« まっくろくろすけは見えているか | トップページ | Twitterデビュー! »

食べることと出すこと

先日のTBSラジオ「荻上チキSession22」の「Main Session」のコーナーで、2回にわたって取り上げられた「特集「話題の新刊『食べることと出すこと』当たり前のことが出来なくなって気付いたこととは?~潰瘍性大腸炎闘病記」の内容が、むちゃくちゃおもしろかった。番組の公式ホームページやラジオクラウドで、音声配信を聴くことができる。

以下、Session22の公式サイトから引用。

「今回のテーマは「潰瘍性大腸炎」。辞任した安倍前総理大臣も患っている病気として、注目を集めました。潰瘍性大腸炎は、大腸の粘膜が炎症を起こして、潰瘍ができる難病指定されている病気。しかしながら、その症状には、同じ患者同士でも分かり合えないことがあるくらいの差があるといいます。そうした中で、難病として指定されている潰瘍性大腸炎の一例だけを知ることで偏見が広がることも懸念されています。そこで、潰瘍性大腸炎とはどのような病気なのか?潰瘍性大腸炎との闘病生活を描いた新刊『食べることと出すこと』の著者である頭木弘樹さんに「食べる」、そして「出す」という、当たり前のことが出来なくなってしまうという病気とどう付き合ってきたのか、そこから気付いたことなどを伺いたいと思います。」

教養と思索に裏打ちされた頭木弘樹さんの闘病体験談は、じつに興味深いものだった。

この放送を聞く前は、「潰瘍性大腸炎」は自分とは無縁の病気だから、その闘病生活の話を聞いても、自分とは関係がないだろうと思っていたのだが、さにあらず。少なくとも僕には、そのお話に共感することばかりだった。

たとえばこんな話。

20代のころに潰瘍性大腸炎を発症した頭木さんは、症状が深刻になり、入院して1か月の絶食を強いられることになる。1か月の間、水1滴も口に入れることができない状況が続いた。

絶食期間が終わり、最初にヨーグルトを口にしたとき、「舌の上で大爆発が起きたような感覚になった」という。1か月の絶食で、舌は「味」を欲していたのだろう。1か月ぶりに食べ物を口にしたことで、「美味しい」を越えた「味の爆発」を感じたというのである。

そして次はいよいよ「おかゆ」である。

最初のヨーグルトであれだけの衝撃を受けたのだから、おかゆを食べたらさぞかし感激するだろうと思って食べてみたら、これがすこぶる不味い。それからというもの、しばらくは何を食べても不味く感じるのである。

なぜ、そう感じたのか?これが健康なときだったらそうは感じなかったのだろうが、絶食という体験を経て舌があまりに敏感になり、いままで感じなかった味の「負の部分」が強調されてしまったのではないだろうか。

潰瘍性大腸炎の患者にとってつらいことの一つは「食べること」である(もちろん、個人差がある)。食べることが苦痛になってしまったり、食べることに制限を強いられてしまったりした場合、どのようなことが起こるか?

まず、会食ができなくなる。「今度食事でもどうですか?」と誘われても、それが苦痛なので、断らざるを得ない。

するとどうなるかというと、そこで人間関係が遮断されることになったりする場合がある。

「共食」とは人間関係構築の手段でもあるわけである。それができないとなると、自分は人間関係から排除されてしまうことになるのだ。しかし無理に共食すると、今度は自分が苦痛を感じてしまう。「食事を伴わない人間関係の構築」が、できないものだろうか?

実は僕も同じような体験がある。

3年前に大病を患ったとき、薬の副作用で、食事の何もかもが不味く感じるという期間が3~4か月以上続いた。これは本当につらかった。試しに自分がいちばん好きなものを食べてみるのだが、それもまた不味い。

病気がだいぶ落ち着いたころ、親しい友人から、「元気を出してもらうために、うなぎをごちそうしてやる」というありがたい誘いをもらった。ただ、僕はまだそのとき、自分の味覚を完全に取り戻したわけではなかったと記憶する。

日程が決まり、友人はお店も予約してくれた。「○月×日の□時に、都内の△△まで来てくれ」と連絡が来た。

しかし、その日が近づくにつれて、体調がすぐれなくなっていく。実はそのとき、僕はもう一つ、薬の副作用を抱えていた。身体の皮膚の各所が炎症を起こし、とくに足の裏の炎症がひどくて、歩くと激痛がはしるようになったのだ。

とてもではないが、指定された都内のお店に行くことができない。それに加えて、味覚にも自信がない。

結局僕は、直前になって、その「うなぎの誘い」をお断りすることにした。

相手からしたら、なんだよ、せっかくうなぎのうまい店を予約してやったのに、と思ったに違いない。僕自身も、断ってしまったことにしばらくは後ろめたさを感じていた。

その後、別の友人から食事の誘いを受けたときも、やはり直前になって、お断りの連絡をしたことがあった。

なぜ、食事の誘いを断ることに後ろめたさを感じてしまうのだろう、と僕はずっと悩んでいたのだが、この社会では、一緒に食事をするということが人間関係の構築と深く関わっているからであるとする頭木さんのお話を聴いて、溜飲が下がった思いがしたのである。

いまは薬の量が減ったこともあり、味覚に問題はなくなったのだが、それでもまだ、会食への抵抗は強い。でもいまは、以前ほどには断ることに対して後ろめたさを感じることはなくなった。

コロナ禍になって、会食なしのコミュニケーションが増えてきたことは喜ばしい、このまま、食事を挟まないコミュニケーションの形態が続いてくれるとよいと思っている、という頭木さんの指摘には、大きくうなずいてしまった。

多くの人が「あたりまえ」と思っていることが、ある人にとっては苦痛で仕方がない、というのは、なにも潰瘍性大腸炎の患者さんだけではない。ほかのいろいろな病気にも通じることである。いや、病気でなくとも、そのように感じる場面はあるはずだ。

そこに対する想像力があるだけで、世の中はずいぶんと変わるのではないかと思うのだが、どうだろう。

|

« まっくろくろすけは見えているか | トップページ | Twitterデビュー! »

心と体」カテゴリの記事

コメント

「マナー」はマニュアル化されているが「想像力」「気遣い」は個人差があるものとみなされている。
想像力ある側は“諦め”
想像力ない側は“そんなことどこに書いてある”
だから永遠に解決しない。
的な印象をこの社会から受けるのですがどうでしょうか。

投稿: 江戸川 | 2020年9月23日 (水) 19時57分

zoom会議を例にいうと、「画面上に上座をもうける」とか、「下っ端は画面に一礼して最後に退出する」などの謎のマナーはどんどん作られるけれど、「ビデオ画面をonにするように強いられるのが精神的に苦痛である」ことについては理解されない、みたいな。

投稿: onigawaragonzou | 2020年9月24日 (木) 19時29分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« まっくろくろすけは見えているか | トップページ | Twitterデビュー! »