いかなる人をも軽んじない
前回の「ピンクのマスク」のエピソードが、なぜ印象的だったのかを考えたのだが、
「軽んじられていない」
ことを実感するエピソードだったからだ、ということに気がついた。
人は、自分が「軽んじられていない」と実感したときに、相手を信頼することができるのではないか。
この国の政権担当者が記者会見を開いても、ちっとも心に響かないのは、僕たちを軽んじていることがまるわかりだからである。僕たちだけではない。言葉そのものが、軽んじられているのである。
どんなに政府からいろいろと要請されても、僕たちを軽んじている人の言うことなど、どうして重んじることができようか。
日本テレビの夕方のニュース番組「Every」をたまたま見ていたら、成人式のニュースをやっていた。このコロナ禍で、成人式を中止や延期になる自治体が多かったことを伝えていた。
ニュース映像が流れたあと、スタジオの藤井アナウンサーが、こんなことを言った。
「成人式が中止になって、多くの人が残念に思っていることと思います。話を聞きますと、人によっては時間をかけて髪を伸ばし、友人と振袖が重ならないように準備を進めるんだといいます。決して安くないお金を親に出してもらったという人もいるでしょう。一生に一度のことですから「残念」という言葉では足りないかもしれません。ただ、この新型ウィルスに苦しんだ経験は人の気持ちを理解するうえでとても重要だったと思います。世の中、思い通りにいかなくても誰かを批判するのではなく、誰かのために力を発揮できる強い大人でいてください。成人おめでとうございます」
短いながらも、言葉を選びながら誠実に語りかけた藤井アナの言葉に、少し感動してしまった。僕は成人式なんてクソ食らえ!と思う人間だし、この語りの内容に全面的に賛成というわけではないのだが、それでも、多くの当事者たちが成人式を楽しみにしていたことは事実だし、その機会を奪われたことに対する悲しみは、尊重すべきなのだと思う。そして藤井アナの語りは、その人たちの気持ちに配慮した、言葉を尽くしたメッセージだったと思う。
「いかなる人をも軽んじない」ことが、人との信頼関係を築く最大の条件なのではないか、と、他人を軽んじがちな僕は、肝に銘じたのであった。
話は変わるが、古い仲間がSNSで、高血圧だが医者に行く気はない、とつぶやいたら、コメント欄で同じ世代の仲間が一斉に「医者に診てもらえ」と説得を始めた。それ自体はいいのだが、その理由が、
「本来安価な投薬治療で済むはずのものが未必の故意で重症化すると、国民全体の金銭的負担を無責任に増やすことになる。要するに社会人である以上は健康で過ごす責任がある」
「会社としてはどこのパーツが欠けたとしても、会社に関わるすべての方(従業員、お取引様、お客様)にご迷惑がかかる」
という言い方をしていて、「たしかに正しいけど、言葉が冷たいなあ」と思わずにはいられなかった。いつぞやの、「自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!無理だと泣くなら……」というフリーアナウンサーの発言を思い出した。
もちろん、そう考える僕の心がねじ曲がっているのは重々承知なのだが。「社会に迷惑がかかる」(つまり俺たちに迷惑がかかる)という理屈ではなく、「自分自身の身を守るため」とか「自分自身が幸福に生きるために」という理屈で語りかけられないものだろうか。僕自身も、自分の身体をほったらかしにしておいたツケで、大病を患った経験があるので、そんな言い方をされるとよけいに切なくなる。でも、世間にはそんなふうに思っている人がけっこう多いのだということを、これらのコメントを見て、気づかされたのである。
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