッチャグチャに入り乱れ、虚実の皮膜が一瞬垣間見られる感じが、好きだったのだが、この感覚は、たぶん誰にもわかるまい。自分で書いていても、ナンダカワカラナイ。

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ついに3000本!新たなる決意!

12月27日(金)

今日は今年の仕事納めの日。

そしてついに、公開記事が3000本に達しました!

これを機に、新たな決意を固めました。

それは、

年賀状をやめる!!!

という決意表明です!

年賀状関係者の方には、申し訳ない。

いちおう、年賀状用の写真も撮ったのだが、急遽、年賀状を出すのをやめることにした。

年末年始が忙しく、とても年賀状のことで気に病んでいる場合ではないのだ。

振り返ってみれば、毎年の年末は、年賀状に悩まされてばかりいた。

2018年「年賀状やめたい」

2016年「年賀状改革」

2016年「喪中はがき」

2014年「年賀状やめませんか」

2013年「年賀状会議」

2011年「年賀状の憂鬱」

もうね、2011年からずっと年末には年賀状についての愚痴を書いているのだ。

もう年賀状に悩まされるのはまっぴらだ!

年賀状って、予告なしにやめてしまっても大丈夫なんだろうか?やっぱり、失礼にあたるんだろうか?

しかし、「年賀状やめま~す」というメッセージを、いままで年賀状を出していた人たちに伝えるには、どうしたらいいのだろうか?

…ということでまた、考え出すと眠れなくなっちゃう。

しかし、ズルズルと続けるわけにはいかない。とくにこの年末年始は、年賀状にかかわっている時間も精神的余裕もないのだ。

この記事を読んでいる心当たりの方、年賀状はもう出しませんので、ご了承下さい。

…ということで、

「3000本目の記事は、どんな内容になるか?クイズ」

の正解は、

「年賀状」

でした。正解者には「出すつもりだった幻の年賀状」をお送りするつもりでしたが、正解者がゼロだったので、というか、誰も予想を書いてこなかったので、残念ながら年賀状はお送りできません。

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お菓子売りの女性

12月26日(木)

今年最後の検査をするために、都内の病院に向かう。

そこは、ビジネス街と観光スポットが合わさったような町で、つまりはビジネスマンと観光客が混在する町である。

地下鉄の駅を降りて、観光スポットのエリアから、ビジネス街の方に歩いて行くと、目的の病院がある。

もう少しで病院の建物に着く、というところで、

「あのう…すみません」

と声をかけられた。

若い女性なのだが、台車を押しながら歩いていて、その台車の上には、発泡スチロールの箱が積んである。

「ちょっとお時間よろしいでしょうか」

「何でしょう?」

最初、道でも聞かれるのかと思った。

「実は私、店舗を持たないでお菓子を売り歩いているのです」

「はあ」

「ちょっとお菓子を見ていただけますでしょうか」

そういうと、その女性は、台車の上にある発泡スチロールの箱の蓋を開けた。発泡スチロールの箱の中には、何種類かの和菓子や洋菓子が入っている。

手作りのお菓子とかオリジナルのお菓子、というわけではなく、いろいろなお店で売っているような商品を集めている、という感じである。

「もしよろしければ、買っていただきたいと思いまして…」

あまりにも唐突でビックリした。そもそも移動式店舗だとしても、台車の上に発泡スチロールの箱を乗せただけなので、一見してお菓子を売っているようには絶対に見えないのだ。箱が発泡スチロールだから、外から箱の中身が見えるわけでもない。

ま、ふつうに考えたら、めちゃくちゃアヤシい感じがするはずである。

こういうのを何て言ったらいいの?現代の棒手振り?いや、あるいは、見ようによってはマッチ売りの少女のお菓子版、というふうにもみえる。

マッチ売りの少女でいうところの、

「マッチはいかがですか…」

と言われているような気がして、こりゃあ、買わないとこの人は飢え死にしちゃうんじゃないか、という思いにとらわれた。

折しも、これから病院に行って検査をしに行く身だ。ここで善行を積んでおけば、検査の結果も良いのではないかと、験を担ぐことにした。

「何がおすすめですか?」

女性は、箱の中にある何種類かのお菓子の中から、

「いまはこれが人気があります」

と、お団子のパックを取り出した。

「これは京都のお店が作っているみたらし団子なんですけど、お団子の中にたれが入っているのです」

「ほう…。じゃあ買いましょう」

「ありがとうございます!…あのう」

「何です?」

「私が個人的におすすめのお菓子がありまして…」

「どれです?」

「これです」

と言って、今度は「カマンベールチーズケーキ」の箱を取り出した。

「これ、北海道のお店が作っているチーズケーキで、とても美味しいんです」

「わかりました。じゃあそれも買いましょう」

「ありがとうございます!」

というわけで、「京都のお店が作っている、たれが中に入っているみたらし団子」と、「北海道のお店が作っている、カマンベールチーズケーキ」を買ったのだった。

「賞味期限は大丈夫ですか?」

僕は念のため聞いてみた。

「大丈夫です」

見るとたしかに、賞味期限内の商品である。

「ありがとうございます。またよろしくお願いします!」

といって、その若い女性は去って行ったのだが、ということは、定期的にこの界隈を台車を押しながら売り歩いているのだろうか?

それに、京都のみたらし団子と、北海道のチーズケーキって、コンセプトなさ過ぎるだろ!どんなチョイスをしているんだろう?

いちおうこの町も観光スポットなのだが、この町にゆかりの深いお菓子を売っているわけでもない。むしろ縁もゆかりもない「ご当地お菓子」、それも、さほど有名ではないお店のご当地お菓子を売っているのである。

しかも、観光スポットのほうではなく、ビジネス街のほうで売り歩いているのだ。あんな感じで、台車に発泡スチロールの箱を無造作に積んで、お菓子を一日中売り歩いているのだろうか???

すべてが謎だらけだったが、まあマッチ売りの少女ならぬお菓子売りの女性を助けたのだと思うことにして、病院に向かった。

検査の結果は、善行を積んだわりには、期待に反したものだった。まあ、世の中そんなうまくはいかない。

だがお菓子は美味しかった。

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思い出はあてになるか

高校時代の同級生だったIさんから、メッセージが来た。まったく接点のないIさんからである。

「鬼瓦くん

高校の時の現代文の教育実習に来ていた男性の先生の名前覚えてない?たしか、T大の大学院生だった覚えがあるんだけど」

送られてきてから1時間ほどたって、僕はそのメッセージに気づいたのだった。

なんだこれ?実に唐突な質問である。そもそも、どうしてこんなことを知りたいと思ったんだろうか?

質問をしてきたIさんというのは、どちらかというと身体を動かすのが好きな体育会系の人で、こういっちゃあアレだが、文学とかにはまったく関心のなさそうなイメージの人である。いまさらその先生の名前を知って、どうするのだろう?

高校の時の教育実習の先生の名前なんて、ふつうは忘れてしまうものだ。

ところがさにあらず。僕は覚えているんだなあ、これが。しかもフルネームで。漢字だって書けるぞ。

どうして、そこまで覚えているのか?

それは、とても変わった先生だったからである。ひねくれ者と言うべきか。授業では、文学についてマニアックなことばかり言っていた。僕はその先生がちょっと苦手だった。

ずいぶん後になって本屋さんに行くと、文庫本のコーナーで、見たことのある名前を見つけた。

(あのときの教育実習の先生だ!)

その文庫というのは、すごくむかしに出た国語辞典を復刊したもので、その解説をその先生が書いていたのだ。内容は、かなりマニアックなもので、教育実習の時のイメージと変わっていないものだった。いまは文芸評論家のようなお仕事をされているようだった。

Iさんが質問してきたのは、おそらくその先生のことだな、と思い、返信した。

「武○○○先生のことなら覚えている。T大ではなくK大の大学院生だったと思う。文学に関してマニアックで、少々変わった人だったという印象。のちに何冊か文庫本を出していて、「あ、この人だ!」と思った記憶がある。思っていたのと違う人だったらごめんなさい」

打てば響くような回答である。まさか僕がフルネームの漢字表記を覚えているなんて思っていないだろう。僕の記憶力にさぞビックリするだろうな、と思って反応を待っていたが、まったく音沙汰がない。

翌朝になって、返信が来た。

「ゴローちゃんと飲んでたんだけど、全く覚えてなかったんだよね。私も記憶違いだったか。へぇ。本出してるんだね。」

えええええぇぇぇぇっ!!!???

いや、別にいいですよ!

ただ、こっちが期待したのは、

「すごーい。よく覚えていたね。さすが鬼瓦くん!」

という反応だったので、肩すかしを食らってしまった。

ま、いいんですけどね。

妙な質問を投げかけた理由もはっきりした。

同級生のゴロー君と飲んでいたときに、たまたまそんな話題になって、気になって質問してきたのだ。

「現代文の教育実習の先生でさあ、ちょっと変わった先生がいたよね」

「いたっけ?覚えてない」

「覚えてないの?T大の大学院生でさあ、ちょっとほかの実習生よりも老けてたじゃん」

「やあ、覚えてないなあ」

「あの先生、名前、何て言ったっけなあ…」

「そういうの、鬼瓦くんに聞いたらわかるんじゃない?」

「そうだね、聞いてみよう」

たぶん、飲んでいるときにこんな会話になったんだろう。

で、飲み屋で飲んでいるときに、唐突に質問をしてきたものと思われる。

俺はYahoo!知恵袋か!

その後ほどなくして飲み会は解散。そんなことはすっかり忘れていたところに、僕の返信が来たのだ。そのときにはもう、そんな思い出話なんてどうでもよくなってしまって、翌朝になって、

「ふ~ん。そうなんだ」

的なメールとなってしまったのではないだろうか。

思い出話なんて、そんなていどのものなのだ。だから思い出話はあてにならない。せいぜい、酒のあてになるくらいである。

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科捜研の女

小学2年生の姪は、ご多分に漏れず、サンタクロースの存在を信じている。

だがその存在に対する疑念が、姪の中で生まれたらしい。

きっかけとなったのは、同じクラスの友だちの発言である。

「サンタクロースは、うちのお母さんかもしれない」

この友だちの発言を聞いて、姪の心は揺らいだ。

(ひょっとして、毎年うちに来るサンタクロースも、ほんとうはお母さんなのではないだろうか?)

「お母さん、サンタクロースは、ほんとうはお母さんなの?」

「なにバカなこといってるの?そんなわけないでしょう?」

と、お母さんに一笑に付されたのだが、引き続いてお母さんが、

「サンタさんに、どんなプレゼントをお願いするの?」

と聞いてきたときは、姪が一瞬、答えるのをためらった。そして考えたあげく、

「…いちご…」

と答えた。ふだんならば高価なプレゼントをサンタさんにお願いする姪が逡巡したあげく、「いちご」と答えた理由は、万が一サンタさんがお母さんだった場合、プレゼントの予算はわが家の家計から支出されることになるから、高価なプレゼントをおねだりすることを、ためらったのである。

「あとねぇ…」

「なに?」

「お手紙」

「お手紙?サンタさんの?」

「うん」

さて、これは何を意味するのか?なぜ、サンタさんのお手紙なんかがほしいのか?

姪は、なんとかして、サンタクロースがお母さんであるという仮説の当否を確かめたいのである。そのためには、サンタさんの手紙の筆跡がお母さんの筆跡と同じかどうかを、確かめればよいのだ。

姪はドラマ「科捜研の女」の大ファンなので、おそらくはそこから得た着想なのかも知れない。

もちろんお母さんも、その手には乗らない。英語の手紙を書けば、筆跡はバレないのである。「サンタクロースは外人さんだから、英語で手紙を書いてくれたのよ」とかなんとか言えばよいのだ。

はたして姪は、サンタクロースがお母さんであることを、証明できただろうか。

よい子の読者のみなさん、サンタクロースの存在は、いつごろまで信じていましたか?

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キラキラ大作戦

Photo_20191224225301 「前の前の勤務地」での仕事が終わり、駅に戻ると、駅前にイルミネーションが飾られていた。

よく見ると、このイルミネーション全体のタイトルを書いた看板があり、

「キラキラ大作戦」

とある。

今どき、ずいぶん古めかしいタイトルを付けたものだなあ。このタイトルを考えた人は、僕と同じくらいか、僕よりも年上のおじさんではないだろうか。

何が古めかしいって、「大作戦」という言葉ですよ!こんな言葉を思いつくのは、アラフィフかアラカンのおじさんくらいしかいないぞ!

1960年代は、「なんとか大作戦」というタイトルが、大流行したのだ。

「スパイ大作戦」(日本での放送開始は1967年)

「宇宙大作戦」(日本での放送開始は1969年)

「怪奇大作戦」(1968年~1969年)

「クレージー大作戦」(1966年)

「スパイ大作戦」あたりがルーツかと思っていたら、「クレージー大作戦」のほうが「大作戦」のついたタイトルとしては古いのだろうか。とすれば、クレージーキャッツのこの映画のタイトルが、「大作戦」の最初なのだろうか???

「プロポーズ大作戦」というテレビのバラエティー番組もあったが、放送開始が1973年なので、やや後発である。60年代の「大作戦」モノの影響を受けたものであることは間違いないが。

いずれにせよ、1960年代後半に流行した「大作戦」をタイトルに使うのだから、世代がわかるというものである。

待てよ。「プロポーズ大作戦」というタイトルのドラマが2007年にフジテレビで放映されているぞ!このドラマを見ていた世代、つまりいまのアラサーあたりが、「キラキラ大作戦」を命名した可能性もある。だが、「プロポーズ大作戦」と「キラキラ大作戦」ではあまりに語感が違いすぎて、ちょっとインパクトが弱い。

いったい、「キラキラ大作戦」というタイトルは、どこから発想したものなのか?

思い出した!そういえば以前、たしか「ミニミニ大作戦」という映画があったぞ!

調べてみると、2003年公開の映画である。

正直言うと、この映画を見たことがないのだが、当時、この映画を紹介したテレビ番組を見て、この映画の存在を知った。

そのとき紹介していた映画評論家(誰だか忘れてしまった)が、「邦題はダサいが、映画はおもしろい」と言っていた。それを聞いて、どうしてこんなダサいタイトルをつけてしまったんだろう、と不思議に思ったものである。

調べてみると、原題は「The Italian Job」で、1969年製作の同名のイギリス映画をリメイクした、2003年製作のアメリカ映画であるという。もともと1969年の映画なのだ。なるほど、1960年代の映画へのオマージュともいう意味を込めて、邦題に「大作戦」というフレーズをあえて使ったのではないだろうか。

「キラキラ大作戦」と「ミニミニ大作戦」。よく似ている。

そこで僕は、「キラキラ大作戦」の元ネタは「ミニミニ大作戦」である、という仮説を立ててみたのだが、問題は、「ミニミニ大作戦」という映画があまりに無名で、「キラキラ大作戦」と聞いて「ミニミニ大作戦」を連想する人がどれほどいるのか、ということである。

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ついに3000本!と思ったら、あと5本

いよいよこの記事で、3000本達成!

…と思って、この記事を書く前に、よくよく確かめてみたら、「下書き(非公開)」の状態で保存している記事も含めて、2999本だったことがわかった。

下書きで保存しておいた記事を整理したつもりだったのだが、まだ9本ほど、下書きの状態で保存されていた。つまり、この記事を書く前の時点で、公開されている記事は2990本。

これをどーにかこーにかリライトして、4本、公開の状態にした。

これで、公開した記事は、2994本である。

あと5本が、どうしても公開できない。

公開できない記事は、すべて、2011年3月の東日本大震災の直後に書いたものである。ある記事の中で、震災の被害に直面して、そこからなんとかがんばっている人のことを書いた。個人が特定されないように配慮して書いたつもりが、どうやら個人が特定されてしまったらしく、その人に迷惑がかかることになったので、記事を慌てて非公開にしたのである。それに合わせて、前後の記事も非公開にした。

いっそ、記事自体を削除しようとも考えたが、これ自体が一つの記録となっていることもあり、自分自身だけが見られればいいやと思い、「下書き」の状態で残すことにした。

僕はこのとき、ネットの恐ろしさを実感したのだが、今はまだ、この顛末を書くことすらできない。

ということで、この記事を書いたので、非公開記事を含めて、ついに3000本達成!

公開記事に限定すると、3000本まで残るはあと5本!

…実に煮え切らない。どっちが公式記録なんだろう?

ナンダカワカラナイが、とりあえず今年中に、3000本公開を目標とする。

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思いつきの再会

2月21日(土)

2日目の仕事が終わり、少し時間が空いたので、「前の職場」の卒業生で、現在この町で働いているIさんに連絡をとってみることにした。

急に思いついたことなので、会えないだろうな、と思っていたら、お会いしましょう、夫も連れていきます、という返信が帰ってきた。

Iさんは、たしか数年前に同じ職場の年上の同僚と結婚したのだった。以前にIさんと会ったときは、まだ結婚前のことで、結婚したい相手がいるんだけれど、と、いささか逡巡した表情で話していたことを思い出した。まあ結婚を決める前は、誰でもそういう気持ちになるのだろう。

ところでその夫のことをまったく知らない僕は、人見知りが激しいこともあり、夫の前でダンマリを決め込んでしまうのではないだろうか、といささか不安になった。

指定された場所に行くと、すでに二人は来ていた。

「夫のSです」

「はじめまして」

僕の不安は杞憂に終わった。Sさんはまじめで気さくな人で、話題は途切れることがなかった。何より物腰が柔らかで、信頼感がある。僕に対して、警戒感を示すことなく話をしてくれる。

Sさんは「お城マニア」だそうで、「日本百名城」をまわってスタンプを集めたりしているそうだ。そのせいで、全国を旅するようになったという。Iさんも、しばしばその旅についていくのだという。

僕はお城にはまったく詳しくないのだが、仕事柄、各地を訪れるので、どこにどんなお城があるかは、おぼろげながら知っている。なので、話題に取り残されることはなかった。

おもしろかったのは、話題がいろいろな方面にわたっても、

「お城でたとえるとですねぇ……」

と、世の中の事象をなんでもお城にたとえてとらえていることである。一つのことをつきつめることがあらゆる事象を理解することにつながる。そのことを実践している。よっぽどお城が好きなんだなあと、すっかり感心してしまった。

二人と別れたあと、

(あの人ならば、間違いない)

と思った。

ん?ひょっとすると、娘の結婚相手を見定める気持ちというのは、こういうことなのかも知れない。

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オフ会ならぬ、オン会

12月20日(金)

久しぶりに「前の前の勤務地」に訪れる。

「新幹線の停まる駅」で集合し、ジャンボタクシーに乗ること1時間弱。山の中の小さな建物。

完全防寒体勢に防塵マスク、ゴム手袋、使い捨てのビニールポンチョという厳戒態勢で作業した。中身の濃い内容で、すっかり疲れてしまった。

夜になり作業チームは解散し、その後こぶぎさんと合流する。

何度も書いていることだが、こぶぎさんとは、ふだんまったく連絡を取り合っていない。たまたま、僕が「前の前の勤務地」に仕事で訪れたりするときに、「オフ会」と称して喫茶店で喋る。不定期会合なのである。

で、たいていは、前回会ったときから久しぶりなものだから、その間に起こったさまざまな出来事をこぶぎさんが次々とまくし立てていくのである。いつも、袋いっぱいの「小ネタ」を詰めて。

さて、こぶぎさんの車に乗り、「どこへ行きましょうか」と、聞くと、

「これから、○○○コーヒーに行きます。あそこはWi-Fiがありますから」

「Wi-Fi?」

「ええ、今回はネットにつながらないと、いろいろなお話しができません」

「それ、オフ会じゃないでしょう」

「ええ、ですからオン会です。…いや、半オフ会?オンオフ会?」

「そんな呼び方はどうでもいいです。ネットをオフにして集まるからオフ会なのに、ネットがないと成立しない会なんて、本末転倒じゃないですか?」

「たしかに」

喫茶店に着くと、こぶぎさんはさっそく自分のノートパソコンとタブレット端末を店内のWi-Fiにつないだ。そして大きなビニール袋から取り出した数々の小ネタ、比較的大きめのノートパソコン、そしてタブレット端末を駆使して、この間の出来事を怒濤のように繰り出したのだ。

袋からアヤシげなものを出したり、ノートパソコンの画面を僕のほうにむけてまるで紙芝居をするように説明をしたりと、まわりの人が見たら、「アラフィフのこの人たちは、いったい何をやっているんだろう」と、不審がられたに違いないのだ。

あっという間に閉店時間となった。

「なんとか、話したいことがギリギリ話せました」こぶぎさんは、話すことを箇条書きにしたメモを持っていて、どうやらそこに書かれた話題をすべて話しきったようだった。

「考えたら、鬼瓦さんの話、全然聴けなかったですね」

そうだ。考えたら、こっちの話は全然していない。

店を出て、車に乗り込み、ホテルまで送ってもらう。

ホテルに着く数分前、

「そういえば…」といって、僕はある話を思い出した。

「かくかくしかじか…ね?すごい話でしょう。すごくおもしろい話なんだけれども、絶対ブログには書けない」

「たしかに…。というか、オフ会とは本来、そういう話をする場でしたね。ブログに書けない話をしてもらう場でした」

「ようやく気づきましたか。こぶぎさん」

「最後の最後に、ようやくオフ会らしくなりました」

「わずか数分でしたけれどね」

ただ次回もまた、こぶぎさんは大きな袋にたくさんの小ネタを詰め込んで、Wi-Fi環境のある喫茶店で、大きなノートパソコンを紙芝居代わりに使いながら、自分の身のまわりに起こった出来事をまくし立てることだろう。というかそれが、こぶぎさんとの本来のオフ会の形なのだ。

「じゃあまたいずれ」

「お元気で」

次のオフ会はいつになるのか、なりゆきまかせである。

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3000回目前!人間観察編

3000回目前シリーズ第2弾。人間観察編。

「人間観察編」とは、ここでは、まったく見ず知らずの人を観察した記録のことをいう。

このルーツとなった記事は、初期の「神エピソード」と自画自賛する「サムルノリ戦争!」である。

サムルノリ戦争!」(2009年4月26日)

これは、当時の読者から絶賛されたエピソードである。

以下、記憶をたよりにあげてみる。

やきとり屋は、人生だ!」(2015年1月16日)

家族の春休み」(2015年3月28日)

再遭遇!駅弁スマホ女」(2016年2月17日)

東京駅彷徨」(2017年1月28日)

成田空港彷徨」(2017年1月28日)

もっと数があるかと思ったが、こんなもんか?ほかにもあったら教えて下さい。

あと、こんな新カテゴリーがつくれるんじゃないか、という提案も募集します。

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3000回目前!プチ・パニック編

10年もの間、さまざまな駄文を書いてきた。

これまでカテゴライズしてこなかったが、「プチ・パニック編」というべきエピソードを、いくつか書いてきた。

「プチ・パニック編」とは、自分の身のまわりで起こった、ちょっとしたパニックのことである。たいしたパニックではないので、「プチ・パニック」なのである。

最近の例で言うと、「車のバッテリーが上がる」みたいな感じの話。

「プチ・パニック」のルーツと言えるのが、2009年1月11日の「彷徨」という記事である。

彷徨」(2009年1月11日)

たいした話ではないのだが、当時、この記事を読んでくれた人が、「おもしろい」と言ってくれて、それ以来、これくらいのユルいパニックが起きるたびに、書いてきた。

記憶のかぎりにたどってみると、

消えた携帯電話」(2009年12月13日)

誤作動の理由」(2010年4月21日)

開かないフタはない」(2011年5月22日)

ロードサービスを待ちながら」(2012年2月3日)

物置、横転!」(2012年3月5日)

ああ!火災報知器」(2013年10月19日)

今年最初の『軽く死にたくなりました』」(2014年1月5日)

バルブはなぜゆるんだのか」(2014年4月12日)

ああ!宅配ボックス」(2014年5月 8日)

新幹線で便意もよおす」(2014年7月31日)

なくなりそうでなくならないこうもり傘」(2015年1月29日 )

ちぐはぐな日・市立図書館編」(2017年1月16日)

ほかにもあったと思うが、忘れてしまった。

これらの話をおもしろいと思ってくれた人とは、友だちになれそうである。

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現実逃避の連鎖

職場で作る小冊子の編集担当をすることになって、全体の構成を考えて、同僚たちに原稿依頼をした。

ある若い同僚に、600字程度の原稿依頼をメールでしたところ、数時間経ってすぐに原稿が送られてきた。締切は、来年の1月半ばだというのに。

その同僚からのメールには、こうあった。

「週末の学会発表や○○○○の制作準備、××先生と△△先生と◇◇先生からの(それぞれ別の)依頼分析の対応でバタバタしております。現実逃避しながら作成致しましたが、添付のようなものでよろしいでしょうか。ご査収のほど、よろしくお願い申し上げます」

若手ということで、年上の同僚たちからこき使われ、それに輪をかけて僕が原稿依頼をして、申し訳ないことこの上なかったのだが、彼にとってみたら、600字の小文が現実逃避、あるいは息抜きになったのかも知れない。

現実逃避は、絶対に必要だ。

僕自身も、ここ最近はいろいろな仕事に追われて、というか、正確に言えば、今後起こりうるさまざまな仕事の段取りに追われて、逃げ出したい気持ちなのだが、そういうときに限って、どうでもいい仕事や不要不急でない仕事をしてみたくなる。だが、なかなか現実逃避の方法というのは簡単には見つからない。

今日たまたま、同僚からA4の用紙で2枚ほどの原稿をもらった。年明けに来る韓国人のお客さんたちに配る原稿である。

(ずいぶん早く作ったなあ)

まだ時間があるというのに、その同僚は、早々と、その原稿を作って僕のところにもってきたのである。

その同僚は、僕以上に忙しい人なのだが、いろいろな仕事を抱えているはずなのに、いってみれば、こんなどーでもいい原稿を早く仕上げてきた。ひょっとしてこれも、現実逃避のなせる業かも知れない。

僕はその原稿を読んで、あることに気がついた。

これを配る韓国人のお客さんたちは、韓国語がネイティブだから、日本語の文章を出されてもなかなか理解できないだろう。加えて、特殊な用語が多すぎて、韓国人にとってはさらに理解が難しいだろう。

そこで僕は、この原稿を韓国語に翻訳することにした。

誰に頼まれたわけでもないし、お客さんが来るのはまだ先の話である。しかも、それ以前にやらなければならない案件が山ほどあるのだ。

翻訳を始めてみると、現実逃避にはちょうどよい。

なんだろうね。ふだん使っている脳の部分とは別の部分を使っているのかな。

現実逃避で書いたと思われる同僚の原稿を、僕が現実逃避のために翻訳をする。

これはまるで、現実逃避の連鎖である。

というより、この世は、現実逃避の連鎖でできているのではないだろうか。

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車のバッテリーが上がる

1泊2日で韓国に行った話をしましたね。12月7日(土)の話。

早朝、自家用車に乗って羽田空港に行こうと思い、マンションの立体駐車場から車を出そうと思ったところ、

車のドアが開かない!

うちの車は、1年半ほど前に買った新車で、車のキーとかなんとか、そのへんが最新式なのである。ドアに手を触れれば、ドアのキーが解除されるはずが、何度やってもドアが開かない。

頭はたちまちパニックになった。どうすりゃいいんだ???

いまから公共の交通機関で行くことも考えたが、1歳8カ月の娘もいるので、俊敏な行動もできない。

同じマンションに住む、義妹の車を急遽借りて、空港まで行くことになった。義妹にしても、休日なのに朝5時過ぎにたたき起こされて、寝ぼけたまんま我々に車の鍵を渡したわけだから、いい迷惑である。

さて、そのおかげで韓国旅行は無事に終えたのだが、残った問題は、わが家の車である。

ディーラーに電話をかけて聞いてみたところ、「たぶんバッテリーが上がったんでしょう」という。

「どうすればいいですか?」

「手っ取り早いのは、ロードサービスに連絡することです。加入されてますか?」

「ええ、たしか」

ということで、ロードサービスのカードを探してみたところ、これが見つからない。

ロードサービスに電話をかけてみると、

「すでに退会されてますよ」

という。

「ええええぇっ!!!退会した記憶はないのですが」

「住所不明でこちらからの案内が戻ってきたので、自動退会になったようです」

そうか、引っ越しを繰り返しているうちに、自動更新していたはずのロードサービスのカードが届かなかったわけだ。

「どうすればいいですか?」

「再び入会して下さい。最速は、ディーラーに直接行って手続きすれば、その日のうちに仮会員証を発行されます。あるいは、インターネットで登録をすれば、登録日の翌日の0時から仮会員証が発行されます」

急いでディーラーに電話したところ、電話をした日が11日の水曜日で、ディーラーが定休日だった。仕方がないので、インターネットで会員登録をした。

で、昨日、ようやく時間ができてロードサービスに来てもらった。

「バッテリーがゼロですね」

「そうですか」

ロードサービスのおかげで、エンジンがかかった。原因は、室内灯の点灯によるものだった。

「これからどうすれば…?」

「ディーラーに行って、バッテリーを充電してもらった方がいいですよ。充電は時間がかかりますからね」

「そうなんですか??」

知らなかった。1~2時間ほどエンジンをかけていれば充電されるなんて思っていたからである。

その足で、ディーラーに向かい、バッテリーの充電をお願いした。

「充電が終わるまで、2~3日はかかると思いますので、替わりのバッテリーを車に付けておきます。充電が終わった段階で、また付け替えますので来て下さい」

「そんなにかかるんですか???」

僕はビックリした。なにしろ、車のバッテリーが上がるなんて経験はこれが初めてだったので、こんなに大変だとは思わなかった。

返す返すも、室内灯を付けっぱなしにしていた不注意をのろうばかりである。

若い頃はこんな不注意はしなかったから、これは加齢が原因かも知れない。

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北風小僧の寒太郎

NHKのEテレ「おかあさんといっしょ」を見ていたら、「北風小僧の寒太郎」が流れてきた。

名曲だよねえ。1歳8カ月のうちの娘も、すぐ覚えて口ずさんでるもの。

歴史をひもとくと、

「元々は1972年にNHKの『おかあさんといっしょ』の「うたのえほん」のコーナーで担当者から「子供向け演歌もあってもいいんでは?」と水を向けられた井出隆夫が、その当時のヒットドラマだった『木枯し紋次郎』(フジテレビ)のパロディーのつもりと、自身が幼少時代を過ごした長野県南佐久郡小海町の松原湖の冬の風景を思い出しながら作詞し、福田和禾子が作曲したものであった。この曲を『おかあさんといっしょ』の番組中で最初に歌ったのは田中星児であった」

「1974年12月にNHKの『みんなのうた』に初登場。みんなのうた版では堺正章と東京放送児童合唱団が歌唱を担当。堺が『みんなのうた』で歌を歌うのは初。『みんなのうた』での放送後、大きな反響があった曲の一つである」 (以上、ウィキペディアより)

とある。

 

その後、1981年に北島三郎によってカバーされている。

 

こうやって聞き比べてみると、どちらも耳馴染みがあるのだが、どちらかといえば、マチャアキバージョンの印象の方が強い。

サブちゃんのバージョンもよいのだが、唯一残念に思うのは、2番の歌詞、

「ヒューン ヒューン ヒュルルーンルンルンルン 寒うござんす ヒュルルルルルルーン」

の部分を、サブちゃんではなく、ひばり児童合唱団が歌っていることである。この部分はサブちゃんに歌ってほしかった。マチャアキバージョンでは、この部分をちゃんとマチャアキが歌っている。

この曲は、子どもたちに「演歌への郷愁」を植えつけた。いわば演歌の原風景・原体験である。大げさに言えば、この国の大人たちは、この曲を子どもの頃に聴いたことにより、その後の人生において演歌の呪縛から逃れられなくなってしまったのだ。その意味で、この曲が果たした役割は大きい。

僕の記憶では、マチャアキバージョン、サブちゃんバージョンのほかに、この曲を最初に歌った田中星児バージョンというのも、耳馴染みがある。「おかあさんといっしょ」の中で田中星児が歌っていたときは、まだ僕は物心がついていなかったと思われるから、もう少し後になってから、どこかで聴いたのかも知れない。

田中星児バージョンの「北風小僧の寒太郎」を聴いてみたいと思って動画サイトを探してみたが、見つからなかった。オリジナルの田中星児バージョンは、どんな感じだったのか、聴いてみたい。

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めざせ!3000本

気がついたら、このブログもあと10本くらいで、3000本の記事を書いたことになる。

今年もあと20日足らずだが、今年中に、3000本を達成するだろうか。微妙なところである。

3000本を達成したら、どうしようかなあと、いろいろと考えている。

1.このブログをやめる

最近忙しいし、書く内容もないし、書いても内容がつまらないので、思い切ってやめてみようか。

2.方向性を変える。

いっそ、政治的主張を前面に出した内容に一新してみようか、とも思ったが、たぶん読者はどん引きするだろうな。

3.大々的にオフ会をやる

都内のホテルを借り切って、会費5000円でどうだろう。最近は、都内の有名ホテルが、会費5000円で宴会を準備してくれるらしいぞ。

4.何もしない

「何もせんほうがええ」。映画『日本沈没』の中で、政界のフィクサーみたいな老人が、丹波哲郎総理にそう言っていた。

うーむ。どうしよう。

そういえば、「都内の有名ホテルが、会費5000円で宴会を準備」で思い出したけど、みんな、「桜を見る会」に、腹が立ってないのかね?

僕はめちゃめちゃ腹が立ってるんですけど。

何に腹が立っているかって?いくつかある。

5年くらい前、前の勤務地にいたときに、ホテルの宴会場で懇親会を企画したことがあったんだけど、5000円じゃすまなかったぞ。5000円ですむコースもあったかも知れないが、料理がめちゃめちゃしょぼかったと記憶している。

数年前の地方都市の小さなホテルですら、会費5000円の宴会は難しいのだ。都内の有名ホテルで、会費5000円で懇親会ができるなんて、嘘に決まっている。ホテルを会場に懇親会を計画した経験のある人だったら、誰でもわかることだ。

なぜ、みんな怒らないんだろう?

あと、今年の予算が当初よりオーバーしたってことね。

今年の「桜を見る会」は、1767万円が当初予算だったのに、実際にやってみたら5729万円もかかり、3倍にもふくれあがったというのだ。

うちの職場も、いろいろなイベントをやるけれども、もし仮に俺が、1767万円でやらなければいけないイベントを5729万円もかけておこなったとしたら、

「ふざけるな!!!」

と上司や同僚たちから袋だたきにあうだろう。というか、そもそもそんな見通しのないお金の使い方を、組織は絶対に許さない。これは社会人だったら、誰でも経験していることである。

なぜ、みんな怒らないんだろう?

あと、名簿廃棄の問題ね。

ふつうに仕事をしている人からしたら、「名簿は廃棄しました。復元もできません」なんてことは、考えられないはずだ。

今日、職場の事務から、こんな問い合わせがあった。

「先日の『西の町』でおこなったイベントの時に、予稿集を作りましたよね」

「ええ」

「財務担当から、予稿集の配布先リストを出せ、と言われたので、出してください」

「はあ、わかりました」

もし、俺がだよ。事務からの問い合わせに対して、

「名簿は遅滞なく廃棄しました。復元もできません」

と答えたとしたら、

「ふざけるな!!!」

と袋だたきにあうだろう。こっちも、監査とかで必要なんだろうな、と思ってるから、むしろ名簿はとっておかないと後々困るんである。

こんなことは、「いろはのい」だと思うのだが、「名簿は遅滞なく廃棄しました。復元もできません」といって許される職場というのが、どうにも理解できない。

「えええ~、ずるいよ~、予算オーバーも、名簿の廃棄も許されるんだったら、うちのところでもそうしてくれよ~」

と言ったとしたら、やはり、

「ふざけるな!!!」

と袋だたきにあうだろう。

うちらの親玉が、あんなことを平然と言ってのけていることに、なぜ、誰も怒らないのだろう???

うちらとは関係のない、おとぎの国の話だとでも、思っているのかな?

まことに不可解な世の中である。

…ん?ブログの記事が3000本に到達したらどうしよう?という話をしていたつもりが、いつのまにか、全然違う話題になってしまった。

さあ、どうしよう。

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マウルバス

前回の記事は、こぶぎさんのために書いたようなものである。おそらく、こぶぎさん以外の読者には、まったく興味のない記事だったのではないかと思われる。

「不朽のこぶぎ」というハンドルネームだけで、この記事についてすべてを理解していることを示しているのだが、ほかの読者には何のことやらわかるまい。

で、今回も、前回に引き続き、一般の読者にはまったく興味のない話を書く。

今回の旅の移動ルートについて、おさらいしておこう。

まず、金浦空港からS大学へは、金浦空港国際線ターミナルの6番乗り場から、6003番バスに乗った。4000ウォン。12時頃に空港を出て、50分くらいかかっただろうか。

S大学から、「人里離れた山の中の研究所」までは、タクシーを使い、25000ウォン程度。2時半頃に出て、3時15分くらいに着いた。

「人里離れた山の中の研究所」から地下鉄2号線の江南駅までは、9004番のバスに乗った。料金は失念。4時半過ぎに研究所を出て、バスを待つ時間を含めて1時間ほどで江南駅に着いた。

ここまでが1日目(土曜日)の話で、前回の記事にも書いたことである。

12月8日(日)、2日目。

朝9時、ホテルを出発。江南駅から地下鉄2号線に乗り、サダン駅で地下鉄4号線に乗り換え、I駅で降りて、C博物館に着いたのが、午前10時。

ここで12時過ぎまで過ごし、再び4号線に乗って、忠武路駅で3号線に乗り換え、安国駅で降りて、2番出口から出て、ここから歩いて、有名なカルグクスのお店に向かう。少し並んで、1時半頃に店に入ることができた。

以前に何度も来たことのあるお店だが、いまやかなりの人気店で、行列ができていた。行列に並んでまでして食べるのはあまり好きではないのだが、このお店のカルグクスは、並んでまでしても食べる価値がある。

2時20分頃にお店を出て、今回の旅の最終目的地であるM博物館に向かう。ここで1時間強の時間を過ごし、博物館を出るときは3時半をまわっていた。

さて、ここから空港に帰るのだが、どうやって帰ったらよいものか?

M博物館付近から、金浦空港へ直行するリムジンバスはないようだ。

小さな娘もいるし、いっそタクシーで空港まで行っちゃおうか?

…しかしそれは、あまりにもお金がもったいない。

では、ここから歩いて3号線の安国駅に向かい、忠武路駅で4号線に乗り換え、ソウル駅で空港鉄道に乗り換えて、空港まで向かうか?

…このルートは、とても面倒くさい。疲れているので、なおさらである。

では、ここからソウル駅までタクシーで行って、そこから空港鉄道で金浦空港に向かうか?

…この方法が、最も合理的ではないか、と思われたので、そうしようと思って、M博物館を出た。

広い通りに出たところで、さあタクシーを拾おうと思った矢先、バス停があることに気づいた。

バス停らしき案内板には「マウルバス」と書いてある。「マウル」とは、韓国語で「村」の意味。つまり「村のバス」である。どうやら、町内の狭い範囲を走る循環バスのことを「マウルバス」というらしい。

「マウルバス」の停留所の案内板には、路線図が書いてあり、このバスに乗れば、景福宮、世宗文化会館、ソウル市庁などを通って、どうやらソウル駅まで行けるようである。

時刻表はなく、「配車間隔:10分」とだけ書いてある。

韓国のバスについてすっかり疑心暗鬼になっている僕は、はたしてこれがマウルバスの停留所なのか、にわかには信じられなかった。ひょっとしたら、むかしは走っていたけれども、いまは廃線になってしまったとか。何か落とし穴があるに違いない。

「10分待ってこなかったら、タクシーでソウル駅に行くことにしよう」と決めて、とりあえずバス停らしきその案内板のところで待つことにした。

待つこと10分。午後4時頃、黄緑色の小ぶりのバスがやって来た。

「マウルバスだ!」

料金はひとり900ウォン。もちろん、タクシーよりもはるかに安い。おかげでタクシーに乗らずに、ソウル駅にたどり着くことができた。

で、そこから空港鉄道で金浦空港に着いたのが午後5時頃だった。

時間があるので、金浦空港に隣接したロッテマートでおみやげでも買おうと思ったのだが、なんと日曜日は、ロッテマートがお休みだそうで、おみやげを買うことができなかった。

2日目の旅で学んだことは二つ。

一つは、「マウルバス」は便利だ、ということ。

もう一つは、金浦空港のロッテマートは、日曜日は休業しているので注意!ということ。

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韓国路線バスの謎・解決編

12月7日(土)

なぜこの週末に、1泊2日で韓国に行ったのかって?しかも年に一度の「業界人祭り」をサボってまでなぜわざわざ行ったのか?

それは、S大学博物館の企画展が、12月7日(土)が最終日で、どうしてもこの企画展を見に行かなければならなかったからである!

この日しか、企画展を見に行くチャンスがなかったから、強引にこの日にソウルに行くことにしたのである。

S大学は、江南(カンナム)、つまり漢江(ハンガン)の南にあるので、今回は、江南駅の近くのホテルに泊まることにした。

午前11時半過ぎ、金浦空港に着いて、いったん江南駅近くの宿に荷物を置いてからS大学に移動する予定だったが、それでは時間がもったいないなあと思い、空港に着いてから急遽、

「S大学に直接行くバスがありますか?」

と聞いてみたところ、

「6番乗り場からS大に直接行くバスが出ていますよ。終点で降りればいいです」

というので、荷物を持ったまま、バスで直接、S大学に行くことにした。

1時頃にS大に着いた。そこで1時間半ほど、企画展を見学した。

実は今日中に、もう1カ所、訪れなければならない場所があった。それは、以前に訪れたことがある、「人里離れた山奥にある研究所」である。

ここでも企画展をやっていて、月曜から土曜までが開館日で、日曜日が休館日なのである。ということは、行くとすれば今日しかない、ということになる。

以前に行ったとき、さんざん苦労してたどり着いた記憶があるので、面倒なのでS大学からタクシーに乗って行くことにした。

しかし、一つ懸念があった。「人里離れた山奥にある研究所」は、おそらくタクシーの運転手さんにとってもよくわからない場所である。ソウルのタクシーの運転手さんは、自分がよくわからない場所には、行きたがらない。つまり、乗車拒否される可能性が高いのである。

タクシーにカーナビが付いてるんだから、それで調べてくれればいいじゃん!と、こっちとしては思うのだが、どういうわけか、カーナビをあまり使いたがらない運転手さんがいたりするのである。

案の定、1台目につかまえた運転手さんは、「わからねえ」と言って、乗車拒否されてしまった。

だが運良く、2台目につかまえたタクシーの運転手さんが、カーナビで場所を調べてくれて、「行ってもいいよ」と言ってくれた。

「ただし、その場所はソウル市外にあるから、タクシー料金が上がりますぜ」

「どのくらい上がるんです?」

「市外に出たとたん、2割増しになります」

「わかりました」

いくらになるのか見当もつかなかったが、「30~40分くらいで着く」と言ってたみたいだから、それほど高額にはならないだろうと思い、そのままタクシーで行くことにした。

タクシーはどんどん郊外へと走って行き、こんな山の中だったっけ?と行った道を登りながら、ようやく目的地に着いた。タクシー料金は、日本円で2500円程度だった。

相変わらずの山の中である。土曜日のせいか、だだっ広い研究所には人っ子ひとりいない。入口に守衛さんが1人いるだけである。

それでも、企画展は開いていた。もちろん、お客さんは人っ子ひとりいない。

「こんなに誰もいなくていいのかよ!」

と思いながら、1時間ほどその企画展を見て、4時半ごろ、その研究所を出て江南駅近くのホテルに行くことにした。

事前に調べたところでは、9004番のバスが、ここから直接江南駅に行くので、9004番のバスに乗れば間違いがない。

…とここで、思い出したことがあった。

4年ほど前、ここからソウル市内に戻ろうとしたときに、バス停でいくら待っていても、バスが通り過ぎる、という謎の現象が起こった。おかげでそのときは、あやうくソウル市内に帰りそこねた。

いまだに僕の中では、その謎の現象の意味が解決できていなかった。

また同じ失敗を繰り返すわけにはいかない。そこで、研究所の入口にいた守衛さんに、バス停の場所を聞くことにした。

「バスでソウル市内に戻りたいんですけど、バス停はどこですか?」

するとその守衛さんは親切に答えてくれた。

「あそこに、バス停が見えるでしょう?あそこに行けばいいです」

そう言って指した場所は、以前と同じバス停の場所だった。つまり、「いくら待っていてもすべてのバスが通り過ぎるバス停」を指さしたのである。

しかし、その守衛さんがあまりに親切に答えてくれたので、僕はまた、そのバス停でバスを待つことにしたのだった。

そのバス停には、電光掲示板があるし、バスの路線図もある。どう見ても立派なバス停である。

電光掲示板には、何番のバスが、あと何分で到着します、という表示が出ている。

9004番のバスについても情報が出ていて、ホッとした。あと1分で到着、とある。

…というか、ほとんどすべてのバスが、「あと1分で到着」と出ている。どういうこっちゃ???

その停留所には、次々といろいろな番号のバスが訪れるのだが、例によってものすごい勢いで通り過ぎていく。

僕はたちまち不安になった。また4年前と同じ結果になるのではないだろうか?

あと1分で到着、と書いてあった9004番のバスは、5分過ぎても来ない。

「1分って書いてあるのに、どうして来ないんだろう?」

と同行の妻が聞くので、

「1分以上かかる場合は、すべて1分ということにしてるんじゃない?」

と答えてみたが、よくわからない。

10分近くたって、ようやく9004番のバスが向こうから来るのが見えた。はたして停まってくれるだろうか?

「こういうときは、轢かれる覚悟で『乗りま~す』ってアピールすればいいのよ」

と妻が言うと、バスの前に飛び出して、「お~い」とバスに向かって手を振った。まるで、遭難した人が助けを求めるように、である。

するとバスが停まった。

「よかった。停まってくれた」

バスの中から運転手さんが出てきて、

「ここは乗り場ではないんですよ。降りるための専用の停留所でね」

「え?そうなんですか?」

「始発の停留所は、反対側を戻った先にあるんです」

「そうだったんですか…」

「でもまあいいです。乗ってください」

そういうと、バスの運転手さんは親切に、僕たちを乗せてくれたのである。小さな娘も一緒だったから、不憫に思ったのかも知れない。

バスが走り出してしばらくすると、「最初の停留所」に停まった。

(ここが本当のバス乗り場だったのか…)

と、ようやく4年越しの謎が解決したのであった。次回来たときは、もう迷うことはあるまい。

しかしそれでもなお、不思議なことがある。

守衛さんはなぜ、降りるための専用の停留所を指さして、あそこがバス乗り場だと教えてくれたのだろう?

ひょっとして守衛さんも、よく知らなかったのではないだろうか?

もうひとつの大きな謎。それは、なぜ、降りるための専用の停留所であるにもかかわらず、「あと何分で到着する」といった電光掲示板や、バス路線図が設置されているのか?

乗り場ではないのだから、「あと何分で到着する」という電光掲示板は不要である。もちろん降りる人にとっても不必要な掲示板である。ではいったい誰に向けての情報なのか?

この電光掲示板や路線図があったばかりに、僕たちは、ここがバス乗り場だと勘違いしてしまったのである!

不可解さを残したまま、夕方5時過ぎ、9004番のバスは江南駅の繁華街まで、僕たちを送ってくれたのだった。

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週末不在

明日から1泊2日で海外。娘も連れていくので荷物はできるだけ軽装にしなければならない。旅行中の出来事は、帰国後に書くことにする。

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課題演習、の日

12月5日(木)

午後、「前の職場」の同僚二人が、学生15人を連れてうちの職場を訪問する。「課題演習」という授業の一環だそうである。

午後1時からはおそらくノンストップになるだろうから、午前中のうちに仕事を済ませ、それと並行して午後の準備もおこなった。

「一つ、困った問題が起きました」お昼近くになって、担当事務の人がやって来た。

「どうしたんです?」

「1時から講義室で、団体さんと一緒にB先生の話を聞くことになっていましたよね」

「B先生がどうかしたんですか?」

「いえ、そうではなくて、同席する予定の団体さんが、午後1時より15分ほど遅れてくる、というんです」

ここで解説をしておくと、前にも書いたように、この「課題演習」のメインは、期間限定の臨時店舗について勉強することなのだが、勉強するにあたって、店長のBさんの解説がどうしても必要だった。

だがこの日は木曜日で、Bさんが外勤で職場に不在の日である。

ダメ元でBさんに都合を聞いてみると、この日は11時半~14時の間は、いったん職場に戻ることになっており、その時間に、お世話になった会社への説明と、団体さんへの説明を請け負っているのだという。

お世話になった会社への説明は、臨時店舗で12時から。団体さんへの解説は講義室で13時からである。で、この13時から始まる団体への説明に混じって話を聞いてもらうことではどうか、ということになり、13時からBさんの解説を聞くことになった。

ところが、団体さんが15分遅れてくる、というのだ。

Bさんのタイムリミットは遅くとも14時なので、1時15分から説明を受けるとしたら、ごくわずかの時間しかない。それは実にもったいない。だって当初は、1時~1時半の約束でお願いしたのだから。

どうしたらよいものかと、外勤から戻ってきたBさんに聞いてみると、

「予定どおり1時から始めましょう。まずは大学生向けに喋ります。あとから団体さんが来たら、全体的な説明をします」

と答えが返ってきた。

午後1時。「前の職場」の学生たちが集まり、講義室に移動する。

Bさんはまず、大学生向けの話をした。

1時20分、50名ほどの団体が遅れて講義室に入ってきた。

するとBさんは、こんどは大学生と団体客の両方に向けた話をした。

その話術は、思わず聞き入ってしまうほど、すばらしかった。

気がついたら、30分の予定が、1時間がたった。

Bさんは1時間の講話を終えると、慌ただしく次の外勤先に飛び出していった。

「課題演習」の次は、「舞台裏見学」である。

30分ほど予定している「舞台裏見学」は、僕の担当ではなく、担当職員が解説するので、そちらにお任せすることにし、彼らが見学しているわずかな時間に、別件の仕事を片づけることにした。

ところがメールをチェックすると、職場の事務で思わぬトラブルが発生していて、その事態を収拾するだけで終わってしまった。

40分後、「舞台裏見学」を終えた学生たちが戻ってきた。

午後3時。控え室となっている研修室で、今度は僕が20分ほどスライドを使いながら喋る。

そのあと、Bさんが手がけた臨時店舗を見てもらい、さらに4時からは最近新装開店した常設店を僕が解説しながら30分ほど見学した。

この時点ですでに4時半。うちの店舗の閉店時間である。

あっという間に時間が過ぎた。というか、じっくり見る時間がなかったぞ。

でもまあ明日の午前中もうちの職場に来て、各店舗を見学することになっているそうだから、今日は慌ただしくても仕方がない。

午後5時過ぎ。職場を出て、駅の近くの居酒屋で、打ち上げをする。

学生たちに感想を聞いてみると、大部分の人がおもしろがってくれた。とくにBさんの講話がとても興味深かったという感想が多かった。

我ながら、中身の濃い半日になったと思う。

打ち上げでは、久しぶりに学生さんたちとお話しをした。

はっきりわかったことは、僕が「前の職場」にいた頃と今とで、学生に対する印象は、まったく変わらない、ということである。そのことに僕は安堵したのだった。

打ち上げとか懇親会が嫌いな僕も、今日ばかりは楽しくて、最後までおつきあいした。

学生に、何かを植えつけることができたかなあ…。

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くたばれ!マルチタスク

12月3日(火)

昨晩、「西の町」から戻り、今日は朝から職場で会議である。

とにかく、やることが多すぎる。ひとつひとつ片づけていかないといけない。うっかりすると忘れそうだ。

どうしたものかと頭をひねっていたら、「今日やるべきことを書きあげたらいいんじゃね?」ということに気づいた。

ノートに、「今日やるべきこと」を箇条書きで書きあげていく。

長く生きてきて、どうしていままでこのやり方に気づかなかったんだろう。

「・出張報告書を提出する。

・Tさんへ返信のメールを書く。

・プロジェクトメンバー全員に、今後の件について一斉メールする。

・回収したイベントのアンケートをPDFにして関係者にメールで送る。

・面識のないOさんに宛てて、失礼のないようにメールをする。

・OさんにメールしたことをYさんにメールで報告する。

・Oさんにメールしたことと、今後のご相談を、Mさんにメールする。

・アルバイトのことで事務に問い合わせた件を、Fさんにメールで連絡する。

・HさんからのメールをOさんに転送して、手続きをお願いする」

書きあげてみると、それぞれが、少しずつ、ややこしい案件である。午前の会議が終わったらやろうと思っていたが、午前9時半に始まった会議はお昼休みの直前まで続き、しかもその会議の中で、書類を修正する必要があることが判明したり、作成することが決まった冊子の目次案に沿って職場の同僚一人一人に原稿執筆を依頼するという新たな仕事が増えたりした。

執筆依頼も一様ではなく、原稿の種類によって指定文字数や写真の枚数を変えなければならないから、それによって複数の依頼状を書き分け、間違いのないように依頼しなければならない。

執筆依頼は途中までで時間切れ。ノートに書いた「やるべきこと」は、ほとんどやり終えたが、やるべきだったのにノートに書きあげていない仕事がいくつもあることに途中で気づいた。キリがないので、明日以降に持ち越すことにした。

いつになったら自分の原稿に取りかかれるのだろう。

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「西の町」のイベント

12月1日(日)

西の町のイベントが、無事に終了した。

結果的には、大成功、といっていいだろう。

地元の人たちを中心に、100人以上のお客さんが集まってくれた。午後1時から5時まで、途中で席を立つ人もなかったようである。

会場の設営や受付は、地元のボランティアの方たちがすべてしてくださったので、こちらがイベントの進行にのみ力を注ぐことができたことも、このイベントがスムーズに進んだ理由の一つである。また、地元の大手企業が、会場をこころよく提供いただいたことも、このイベントに弾みがついた。

登壇者の話はいずれも中身が濃く、わかりやすく、おもしろい内容だった。もともとハイライトシーンだけをつないだ名場面集というコンセプトで企画したので、関心のある人にとってみれば、おもしろくないはずはない。

唯一の難点は、僕の司会進行ぶりである。

我ながら、今回の僕の司会進行は酷いものだった。アンケートにも「よく聞き取れなかった」と書いている人がいたが、自分でも、それは自覚していた。もともと、滑舌があまりよくなく、話術にたけているわけでもないので、こればかりはどうしようもない。しかも年齢ととも劣化しているような気がする。上岡龍太郎が55歳で引退した気持ちがよくわかる。まあ、自分の限界がわかっただけでも、よしとしよう。

僕の任務は、「このプロジェクトに参加した人が、参加してよかったと思ってもらえること」なので、その点がうまくいきさえすればいいのである。そのための段取りを組むことが、僕の役目である。

僕以外は、その道の一流のプロフェッショナルの人々で、しかもそれぞれジャンルが異なる。それぞれのジャンルで活躍する一流のプロの人たち、しかも、ふだんは顔を合わす機会などない人たちが、このプロジェクトのために力を合わせることで、予想もしなかった発見をする、というのが理想である。そしてこのプロジェクトは、その理想に近づきつつある、と思う。

花火のように打ち上げた今回のイベントは、半日という一過性のイベントとしてはひとまず成功裡に終わったが、今後もさらに手に負えないような大きなイベントが控えているような気がする。

たった半日のイベントをやっただけで、肉体的、精神的にこれだけ疲労するのだ。そう考えると、今後のことは気が重い。

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