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2021年2月

ミスター・リー

2月25日(木)

今日から2日間、韓国で大規模なオンライン会合である。自分の出番はないのだが、むかしからお世話になっている方が数多く登壇されるので、顔を出さなければいけない。

Zoomの画面に、懐かしい顔の人が登壇した。12年前、韓国の留学先で出会ったジョンさんである。当時彼は大学院生で、とてもおとなしく、どちらかといえば引っ込み思案で、喋っているところあまり聞いたことがなかったのだが、今はしかるべきところに就職し、大勢の前で堂々と喋っている。僕はそれを見て嬉しくなった。

ひととおり話が終わると、今度はコメンテーターによるコメントや質問の時間である。討論者は、これまた懐かしい、イ先生だった。イ先生は穏やかな先生で、留学中の僕や妻にとても優しく接してくれた。

僕は仕事をしながらZoomの画面から流れる音声を聴いていたので、韓国語がしっかりと聴き取れていたわけではなかったのだが、イ先生はジョンさんに対してひととおりコメントを終えたあと、突然、顔色を変えて、ジョンさんを非難する口調で、声を荒げた。「倫理」という言葉が聞き取れたので、どうもジョンさんに対して、倫理が守られていないことをお怒りのようであった。

僕はあまりに突然の事態に、ビックリした。何があったのだろう?

ビックリしたのは僕だけではない。会場が凍りついていることが、画面からも十分に伝わってきた。

一応日本語や中国語に通訳してくれる人が会場にいるのだが、イ先生の怒号は、日本語にも中国語にも通訳されることはなかった。

そうなるとますます気になる。ふだんの温厚なイ先生からは考えられない切れっぷりである。

僕はそのことばかりが気になって、その後の登壇者の話が頭に入らなかった。

1日目の会合が無事に終わったのだが、やはり気になって仕方がない。僕は、その会場にいた友人にメールで聞いてみることにした。

一つ気になったことがあったのですが、イ先生のコメントを聴いていて、「倫理に反する」みたいな感じでちょっと言葉を荒げたところがあったような気がしたのですが、どんなことをお話しになったのでしょうか」

するとほどなくして返信が来た。

お聞きになりましたか。おっしゃるとおり、ジョンさんに対して声を荒げていました。どうやら、かくかくしかじか、ということのようです。

ただ、何でそこまで怒るのか私もわからなくて、後でほかの方に聞いたのですが、よくわかりませんでした。会場でも変な空気になりました。」

なぜ、声を荒げたのか。一つだけ思い当たる節があった。

それは、イ先生とジョンさんが、一時期、教員と学生という関係にあった、ということである。今ではお互い社会人同士であるはずなのだが、どこかで、教員と学生という上下関係をまだ引きずっているがゆえに、高圧的な態度をとったのではないだろうか。

そのことを友人にメールすると、

そういうことかもしれませんね。最近も、飲み会の席で、現役の院生に高圧的な態度を突然とっていたらしいです」

と返信が返ってきた。

僕や妻には一切見せなかったが、学生には見せていた別の一面が、その先生にはあったのではないか、という疑惑が、頭をもたげてきたのである。

そのときに、ある記憶が僕の頭の中に鮮明によみがえった。

12年前の留学中、ある会合に参加した時のことである。

会合が始まる前、大学院生たちが会場の設営をしていたのだが、そこで妻は、大学院生たちのひそひそ話を聞いたとかで、僕にこんな話をした。

「さっき、大学院生たちが、『ミスター・リーが来るとやっかいだから、早くやっていまいましょう』とか、『ミスター・リーがどうのこうの』って言ってるのが聞こえたんだけど、『ミスター・リー』って誰?」

「さあ」

「明らかにやっかいな先生ってニュアンスで『ミスター・リー』って呼んでたんだよね」

「なるほど、隠語みたいなものだね」

ま、日本でも、やっかいな先生をさして「大先生」と呼んだりするので、それに近いニュアンスなのだろう。

僕はそのとき、会合に参加する先生で「ミスター・リー」にあたる人は誰かを推理することにした。だが、「リー」つまり「イ」と名のつく先生は、僕がふだんお世話になっているイ先生以外、見当たらない。

「まさか、あの優しくて穏やかなイ先生が、『ミスター・リー』って呼ばれているはずはないよ。やっかいに思われているはずないもん」

結局、大学院生たちが煙たがっている「ミスター・リー」が誰なのかは、わからずじまいだった。

しかし12年越しで、その謎が解けたのではないか、と、僕は確信に近い感触を得たのである。

そのことを妻に話すと、

「ミスター・リー?ぜんぜん覚えてない。そんなことあったっけ?」

ミスター・リーはイ先生、あなたなのですか?

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○的なるもの

2月24日(水)

職場のイベントを見に来るお客さんの中に、「マスクをしない主義」の家族がいて、ちょっとしたトラブルになったということが、職場のコロナ対策の会議で話題になった。

マスクをしてください、というと、その一家は「マスクをしない主義だ」と言って、イベント会場に入ってゆく。イベント会場では、マスクをしている人たちが、マスクをしていない家族を見て、「なんでマスクをしろと注意しないんだ!」と、会場スタッフにクレームをつける。

これはたいへんだということで、「マスク未着用の方には会場に入るのを遠慮いただく」という方針が決まった。

しかし、なんかモヤモヤする。

もしどんな人でも、マスク未着用ならば会場には入れないとなると、たとえば、2歳10か月のうちの娘はどうなるのだろう?

そこで質問した。

「あのう…たとえばうちの娘はまだ2歳なんですけど、2歳の子にもマスクの着用を義務づけるということですか?」

「はぁ、そうなります」

「ちょ、ちょっと待ってください。たしかWHOは、幼児はマスクをするとかえって窒息などの健康上の被害が懸念されるので、マスクは着けない方がいいと奨励していたはずです」

考えてみれば、この会議は、全員が男性である。しかも平均年齢は高い。ひょっとして、「幼児はマスクをするとかえって健康上の問題が生ずる」ということを、わかっていないのではないだろうか?

平均年齢の高い男性だけでルールを決めたら、男性からみえない部分がすっぽりと抜け落ちてしまう典型のような事例である。

ちなみにWHOは、5歳未満の子どもにはマスクを着けるのを推奨しないとしている。

厚生労働省は、昨年8月に、2歳未満の子どもは息苦しさを訴えたり、自力でマスクを外したりするのが難しく、窒息や熱中症のリスクが高まるとして、着用させないよう呼びかけていた。冬場のいまはどうかわからないが、窒息のリスクがあることには変わらない。

森喜朗の発言以降、景色が違って見えるようになってきた。

たとえば、こんなこともそう。

職場の僕のメールボックスに、パンフレットが入っていた。親会社が、有識者を集めて応援団をこしらえて、これからいろいろと盛り立てていこうというイベントを企画しているという。

パンフレットを見て驚いた。たしかに有識者には違いないのだが、応援団の11名中、女性は2名しかいない。しかも男性のほとんどは高齢者である。

その2名の女性というのも、たいへん有名な人なのだが、僕から見たら、どちらかといえば「わきまえる」側の人である。ああ、わきまえる人を選んだんだな、ということが、すぐにわかった。

しかも、である。

当日のイベントの登壇者、つまり講釈をたれるのは基本的にすべて高齢の男性。で、女性はというと、2名のうちの一人がそのイベントに出席し、司会をするのである。女性はやはりお飾りなのか???

今時こんなイベントをして、炎上しないのだろうか???と、ドキドキしてしまう。

いままであたりまえのように思っていた風景が、一転して、モヤモヤしたものになってしまう。おそらく、こういうことを不自然だと思えるような感覚を、一人ひとり持ち続けていくことが大事なのだろう。

しかしながら、これを不自然と感じないまま、イベントを誇らしげに行う人たちも厳然として存在する。「森的なるもの」は、すぐ近くに存在するのだ。

ちょっと前のニュースで見たのだが、今の国連事務総長は、自分が外部から会議に招かれたときに、男性しかパネリストがいなかったら、出席を拒否するのだという。ある時事務総長が日本に招かれて、会議のパネラーとして登壇してくださいと言われたのだが、パネラーが全員男性だったので、国連側は、「これでは事務総長は出席できません」と土壇場で断った。慌てた日本側の主催者は、たまたま司会者が女性だったので、女性の出席者もいますと説明して、なんとか出席してもらった、という。

親会社のイベントのパンフレットを見て、この話を思い出したのである。

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文化センター

散歩していると、むかしのことをよく思い出したりする。

僕が子どものころに住んでいた町、-といっても、30歳まで住んでいたのだが-には、市内の各地域に「文化センター」というのがあった。僕は小学生のころ、学校が終わると、文化センターによく通った。というよりも、放課後に何もすることがないと、とりあえず文化センターに行ったのである。

同居していた祖母も、毎日のように文化センターに通っていた。

その文化センターは、1階に児童遊戯施設や工作室があり、2階に高齢者用に解放された畳敷きの大広間がある。たしか、お風呂もあったんじゃないかなあ。そこはいわば高齢者のたまり場のようなところだったので、祖母は毎日、そこに通っては、日がな一日過ごしたのである。

3階は図書館と読書室があり、僕はもっぱら、1階と3階をよく使っていた。とくに図書館には入り浸っていたなあ。

中学生くらいになると通わなくなったが、高校3年の時、受験勉強のために3階の読書室を利用するために、ふたたび通うようになった。あるとき、初恋の女の子がやはり読書室で受験勉強をしていて、ドキドキしたものだが、とくにドラマや映画のような展開にはならず、翌年僕は浪人した。

それはともかく、3階の図書館は、市内の中央図書館にくらべるとはるかに小さな規模だったが、それでも小学生の僕の読書欲を満足させるに十分な世界だった。今でも図書館とか職場の図書室に行くと多幸感に溢れるのは、小学生の時の原体験があるからだろうな。とくにいま、職場の雑務から現実逃避して、数分でも図書室にこもる時間が最高の時間なのである。

文化センターにはもう30年くらい行ってないと思うのだが、最近、なぜか文化センターに通う夢をよく見るようになった。なぜなのかはよくわからない。娘を連れて実家に行くことが多くなったが、実家から近い文化センターにはまだ娘を連れて行っていない。コロナが収束したら、娘を連れて久しぶりに文化センターに行ってみようか。

今住んでいる市には、各地域に「コミュニティセンター」があるのだが、僕が通っていた「文化センター」とはややイメージが違っていて、気軽に立ち寄るような雰囲気ではないような気がする。やはり図書館の有無が大きいのかもしれない。

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かちばる

2月21日(日)

最近の、金曜日夜から土曜日朝までの、僕にとっての「黄金の過ごし方」というのか、理想的な過ごし方というのは、金曜の夜10時からTBSラジオ「アシタノカレッジ」を聴き、YouTube配信している番組終了後の「アフタートーク」(10分程度)を見て、そのあと少し原稿を書いたりして就寝。

翌土曜日は、朝9時前に近所の小児科に並び、2歳10か月の娘の「咳と鼻水」の診察を受ける。このところ、保育園からいろいろなウィルスをもらってくるようで、毎週のように小児科に行くわけだが、小児科に行ける日が土曜日の午前中くらいしかない。しかも小児科はいつも混雑しているので、できるだけ待たずに診察してもらうために、開業時間である午前9時の20分くらい前から病院の前に並び、診察を受けることにしている。

それが終わると、近所の薬局に処方箋を持って行き、薬を受け取る。そしてその後、薬局と同じ棟にあるスーパーマーケットに行き、娘をカートに乗せて買い物をする。

…と、ここまでが金曜の夜から土曜日の午前中までの、僕にとっての理想的な過ごし方である。逆に言えば、この過ごし方ができていれば、平日の仕事がどんなに辛くても、平穏な週末だと感じることができるのだ。

しかしこのところは年度末のせいもあり、2月6日(土)から毎週末の土日は、オンラインの会合が続いている。この流れは、3月7日(日)まで続く予定である。

自分が喋らなければならなかったり、司会をしなければならなかったりと、主体的に参加しなければならない会合もあれば、聴いているだけでよい会合もある。半日の場合もあれば、終日の場合もある。ま、緊急事態宣言下だし、不要不急の外出の自粛を求められているので、週末に家にいること自体はまったく苦にはならない。だがさすがに、こうオンライン会合が続くと、目が疲れて仕方がない。

この週末は2日間、大規模なオンライン会合があり、初日の土曜日は13時から21時まで、2日目は10時から16時30分頃までと、かなりの長丁場である。しかも2日目に至っては、昼食休憩の時間もなくぶっ続けで行うという、おそらく主催者泣かせのハードスケジュールである。

もちろん僕は、すべての時間にわたって参加することができないので、ときにはBGZ(Back Ground Zoom)のような形で会合を視聴している。それでも目が疲れて仕方がない。

その間にも、来週のオンライン会合の接続テストと事前打ち合わせ(10時~11時)があっていたりして、もう何が何だかわからない。

いろいろ思うところがあるのだが、一つ強く誓ったことは、自分が喋りはじめるときに、

「声、聞こえてますでしょうか?」

とは絶対に言わないようにしよう!ということである。

あれ、いらなくないっすか?

注意深く聴いていると、ほとんどの人が喋る始めるときに「声、聞こえてますでしょうか?」と言っている。オンライン会合におけるマナーなのだろうか。よくわからない。

僕も今まで、何度となく、無意識に「声、聞こえてますでしょうか?」とか、「画面共有されていますでしょうか?」と言ってしまったのだが、このことをひどく反省している。これを言うだけで、時間を浪費してしまっているのだ。それに「聞こえてますか?」「聞こえてます」というやりとりは、ひと手間あって、意外とめんどうくさい。聞こえようと聞こえまいと、話し始めればいいのではないか、と思うようになった。ということで、今後は「声、聞こえてますでしょうか」というひと言を、絶対に言わないようにしようと心に誓った次第である。

あと、ぜんぜん関係ない話なのだが、本日の大規模会合で、一つ気になって仕方がないことがあった。Zoomのチャットを見ていたら、どなただったか忘れてしまったが、

「つなぎっぱなしでPCがカチバッテきましたので本日はこれにて失礼します。ありがとうございました。」

というコメントがあった。

「カチバッテ」って何だろう?と、気になって仕方がない。

僕自身が無知なせいもあるが、意味を調べてみてもわからない。方言かな、と思ってインターネットで検索してみたのだが、みあたらな。ま、ニュアンスが伝わっているから、どうでもいいことではあるのだが、こういう細かいことが気になってしまうのが、僕の悪い癖である。

さて、2日間にわたる長時間の大規模会合が、予定より1時間近く延長してようやく終わり、PCだけでなく僕自身もカチバッテきたのだが、最後の最後に、

「ではみなさんで最後に集合写真を撮りたいと思いますので、ビデオをonにしてください!」

と言われた。僕は半裸で聴いていたので、慌てて服を着てビデオをonにしようとしたら、すでに写真撮影は終わっていた。

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Yahoo!ニュースの威力

2月18日(木)

定期の診察のため、自宅から車で1時間半以上かかる病院に行く。地域の拠点的な総合病院であることもあり、相変わらずたくさんの患者で待合室があふれかえり、血液検査と尿検査を早めに済ませたのにもかかわらず、診察にはそうとう待たされた。

「尿酸値が高くなってますね。食事とかお酒とかで何かありましたか?」

「いえ、ちょっとかかりつけの病院に行って薬をもらうタイミングを逸してしまって、ここ数日薬を飲んでいないのです」

身体というのは本当に正直である。お酒をやめたといっても、油断をするとすぐに尿酸値が上がる。やはり薬を飲み続けなければならないことを痛感した。

ところでこの先生、僕よりも若いのだが、いつもぶっきらぼうというか、無愛想である。僕の顔を見ずに、パソコンの画面ばかりを見ている。だが僕の命を救ってくれた先生だし、その腕は信頼しているので、僕はとくにそれを不快に思ったことはない。その先生が、おもむろにこんなことを言った。

「鬼瓦さん、先日、Yahoo!ニュースに出ていましたよね

僕は突然のことでビックリした。僕は先生に、自分の職業について話したことは一度もないのだ。

「はぁ、まぁ…」

「拝見しましたよ」

「そうでしたか」

地味なニュースだったにもかかわらず、Yahoo!ニュースの影響力の、なんと大きなことか。それと同時に、この(まるで他人に関心がないようにみえるぶっきらぼうな)先生、意外に患者のことを覚えているんだな、毎日ひっきりなしにいろいろな患者を診察しているのに、ということにも驚いた。

「じゃ、次の検査の日程を決めましょうか」

と、いつものぶっきらぼうな先生に戻った。人間はそう簡単に、心を開くわけではない。

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ILL COMMUNICATION

YouTubeで、病気の「黒帯」こと、グレート義太夫さんとダースレイダーさんが対談している動画「病気漫談 ILL COMMUNICATION」をたまたま見ていて、腹を抱えて笑ってしまった。

僕もいろいろな持病を持っていたり、大病をくぐり抜けたりしてきているので、病気や病院にまつわる苦痛や珍エピソードは、手に取るようにわかるのだ。

たけし軍団の中で唯一好きなのが、実はグレート義太夫さんなのだが、僕が若い頃から義太夫さんはかなり深刻な病気を抱えていて、この人、すぐに死んじゃうんじゃないだろうかと心配したものだが、今や還暦を過ぎて、病気漫談に磨きがかかっていて面白い。しかも今も、いろいろな病気が現在進行中で、たいへんな生活だろうなあと推察するのだが、動画の中では笑顔が絶えず、常に笑い飛ばしている印象がある。いや、しかし話を聞いてみると、お二人とも相当病気と共存しておられる。

「一生付き合わなければいけませんからね。悪い友達みたいなもんですよ」

「病院に行くことを『地元に帰る』って言ってますからね」

「ペースメーカーがリコールされたんで、昨年機種変したんですよ」「機種変って、」

「痛風の痛みの原因の分子見たことある?ガラスの破片みたいなやつ。あれが血管を突き破って神経に刺さるんだよなあ。で、レントゲン撮ったらさあ、それがはっきり見えるの。医者の先生が、義太夫さん、レントゲンで分子が見えたの、初めてですよ。それだけでかいんですよって。」

「病院食のメインディッシュが、おひたしと小松菜のごま和えだったことありますよ。小皿じゃねえか、と」

「病院食で出る魚は、塩抜きだけでなく、旨味も抜いてますよね、絶対」

みたいな会話が延々続くのである。僕も思い当たるフシが多く、そのたびに腹がよじれるほど笑ったのである。

そこで思ったんだが。

僕はオンライン飲み会が大の苦手なのだが、「ILL COMMUNICATION」だったら、楽しめるような気がする。「病気自慢」ではなく、「病気漫談」。しかしそれを健康な人とするのは難しい。僕と同じレベルの、持病を持つ人や大病の経験がある人、いまも病気と共存している人でないと、面白くない。はたして僕の身の回りに、そんな人はいるだろうか。

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発売前から重版出来

2月17日(水)

僕が少しだけ関わった本が、なんと発売前から重版がかかったというのである。

僕はその本の中で、自分の無知をさらけ出すような原稿を書いていたので、できればあまり人目についてほしくなかったのだが、タイトルがタイトルだけに、書店の期待値も高まったのだろう。

僕以外の執筆者の原稿は(といって、僕が手を抜いているというわけではない)、どうにか面白い内容に仕上げようという気迫のこもったものばかりなので、やはりそういった心意気が伝わる本なのだろう。

その一方で、僕自身が面白いと思って書いた本が全く売れずに、400部を廃棄処分するというのはいったいどういうわけなのか、全くこの世は不可解である。

ところで、昨日(2月16日)、通勤中にTBSラジオ「伊集院光とラジオと」を聴いていたら、ニュースのコーナーで、伊集院光氏が、こんなコメントをしていて、印象深かったので、書き留めておく。

「絶賛勉強中で、最近僕の中でアップデートされたこと。やっぱり『この数女性を…』といったときに、『じゃあ女性であったら、現状の能力値が低くても優先されるのか?』っていう反論ってあると思うんです。でもその数がなぜ必要なのか、という話のところの、ヒントの一つに、ー学ぶのが遅くて大変申し訳ないんですけれどもー、すでにバランスが狂った中でルールが作られていると、そこに女性がちゃんと入ってきて、数が修正されることがたいへん難しいっていう、公平な状態に戻るようなルールが発案されることも実は難しいので、あるていど修正値をかけてでも数をそろえようとすること自体に意味があるのと、やっぱりどこかで、女性も男性も平等であることが、ーこの言い方、正しいのかどうかわかんないんだけどー、男性にとっても良い社会なんだという意見が入ってこないと、ある意味、みんな損するんだよ、みたいな意識が(必要で)、俺たちは、女性が得する社会に変えることで、ただでさえ男性の中でも損している俺たちがもっと損になるんじゃないかと、ハリネズミみたいに凝り固まり、逆に、強くこれをスピード感持って進めようとする人たちも、これでまた男性の側からの反論を聞いていたら、また一歩遠のくみたいなことが、実はものすごい壁になっていくんじゃないかなみたいなのがあって、そこだと思うんですよね」

僕自身も学ぶのが遅い人間だが、僕と同世代の人間、とくに男性が、少しずつ学び、なるほど、そういうことなのか…という意識の覚醒を重ねていくしかないのだろう。

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調子悪くてあたりまえ

最近のラジオで痺れたのは、なんといってもアトロクの2月9日(火)放送の「ゲレンデDJ特集」である!

いまから30年ほど前、就職活動に全部失敗した南部広美さんが、スキーのゲレンデDJをしていたという話がおもしろく、それに加えて、当時スキー場でかかっていた曲に乗せて南部さんが曲のフリから曲の受けまで、当時を彷彿とさせる多幸感溢れるDJぶりを披露していて、スキー嫌いだった僕も、なぜか久々にテンションが上がった。

僕が高校生、大学生の時は、バブル華やかりしころで、空前のスキーブームだった。僕は高校2年の冬に友だちとスキーに行ったのだが、大けがをして帰ってきて、それからスキーに行くことはなかった。大学生の時にも誘われたのだが、すべて断ったのである。

なのでスキーに関する思い出はまったくといっていいほどないのだが、それでも、ある懐かしさを感じてしまうのはなぜだろう。当時は、スキー場でかかるような曲は「しゃらくせえ」と思っていたのに、不思議とその曲はすべて耳に残っているのだ。

ああいう雰囲気のDJ番組って、もうないのかなあと思っていたが、先日聴いたコミュニティFMの番組で、知り合いのパーソナリティーが似たようなテイストで番組を進行していて、ああ、コミュニティFMにそのテイストがいまも残っているのだなと、俄然、コミュニティFMに関心が向かずにはいられなくなった。このあたりはこぶぎさんのテリトリーなのだろう。

コミュニティFMといえば、昨日の日曜日の午後、高校の1年後輩であるアサカワ君が、約1年ぶりに地元のコミュニティFMにゲスト出演していた。「サックス奏者のアサカワさんです!」と相変わらず紹介されていて、「俺はたしかに知っているが、他のリスナーはどのくらい知っているのだろう?」と、その感覚が可笑しくてたまらなかった。律儀なことに、緊急事態宣言下だったので、スタジオ出演ではなく電話出演だった。近いんだからスタジオ出演してもいいんじゃね?とも思ったのだが、そういうわけにもいかなかったのだろう。

内容は、まあ世間話といった内容で、僕にとっては、彼の近況報告が聴けてよかったのだが、あんな感じで成立してしまうのが、コミュニティFMのよさである。アサカワ君はミュージシャンだから、選曲もいいし。このよさに気づくと、これは深みにはまるなぁ。

もう一つ、先週の金曜日の「大竹まこと ゴールデンラジオ」にゲスト出演していた近田春夫さんが、とってもよかった。

近田春夫、という名前を初めて知ったのは、子どものころである。テレビのバラエティー番組のワンコーナーにレギュラー出演していて、ラジオブースみたいなところで音楽について毎週喋っていたのを見た記憶があるのだが、Wikipediaを見ても、そのときの番組についての情報がなく、僕の記憶違いだろうか。

『調子悪くてあたりまえ 近田春夫自伝』という本を出したそうで、その宣伝を兼ねての出演だったのだが、本人の語りと、大竹まこと氏とのやりとりがたまらなくおもしろく、これまた聴いていて多幸感に溢れた時間だった。

なにより「調子悪くてあたりまえ」というのは、座右の銘にしたいくらい、いい言葉である。

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ボーッと生きてました

2月13日(土)

締切を2か月ほど勘違いしていた原稿があって、3月末だと思い込んでいたら、1月末が締切だった。出版社から「原稿の進捗状況はいかがですか?」と聞かれて気づいたのである。「今月中になんとかします」と答えたのだが、分量も多いし、「書き殴る」というような内容のものでもないので、はたしてそれが可能かどうかはわからない。

それにしても、出版社はなぜいつも同じような企画を立てるのだろう、と、ここから先は愚痴である。とあるシリーズが企画され、いくつものテーマが設定され、それを業界の人間たちに割り振る。僕からしたら「またこのテーマかよ!」と辟易するのだが、かといって断る勇気もない。

以前にも書いたかと思うが、この手の企画に名を連ねて書くのは、さながら「ひな壇芸人」である。ひな壇芸人として、お決まりのリアクションをして、それで芸が磨かれるのかどうか、僕にはよくわからない。本来ならば自分にそれを越えるアイデアがなければならないのだが、どうやったらいつもとは違うリアクションをとれるだろうかと、そんなことばかり考えている。

休日の日に少しでも進めようと思っても、なかなか難しい。この週末は、2日ともオンラインによる会合が入っている。

1日目、土曜日の会合は終日行われ、前半は僕が司会だった。司会をするとなると、登壇者の話を寸分漏らさず聞かなければならず、これまた緊張を強いられる。登壇者のお一人は、「還暦近いオッサンが5歳児に扮して大人を叱りつけるというテレビ番組」によくVTR出演している専門家の方で、千鳥がいうところのなかなか「クセがスゴい」お方である。

それぞれの方のお話が終わり、ディスカッションに入るのだが、司会の僕も何か言わなければと思い、その方に恐る恐るある質問すると、

「そういう質問をするのは鬼瓦さんが無知だからですよ」

と、冗談交じりで笑われた。もちろん冗談半分だとわかっているし、無知なのは事実なので、腹も立つこともなくこちらも笑って済ませたのだが、あとになって、

(あのときは「すみません。ボーッと生きてました」という返しをするべきだった)

と、自分の瞬発力のなさに、深く反省したのだった。

原稿を書いていればよかった。

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脱・筋トレ思考

2月12日(金)

まあよくも毎日毎日、職場では重い事案から些細なことまで、いろいろなことが起こるものだ。職場にいる時間のほとんどは、こうしたことに翻弄されている。

あれこれ気の重い職場の打合せが終わるのが夕方のかなり遅い時間。それが終わって、いくつもある締切厳守の仕事に取りかかりたいのだが、結局少ししかできずに、職場を出て、車で2時間以上かけて帰ることにする。

金曜夜の楽しみは、TBSラジオ「アシタノカレッジ」を聴くことである。日付をまたぐあたりの時間に、パーソナリティーの武田砂鉄さんと澤田大樹記者のトークを聴くと、ああ、とりあえず週末は職場に行かなくていいんだな、と、ホッとした気持ちになる。

今日のゲストの、平尾剛さんのお話もとてもよかった。僕はまったくスポーツに疎いので知らなかったのだが、平尾剛さんは、元ラグビーの日本代表で、いまはどこかの大学でスポーツ教育学を教えている研究者なのだそうだ。東京五輪の開催にはっきりと反対の意志表示をされているのが頼もしい。

『脱・筋トレ思考』という本を出されていると知り、僕はそのお話に拍手喝采した。

筋トレを○○回やることで、筋力がつくこと、またはそう考えることは、スポーツにとって必ずしもよいことではない。むしろ諸悪の根源なのだと。

「筋トレをすればなんとかなるという思考は、物事の複雑さを見ずに、簡単に解決しようと考えることに等しい」

「数値目標を立てて、それに合わせて筋トレをして、その結果筋肉がついたからといって、それがいったい何だというのだ。大事なことは、そのスポーツに対してどのようにとりくむかということだ」

という意味のことを語っていて、その通りだよなあと思った。僕なりに言い換えればそれは「思考停止」ということである。

平尾さんもいっていたが、これはスポーツに限ったことではない。この「筋トレ思考」は、この国の社会のあらゆるところにはびこっている。

数値目標を掲げ、その数値目標に達しなければ評価が下がる、という考え方は、いまやこの国の社会ではあたりまえになっている。中身なんてどうだっていいのだ。中身のことを議論しようとすると、そんなことを言ったってダメだよ、数値目標を達成しなければ、何を言ったってダメなんだ、と言われてしまう。筋トレをして筋肉を付けることが大事で、そこに邁進することが自己目的化する。

「脳みそが筋肉」という揶揄の仕方があるが、つまりそれは「筋トレ思考」ということなのではないだろうか。この国の社会は、「一億総筋トレ社会」なのだ!

…う~む。自分が運動嫌いだということを正当化するためにこの理論を絶賛しているような気がしてきたなあ。実際そうなのだが。そういうことは少しでも運動してから言えよ!というハナシである。

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3回目の成功

2月10日(水)

終日、オンラインによる会議である。

会議といっても、どちらかといえばその場にいて聞いているだけで問題ないという会議もあれば、本当の意味で建設的な意見を戦わせて結論を出さなければならない会議もある。本日の会議は後者である。後者がとても緊張を強いられる会議であることは、言を俟たない。

今日はこれだけでも疲労するのだが、その間にも、職場から矢のようなメールが降ってきて、それにいちいち対応しなければならない。しかも明日は祝日なので、今日のうちに指示を出しておかなければならないことも多く、些細な指示ばかりなのだが、それが積もり積もれば、こちらもかなり疲弊する。まったく俺は、日々、何と闘っているのだろう?

むかしの職場の仕事仲間が、ちょっとした近況を伝えるメッセージのなかで「(ちょっと前までは)良い時代でしたね。この10年も経たないうちにいろんな景色、状況が変わってしまいました」と書いていた。変わってしまったのは、僕をとりまく世界だけではないようだ。もちろんそこには、コロナ禍というまるで戦時下のようないまの状況も、大いに関係しているのだろう。

いまやりたいのは、仕事のことを気にせず、自分が読みたい本を読んだり、見たい映画を見たりすることなのだが、まとまった時間がとれず、常に何かに追い立てられている。ほんの8年くらい前までは、もっと余裕があったのに。

いっそフリーランスになろうかと、日に一度は考える。だが、先日の月曜日、「大竹まこと ゴールデンラジオ」で、ゲスト出演していた戦場ジャーナリストの桜木武史さんが、いまもトラックドライバーをして貯めたお金で、シリアに渡って戦場ジャーナリストの活動をしているという話を聞いて、自分にはそこまでの覚悟はないなあ、と思い直した。

今日のよいことといえば、もうすぐ3歳になる娘が3度目のトイレうんちに成功したことである。

1回目は、同じマンションに住む義妹のところでトイレうんちをしたので、僕は目撃していない。

2回目は、前に書いたように、成功といえるかどうか、グレーゾーンのトイレうんちだった。

そして3回目の今日。

夕食後に遊んでいたら、急に動きが止まり、「うんちでる~」と。

「また虚言なんじゃねえの?」と言ったら、「なんてこと言うの!ひどいこと言うねえ」と家族に叱られた。

早速トイレに連れて行って、便座に座らせる。

娘の手を握り、「がんばれ~」と、息んだ顔を見せたら、娘も同じ顔をして下半身に力を入れた。

今回もダメかな、とあきらめかけていたのだが、やがてプーンとニオイがしたかと思ったら、

ポチャッ!

「やったぁ!」

その一部始終は、動画におさめられた。

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苦手な質問

ふと思い出したことがあるのだが。

むかし、「久米宏のニュースステーション」という番組で、「最後の晩餐」というコーナーがあった。有名なゲストを呼んで、「もし明日地球が滅びるとしたら、最後に何を食べるか」という質問だったか、「死ぬ前に、最後に何を食べたいか」だったか、とにかくそんなような質問をゲストに投げかけることをきっかけに、ゲストとの対談を繰り広げる、というコーナーだったと思う。僕は当時それを見ていて、

「なんでそんな質問をとっかかりに、ゲストとの対談をするのだろう。久米宏ほどの人ならば、わざわざそんなとっかかりを設けなくても、十分におもしろい対談ができるはずなのに」

と思ったものである。

だいたい、僕はこの手の質問が苦手である。

「もし無人島に1つだけしか持って行けないとしたら、何を持って行きますか?」

みたいな質問も、よくある質問である。

そんなことを聞いて、いったい何の意味があるのだろう?こういうことを聞くことが好きな人は、答えの内容によってその人の価値観がわかるのだ、とよく言ったりする。たしかにその人の「好き嫌い」はわかるかもしれないが、そんなていどの質問で、その人の本質がわかったりするのだろうか。僕にはよくわからない。

僕がなぜこの手の質問が苦手かというと、こういう質問が投げかけられたときに、僕の場合「うまいことを言わなきゃ!」というバイアスがかかるからである。質問者は、僕を試しているのだ。いわばマウントを取りに行こうとしている質問者に対して、舐められてはいけない、という気持ちがはたらくのである。だからたいていの場合、本心とは異なる答えをひねり出さないといけなくなる。

で、僕はそういったことにエネルギーを使うのが死ぬほど嫌なのだ

こういうときこそ、

仮定の質問には答えられない

という必殺技を使いたいものである。しかしそれではつまらない。何かほかにいい回答の仕方はないものか。

立川談志が落語「饅頭怖い」について語ったエッセイで、

「おまえは何が怖い」「フライパンだ」

「そっちは?」「下手投げ」

「そこは?」「入れ歯」

「お前は」「アイウエオ」

「で、そっちは?」「やせた奴が、ステッキを持ってると…」(立川談志『努力とは馬鹿に恵えた夢である』新潮社、2014年)

という、落語はイリュージョン、の精神で答えてみるか。それとも、「粗忽長屋」での、

「何処へ?」

「何処へって、ホラ、あのォ…拝みによ。あそこだよ、あのォ…オイ、お前も何とかいえよ」

「大根おろしか」

「なんで大根おろしなんだ」

「だってお前は俺が黙っていると、いつも怒って何とか返事ぐらいしろっていうから、とりあえず”大根おろし”」

「殴るぞ、この野郎。関係(かか)わりのない事をいうな」(立川談志『新釈落語咄』中公文庫、1999年)

に倣って、何を聞かれても「大根おろし」と答えようかな。

ま、本当にそう答えたら、誰からも相手にされなくなるだろうけどね。

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脱おむつへの道

2月8日(月)

もうすぐ3歳になる娘に対する最大の関心事は、「いつからおむつが必要なくなるか?」である。

これがなかなか難しい。

ところが昨日の日曜日に、同じマンションに住む義妹の家に娘が遊びに行ったときに、なんとトイレでうんちができたというのである!

これまで「しまじろう」のDVDを見ながら、トイレのイメージトレーニングをしていたから、その甲斐があったのだろうか?

そして翌月曜日。

夕方、保育園から帰った娘は、いきなり

「うんちでる~」

と言い出した。

これはチャンスだ!と思い、急いでトイレに連れて行き、便座に座らせた。

「出るの?」

「でる~」

娘は、思いっきり息んだ顔で「う~ん」と唸るのだが、うんともすんとも言わない。

「本当に出るの?」

「ほんとうにでる~」

僕は娘の手を握りしめて、

「がんばれ~」

と応援しながら、僕もいっしょに息んで見せた。するとこっちが出そうになる。

娘は僕の顔を見ながら、僕と同じ顔で息んでいるのだが、やはり出ない。

あきらめて、お風呂に入ることにした。

お風呂に出てから夕食を食べていると、娘が突然、椅子の上に立ち上がって震え出した。

「どうしたの?…まさか、うんち出るの?」

「うんちでる~」

慌てて椅子から降ろして、トイレの前まで行っておむつを下ろすと、すでにお尻から半分以上、うんちが出ているではないか!

もうあと少しで、うんちはお尻から床に落ちてしまうぞ!そうなると大惨事である。

慌てて便器に座らせたとたん、

ポチャッ!

とうんちが落ちた音がした。

やれやれ、間一髪で大惨事を免れた。

ところでこれは、2回目の成功と数えていいのだろうか?

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悪戦苦闘を拝察する

2月6日(土)、7日(日)

2日間にわたるオンラインのイベントに参加して、少しばかり喋らなければならない。

本来ならば泊まりがけで現地に行って、対面でイベントを行う予定だったのだが、今年度は新型コロナウィルスの影響で、地元から出席する人は対面で、遠くから出席する人はオンラインで参加することになった。いわゆるハイブリッド方式である。

もう20年も続いているイベントで、僕は初めて呼ばれたのだが、もちろんこんなやり方は初めてだそうである。なのでノウハウがあるわけでもなく、担当者の方も、準備にかなり忙殺されていたらしい。

もともと僕が聞いていた予定はこうである。

「1日目は、玄人向けに、お話しください」

「はあ」

「2日目は、一般の方向けにお話しください」

「わかりました。1日目と2日目は、違う話をしなければならないのですか?」

「いえ、同じ内容でかまいません。ただ1日目は、玄人向けに、30分でお願いします。2日目は、一般の方向けに、わかりやすくお話しください。20分でお願いします」

「はあ」

「昨年までは、1日で済ませていたのですけれど、玄人の方と一般の方は分けた方がいいのではないかという意見が出て、今年度から、2日に分けて行うことになったのです」

「そうですか…」

仕事を増やすことになり誰も得しないのではないだろうか、と思ったのだが、決まってしまったのだから従うしかない。

「しかもですねえ。1日目の会場と2日目の会場は違う場所なんですよ。それに距離もけっこう離れています」

「違うんですか?」

「ええ。なので、我々地元にいる人間は、1日目の会場でのイベントが夕方に終わったあと、2日目の会場のある町に移動して1泊して、そこでまた朝からあらためて機材の設定をしなければなりません」

「それは大変ですね」

「1日目は、限られた人数でおこなうのでそれほど問題はないのですけれど、2日目は、かなり大きなホールに一般のお客さんを200人まで集めますので、感染対策も万全にしなければなりません」

「そうでしょうね」

「来ていただくお客さんは、例年の様子だと高齢の方がほとんどです」

「ますます心配ですね」

「しかもですねえ。当日、会場にお越しになれない方のために、YouTube配信もすることになりました」

「YouTube配信もですか!」

やることが多岐にわたりすぎる!!!

まず、Zoomの接続がうまくいくだろうか?ま、接続自体は、僕自身は何度もやっているのでたぶん問題はないだろう。

うまくいったとして、会場とスムーズにやりとりができるか?それを1日目の会場と2日目の会場、まったく異なる会場でやり遂げなければならない。とくに心配なのは、2日目に使う大きいホールは、Wi-Fiの環境が十分に整っているのか、やや心配である。

地元の主催者のみなさんは、1日目の会場から2日目の会場への移動をスムーズに行うことができるか?2つの会場は85㎞ほど離れている。

2日目の会場では、感染防止対策に細心の注意を払わなければならない。

しかも同時にYouTube配信しなければならない。

担当の方にとっては、すべてが気が気ではないであろう。

僕は、

(こんなご時世なのだから、1日にまとめちゃって、全部オンラインでやればいいんじゃね?)

とよっぽど言いたかったのだが、「大変ですねえ」ということしかできなかった。

「毎年、会場に来てお話を聴くことを楽しみにしているご高齢の方もいらっしゃいますので、できれば2日目は会場にお越しいただきたいと思うんです」

たしかに、ご高齢の方は、YouTube配信だなんだと言われても、なかなか難しいのだろう。各方面からの最大限の希望をくんで、この2日のイベントが計画されていることを、僕はあらためて知ったのである。

かくして、有史以来の未曾有のプロジェクトが始まった。

僕が心配なのは、Zoomの画面がちゃんと2つの会場で映るのか、逆に、会場の様子がZoomを通してわかるのか?といったことだった。Zoomの接続テスト自体は事前におこなっていたのだが、本当にたんなる接続テストを行っただけで、2つの会場で実際にスムーズに接続が行われるかは、まったくわからないのである。しかもZoomのアカウントとパスワードは、2つの会場で、まったく異なるものを使う、という、さらに複雑な様相を呈している。Zoomのアカウントとパスワードは、当日に知らせるという。

(大丈夫だろうか…)

不安な気持ちで当日を迎えた。

1日目の2月6日(土)。こぢんまりした会場だったこともあり、なんとか無事に終わった。

2日目の2月7日(日)。早朝にいただいたZoomのアカウントとパスワードで入ると、無事に会場とつながることができた。ただ、「会場のインターネット回線が不安定です」という文字が画面上に何度も出てきて、(大丈夫だろうか…)と心配になった。

念のため、別の端末を使ってYouTubeもたちあげて、会場ではスクリーン上の画面がどのように見えているかを確認してみたのだが、1つ恥ずかしいことに気づいた。

ふつう、ビデオをオフにした状態にしていると、真っ黒な画面に名前のみが映し出されるのだが、なぜか僕のZoomの設定では、名前の代わりに、鉛筆書きの僕の似顔絵が映ってしまう。それが会場のスクリーンにドーンと映し出されるのである。

オンラインで参加されているほかの講師お二人は、ビデオオフの画面が名前だけなのに対して、僕だけが、ふざけんな!とお叱りを受けそうな珍奇な似顔絵なのである。

といって、いまからその似顔絵を消すこともできず、そのままにしておくしかなかった。

さて、いよいよイベントの開始である。午前中は、やはりインターネットの回線が不安定だったようで、午前中にお話しになっている方の画面が、しばしば切れてしまった。

すると、そのたびごとに、僕の珍奇な似顔絵が、なぜか会場のスクリーンに大うつしになるのである。

(たのむから、僕の画面を最小化してくれよ!)

と言いたいのだが、どう伝えていいかわからない。

しかも、Zoomの画面とYouTubeと併用して見ていると、30秒ほどの時差があり、いったい自分はいまどちらの時間を生きているのだろうかと、頭がおかしくなりそうだった。たとえていえば、実際のラジオとradikoとを同時に聴くようなものである。

結局午前中は、僕の珍奇な似顔絵が会場のスクリーンの片隅にずっと映り込んだまま、予定の時間を終えたのだった。

たぶん、会場の担当の方もなんとかしなければいけないと思ったのだと思う。お昼休みの間に、猛烈な勢いで事態の改善を行っていただいたおかげで、午後の部は、インターネット回線もスムーズになり、僕の似顔絵もスクリーンの端っこに映し出されることなく、無事に会は終了したのだった。僕自身についていえば、やや時間をオーバーしてお話を終えたことが、いつもながらの反省点である。

どうにもわかりにくい話で失礼しました。

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ドキドキ人間ドック

2月5日(金)

TBSラジオリスナーは、澤田大樹記者の話題で持ちきりである。昨日今日あたりは、「澤田大樹記者祭り」といってもよい。

僕は驚いたのだが、TBSラジオの専任の記者というのは、澤田大樹さんと崎山敏也さんの二人だけなのだそうだ。すごくないっすか?(って、誰に向かっていってるんだ?)この二人は、TBSラジオの宝である!

武田砂鉄氏が、以前に澤田大樹記者を「文化系ファイター」と評していたが、昨日の会見での質問はそれを見事に体現したものだった。

そのことについて書きたいのだが、忙しくて書く暇がない。

今日は人生で2度目の人間ドックだったので、その話を書く。

前回の人間ドックの病院が、なかなかよかったので、今回もそこを希望していたのだが、空きがないとのことで、第2希望の病院で受けることになった。前回の病院とくらべると、かなりこぢんまりした病院である。朝9時にその病院の前についたときは、若干の不安を感じた。

そもそも事前に送られてきた書類やキットにも不安が。

事前に採便を2回行うというのはいつものとおりなのだが、そのほかに、ギョウ虫検査みたいなキットと、喀痰検査のキットが送られてきて、これらは初めてである。

とくに喀痰検査というのが面倒くさい。何らかの液体の薬品が入ったビニールの中に、朝、起き抜けに痰を採取するのである。それも3日間分である。

撲は痰を吐くという習慣がないので、どうやって出したらよいのかわからない。とりあえず説明書がついているので、その通りにやってみたのだが、洗面台で、

「オエーッ!」

と嘔吐(えず)きながら、なんとか痰らしきものをその薬品の入ったビニールに吐き出す。

それを大事に保管して、また翌日、

「オエーッ!」

と、朝一番に同じことをするのである。

ま、誰でもやっていることなのだろうが、僕にとってはこれが憂鬱で仕方がない。

そんなこんなで、なんとか事前の採便2回、採痰2回(本当は3回やらなければならないのだが…)を終え、当日を迎えたのである。

前回の病院は、人間ドック専用の建物があったのだが、今回の病院は、2階のワンフロアーしかないので、外来の患者さんと同じところで、人間ドックを受けなければならない。かなり混雑していた。

それでも、一つ一つ決められた検査をして、次の検査を待っていると、

「鬼瓦さ~ん、次は採尿で~す」

と看護師さんが言った。「しまった!」と思った。採尿があることを忘れていたのである!

前回の病院は、あらかじめ自宅で「その日の一番尿」を採取して持って行けばよかったのだが、この病院では、その場で採尿しなければならないのだ。そのことをすっかり忘れていた!すでに自宅を出る直前に、済ませてきてしまったのだ!

しかも、である。

「当日は朝から何も飲まず食わずで来てください」と言われているので、水分をまったく取っていないのだ。

(こまったなあ)

紙コップを渡されたのだが、尿意がうんともすんとも言わない。

とりあえずトイレに入ってみるのだが、まったく尿意がわかないのだ。

(このままトイレに籠城していたら、倒れてるんじゃないかと心配して看護師さんが駆けつけるんじゃないだろうか?)

というくらい長い時間、トイレにこもっていたのだが、もはやあきらめて、

「すみません。家を出る直前に済ませてきてしまったので…」

と、紙コップを看護師さんに返した。

健康診断とか人間ドックとかで、一番恐れているのは、いつもこれなのである。つまり、その場で採尿してくださいと言われ、ちゃんとそれに応えられるか、という不安に、いつもつきまとわれているのである。

「じゃあ先に、別の検査をしましょう」と、看護師さんは半笑いで紙コップを受け取った。

次の検査を待っている間、気になって周囲を見ていると、紙コップは手にしたが、なかなか尿意がもよおさないという人が、一定の割合でいると言うことがわかってきた。

僕の隣に座っていて、外来診療でやって来たおばあさんは、お茶をがぶがぶ飲み、立ったり座ったり、横っ腹をトントン叩いたりしながら尿意を催すのを待っているのだが、いっこうにその気配がないようだった。たまりかねたそのおばあさんは、

「おかしいわねえ。いつもならミルクのみ人形みたいに、お茶を飲んだらすぐ出るんだけど、今日はまったく出る気配がない」

と、看護師さんに訴えていた。看護師さんは笑いながら、

「慌てなくていいですよ。別の日にしてもいいですから」

というのだが、そのおばあさんは、

「もう少しがんばってみます」

と言って、今度は瞑想するように、尿意を引き出そうとしていた。

そのあと僕は、次の検査があったので、そのおばあさんが無事に採尿できたのかどうか、最後まで確認することはできなかった。

さて、その「次の検査」というのは、内視鏡検査である。いわゆる胃カメラだ。

前回の病院では、全身麻酔みたいなことをやってもらって、意識がない間に内視鏡を口から入れてもらったので、ほとんど何も苦しまずに終わったのだが、今回は違った。

ゼリー状の麻酔を喉の奥のところに定着させるだけの簡易なやり方で(どうもこのやり方がふつうらしいのだが)、内視鏡の管を喉に通すときの痛みだけは抑えられるのだが、管が実際に、食道から胃へ、さらに十二指腸に入っていく感覚は、気持ち悪いくらいにわかる。

「オエーッ」

と嘔吐(えずき)きそうになるのをこらえ、なんとか終了した。

昨年の時とは大違いで、「もう2度と胃カメラなんか飲むものか!」と誓ったのであった。

一通り検査が終わると最後に看護師さんが、

「採尿ですよ~」

とニコニコしながら紙コップを持ってきた。

「大丈夫ですか~?」

「がんばってみます」

トイレに入り、なんとか精神を集中して、時間はかかったが採尿に成功した。

「終わりました」

「よかったですね」

検査着から私服に着替えて、病院を出たころには、喉の麻酔もすっかり切れていた。

人間ドック(健康診断)の際に現場で採尿する場合には、自宅を出る直前に済ませてはいけない、という教訓を噛みしめながら、僕は「富士そば」のかけそばをすすった。

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ストレスラジオ

2月2日(火)

火曜日は会議の日。とくに月の第一火曜日は、僕が司会進行をしなければならない、長い会議があるので、前日から憂鬱で仕方がない。

難しい案件があると、「どうか無事に通りますように…」と、そればかりが気になるのだ。

今年度は、すべてオンラインで会議を行っている。他の人が主催する会議の中には、対面で行っていることがけっこうあるのだが、僕は一貫してオンラインにこだわっている。

で、僕が司会進行する会議は、資料にもとづいて僕が説明し、会議の構成員たちが意見交換をして、最終的に、提案通りに承認されることを目的としているのだが、提案が覆らないように(つまり炎上しないように)気をつけながら説明するのが、僕の役割である。

オンライン会議の場合、僕は仕事部屋でノートパソコンを使いながら延々と喋るので、ほとんど独白に近い。たとえて言えば、ラジオブースの中で一人語りをしているようなものである。画面の中の人たちは、カメラをオフにしている人も多いし、僕が喋っている間は、当然黙っているので、僕は無言のリスナーに向けて喋っているラジオパーソナリティーのような錯覚に陥ることがある。リスナーからのメールを読むが如く、手元の資料を読み上げるのである。

そうか。ラジオパーソナリティーのつもりで司会をやれば、気が重い会議もそこそこ楽しめるのかもしれない。

今日は議題も多く、また複雑な内容をわかりやすく順を追って説明しなければならない案件もあったので、ほとんど2時間半、喋り通しだった。とくに炎上することもなく終わった。

ついでに午後も、僕が司会進行の会議があったのだが、こちらの方も僕が一方的に喋り続け、とくに問題もなく30分弱で終わった。

この会議が終わると、束の間だがストレスから解放される。

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寝だめカンタービレ

週末は、ほとんど寝たきり状態である。

少しでも散歩をすればよいのだが、薬の副作用のためか、少し歩くと足の裏がひどく炎症を起こしたりするし、お腹がゆるくなるので、歩いていて、いつもよおすかわからない。なのでトイレのアテのない散歩は危険きわまりないのである。まったく、面倒な身体である。

正岡子規の『仰臥漫録』の気持ちがよくわかる。

本当は週末の寝だめは、平日の仕事に差し支えることがあり、かえってよくないといわれているのだが、どうしたものか。

正月に録画しておいた、新海誠監督の映画「天気の子」を、ようやく見た。新海誠作品は、「君の名は。」に続く2本目である。

新海監督自身、「この映画は賛否が分かれるだろう」と言っていたそうである。映画を見たあと、宇多丸さんや町山さんの映画評をチェックしてみたが、僕自身が、この映画についてとやかく批評する力はまったくないし、感想と言っても、たいした感想を述べられるわけでもない。新宿の町のディテールが、すごくよく描かれているなあと、風景描写に感動したことだけは、言っておきたい。

いまでもそうだが、僕のまわりにも、いい年齢をして「私、雨女なんですよ」とか言う人がいたりする。「ほら、あの合宿の時も、私が合流したとたん、大雨が降ったでしょう、ハハハ」「そうですか」と言いながら、僕は、心の中で舌打ちをする。何年前の話だよ!それになんであんたが天気をあやつれるんだ?と。

しかし「雨女雨男晴れ女晴れ男」問題は、この国の社会に根強く存在する。それは土俗的信仰といってもよい。実際僕も10代のころは、さほど疑問もなくそんなことを受け入れていたのだ。

そんなところから、この映画が発想されたのだろうか?とも思う。たぶん違うと思うけど。

この年齢になって、この映画を見て感じたことをいくつかあげるとすれば、まず、地球温暖化問題である(この点は町山さんも指摘している)。東京が未曾有の大雨に見舞われる、という設定は、いままさに僕たちが直面していることである。映画の中では、雨により東京の地形が変わり、新しい生活様式を人々が受け入れざるを得なくなる様子を描いているのだが、それもまさに、いまコロナ禍で体験していることである。

二つめは、疑似家族である。16歳の主人公が都会の中でひっそりと暮らしている様子や、主人公をとりまく人たちが疑似家族を形成している様子は、是枝裕和監督の「誰も知らない」とか「万引き家族」を連想させる。これもまた現代的な問題である。

三つめは、先ほど述べた「晴れ女」問題である。主人公の帆高と、「天気の巫女」の陽菜は、自分たちが雨をやませる力を持っていると本気で思っている。しかしそれは、大人から見たら、まったくの荒唐無稽な話である。大人から見たら、「家出少年」と「保護が必要な少女」にしか見えないのだ。ただ、大人の中には、帆高と陽菜に共感をする人たちもいる。そういう三層構造になっている。

この点はどうだろう。たとえば都市伝説や陰謀論を、本気で信じている人と、それをまったく信じていない人と、その中間くらいの人、という、いままさに起こっている社会の分断の状況と、重なってくるのではないだろうか。

映画の本筋とはまったく関係のないことばかりだが、映画を見てこういうことしか思い浮かばない自分の感受性の劣化を、嘆くばかりである。

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