よい読書
現在開催中のイベント用のTwitterの件だが、管理人さんたちがえらく盛り上がっていて、どんどんエスカレートしていくような気がして、ちょっと怖くなってきた。
僕も、ツイート文をこれまで何度かアップさせてもらったのだが、だんだん面倒くさくなってきたので、ここらで引こうかと思っているところである。
『文藝春秋』2020年11月号の巻頭随筆に掲載された芸人の光浦靖子さんのエッセイ「留学の話」が、ネットで評判になっていて、僕も読んでみたのだが、とてもよい文章だった。
「一つのことを追い、極めることが世間では素晴らしいとされています。でも私にはできそうもない。じゃ、どうする? 深さじゃなく、広く浅く、数で勝負するのは? 「逃げ」と「新しい挑戦」の線引きなんて曖昧なもんだ。」
「外国生まれの日本人の友達がいます。彼女は10代で日本に戻って来た時、虐められたそうです。「違う」と。でも彼女は「世界はここだけじゃない」ということを知っていたから、虐めを乗り越えられたそうです。仕事も友人も住む場所も、「世界はここだけじゃない」を知ったら、どれだけ強くなれるんだろう。私はそれを知りたいのです。英語から逃げた分岐点に戻って、もう一つの人生も回収したいんです。」
このあたりがグッときたので、心覚えに引用しておく。
「上から目線」の書き方かもしれないけれど、よい文章に出会った時は、「この人は、きっと『よい読書』をしてきたんだろうなあ」と思うことにしている。光浦さんが本好きなのは有名だが、たんなる本好きではなく、「よい読書」をしてきた人なのだ。ほかの芸人さんでいうと、バービーさんのエッセイを読んだ時も、同じ感想を抱いたことがある。
反対に、「うーむ。この人は、読書に恵まれなかったか、読書嫌いだったのだろうなあ」と思ってしまう文章に出会うこともある。人間は、歳を重ねるごとに自然と文章が上手くなるというわけではなく、それまでにどれだけ「よい読書」をしてきたかが、文章の深みを左右するのではないのだろうか、と思うようになってきた。
リンカーン大統領が、「男は40を過ぎたら自分の顔に責任を持て」みたいなことを言ったとか言わなかったとか。「男は40過ぎたら」の部分はともかく、それまでの生き方が顔に出る、というのであれば、それまでの生き方が文章に表れる、ということもまた、真実なのではないだろうか。
光浦さんのエッセイを読んで、いまの業界における自分の立ち位置、みたいなことについて、少し考えてしまった。
光浦さんが自分について感じているのと同じように、僕自身もまた、一つのものを極めたという人間でもなければ、一芸に秀でている人間というわけではない。どちらかというと、かなりブレブレの人間だし、この業界でなんとなくやり過ごしてきた人間である。
この業界には、まったくブレない人がいて、そういう人は、自分のやるべきことが決まっているから、それにもとづいた仕事を量産してしている。僕はそういう人を、とてもうらやましく思っている、というより、かなり嫉妬している。僕には、「ブレない」ことが窮屈で仕方がない。
「ブレブレで何が悪い」と開き直っているのだが、たぶん光浦さんが書いているように、「新しい挑戦」といいながら、実際には逃げているだけなのかもしれない。
ただまあ、あっちへフラフラ、こっちへフラフラしているおかげで、「世界はここだけじゃない」という感覚を、漠然とだが持つことができた。
同じ業界の人から、酒に酔った勢いで僕がいかにダメかを延々と説教されたことが、何度かある。そのときはひどく落ち込んで、いまでもそいつらに対して根に持っていたりするのだが、それでもいまは、「俺はそんなところで勝負していない」という自負がある。「おまえらの考えている世界なんて、その程度のものさ」と。ま、負け惜しみなんだけどね。
まだ、「負け惜しみ」といっている時点で、勝ち負けにこだわっている自分がいるのだが、やがては、そんなことすらどーでもよくなるような境地に達したい。
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