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復活の日

3月29日(日)

コロナ鬱の日々。

もうすぐ4月だというのに、東京では大雪が降った。折しも不要不急の外出を自粛するようにと言われていたから、この大雪で不要不急の外出を思いとどまった人は多かったことだろう。

あちこちで言われていることかもしれないが、小松左京の小説『復活の日』が、このたびの新型コロナウィルス騒動を予言したような小説である。

もっとも僕は、小説をちゃんと読んでいるわけではなく、深作欣二監督の角川映画『復活の日』を観ていたにすぎない。

以下はネタバレを覚悟で書くが、某国で細菌兵器のために密かに開発していた新型ウィルスが、不慮の事故で地球上に拡散され、瞬く間に世界に感染し、人類が死滅する、というお話である。このたび、あらためて見直してみた。

映画の中ではこのウィルスについて、「最初は普通の風邪と同じ症状なのだが、重症化すると肺炎を起こしてたちまち死に至る」みたいな説明があり、いまの新型コロナウィルスと同じじゃないか、と背筋が寒くなった。病院に患者が殺到し、医療崩壊をしている様子が描かれているが、これもいま見るとぞっとする。

このウィルスは、氷点下の世界では生きていけないらしく、映画では、たまたま観測隊として南極にいた世界各地の隊員たちが、ウィルスに感染することなく生き延びていた。つまり、人類は、南極に残されたわずかの人しか、残らなかったのである。

その事実を知った潜水艦が、南極への上陸許可を求める、という場面がある。一つは、ソ連の潜水艦、もう一つは、イギリスの潜水艦である。

イギリスの潜水艦は、世界で感染が始まる前にすでに海の中に潜っていたので、ウィルスに感染している乗組員は一人もいなかった。

それに対してソ連の潜水艦は、陸上でウィルスに感染した者が、潜水艦に乗り込んでいて、そのために艦内にあっという間に感染が広がっていった。

ソ連の潜水艦の艦長は、感染した乗組員たちに医療をほどこしたいと思い、わらをもすがるような思いで、南極に上陸許可を求める。

だが、もし上陸許可を認めてしまうと、南極にもウィルスが侵入することになり、もともと無菌だった人たちまで感染してしまう恐れがある。

ソ連の潜水艦は、それでも強引に南極に上陸しようとするが、そのことを察知したイギリスの潜水艦が、ソ連の潜水艦を撃墜してしまうのである。かくして、南極にウィルスが持ち込まれるという危機が回避されたのであった。

これをいまの状況に置き換えれば、クルーズ船の入港を許可するかどうか、といった問題とも重なってくるだろう。

では、映画『復活の日』が名作かというと、決してそうではない。角川映画がイケイケドンドンで予算をつぎ込んで作った、僕が言うところの「ワッショイ映画」である。

この映画は、海外のスタッフにより、海外向けに再編集されて公開されたそうである。海外版のタイトルは、そのものずばり「VIRUS」である。

オリジナルと海外版を見比べてみると、ずいぶんと違う。オリジナル版は2時間半なのだが、海外版は、かなりばっさりと切っていて1時間50分程度である。

20191124203500 それに、海外版では、オリジナルの内容をかなり大胆に組み替えている。たとえば、『復活の日』でもっとも有名な場面、物語の終盤に、草刈正雄がボロボロの衣装をまとい杖をつきながら荒野を歩き、それが夕陽とシンクロするという場面。

これは、物語が終盤になるにつれて盛り上がり、この場面でもっともカタルシスを感じるように、オリジナルでは構成されているのだが、海外版では、これを冒頭のタイトルバックに、あっさりと使ってしまっている。

それどころか、物語の終盤の、再会シーンがばっさりカットされ、その前の、地球上に核爆弾が落とされて人類が滅亡するという、なんとも救いのない結末で終わってしまうのである。

僕が想像するにですよ。この映画、撮影監督の木村大作先生が、かなり頑張ったと思うの。とくに、草刈正雄と夕陽が重なる場面なんてのは、大作先生にとっては、会心の出来だと思うのよ。画面から、「どうだ!」と言わんばかりのどや顔がみなぎっているもの。

で、それを、物語の終盤に持ってきて盛り上げようとしたのがオリジナルのほうなのだが、海外版のほうは、「そういうのいいから」てな感じで、この一番いいシーンを冒頭に持ってきちゃった。しかも最後の再会のシーンがないから、映画の冒頭で、どうして、草刈正雄がボロボロの衣装をまとって杖をついて放浪しているのかが、映画の最後まで観ても、よくわからないのだ。

オリジナル版の冒頭、ジャニス・イアンの主題歌とともに、これもまた木村大作先生渾身の、南極の美しい映像がこれでもかと流れるのだが、海外版ではやはりそこも、「そういうのいいから」てな感じでバッサリとカットしている。

情緒的なシーンだとか、浪花節的な場面だとか、クドい場面が、気持ちいいくらいにバッサリとカットされているのだ。

海外版を見た日本のスタッフたちは、「おまえら何もわかっていない!」と、さぞ激怒したんじゃないだろうか。

だが一方で、このドメスティックな内容のオリジナル作品を、海外に買ってもらうにはどのように編集したらよいのか、海外の担当者はかなり苦労したはずである。

…話がかなり脱線してしまったが、『日本沈没』といい、『復活の日』といい、小松左京先生はいまもなお、作品を通じていまの私たちに警告を発している、というのが、ここでのいちばん言いたいことである。

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コメント

「AKIRA」ではなく「復活の日」に言及するマイナー感が好きです。
まぁ「AKIRA」に日本が寄せてるんじゃないかと思うほどですけど。
我が市でもクラスターが発生。で、本日そのクラスター発生源で市の僻地である我が母校の中学校教師が感染したという。

会社は「コロナに罹ると会社と客に迷惑になるから絶対罹患するなと言う」
フランスみたいなロックダウンはできないと裸の王様は言う。
法律すら自分の都合のいいように変えたあなたが今さら何を言うのか。

投稿: 江戸川 | 2020年4月 1日 (水) 21時06分

角川映画の世代なもので(^_^;)

誰かがこの状況を、「小松左京の復活の日が現実になったみたいですごいんだけど、最近の展開が小松左京というより筒井康隆っぽい」と言っていて、なるほどうまいことを言うなあと思った。

投稿: onigawaragonzou | 2020年4月 3日 (金) 01時14分

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