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寝だめカンタービレ

週末は、ほとんど寝たきり状態である。

少しでも散歩をすればよいのだが、薬の副作用のためか、少し歩くと足の裏がひどく炎症を起こしたりするし、お腹がゆるくなるので、歩いていて、いつもよおすかわからない。なのでトイレのアテのない散歩は危険きわまりないのである。まったく、面倒な身体である。

正岡子規の『仰臥漫録』の気持ちがよくわかる。

本当は週末の寝だめは、平日の仕事に差し支えることがあり、かえってよくないといわれているのだが、どうしたものか。

正月に録画しておいた、新海誠監督の映画「天気の子」を、ようやく見た。新海誠作品は、「君の名は。」に続く2本目である。

新海監督自身、「この映画は賛否が分かれるだろう」と言っていたそうである。映画を見たあと、宇多丸さんや町山さんの映画評をチェックしてみたが、僕自身が、この映画についてとやかく批評する力はまったくないし、感想と言っても、たいした感想を述べられるわけでもない。新宿の町のディテールが、すごくよく描かれているなあと、風景描写に感動したことだけは、言っておきたい。

いまでもそうだが、僕のまわりにも、いい年齢をして「私、雨女なんですよ」とか言う人がいたりする。「ほら、あの合宿の時も、私が合流したとたん、大雨が降ったでしょう、ハハハ」「そうですか」と言いながら、僕は、心の中で舌打ちをする。何年前の話だよ!それになんであんたが天気をあやつれるんだ?と。

しかし「雨女雨男晴れ女晴れ男」問題は、この国の社会に根強く存在する。それは土俗的信仰といってもよい。実際僕も10代のころは、さほど疑問もなくそんなことを受け入れていたのだ。

そんなところから、この映画が発想されたのだろうか?とも思う。たぶん違うと思うけど。

この年齢になって、この映画を見て感じたことをいくつかあげるとすれば、まず、地球温暖化問題である(この点は町山さんも指摘している)。東京が未曾有の大雨に見舞われる、という設定は、いままさに僕たちが直面していることである。映画の中では、雨により東京の地形が変わり、新しい生活様式を人々が受け入れざるを得なくなる様子を描いているのだが、それもまさに、いまコロナ禍で体験していることである。

二つめは、疑似家族である。16歳の主人公が都会の中でひっそりと暮らしている様子や、主人公をとりまく人たちが疑似家族を形成している様子は、是枝裕和監督の「誰も知らない」とか「万引き家族」を連想させる。これもまた現代的な問題である。

三つめは、先ほど述べた「晴れ女」問題である。主人公の帆高と、「天気の巫女」の陽菜は、自分たちが雨をやませる力を持っていると本気で思っている。しかしそれは、大人から見たら、まったくの荒唐無稽な話である。大人から見たら、「家出少年」と「保護が必要な少女」にしか見えないのだ。ただ、大人の中には、帆高と陽菜に共感をする人たちもいる。そういう三層構造になっている。

この点はどうだろう。たとえば都市伝説や陰謀論を、本気で信じている人と、それをまったく信じていない人と、その中間くらいの人、という、いままさに起こっている社会の分断の状況と、重なってくるのではないだろうか。

映画の本筋とはまったく関係のないことばかりだが、映画を見てこういうことしか思い浮かばない自分の感受性の劣化を、嘆くばかりである。

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