原稿零枚三連休
先日のTBSラジオ「荻上チキ Session22」における、荻上チキと大竹まことの対談の続き。
二人の対談のなかで、印象的だったやりとりの一つが、あるフェミニズム研究者に対する人物評である。
大竹まことのラジオを聴いていると、あの年代(古稀)にはめずらしく、女性の人権だとか、マイノリティーに対する人権について、かなり高い問題意識を持っていることに気づく。
そのような思想性がなぜ形成されたのか?荻上チキは、かつて大竹まことがテレビ番組で何度も共演したことのあるフェミニズム研究者の名前をあげた。
「やはり、番組でその方と共演されたことが大きいんでしょうか?」
実際、そのフェミニズム研究者は、批判も多い一方で、その思想に感化された人も多い。
すると、大竹まことは、
「うーん。アイツはダメだね」
とバッサリ。
「思想はすばらしいと思うよ。でも人間は思想だけで生きてるわけじゃないでしょ。その思想が、その人をあらわしているわけでもない」
実体験をあげながら、ものすごく遠回しに、そのフェミニズム研究者のことを批判していたのだが、つまりは、ふだんの実践が高邁な思想とかけ離れている、ということを言いたいようだった。
僕がその遠回しな発言からくみとったことは、
「いくら思想的に立派なことを言っていたとしても、実生活でそれを実践していないじゃん!」
ということだった。理解が間違っているかも知れない。
ここから先は僕の想像だが、たとえば、弱者として虐げられていることの理不尽さに対して敢然と立ち向かいながらも、ふだんの本人は、自分より弱い者に対して、高圧的に接していたり、とか。
それを、間近で接している人からすれば、いくら立派なことを言っていたとしても、その人の言うことが信頼できなくなってしまうものである。
僕の業界にも、そんな人がたまにいて、文章ではすごく立派なことを書いていたり、思想的にもすばらしいことを言っていて、心酔している人がけっこういたりするのだが、間近に接している者からすると、形而上の部分と形而下の部分が著しく乖離していることを感じざるを得なかったりする。その人の言っていることは、どんなに立派なことであっても、信用できないのである。
大竹まことも、そのフェミニズム研究者に対して、そのような感情を抱いているのではないだろうか、と僕は愚考した。まったくの見当違いかも知れない。
僕自身を省みると、自分自身にもそういう部分がないとはいえない。
(どの口が言うかねえ)
と言われないように、反省しながら生きる毎日である。
…こんな分析なんかどーでもいいから、早く原稿を書けよ!(原稿零枚)
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コメント
ステーキがいきなり食べられる店の大量閉店がニュースになっているが、わたくしめの町も昨日で閉店。
閉店理由が近隣店舗同士の「共食い」というのはうまいオチであるが、それでは困るのである。
なにしろ、やっとの思いで肉マイレージを3kg食い貯め、「ゴールドカード」会員になったばかりなのに、「閉店のお知らせ」に書いてある近隣の店は、遥かかなた。
それでいて、1年間食べないとゴールドカードは失効してしまう。
思えば、注文時に行列させられて、およそいきなり食べられる店ではなかったし、テーブルの真ん中に境界線のように調味料が置かれて、複数で行っても対面でなく横並びで座らされるとか、変な店であった。
客離れの原因って、都会でウケたコンセプトを、地方の外食実情をくみ取らずにそのまま踏襲しちゃったからじゃないの?
あと消費増税と。
本当は形而下の問題だったかもしれない。
しかたがないから、入れ替わりのように、今日から牛丼屋で全国発売されるジョージア(グルジア)料理でも食べるか。
と牛丼屋の所在地を調べてみると、こちらも車で小一時間走らないとたどり着けない。
近くにできるまで、待つや。
(連休中の古新聞目録入力・零行)
投稿: 形而下こぶぎ | 2020年1月14日 (火) 09時06分