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本の中の再会

7月4日(土)

笠井信輔『増補版 僕はしゃべるためにここ(被災地)へ来た』(新潮文庫)を読む。

先日も書いたが、2018年5月におこなった大林宣彦監督へのインタビューの中で、フジテレビのアナウンサーだった笠井信輔さんについてふれる場面があった。

「笠井さんは、映画がとても好きな人で、映画祭に出てきて取材もしてくださるくらい映画へのリスペクトがあって、そういう人間だから、はしたない真似はしないということを学んでいる。その笠井さんから、東日本大震災の取材のときのことを聞いたんだけど、ある被災者へのインタビューの内容は、とても生々しくて、テレビでは放送できないものだった。でものちに彼はそれを本に書いたんだ。私は伝えるために取材したので、映像では伝えられないけど、本に書き残しておきます、ってね」

およそこのようなお話しだった。

笠井アナが大林監督に話したという、被災者へのインタビューの内容は、この本の序章に書かれていた。

この本は、東日本大震災が起きてから、笠井アナがすぐに現場に駆けつけ、被災地の取材をしたときの様子や、そのときの気持ち、あるいは葛藤、といったものが、じつに生々しく書かれている。

読み進めていくと、次の記述にあたった。震災から2日目のくだりである。

「仙台放送では、地元向けのローカル番組が延々と続いていた。給水場所、遺体の安置場所など、細かな情報を地域の被災者に向けて放送し続けていた。全てがローカル枠ではないとはいえ、フジテレビと違って24時間を数人のアナウンサーで回していた。少ない人数で、もう2日。さぞかし大変だろうと、生放送を一旦終えたばかりの報道キャスター、佐藤拓雄アナに声を掛けた。

 「大変だね」

するとやや悲しげな表情の佐藤アナが、「たぶん、誰も見てないんです。停電です。テレビ見られないんですよ。誰のために放送しているんでしょうか?」

 「……」(絶句)

答えられなかった。全く予想していなかった佐藤アナの言葉に頭が白くなってしまった。」

ここに出てくる「佐藤拓雄」というのは、高校時代、吹奏楽の部活でいっしょだった友人である。人望が厚く、部長をつとめていた。もう30年近くも会っていない。

僕はこの文章を読んで、いまから9年ほど前の、2011年3月ことを思い出した

「あの日」の少し前、3月3日に、高校時代の部活の男子で、久しぶりに東京で集まらないか、というメールが来た。拓雄が仕事で東京に来るそうだから、それに合わせて3月26日にみんなで集まろう、ということになったのである。

拓雄かぁ。高校卒業後は、大学時代に一度会ったきりだから、20年ぶりだなあ。

だが僕は3月26日に出張の予定が入っていて、あいにくその同窓会には参加できそうになかった。そのことをメールでみんなに知らせると、その日の晩に、拓雄からメールが来た。26日は会えなくて残念だが、せっかくお互い隣県に住んでいるんだから、こんど酒でも飲もう、という内容である。僕たちは再会を約束した。

それから1週間ほどして、「あの日」を迎え、事態は一変した。

電気が復旧し、テレビをつけたら、空港が津波に襲われている映像が流れていた。食い入るように見ていたら、

 「…言葉がありません」

と声を詰まらせているアナウンサーの声が聞こえた。

拓雄の声だ。

皮肉というべきか、僕はこのときに、画面に映る彼と久しぶりに再会したのである。彼は連日、被害の状況を伝えていた。

僕は笠井さんのこの文章を読みながら、あの日、拓雄が「言葉がありません」と言葉を詰まらせていたことを思い出したのである。伝える職業なのに、それを伝えることができないもどかしさや無念が、「言葉がありません」「誰のために放送しているんでしょうか?」といった言葉にあらわれているような気がしたのである。

結局、拓雄との再会を果たせないまま、「あの日」から3年がたったときに、僕は勤務地を離れた。いまに至るまで、再会が果たせないままである。

つい先日、復帰した笠井信輔さんの元気な声をラジオで聴き、そういえば2年前の大林監督へのインタビューで、笠井さんが震災を取材したときのことについてふれておられたなあと思い出し、ふと読み始めた笠井さんの本の中に、高校時代の友人の名前を見つける。

このたとえがふさわしいのかどうかわからないが、まるで、ビリヤードの玉を突くように、僕の中で人と人とが転がるようにつながってゆく。

 画面の中の再会の次は、本の中の再会。コロナ禍が落ち着いたら、今度こそほんとうに、再会したいものだ。

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コメント

佐藤拓雄アナとご友人とは驚きです。
この県民なら知らない人はいないだろう方。
仙台放送では震災の翌月から月に一度「ともに」という震災を扱う番組を放送しており、拓雄さんは今でも出演を続けています。

笠井さんの本での拓雄さんの言葉は重いですね。震災直後
「仙台放送では、随時、被害状況と生活に関する情報をできる限り詳しくお伝えします。どうかご活用いただければと思います。そして、一人でも多くの方のご無事が確認できるよう、祈る気持ちで、取材・放送を続けていきます。」

とアナウンスしたことを仙台放送のアナウンサーが輪番で担当するブログの中に書いています。振り返っていましたが、確かに停電してたからほとんどの県民は見てないんですよね。
そんな気持ちがあったからこそ、震災関連の番組を続けているのかもしれません。

今考えれば、出身地はプロフィールにあるし、ブログで音大を目指そうとして母に反対されたとか音楽の話題が多いし、昭和最後の日の思い出も書いていた。

ヒントはあったのだなぁ・・・。

投稿: 江戸川 | 2020年7月 5日 (日) 11時07分

大学時代、夏休みに一度だけ、仙台の彼の下宿に泊まりに行ったことがある。山田太一のドラマが好きだと言っていて、当時は脚本家にあこがれていたんじゃなかったかな。

投稿: onigawaragonzou | 2020年7月 7日 (火) 23時58分

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