1944年8月6日の第九
太田愛の小説『天上の葦』には、1944年8月6日に東京帝国大学で行われた「壮行大音楽会」のエピソードが出てくる。これは史実で、この日、東大生の学徒出陣にかかわり、音楽会が催された。この中で、ベートーベンの「第九」も演奏された。
「第九」といえば、僕の母の知り合いだったスズキさんが書いた『第九と日本人』という本の中でも、このときの「壮行大音楽会」の様子を、実際の資料から復元している。
小説は、どのあたりまで史実に基づいているのか、検証してみたくなり、小説の描写と、スズキさんが明らかにした1944年8月6日当日の様子とを、比較してみることにした。
まず、太田愛の小説『天上の葦』から、該当の記述を抜粋する。
「あれは、一九九四年八月六日だった。
(中略)
だが、あの日の音楽会は、美しい音楽を聴くのもこれが最後になるやもしれぬと、覚悟を決めた若者たちのためのものだった。それは、東京帝大法学部学生自治会・緑会の発案によって開催されることになった出陣学徒のための壮行音楽会だった。(中略)
緑会の学生は当初、演目にベートーベンの第九交響曲を考えていたが、これは大曲で平時でさえ体力を要する演目であるため、猛暑の中、栄養不良の体で演奏するのは困難であると日本交響楽団に断られたという。だが、彼らは戦地に赴くに当たってせめて最後に第九をと交渉を重ね、遂にいくつかの小品と共に第九の第三楽章と最終楽章の上演にこぎ着けたのだと聞いていた。
会場は安田講堂が歌舞音曲一切禁止のため、法文経一号館の二階にある二十五番教室。開演時間は灯火管制で夜が不可能であるため、日盛りの午後二時だった。(中略)
午後二時過ぎ、音楽会は『君が代』で幕を開けた。次いでベートーベンの歌劇エグモント序曲、ブラームスのハンガリー舞曲、南ドイツの歌があり、十五分の休憩の後、いよいよベートーベン第九交響曲の第三楽章と最終楽章の演奏が始まった。日本交響楽団と、合唱は東京高等音楽学院生徒百余名。
(中略)
音楽の力と喜びに全てを忘れて聴き入った。
そして天に駆け上るようなあの最後のフレーズが終わった後、辺りは静寂に包まれた。一瞬の後、頭上に割れんばかりの拍手が沸き起こった。私はただ放心して突っ立っていた。
だが、最後に演奏された『海ゆかば』が私を現実に引き戻した。それは、出征兵士を見送る曲であると同時に、ラジオの戦果発表で玉砕が報じられる際、必ず冒頭で流れるものでもあったからだ。(後略)」(角川文庫版、下巻44頁~46頁)
対して、スズキさんの『第九と日本人』に書かれている資料を紹介する。スズキさんは、「この演奏会についても公式な記録はないが、同年九月一日付の『東京大学学生新聞』がただひとつこの事実を伝えている」と述べ、このときの記事「今日よりは醜の御楯…”気魄を持ち最後のご奉公を”相継ぐ出陣学徒壮行会」の一部を引用している。
「征で行く学徒を音楽で壮行しようと云う和やかな企「出陣学徒壮行大音楽会」は東大法文経三学部会の主催の下に去月六日二時から東大法文経二十五番教室で催された。(中略)一同起立「君が代」合唱の後日本交響楽団(指揮尾高尚忠氏)のベート-ヴェンの歌劇「エグモント」序曲、ブラームスのハンガリー舞曲(第五番、第六番)、尾高尚忠氏編曲、南ドイツの歌(独唱三宅春恵女史、合唱東京高等音楽院生徒)があり、十五分の休憩の後待望のベート-ヴェン第九交響楽(終楽章)独唱矢田部勁吉氏、竹岡鶴代女史、合唱東京高等音楽院生徒百余名で行われ、出陣学徒も暫恍惚とする。かくて一同”海ゆかば”を合唱し壮行音楽会の幕を閉じた」
またスズキさんは、これに続いて、この当時東京帝国大学法学部一年に在籍していた栗坂義郎(朝日新聞元アメリカ総局長)が、1978年の『文藝春秋』8月号に書いた「出陣学徒と第九交響楽」という一文を紹介してる。
「そんな十九年初夏のある日、法学部緑会委員の間で壮行会の催しの話が出て、それなら日響を呼んでみんなで”第九”を聴き、その思い出を胸に、悔いなく戦場に行こうと私が提案した。(中略)
ところが日響の有馬大五郎理事長に”第九”の演奏は楽団員にとっていちばん骨が折れるし、暑い最中に栄養も不足で体力が続かない、と断られてしまった。われわれにとって戦争は死に結びつく、しかし生きたいー祖国防衛に起ち上がれとの歌い文句は勇ましい。だが死を賭して戦場に赴くには、祖国日本を象徴する身近な何か、恋人でも肉親でも愛する人の鮮烈な面影か、美しい人風土に囲まれて生きてきた無上の喜び、想い出を心に秘めて征きたいとの焦りにもにた願いが、我々にはうずいていた。(中略)
戦争に勝てそうもない、せめて最後に好きな音楽のうちでも至高の名曲”第九”を聴いて、また友だちにも聴かせてーと思い詰めた私は、なお有馬氏を説得しようとしたところ「第三の英雄か、第五の運命交響曲なら……」とまで軟化してくれた。だが、第三の二楽章には葬送行進曲があり、第五の「運命はかく扉をたたく」の序章は出陣学徒に不吉だというわけで、あくまで”第九”を懇望し、ついに有馬氏の承諾をとりつけた。(後略)」
その後、栗坂氏の文章は、演奏会の様子を克明に記す。前半の「小品」の演奏が終わり、十五分の休憩の後、第九の第三楽章、第四楽章が始まった。その最後の箇所。
「…ともかく空襲・警戒警報もなく、万雷の拍手のうちに無事に終った。野球など米英スポーツはすでに禁止、ジャズもない、娯楽といえばクラシック音楽ぐらいしかなく、その音楽にも飢えていた若人は戦争を忘れ、音楽に酔った。ついで”海ゆかば”になると再び戦争の現実に帰った。これが最後の第九か ー不安が再び頭を擡げ、出陣学徒は三々五々複雑な表情で散っていった。会場に残った私は、全身から力が抜けていったのをいまでも覚えている」
これらを読むと、太田愛の『天上の葦』の1944年8月6日の場面は、かなり史実に正確に描いていることがわかる。
・主催が緑会、会場が東京帝国大学法文経二十五番教室、開演が午後二時だったこと。
・実際に演奏された曲のプログラムと、演奏・合唱した人々。
事実関係だけでなく、そのときの出陣学徒の「想い」についても、当事者である栗坂氏の文章に書かれた「想い」に沿って書かれていることがわかる。
「緑会の学生は当初、演目にベートーベンの第九交響曲を考えていたが、これは大曲で平時でさえ体力を要する演目であるため、猛暑の中、栄養不良の体で演奏するのは困難であると日本交響楽団に断られたという。だが、彼らは戦地に赴くに当たってせめて最後に第九をと交渉を重ね、遂にいくつかの小品と共に第九の第三楽章と最終楽章の上演にこぎ着けたのだと聞いていた」(『天上の葦』)
「そんな十九年初夏のある日、法学部緑会委員の間で壮行会の催しの話が出て、それなら日響を呼んでみんなで”第九”を聴き、その思い出を胸に、悔いなく戦場に行こうと私が提案した。(中略)ところが日響の有馬大五郎理事長に”第九”の演奏は楽団員にとっていちばん骨が折れるし、暑い最中に栄養も不足で体力が続かない、と断られてしまった。(中略)戦争に勝てそうもない、せめて最後に好きな音楽のうちでも至高の名曲”第九”を聴いて、また友だちにも聴かせてーと思い詰めた私は、なお有馬氏を説得しようとしたところ「第三の英雄か、第五の運命交響曲なら……」とまで軟化してくれた。だが、第三の二楽章には葬送行進曲があり、第五の「運命はかく扉をたたく」の序章は出陣学徒に不吉だというわけで、あくまで”第九”を懇望し、ついに有馬氏の承諾をとりつけた。(後略)」
「音楽の力と喜びに全てを忘れて聴き入った。
そして天に駆け上るようなあの最後のフレーズが終わった後、辺りは静寂に包まれた。一瞬の後、頭上に割れんばかりの拍手が沸き起こった。私はただ放心して突っ立っていた。
だが、最後に演奏された『海ゆかば』が私を現実に引き戻した。それは、出征兵士を見送る曲であると同時に、ラジオの戦果発表で玉砕が報じられる際、必ず冒頭で流れるものでもあったからだ。(後略)」
「万雷の拍手のうちに無事に終った。(中略)娯楽といえばクラシック音楽ぐらいしかなく、その音楽にも飢えていた若人は戦争を忘れ、音楽に酔った。ついで”海ゆかば”になると再び戦争の現実に帰った。これが最後の第九か ー不安が再び頭を擡げ、出陣学徒は三々五々複雑な表情で散っていった。会場に残った私は、全身から力が抜けていったのをいまでも覚えている」
実際、小説の巻末には、参考文献の一つとして栗坂義郎氏のこの文章があげられており、当事者だった栗坂義郎氏の想いを尊重し、その想いに寄り添った形での描写であることは間違いない。
話題の小説の中で、1944年8月6日の第九のエピソードが紹介されていることを知ったら、スズキさん、喜んだだろうな、と思う。
心覚えのために、記録として書いておく。
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