キネマの○○
そろそろ、大林宣彦監督の映画『海辺の映画館 キネマの玉手箱』の話をしようか。
大林監督は「キネマ」という言葉にこだわった。もう一人、「キネマ」という言葉にこだわった映画監督がいる。山田洋次監督である。
山田洋次監督には『キネマの天地』という映画があるし、次回作は『キネマの神様』というタイトルの映画だそうである。
山田監督と大林監督は、撮影所出身の監督とインディペンデントの監督ということで、その作風や映画作りの手法は相容れないものだったと思われる。だが晩年、この二人は同世代ということもあり、意気投合するようになったようである。
二人に共通するのは、古きよき「キネマ」の時代、もっといえば無声映画の時代への憧憬である。山田監督も大林監督も、老境に至り「キネマ」をタイトルに使った映画にこだわったことは、単なる偶然ではないのだろう。
さて、本題に入る。
『海辺の映画館』は、晩年の大林監督がこだわった、反戦に対する強いメッセージの映画だ、と評価されることが多い。たしかにそれはそうなのだが、僕はもう少し別の見方をしている。
よく大林監督は、「自分の映画は、自分の人生の中ですべてつながっている」という意味のお話をしていた。
あまりふれられていないことだと思うが、これまでの大林映画の一連の流れの中でこの映画を観たとき、この映画の直接のルーツとなっているのは、『マヌケ先生』(2000年)と『淀川長治物語・神戸篇 サイナラ』(1999年)である。どちらも、大林映画の中でもきわめてマイナーな映画である。
『マヌケ先生』は、大林監督の自伝的映画で、長く大林監督の助監督をつとめた内藤忠司が監督をし、大林監督は「総監督」という立場で関わっている。だがその映像を見ればわかるように、大林映画の作風が全開の映画である。
この『マヌケ先生』は、『海辺の映画館』の中でも一部引用されているので、両者が同じ系譜上に位置する映画であることは容易に想像できるのだが、それよりもさらに『海辺の映画館』に作風が近いものが、『淀川長治物語』である。
なにしろ、映画館の内部のセットが、二つともほぼ同じである。スクリーンの脇に活弁士がいて、スクリーンと客席の間にオーケストラが陣取る。これは、大林監督の少年時代に無声映画を上映していた映画館の構造そのものであり、これこそが、大林監督にとっての正統な映画館なのである。
さて、その映画館でどのようなことが起こるかというと、淀川少年は、客席とスクリーンの中を、行ったり来たりするのである。これは、『海辺の映画館』と、まったく同じモチーフである。とくに『淀川長治物語』のラストは、淀川少年が映画館の客席から舞台に上がり、スクリーンに映し出された蒸気機関車に乗り込むという場面で終わる。
『海辺の映画館』の場合、観客だった3人の若者が上映されている映画のスクリーンに入り込んで歴史上のいろいろな出来事に巻き込まれる、という荒唐無稽な設定に面食らった人もけっこういただろうと思うのだが、何のことはない、大林監督はすでに『淀川長治物語』の中でその手法を実践していたのである。
そう思って、そのほかの作品を観てみると、「瀬戸内キネマ」が登場する大林映画は、すべて同様の映像手法がとられている。
「瀬戸内キネマ」は、『海辺の映画館』だけでなく、大林映画の中でしばしば登場する架空の映画館(もしくは撮影所)である。過去には、『麗猫伝説』(1983年)、『日本殉情伝 おかしなふたり ものぐるほしき人々の群 夕子かなしむ』(1988年)、そして『マヌケ先生』などに登場する。
『おかしなふたり』に登場する映画館「瀬戸内キネマ」では、『上海帰りのリル』(1952年)という実在の古い映画が上映されるのだが、この映画の主役をつとめた水島道太郎(映画の中では「水城龍太郎」という役名)本人が、スクリーンの中ですっかり老けた現在の姿で登場するのである。大林監督は、過去の『上海帰りのリル』の映像の中に、現在の水島道太郎の姿を映し出したのである。そしてその映画を観ていた原泉演ずるヤクザの組長が、「映画も歳をとるのねえ」とつぶやく。
…ちょっと何言ってるかわからない、かな?説明が下手で申し訳ない。
また、「瀬戸内キネマ」という撮影所を舞台にした『麗猫伝説』では、大映の「化け猫映画」という、やはり古い日本映画がモチーフにされていて、ここでも、過去の映画と現在がスクリーンの中で交錯する。
つまり「瀬戸内キネマ」は、スクリーンの中の映画と現実世界を行ったり来たりできる映画館として、大林監督の中で、ずっと描かれ続けてきたのだ。
別の言い方をすれば、スクリーンこそが、「虚」と「実」の皮膜の役割をはたしていたのである。これはたぶん、少年時代の映画に対する原体験、というか、原感覚にもとづくものであろう。
一見奇抜に思われる『海辺の映画館』の映像手法は、実はすでに大林映画でくり返し行われてきたものであり、さらにそれは、映画に対する大林監督の原体験(原感覚)にもとづいているのである。
スクリーンの向こう側(虚像)とこちら側(実像)には隔たりがない、という感覚は、「死者と生者の間に隔たりがない」という、大林映画を貫くもう一つの映画的手法(ひいては死生観)にも通じていて、じつに興味深い。
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コメント
私も観てきましたので、なるほどなぁと思いながら拝読しました。万華鏡のような印象が残りましたが、大林映画の宝箱だったわけですね。
「嘘から出た誠」ですね。
投稿: もりもり | 2020年9月21日 (月) 23時42分
最初の仮タイトルはたしか「春爛漫!キネマの玉手箱」。「春爛漫!」は「海辺の映画館」に変わったけれど、「キネマの玉手箱」のほうは変わらなかった。そこにこの映画の本質があるような気がします。
投稿: onigawaragonzou | 2020年9月23日 (水) 00時37分